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第一章 死者からの招待状
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私は人殺しだ。
ふとしたとき、思い出す。
中型クルーザーのデッキに立つ私の頬を、春先の生暖かい風が撫でる。空は快晴で、クルーザーのエンジン音を除けば、波も穏やかな昼下がりの海上だった。
私は、タンポポ色のカーディガンの胸元を引き寄せて、そっと船首から下方を覗き込んだ。尖った船の先頭部分が、海を掻き分けるように飛沫を迸らせている。その勢いと迫力は、見る者の視線を釘付けにさせる何かがあった。
「何を見ているんだい?」
ふいに声をかけられて、そっと顔を上げる。
トレンチコートに身を包んだ、スマートな男が立っていた。年のころは、三十代半ばほどだろうか。太い眉に広い額をした端正な顔立ちの男は、柔和に微笑んで私を見ている。
つい今まで、このクルーザーには、はて、私と先生以外に誰か乗っているのだろうか、と疑問に思っていたけれど、どうやらほかにも乗客がいたらしい。
私は、さっと相手の姿を観察したのち、返事した。
「海を見ています」
そう答えると、男は苦笑した。
「まぁ、そうだろうけど。海の何を見て、何が楽しいのかなって思ってさ」
男は私の隣へくると、同じように手すりから身を乗り出すようにして下方を見た。
「ああ、なるほど。すごい飛沫だ。迫力があるね」
随分と馴れ馴れしい男だ。海上の旅というのは、見知らぬ者との距離を縮めるものなのだろうか。私は、一歩横へ移動して、首をかしげてみせた。
「あの、あなたは?」
「きみこそ、誰だい?」
間を置かずに返された言葉に、社交辞令で浮かべていた笑みが固まる。
私は素早い動作で、高台になっている船首付近から二段ほど下がったところにある、甲板へ降りた。
私は男を見上げるかたちで、男は私を見下ろすように、お互いを瞳に映す。
「私は、リンコって呼ばれています」
「僕は、シンジ。リンコちゃんも、あれだよね。例の招待状を貰ったくちでしょ?」
シンジと名乗った男は、トレンチコートの懐から、二つに折りたたんだ一枚の封筒を取り出した。白い封書で、封には蝋で固めた押し印がみえた。
激しく見覚えのあるその手紙に驚く私を見て、男はうっすらと口の端を吊り上げる。その笑みが何とも言えぬ嫌な感じで、私は嫌悪感を隠すのに務めた。
「まさか、こんな不思議なことが起こるなんてね」
「……そうですね」
「この手紙がきたとき、腰を抜かしたよ。もう、八年前か。忘れもしない、悲惨な事件だった」
男は感慨深く言い、ため息をつく。封筒を懐へしまうと、距離をとった私のほうへ歩いてきた。軽やかな足取りで甲板を下りてくる男に、足音はない。そういえば、近くにくるまでこの男――シンジの存在に気づかなかったことに、今頃になって思い至る。
シンジは、私に手を差し出した。握手を求めているのだ。
「よろしく、リンコちゃん」
差し出された手を眺めたのち、おずおずと手を伸ばそうとした。
そのとき、がちゃん、と乱暴にドアが開く音がした。
伸ばした手を引っ込めて、振り返る。甲板へ続くドアから出てきたのは、鷲鼻が特徴的な、ぼさぼさ頭をした小柄な男だ。
ぎらぎらした目で甲板を眺めると、私とシンジに気づいて足を止めた。ほかに人がいるとは思っていなかったのだろう、その瞳は驚きに見開かれている。
「こんにちは」
シンジが、私に言ったのと変わりない声音で挨拶をする。つられて私も、ぺこりと会釈をした。
「……やっぱり、他にも人が乗ってたのか」
男が低く呟いたとき、私は、男の顔色が真っ青なことに気づいた。
一瞬――本当に一瞬だけ、毒殺、という言葉が過った。不可思議な招待状、見知らぬ招待主が用意したクルーザー、そしてこれから向かういわくつきの無人島。
