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第九章 正義と、確固たる悪
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いつだったか、橙色に染まる海はどこか切ない、と百合子は言っていた。
小毬は蜜を垂らしたような美しい海を眺める。沖にぽつんとある飛龍島をしばらく眺めていたが、そっと目を伏せた。足元は崖となっており、三日月のような形をした岩がある。
ここにトワと二人で来た日を思い出しながら、踵を返した。森林のなかに墓塚を見つけて、傍にしゃがみこむ。
施設を勝手に飛び出してから、半月以上が過ぎていた。この場所へ来るまでに、結構な日数を費やしてしまっていた。
未来や誠次には申し訳がないが、小毬はもう、あの温かい故郷へ戻るつもりはない。
やっと見つけたのだ。
「やりたいこと」を。
小毬は静かに息を吐きだして、墓塚を眺めた。
ここに墓塚を築いたのは、トワの母だ。彼女は真実を知り、新人種のことを想い、行き場のない怒りや悔しさをひっそりとここへ埋めたのではないか。
誇り高い彼らが、少しでもうかばれるようにと。
ふと、ぶぅんと耳元で蚊の羽音がした。蚊は小毬の身体に止まるが、すぐにどこかへ飛んでいく。飛龍島にいたころは蚊に刺された痒さで眠れない夜もあったのに、今、小毬はどこも痒くない。
蚊の羽音は頻繁に耳にするのに、どこも刺されていないのだ。
それが何を意味するのか、とっくに気づいている。
小毬はそっと、墓塚を撫でた。
これから小毬がすることをトワが知ったら、怒るだろう。百合子なら褒めてくれるかもしれない。いや、馬鹿ね、と笑うかも。
彼らの姿が容易に想像できて、思わず笑ってしまう。
(こんな大それたことをしようとするなんて、一年前の私なら想像もつかないだろうな)
けれど、もう決めた。
生き残ってから、自分は何をするべきなのか漠然と考えていた。その答えを、やっと見つけたのだ。
これからすることは、小毬が決めたこと。
例えそれが、誰にも認められなくても。
「新人種特殊軍解体のうえに、神無月少将が亡くなるなんてな」
「少将は自殺だって話だぞ。上層部は隠したいみたいだけどな。ほら、ひと月ほど前にボヤ騒ぎがあっただろ? あのとき」
「焼身自殺ってことか? 生きたまま焼かれるのって、すげぇ苦しいんだろ」
彼らの話に耳を傾けながら、小毬は忍び込んだ軍船から抜け出す機会を伺っていた。辺りは夜の帳が下りているが、船着き場は白熱灯で照られていて明るい。隙を見て飛び出したとしても、すぐに見つかってしまうだろう。
積荷の隙間から這い出した小毬は、ひと気がないことを確認してから船のヘリに足をかけ、ゆっくりと海へもぐりこんだ。
顔だけを水面から出し、初めて間近で見る新人種関連施設を眺める。船着き場はコンクリートで出来ており、島へ続く部分は渡し橋になっていた。船から降りた軍人だろう人たちが、渡し橋を渡っていく。
渡し橋の先、ここからではすべてを見渡せないほどに広い敷地に、白い壁をした病院のような四角い建物がそびえていた。飛龍島から見たこの島は小さかったが、近くでみると通っていた小学校や高校の校舎ほどに大きいことがわかる。
この四角い建物はどうやら関門のような場所らしい。殺風景な風景のなか、違和感の塊となって存在する朱塗り門があり、その前には銃を構えた軍人が二人、渡し橋を渡る人々を厳しく確認していた。
その朱塗り門から左右に広がるように、金網がどこまでも伸びている。おそらく、この島全体か新人種関連の建物すべてを囲っているのだろう。
この島には、新人種特殊軍の根拠地と、新人種研究所の二つが併設されていると聞いている。小毬が用のあるのは前者だ。
