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④相思相愛
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(どうしたものかしら)
結婚して一か月が経つ。
予定では初夜を終えて、二人の仲も以前より近くなっており――商売の話をハインリヒに打ち明けて、彼の意見を聞いて行動に移しているころだ。
それが実際は、初夜すらまだなのである。
(……両想いかもしれない、というのはやっぱり勘違いだったのかもしれないわ)
男性の性欲は、必ずしも恋愛と結びつかないという。
ハインリヒが毎夜、エマの名前を呼びながら自慰行為に耽っているのも、たまたま近くにいる女がエマだから、その対象にされているに過ぎないのかも。
この離れの壁は本館よりも薄く、防音ですらないのだ。
だから、夫婦になって部屋が隣り合って以後、毎晩、その声は聞こえてくる。
最初こそドキドキしたが、今では絶望に変わっていた。
エマに触れるよりも自分で慰めるほうを選ぶということは、それだけエマに魅力がないということなのだろう。
(どんな想像をしているのかしら。私、そんなに補正が必要な体なのね)
エマは自分の体を、女性らしい肉体だと思っている。
出るところは出ているし、腰もくびれているのだ。
それでも手を出してこないということは、何か理由があるのだろう。
このままでは、商売の話どころか初夜すら永遠に訪れない気がした。
ユリアからもハインリヒの返答がどうだったかという返事を求められているし、いい加減にハインリヒに尋ねないといけない。
エマは、よしと気合いを入れて立ち上がった。
確か明日は、ハインリヒの仕事が休みのはずだ。
結婚してから、ハインリヒは週に一日必ず休みを取るようになった。新婚相手に対する、ディライト伯爵の配慮である。
今日こそ、ハインリヒとしっかり話し合うのだ。
いつハインリヒが帰宅してもわかるように、エマは玄関から近い居間で待っていた。
しかし、緊張しているせいか睡魔が襲ってきて、エマは船を漕ぎ始める。
ハインリヒにいつ頃なんと話すかどうか、悩み過ぎて疲れてしまったのかもしれない。
もう気を抜いたら寝てしまいそう、というころになって、エマはようやく諦めた。
こんな状態で話し合いなど無理だ。
しっかり頭が働くときでないと。
(眠い……眠いわ、眠い)
ふらふらと部屋に戻って布団にくるまったエマは、襲ってくる睡魔にそっと身を委ねた。
僅かな時間とはいえ、眠るとすっきりするものだ。
ドアのひらく音で静かに眠りから覚めたエマは、すっかり調子がよくなっていた。
(……起きなきゃ)
寝起き特有の心地よい余韻に、つい起きるのを渋ってしまう。
すると。
「……お嬢様?」
ハインリヒの声がして、エマはぎょっとした。
彼は無断で部屋に入ってくるような男では無いはずだ。エマが寝ていて返事をしそこなったから、心配で入ってきてくれたのだろうか。
そんなことを考えながら、布団から顔を出してハインリヒを見る。
(あ。……ここ、私の部屋じゃ、ない……)
間違えたのだ。
本館なら間違えるはずないが、この離れに引っ越してまだひと月。どこも似たようなドアで、しかもハインリヒの部屋とは隣り合っている。
居間にいたころすでに寝ぼけていたから、見間違えてしまったのだろう。
ハインリヒも、いつもの無表情に驚きを浮かべている。
エマは恥ずかしくなって、布団にもぞもぞと隠れながら伝えた。
「あの、ごめんなさい。すごく眠くて、入る部屋を間違えたみたい」
「……そうでしたか」
布団から起きると、ハインリヒはサッとエマから視線を逸らした。
「私は、外におりますので……」
「待って、すぐに出て行くから。ごめんなさい、仕事で疲れてるのに、ベッドを独占してしまって」
「お嬢様が謝られることなど、何もございません」
ハインリヒはハッキリと告げた。
突き放されたような気がして――お前が何をしようと関係ないと言われているようで――胸がズキリと痛む。
(彼にとって、この結婚はとても嫌なものだったのね)
ディライト伯爵からの命令で仕方なく受け入れたに過ぎないのだろう。
やはり一度、話し合うべきだ。
エマの都合ばかり押しつけてしまったから、今度はハインリヒの望むことを優先したい。
「ねぇ、ハインリヒ。いつでもいいから、話し合う時間をくれないかしら」