それらから、連続殺人というキーワードを導くのは容易だ。非現実的だ、と思う者もいるだろう。だが、実際、三つの要因がすべてそろっているのだから、私がそういった物騒な事柄を想像してしまうのは仕方のないことだった。
「あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫なものか!」
声をかけた私に、男が怒鳴る。
次の瞬間、男は目をぎらつかせながら、デッキを蹴って、こちらへ走り出した。シンジが咄嗟に私の前に庇うように立つ。だが、鷲鼻の男は私のすぐ隣を通り過ぎ、柵から身体を乗り出して、吐しゃ物を海にまき散らした。
私は、小さくあっと叫ぶと、鷲鼻の男へ駆け出していた。
「全部出してください、すっきりしますから」
背中を撫でながら、ポシェットに押し込んでいたペットボトルの水を取り出す。飲みかけだけれど、許してもらおう。
鷲鼻の男はひとしきり吐き終えると、私の用意した水で口を漱ぎ、甲板に横たわった。
「薬ありますよ? 吐き気止めです」
「くれ」
男が不愛想に手をだす。ピルケースから薬を一錠取り出して渡すと、男は残りの水で薬を飲んで、乱暴に袖で口元をぬぐった。
「優しいね、リンコちゃんは」
見物を決めていたシンジが、近づいてきた。鷲鼻の男が吐き始めたとき、顔をしかめて一歩さがったのを、私は見ていた。
「僕、そういうの駄目。軽度の潔癖症なんだよ。ってか、船酔い?」
「黙れ」
「口の悪い人だなぁ。名前はなんていうの? あんたも、手紙を貰ったんだろ?」
シンジは懐から、先ほどの二つ折りの手紙を見せて、すぐにしまい込んだ。
鷲鼻の男は、吐きつかれたのか、ぼんやりとした目でそれを見ていたが、やがてため息をついて、「そうだ」と頷いた。
「……俺も、その手紙をもらってきた」
「へぇ、やっぱり。じゃあ、ここに乗ってる人はみんな、手紙をもらってきたのかな。このクルーザーも定期船じゃなさそうだし」
シンジが微笑みながら私の傍しゃがみこんだ。
私は、デッキに寝転がった鷲鼻の男の傍に座り込んだままだったので、広い甲板のうえにいるのに、まるで井戸端会議のように一か所に集まるかたちになる。
シンジは、じぃっと私を見つめてきた。
「リンコちゃんは大学生?」
「いえ、社会人です」
「仕事は何をしてるの?」
「古書屋で働いています。シンジさんは?」
「僕は教師。ちなみに八年前も教師だったんだ」
つと、鷲鼻の男の視線が、シンジへ向く。いつの間にか、シンジも鷲鼻の男を見ていた。
「僕の名前はシンジで、仕事は教師。これだけ明かしたんだから、あんたも名前くらい明かしてよ。何もかも不詳じゃ怪しいと思うけど。……このあと、何が起こるかわからないんだし」
付け足すように言ったシンジの言葉で、彼もまた、私と同じように不吉な想像をしていることがわかった。
何が起こるかわからない。
その言葉は、私の胸中をしめているもやもやそのものだ。
鷲鼻の男は、シンジと私を交互に見て、嘆息した。
「俺は、ゼンヤ。仕事は……今は、していない」
鷲鼻の男ことゼンヤは、そういうと、また静かに息を吐きだした。吐き気が収まらないのだろう。顔色の悪さはややマシになったが、焦点が微妙に合っていないように思えた。
ぎょろりとしたゼンヤの目が、私へ向いた。
「お前も、手紙をもらったのか」
「はい。私も、『桜子』から手紙をもらいました」
桜子、と言った瞬間、船上が静まり返った、気がした。変わらず風が吹き、海の飛沫はばしゃばしゃと耳を打つけれど、確かにそのとき、耳に痛いほどの静寂が下りたのだ。
「……年の頃からして、桜子ときみは同じくらいかな。友達だったの?」
「それほど仲良くは。小学校のころに、面識があるくらいで」
シンジが微かに目を見張った。彼の口が何かを言いたそうに開いたとき、ゼンヤが『見えたぞ』と言った。
私たちは、ゼンヤの視線の先を見る。