ちゃぷ、と小さく音を鳴らしながら、小毬は水面から顔を出して移動する。泳ぎは苦手なので、コンクリートの壁に掴まりながら。
水面下から渡し橋を過ぎ、朱塗り門も通り過ぎる軍人らの目が届かない場所まで来て、ほっと息を落ち着かせ、水中から首を覗かせた。
そこにもまた、病院によく似た白い壁の建物があった。よく見れば壁は劣化してヒビだらけで、白だと思っていた壁は灰色に変色している。
小毬は、水中から這い出て地面に立ち上がる。目の前には金網がそびえ、施設と海とを隔てていた。小毬が立っているのは、海側に面した僅かながらのコンクリート地面だ。息をひそめて、辺りを見回した。建物の裏手ということもあり、鬱蒼と生い茂った雑草で覆われて、人が立ち入るべき場所ではないように思う。
小毬は金網に指先を滑らせた。茶色の錆びが指についたが、高圧電流が流れているということはないらしい。感電死したらそれもまた運命かもしれない、と半ば投げやりになっていたが、やはり運命は小毬を「小毬の目的」に向かって突き動かせている。
金網を掴み、這い上がり、跨いで超え、金網の内側に着地する。手にべったりとついた鉄の錆びを払いながら、目の前の建物を見上げた。四階建ての平べったい四角をした建物は、閉鎖的な古めかしい病院のような印象を受けた。
一定間隔に並んだ窓は、八割方明かりがついている。明かりがついている部屋は誰かいるだろうから、暗い窓をいくつか確認し、そこから中へ侵入しようと決めた。
ふと、明かりのついていない窓、そのなかの一つ――四階にある一部屋だけ、窓が開いていることに気がついた。誰かが窓を閉め忘れたのだろうか。何にせよ、窓を割って侵入する必要がなくなるので、音が原因で早期に見つかるということはないだろう。
「よし」
小さく呟いて、雨樋に手をかけた。小毬はするすると壁を登り、目当ての四階までたどり着く。
いつか、小毬の肌も透明になるのだろうか。彼らのように、瞳や髪の色も変化するのだろうか。
そう考えて、思わず笑ってしまう。
その後のことなんて、今は考えなくていい。とにかく今は、なすべきことを考えなければ。
小毬は蜜を垂らしたような美しい海を眺める。沖にぽつんとある飛龍島をしばらく眺めていたが、そっと目を伏せた。足元は崖となっており、三日月のような形をした岩がある。
ここにトワと二人で来た日を思い出しながら、踵を返した。森林のなかに墓塚を見つけて、傍にしゃがみこむ。
施設を勝手に飛び出してから、半月以上が過ぎていた。この場所へ来るまでに、結構な日数を費やしてしまっていた。
未来や誠次には申し訳がないが、小毬はもう、あの温かい故郷へ戻るつもりはない。
やっと見つけたのだ。
「やりたいこと」を。
小毬は静かに息を吐きだして、墓塚を眺めた。
ここに墓塚を築いたのは、トワの母だ。彼女は真実を知り、新人種のことを想い、行き場のない怒りや悔しさをひっそりとここへ埋めたのではないか。
誇り高い彼らが、少しでもうかばれるようにと。
ふと、ぶぅんと耳元で蚊の羽音がした。蚊は小毬の身体に止まるが、すぐにどこかへ飛んでいく。飛龍島にいたころは蚊に刺された痒さで眠れない夜もあったのに、今、小毬はどこも痒くない。
蚊の羽音は頻繁に耳にするのに、どこも刺されていないのだ。
それが何を意味するのか、とっくに気づいている。
小毬はそっと、墓塚を撫でた。
これから小毬がすることをトワが知ったら、怒るだろう。百合子なら褒めてくれるかもしれない。いや、馬鹿ね、と笑うかも。
彼らの姿が容易に想像できて、思わず笑ってしまう。
(こんな大それたことをしようとするなんて、一年前の私なら想像もつかないだろうな)
けれど、もう決めた。
生き残ってから、自分は何をするべきなのか漠然と考えていた。その答えを、やっと見つけたのだ。
これからすることは、小毬が決めたこと。
例えそれが、誰にも認められなくても。