ベッドから起き上がってシーツを整えながら言うと、ハインリヒは足早にやって来てしゃがみ、シーツを押さえた。
「お嬢様、このようなことは私が致します」
「……私、勝手なこと」
「そうではございません。お嬢様は、この家のご令嬢なのです。雑事はどうか、私どもにお任せください」
(あ)
思いのほか近くにハインリヒの顔があって、エマは彼の端正な顔立ちに見惚れる。
ふわりと香る男性的な匂いに、胸が甘くときめいた。
ふと、ハインリヒがエマを振り返った瞬間、はたりと目があった。
ハインリヒの体が大きく震え、同時に、彼の顔が茹でダコのように真っ赤になる。
「あっ」
彼が、油断したような声をあげた。誤魔化すようにサッと視線を逸らしてから、動揺を隠しきれないまま口をひらいた。
「先ほどおっしゃった話し合う時間ですが、私の都合など考慮していただく必要はございません。命じて頂ければ、すぐにでも――」
「じゃあ、今でもいいの?」
真っ赤な頬、震える声。
ぎゅっとシーツを握りしめる手。
普段とは違うハインリヒの姿に、エマは胸を温める。
どれほど気持ちを封じても、片想いでしかないと期待を捨てても、エマのなかに宿った恋心は簡単に消えてはくれないようだ。
最初は、少し気になるだけだった。
いつの間にハインリヒの存在が、これほどまでにエマのなかで大きくなったのだろう。
他の使用人でも、貴族の子弟でも、友達でも、駄目なのだ。
エマにとって、ハインリヒでないと――。
エマは、そっとハインリヒに手を伸ばした。
彼がエマから視線を逸らしているうちに。
「今……かしこまりましッ」
頬に触れると、ハインリヒは目を見張って硬直してしまう。赤い頬はそのままに、彼の瞳が僅かにギラつくのを感じる。
ハインリヒが、エマの手から逃れようとゆっくりと後ろに体を逸らそうとした。
咄嗟に、逃がすまいと彼の肩に手を置く。
ぱたん、と尻もちをつくハインリヒの膝に乗り上げると、彼の両肩にそれそれ手を置いて、いつも見上げているハインリヒを見下ろした。
「ハインリヒ、あのね」
「お、お嬢様、椅子を用意致しますので」
「……私に触れられるのが、そんなにいや?」
頬を染めたかと思えば、エマを避ける。
瞳に情欲を見たかと思えば、またエマを避ける。
ハインリヒの理性は、とことんエマを嫌っているのだろうか。
そんな気持ちが言葉に表れてしまったようだ。
エマの声は、悲しみに震えていた。
「お父様に言われて、仕方なく私と結婚したのは知っているわ。もう遅いかもしれないけれど……これからはハインリヒの希望を無視するつもりはないから、それを知っていてほしいの」
ハッと、ハインリヒがエマを見た。
彼は慌てたように瞳を揺らすが、それだけだ。
「……全部話すわ。どうして、あなたと結婚することになったのか」
「話す、とは……?」
「この結婚は、お姉様の発案なの。私も同意して、仕組んだのよ」
愕然としているハインリヒに、エマはすべてを話した。
少しずつ明かしていく算段だったが、そんな打算的な余裕は到底もてなかったのだ。
ただ黙って聞いていたハインリヒは、話し終えてエマが黙り込むと、困惑と疑心、そして悲しみの混ざった複雑な表情を浮かべた。
(嫌われてしまった……かしら)
彼という人間の意志を無視して、彼の人生に介入したのだ。
軽蔑されても仕方がないことだとわかっているけれど、実際に嫌われてしまうと、胸が軋むように痛む。
エマは静かに体から力を抜いた。
ハインリヒの肩に置いたままだった手を退けて、彼から離れようとしたとき。
唐突に、ハインリヒがエマの手を掴んだ。
大きく力強いその手に驚くエマに、ハインリヒが身を乗り出してくる。
「お嬢様は、私に触れられることが嫌ではないのですか」
エマを見つめるハインリヒの表情は、泣きそうだった。切実さを帯びた瞳は揺れて、無表情ばかりの彼が、人間らしい感情をありありと浮かべていることに、エマの心も揺さぶられる。
「嫌なわけないわ。私、本当は誰とも結婚をしたくなかったの。さっき話した商売のこともあるし。……でも、ハインリヒだから」
「私、だから?」
「ええ。貴族でも、王族でも、嫌だけれど。ハインリヒとなら、夫婦になりたいって思ったの」
掴まれた手を握り返して、指を絡めた。
「……私、驕っていたの。もしかしたら、ハインリヒも私のこと憎からず思ってくれてるんじゃないかって思ってたのよ。……最初に、ハインリヒに聞くべきだったわ。私と結婚してくれませんか、って」
繋いだ手の甲を、ハインリヒが撫でた。