遥か沖合の海上に、濃霧をかぶった島がみえた。この近辺の快晴が嘘のように、島の周辺は灰色の分厚い雨雲に覆われていた。
「はは、おあつらえむきだな」
シンジが苦笑する。
甲板に転がったままのゼンヤは、腕で床を押して、ゆっくりと身体を起こした。咄嗟に手を伸ばして支えると鋭く睨まれたが、振り払われはしなかった。
ふと。
ゼンヤの身体から、心地よい香りがした。白檀のようだが、少しだけ甘く、静かな水面を彷彿とさせる落ち着く香りだった。人より鼻のきく私にしかかぎ取れないくらい、微かな匂いだが、その匂いがなんの香りなのかは思い出せない。
「あれが、抜刀島か」
「よくご存じだ」
シンジの茶化す声には、僅かに探るような響きがある。ゼンヤはシンジには返事をせずに、私から離れて手すりを持った。
「……不気味な島だ」
「わかってたことさ。もとより、二泊三日の滞在だ。僕たちは何があろうと、三日間はあの島で過ごさなきゃならない。違うかい?」
ふん、とゼンヤは鼻を鳴らして、やはりシンジには返事をせずに、私を見た。
「お前は、あの島のいわくを知っているか?」
「え? えっと。バットウジマ、って名前なのと、昔に死んだ人がいる、いわくのある島、と聞いてます」
知っていることを正直に述べると、ゼンヤがまた鼻をならした。シンジは驚きに目を見張っている。
「きみは、調べてこなかったのかい?」
「……えっと。怪しい手紙だなぁとは思ったんですが、そこまで下調べが必要だとは思ってなくて。そんなにすごいいわくがあるんですか?」
シンジは呆れたように肩をすくめた。
「まさかリンコちゃんは、遠足気分なの? 言っとくけど、現状は普通じゃないからね。このあと何が起こるかわからない……だってほら。僕らが今いる状況って、よくある探偵小説の舞台そのものじゃないか」
シンジはにやりと笑って、言う。
曖昧に笑うしか出来ない私に、ゼンヤが島のいわくについて、説明をくれた。
その説明を聞いた私は、真っ青になってがくがくと震え、すぐさま先生が休憩している船室へ駆け戻った。
ふとしたとき、思い出す。
中型クルーザーのデッキに立つ私の頬を、春先の生暖かい風が撫でる。空は快晴で、クルーザーのエンジン音を除けば、波も穏やかな昼下がりの海上だった。
私は、タンポポ色のカーディガンの胸元を引き寄せて、そっと船首から下方を覗き込んだ。尖った船の先頭部分が、海を掻き分けるように飛沫を迸らせている。その勢いと迫力は、見る者の視線を釘付けにさせる何かがあった。
「何を見ているんだい?」
ふいに声をかけられて、そっと顔を上げる。
トレンチコートに身を包んだ、スマートな男が立っていた。年のころは、三十代半ばほどだろうか。太い眉に広い額をした端正な顔立ちの男は、柔和に微笑んで私を見ている。
つい今まで、このクルーザーには、はて、私と先生以外に誰か乗っているのだろうか、と疑問に思っていたけれど、どうやらほかにも乗客がいたらしい。
私は、さっと相手の姿を観察したのち、返事した。
「海を見ています」
そう答えると、男は苦笑した。
「まぁ、そうだろうけど。海の何を見て、何が楽しいのかなって思ってさ」
男は私の隣へくると、同じように手すりから身を乗り出すようにして下方を見た。
「ああ、なるほど。すごい飛沫だ。迫力があるね」
随分と馴れ馴れしい男だ。海上の旅というのは、見知らぬ者との距離を縮めるものなのだろうか。私は、一歩横へ移動して、首をかしげてみせた。
「あの、あなたは?」
「きみこそ、誰だい?」
間を置かずに返された言葉に、社交辞令で浮かべていた笑みが固まる。
私は素早い動作で、高台になっている船首付近から二段ほど下がったところにある、甲板へ降りた。
私は男を見上げるかたちで、男は私を見下ろすように、お互いを瞳に映す。
「私は、リンコって呼ばれています」
