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第二章 第一の殺人

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「パンツ持ってきててよかったねぇ」

 シンジが、ソファの裏で隠れて着替えているタクマに声をかけた。後姿からでも、彼が耳を真っ赤にしているのがわかった。

「あんな衝撃的なものを見たんだから、漏らしちゃうのもわかるけどね」
「……すみません」

 タクマは、脱いだズボンを折りたたみもせず、ビニール袋へぎゅうぎゅうに押し込み見ながら謝った。
 館のエントランスから近い、一階の洋間に私たち四人は集まっていた。
 シノザキ刑事は、得意ではないが一応検視をするというので、遺体を調べに行っている。先生もシノザキ刑事に同行していた。あんな無残な遺体をみたあとだ、一人で行動するのは危険だからという理由からだった。先生は遺体を前にしてもマイペースで、物怖じしないがゆえに、満場一致でシノザキ刑事の同行者に選ばれたのだった。
 何気なく窓の外を見て、辺りが橙色に染まりつつあることに気づいた。島へ上陸したのが午後二時過ぎだったから、あれから結構な時間が過ぎたことになる。
 おもむろにシンジが立ち上がって、ドア近くの電気スイッチを押した。
 何度か点滅したのち、ぱっと頭上の明かりがつく。ガラスがちりばめられたシャンデリアが天井からぶら下がっており、きらきらと光を反射する反面、こびりついた蜘蛛の巣も顕著に見える。

「よかった、電気は通ってるみたいだ。日暮れと共に真っ暗なんて嫌だからねぇ」

 シンジはソファへ戻ると、長い足を組んだ。
 三人掛けのソファがコの字に並んでおり、それぞれ、シンジ、タクマ、ゼンヤと私、が座っている。時折シンジが口をひらく以外は誰もしゃべらないので、うるさいほどの沈黙が憂鬱さと恐怖を助長した。
 ふいに、部屋が明るくなったことで、隣に座るゼンヤの顔色が青いままだということに気づいた。シンジもタクマも死体を見たときは恐怖に慄いていたが、今はただ、黙って座っている。顔色はよくないが、先ほどよりは血行が戻っているようだ。
 それに比べて、ゼンヤの表情の硬いことといったら。

「あの、大丈夫ですか」

 ゼンヤは、一瞬自分が話しかけられていると気づかなかったようだ。訝るような目を私に向けると、小娘に心配されたことが悔しいのか、派手な舌打ちをした。

「現状が平気なやつが、いるのか」
「す、すみません。顔色がよくないので、ちょっと声をかけてみようかなって」
「お前は、なぜ平気なんだ。何が起きているのか、わかっているのか」

 私は、ゼンヤから見ると平気に見えるのだろうか。これでもかなり焦っているし、人並みに恐怖も覚えているのだけれど。
 ふと。四年前、大学の教授助手から言われた言葉を思い出した。
――きみ、どうしてそうなっちゃったの?
 あれは、両親が相次いで死んだあとだった……ように、思う。なにしろあの頃のことは記憶があいまいで、健忘の症状も顕著にみられたため、具体的な頃合いは定かではない。

「俺たちは、この島で三日間過ごすことになっている」

 深刻なゼンヤの声音に、はっと顔をあげた。

「三日くらいなんとかなると思ってたが、まさか、招待主が人殺しまでやるなど、思わないだろう」
「ふぅん。じゃあきみは、殺人鬼がいると知ってたら、ここへはこなかったかい?」

 シンジがつと、ゼンヤを見据える。その瞳は何か思惑に溢れた意味ありげなもので、私の知らない意味を含んでいるような気もした。
 ちっ、とゼンヤはまた舌打ちをすると顔をそむけた。

「僕は来たよ。もとより、緑川桜子からあんな招待状が来た時点で、復讐者がいることはわかっていた。殺人だって想定内だ。ようは、最後まで生き延びればいいんだよ。二泊三日だから、正確には二日ほどしかない。そうすれば、僕の秘密は明かされないんだから」
「……随分と強気だな。さっきまで震えていたくせに」
「さすがに驚いたからね。でも、なるようにしかならないさ。本当にエントランスの死体が、緑川桜子を殺害した犯人の死体だとしたら、あの文面通り、僕らは狙われてるんだよ。招待主からすれば、それだけのことをしでかしたってことさ」

 ゼンヤもタクマも、シンジの言葉に納得しているのは表情を見れば明らかだった。そもそも、命を懸けて守りたい秘密というのは、一体なんだろう。小奈津宛ての招待状にも、脅し文句が書いてあった。
 一体誰に、どんな秘密があるのだろう。
 その点においては、触れてはいけないような気がして、私は問いたい衝動を堪えた。なにしろ命懸けで隠したい秘密なのだ。それを知った暁には、その人物に殺されかねない。
 ある考えに至った私は、無意識に視線を床で固定した。
 もしかしたら。
 ここにいる、私と先生以外の全員が、何かしらの犯罪を抱えているのかもしれない。