「新人種特殊軍解体のうえに、神無月少将が亡くなるなんてな」
「少将は自殺だって話だぞ。上層部は隠したいみたいだけどな。ほら、ひと月ほど前にボヤ騒ぎがあっただろ? あのとき」
「焼身自殺ってことか? 生きたまま焼かれるのって、すげぇ苦しいんだろ」
彼らの話に耳を傾けながら、小毬は忍び込んだ軍船から抜け出す機会を伺っていた。辺りは夜の帳が下りているが、船着き場は白熱灯で照られていて明るい。隙を見て飛び出したとしても、すぐに見つかってしまうだろう。
積荷の隙間から這い出した小毬は、ひと気がないことを確認してから船のヘリに足をかけ、ゆっくりと海へもぐりこんだ。
顔だけを水面から出し、初めて間近で見る新人種関連施設を眺める。船着き場はコンクリートで出来ており、島へ続く部分は渡し橋になっていた。船から降りた軍人だろう人たちが、渡し橋を渡っていく。
渡し橋の先、ここからではすべてを見渡せないほどに広い敷地に、白い壁をした病院のような四角い建物がそびえていた。飛龍島から見たこの島は小さかったが、近くでみると通っていた小学校や高校の校舎ほどに大きいことがわかる。
この四角い建物はどうやら関門のような場所らしい。殺風景な風景のなか、違和感の塊となって存在する朱塗り門があり、その前には銃を構えた軍人が二人、渡し橋を渡る人々を厳しく確認していた。
その朱塗り門から左右に広がるように、金網がどこまでも伸びている。おそらく、この島全体か新人種関連の建物すべてを囲っているのだろう。
この島には、新人種特殊軍の根拠地と、新人種研究所の二つが併設されていると聞いている。小毬が用のあるのは前者だ。
ちゃぷ、と小さく音を鳴らしながら、小毬は水面から顔を出して移動する。泳ぎは苦手なので、コンクリートの壁に掴まりながら。
水面下から渡し橋を過ぎ、朱塗り門も通り過ぎる軍人らの目が届かない場所まで来て、ほっと息を落ち着かせ、水中から首を覗かせた。
そこにもまた、病院によく似た白い壁の建物があった。よく見れば壁は劣化してヒビだらけで、白だと思っていた壁は灰色に変色している。
小毬は、水中から這い出て地面に立ち上がる。目の前には金網がそびえ、施設と海とを隔てていた。小毬が立っているのは、海側に面した僅かながらのコンクリート地面だ。息をひそめて、辺りを見回した。建物の裏手ということもあり、鬱蒼と生い茂った雑草で覆われて、人が立ち入るべき場所ではないように思う。
小毬は金網に指先を滑らせた。茶色の錆びが指についたが、高圧電流が流れているということはないらしい。感電死したらそれもまた運命かもしれない、と半ば投げやりになっていたが、やはり運命は小毬を「小毬の目的」に向かって突き動かせている。
金網を掴み、這い上がり、跨いで超え、金網の内側に着地する。手にべったりとついた鉄の錆びを払いながら、目の前の建物を見上げた。四階建ての平べったい四角をした建物は、閉鎖的な古めかしい病院のような印象を受けた。
一定間隔に並んだ窓は、八割方明かりがついている。明かりがついている部屋は誰かいるだろうから、暗い窓をいくつか確認し、そこから中へ侵入しようと決めた。
ふと、明かりのついていない窓、そのなかの一つ――四階にある一部屋だけ、窓が開いていることに気がついた。誰かが窓を閉め忘れたのだろうか。何にせよ、窓を割って侵入する必要がなくなるので、音が原因で早期に見つかるということはないだろう。
「よし」
小さく呟いて、雨樋に手をかけた。小毬はするすると壁を登り、目当ての四階までたどり着く。
いつか、小毬の肌も透明になるのだろうか。彼らのように、瞳や髪の色も変化するのだろうか。
そう考えて、思わず笑ってしまう。
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