「僕は、シンジ。リンコちゃんも、あれだよね。例の招待状を貰ったくちでしょ?」
シンジと名乗った男は、トレンチコートの懐から、二つに折りたたんだ一枚の封筒を取り出した。白い封書で、封には蝋で固めた押し印がみえた。
激しく見覚えのあるその手紙に驚く私を見て、男はうっすらと口の端を吊り上げる。その笑みが何とも言えぬ嫌な感じで、私は嫌悪感を隠すのに務めた。
「まさか、こんな不思議なことが起こるなんてね」
「……そうですね」
「この手紙がきたとき、腰を抜かしたよ。もう、八年前か。忘れもしない、悲惨な事件だった」
男は感慨深く言い、ため息をつく。封筒を懐へしまうと、距離をとった私のほうへ歩いてきた。軽やかな足取りで甲板を下りてくる男に、足音はない。そういえば、近くにくるまでこの男――シンジの存在に気づかなかったことに、今頃になって思い至る。
シンジは、私に手を差し出した。握手を求めているのだ。
「よろしく、リンコちゃん」
差し出された手を眺めたのち、おずおずと手を伸ばそうとした。
そのとき、がちゃん、と乱暴にドアが開く音がした。
伸ばした手を引っ込めて、振り返る。甲板へ続くドアから出てきたのは、鷲鼻が特徴的な、ぼさぼさ頭をした小柄な男だ。
ぎらぎらした目で甲板を眺めると、私とシンジに気づいて足を止めた。ほかに人がいるとは思っていなかったのだろう、その瞳は驚きに見開かれている。
「こんにちは」
シンジが、私に言ったのと変わりない声音で挨拶をする。つられて私も、ぺこりと会釈をした。
「……やっぱり、他にも人が乗ってたのか」
男が低く呟いたとき、私は、男の顔色が真っ青なことに気づいた。
一瞬――本当に一瞬だけ、毒殺、という言葉が過った。不可思議な招待状、見知らぬ招待主が用意したクルーザー、そしてこれから向かういわくつきの無人島。
それらから、連続殺人というキーワードを導くのは容易だ。非現実的だ、と思う者もいるだろう。だが、実際、三つの要因がすべてそろっているのだから、私がそういった物騒な事柄を想像してしまうのは仕方のないことだった。
「あの、大丈夫ですか?」
「大丈夫なものか!」
声をかけた私に、男が怒鳴る。
次の瞬間、男は目をぎらつかせながら、デッキを蹴って、こちらへ走り出した。シンジが咄嗟に私の前に庇うように立つ。だが、鷲鼻の男は私のすぐ隣を通り過ぎ、柵から身体を乗り出して、吐しゃ物を海にまき散らした。
私は、小さくあっと叫ぶと、鷲鼻の男へ駆け出していた。
「全部出してください、すっきりしますから」
背中を撫でながら、ポシェットに押し込んでいたペットボトルの水を取り出す。飲みかけだけれど、許してもらおう。
鷲鼻の男はひとしきり吐き終えると、私の用意した水で口を漱ぎ、甲板に横たわった。
「薬ありますよ? 吐き気止めです」
「くれ」
男が不愛想に手をだす。ピルケースから薬を一錠取り出して渡すと、男は残りの水で薬を飲んで、乱暴に袖で口元をぬぐった。
「優しいね、リンコちゃんは」
見物を決めていたシンジが、近づいてきた。鷲鼻の男が吐き始めたとき、顔をしかめて一歩さがったのを、私は見ていた。
「僕、そういうの駄目。軽度の潔癖症なんだよ。ってか、船酔い?」
「黙れ」
「口の悪い人だなぁ。名前はなんていうの? あんたも、手紙を貰ったんだろ?」
シンジは懐から、先ほどの二つ折りの手紙を見せて、すぐにしまい込んだ。
鷲鼻の男は、吐きつかれたのか、ぼんやりとした目でそれを見ていたが、やがてため息をついて、「そうだ」と頷いた。
「……俺も、その手紙をもらってきた」
「へぇ、やっぱり。じゃあ、ここに乗ってる人はみんな、手紙をもらってきたのかな。このクルーザーも定期船じゃなさそうだし」
シンジが微笑みながら私の傍しゃがみこんだ。
私は、デッキに寝転がった鷲鼻の男の傍に座り込んだままだったので、広い甲板のうえにいるのに、まるで井戸端会議のように一か所に集まるかたちになる。