「……あ、あの、僕、さっきの人、知ってるかもしれません」
「さっきの人って誰だい?」
「玄関のところで、死んでた、人、です」

 シンジが勢いよく、タクマを振り返った。
 ゼンヤと私も、ゆっくりながら、タクマへ視線を送る。タクマは膝の上で手を組んで、浅い呼吸を繰り返していた。

「なんですぐに言わなかったんだい」
「か、確信なかったし。そ、それに、それどころじゃなくて」
「それどころじゃないって、あんたの事情だろ!」

 きつい声で怒鳴ったシンジに、タクマは大きく身体を震わせて小さくなってしまった。

「冷静なふりをして、お前が誰よりびくついてるんだな」

 ゼンヤは、怒鳴りつけたシンジに対して揶揄するように言った。

「黙ってくれるかい、オッサン。こいつは、貴重な情報を握りつぶすところだったんだよ」
「何か、問題があるのか。そいつの持っている情報は、そいつのものだ。ただで教えてくれようとしてるんだ、感謝してしかるべきではないか」

 シンジとゼンヤがにらみ合う。
 肌をぴりぴりとさすほどのとげとげしい空気のなか、私は、盛大すぎるため息をついた。三人の目が私に向く。

「いがみ合っても仕方ないじゃないですか。それに、連続殺人が起こるって決定したわけじゃないです」
「そう思いながら船に乗って、ここまで来たんだけどね」

 シンジが吐き捨てるように言ったときだ。
 ノックと同時に「入るぞ」というシノザキ刑事の声がして、ドアがひらいた。これまでにないほどに眉間に深い渓谷ができている。
 シノザキ刑事は、左手で先生の腕をがっちりとホールドしていた。まるで、庭に放った鶏を捕まえたかのような強固さだ。逃がすまい、という意気込みが伝わってくる。
 先生もまた不機嫌な顔をして、引っ張られるままにシノザキ刑事と部屋に入ってきた。

「……あの、なんだか先生がご迷惑をおかけしたみたいで……その」
「嬢ちゃん、こいつ、お前の恋人だろ? 連れてきたんなら、嬢ちゃんが最後まで責任もって面倒みろよ」

 恋人ではない、と言えるような雰囲気ではなかった。
 部屋のドアを閉めるなり、先生は強引に腕を引き抜いて、これみよがしにコートを払った。シノザキ刑事に掴まれていたところなど、まるでばい菌でもついているかのようにハンカチの端っこではたくのだから、シノザキ刑事も顔をしかめる。

「せ、先生。どうでしたか」

 慌てて先生ともとへ歩み寄って、ハンカチを奪って強引にはたくのを辞めさせる。先生は憮然とした表情のまま、私の腕を引いてソファに座らせると、自分もその隣に座った。

「非常に無礼な男がいたせいで、私は機嫌を害した」
「ああ? お前が、仏さんに触ろうとするからだろうが!」
「何の問題がある。あのまま腐らせるのなら、少しくらい触ってもいいだろうに」
「なんのためにお前が触る必要あるんだよ! 検視は俺がやる、お前はただ見てればいい。本来なら、見るのも断るところなんだぞ」
「なぜ任せねばならない。ここにいる者全員が過去の犯罪に関わっているのなら、全員が加害者だ。なにより、招待主である此度の実行犯が私たちのなかにいないとは限らない。全面的に一人を信じる愚かさもわからんのか。木偶の棒」

 シノザキ刑事が、ぎりっと歯を噛みしめて先生を鋭く睨みつけた。獰猛な獣のように肩をいからせるシノザキ刑事は、正直な男なのだろう。
 感情がこうして顔に出るタイプは、なかなか好感がもてる。あくまでこれは、私個人の感想だけれど。

「俺が、信用できねぇってか?」
「そう言ったが聞こえなかったのか、それとも脳の働きが鈍いのか」
「せ、せ、せんせいっ! 言い分はわかりました。先生が死体に触れようとしたのは、シノザキ刑事と一緒に検視をしようとしたからですね? ふたりで確認すれば、それは確かな証拠になりますもんね」

 手伝おうとした、という表現はあえて避けた。先生は、誰かの部下に回るような役回りを酷く嫌うのだ。
 場を収めようとした私の目論見は、先生の一言によって逆効果に終わることとなる。

「いや。リアリティな描写を執筆できるよう、あらゆる部分を確認しておきたかっただけだが」
「まるっきりてめぇの理由じゃねぇか‼」

 殴りかからん勢いで先生のほうへ歩いてきたシノザキ刑事に、私は「きゃっ」と悲鳴をあげて身体を縮めた。刹那、大きな手が腰をさらい、私は先生の胸に凭れる形になる。
 先生が私の腰を引き寄せて、片手で抱きしめているのだ。
 ふわりと、先生の香りがする。そういえば聞こえはいいが、ようは三十代男性の匂いだ。三日に一度は風呂に入ってもらっているが、なかなかもって、なんというか、先生の匂いがする。

「先生、あ、あの」
「彼女が何をした。なぜそんな形相で、彼女を殴るように拳を振り上げる!」

 先生が、シノザキ刑事に向かって叫んだ。
 今日一番の先生の大声だった。
 水を打ったように静まり返った次の瞬間、シノザキ刑事がドカッと床を強く蹴った。

「てめぇだよ、俺が殴ろうとしたのは! なんで俺が嬢ちゃんに危害を加えるんだ!」
「む。なぜ私がきみに殴られる。不快な思いをしたのは私であって、きみではない。殴ることはあっても、殴られる理由はまったくもって思いつかない」
「……おい、こいつ頭がおかしいのか」

 ゼンヤが小声で呟いた。
 私は先生の腕から離れて、土下座せんとする勢いでシノザキ刑事に謝罪した。

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