シンジは、じぃっと私を見つめてきた。
「リンコちゃんは大学生?」
「いえ、社会人です」
「仕事は何をしてるの?」
「古書屋で働いています。シンジさんは?」
「僕は教師。ちなみに八年前も教師だったんだ」
つと、鷲鼻の男の視線が、シンジへ向く。いつの間にか、シンジも鷲鼻の男を見ていた。
「僕の名前はシンジで、仕事は教師。これだけ明かしたんだから、あんたも名前くらい明かしてよ。何もかも不詳じゃ怪しいと思うけど。……このあと、何が起こるかわからないんだし」
付け足すように言ったシンジの言葉で、彼もまた、私と同じように不吉な想像をしていることがわかった。
何が起こるかわからない。
その言葉は、私の胸中をしめているもやもやそのものだ。
鷲鼻の男は、シンジと私を交互に見て、嘆息した。
「俺は、ゼンヤ。仕事は……今は、していない」
鷲鼻の男ことゼンヤは、そういうと、また静かに息を吐きだした。吐き気が収まらないのだろう。顔色の悪さはややマシになったが、焦点が微妙に合っていないように思えた。
ぎょろりとしたゼンヤの目が、私へ向いた。
「お前も、手紙をもらったのか」
「はい。私も、『桜子』から手紙をもらいました」
桜子、と言った瞬間、船上が静まり返った、気がした。変わらず風が吹き、海の飛沫はばしゃばしゃと耳を打つけれど、確かにそのとき、耳に痛いほどの静寂が下りたのだ。
「……年の頃からして、桜子ときみは同じくらいかな。友達だったの?」
「それほど仲良くは。小学校のころに、面識があるくらいで」
シンジが微かに目を見張った。彼の口が何かを言いたそうに開いたとき、ゼンヤが『見えたぞ』と言った。
私たちは、ゼンヤの視線の先を見る。
遥か沖合の海上に、濃霧をかぶった島がみえた。この近辺の快晴が嘘のように、島の周辺は灰色の分厚い雨雲に覆われていた。
「はは、おあつらえむきだな」
シンジが苦笑する。
甲板に転がったままのゼンヤは、腕で床を押して、ゆっくりと身体を起こした。咄嗟に手を伸ばして支えると鋭く睨まれたが、振り払われはしなかった。
ふと。
ゼンヤの身体から、心地よい香りがした。白檀のようだが、少しだけ甘く、静かな水面を彷彿とさせる落ち着く香りだった。人より鼻のきく私にしかかぎ取れないくらい、微かな匂いだが、その匂いがなんの香りなのかは思い出せない。
「あれが、抜刀島か」
「よくご存じだ」
シンジの茶化す声には、僅かに探るような響きがある。ゼンヤはシンジには返事をせずに、私から離れて手すりを持った。
「……不気味な島だ」
「わかってたことさ。もとより、二泊三日の滞在だ。僕たちは何があろうと、三日間はあの島で過ごさなきゃならない。違うかい?」
ふん、とゼンヤは鼻を鳴らして、やはりシンジには返事をせずに、私を見た。
「お前は、あの島のいわくを知っているか?」
「え? えっと。バットウジマ、って名前なのと、昔に死んだ人がいる、いわくのある島、と聞いてます」
知っていることを正直に述べると、ゼンヤがまた鼻をならした。シンジは驚きに目を見張っている。
「きみは、調べてこなかったのかい?」
「……えっと。怪しい手紙だなぁとは思ったんですが、そこまで下調べが必要だとは思ってなくて。そんなにすごいいわくがあるんですか?」
シンジは呆れたように肩をすくめた。
「まさかリンコちゃんは、遠足気分なの? 言っとくけど、現状は普通じゃないからね。このあと何が起こるかわからない……だってほら。僕らが今いる状況って、よくある探偵小説の舞台そのものじゃないか」
シンジはにやりと笑って、言う。
曖昧に笑うしか出来ない私に、ゼンヤが島のいわくについて、説明をくれた。
その説明を聞いた私は、真っ青になってがくがくと震え、すぐさま先生が休憩している船室へ駆け戻った。
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