たまらないというように、何度も。その触れ方に性的なものを感じて、エマはまた期待してしまう。
「お嬢様、申し訳ございません」
その期待は、数秒で砕け散った。
ハインリヒは心から懺悔するような、呼吸すら苦しいといわんばかりの声で言った。
彼の感情が表れた声音は、聞くだけでエマまで辛くなってしまう。
いいのよ謝らなくて。
受け入れてもらえないことは、わかっているから。
そう言わないと、と思うのにエマは言い出せないでただ唇を噛む。
(早く、いいのよ、って言って、ハインリヒを安心させてあげないと)
わかっているのに、エマは失恋の苦しみから声が出せないでいた。
どこまでも愚かな自分が嫌になる。嫌われて当然だ、エマのような自分勝手な人間なんて。
ふと、ハインリヒがますますエマの手を強く握りしめた。
「私は……私は、身の程もわきまえず、お嬢様に懸想しております」
「……ハインリヒ?」
大人なハインリヒは、エマを落ち着かせるために方便を言ったり、自己犠牲をしたりすることがある。
彼はいつだって、優秀な執事だったからだ。
そんな彼が瞳を潤ませてエマを切実に見つめてくる姿に、ぞくぞくと体が甘美に震えた。
これは演技ではない。
「お嬢様。私は……こ、このように、お嬢様に触れても……良いのでしょうか」
力強く握りしめるハインリヒの手のひらの熱さがエマの心に溶けて、彼に対する愛しさが込み上げてくる。
たまらずに、彼の首筋に抱きついた。
結婚して一か月が経つ。
予定では初夜を終えて、二人の仲も以前より近くなっており――商売の話をハインリヒに打ち明けて、彼の意見を聞いて行動に移しているころだ。
それが実際は、初夜すらまだなのである。
(……両想いかもしれない、というのはやっぱり勘違いだったのかもしれないわ)
男性の性欲は、必ずしも恋愛と結びつかないという。
ハインリヒが毎夜、エマの名前を呼びながら自慰行為に耽っているのも、たまたま近くにいる女がエマだから、その対象にされているに過ぎないのかも。
この離れの壁は本館よりも薄く、防音ですらないのだ。
だから、夫婦になって部屋が隣り合って以後、毎晩、その声は聞こえてくる。
最初こそドキドキしたが、今では絶望に変わっていた。
エマに触れるよりも自分で慰めるほうを選ぶということは、それだけエマに魅力がないということなのだろう。
(どんな想像をしているのかしら。私、そんなに補正が必要な体なのね)
エマは自分の体を、女性らしい肉体だと思っている。
出るところは出ているし、腰もくびれているのだ。
それでも手を出してこないということは、何か理由があるのだろう。
このままでは、商売の話どころか初夜すら永遠に訪れない気がした。
ユリアからもハインリヒの返答がどうだったかという返事を求められているし、いい加減にハインリヒに尋ねないといけない。
エマは、よしと気合いを入れて立ち上がった。
確か明日は、ハインリヒの仕事が休みのはずだ。
結婚してから、ハインリヒは週に一日必ず休みを取るようになった。新婚相手に対する、ディライト伯爵の配慮である。
今日こそ、ハインリヒとしっかり話し合うのだ。
いつハインリヒが帰宅してもわかるように、エマは玄関から近い居間で待っていた。
しかし、緊張しているせいか睡魔が襲ってきて、エマは船を漕ぎ始める。
ハインリヒにいつ頃なんと話すかどうか、悩み過ぎて疲れてしまったのかもしれない。
もう気を抜いたら寝てしまいそう、というころになって、エマはようやく諦めた。
こんな状態で話し合いなど無理だ。
しっかり頭が働くときでないと。
(眠い……眠いわ、眠い)
ふらふらと部屋に戻って布団にくるまったエマは、襲ってくる睡魔にそっと身を委ねた。
僅かな時間とはいえ、眠るとすっきりするものだ。
ドアのひらく音で静かに眠りから覚めたエマは、すっかり調子がよくなっていた。
(……起きなきゃ)
寝起き特有の心地よい余韻に、つい起きるのを渋ってしまう。
すると。
「……お嬢様?」
ハインリヒの声がして、エマはぎょっとした。
彼は無断で部屋に入ってくるような男では無いはずだ。エマが寝ていて返事をしそこなったから、心配で入ってきてくれたのだろうか。
そんなことを考えながら、布団から顔を出してハインリヒを見る。
(あ。……ここ、私の部屋じゃ、ない……)
間違えたのだ。
本館なら間違えるはずないが、この離れに引っ越してまだひと月。どこも似たようなドアで、しかもハインリヒの部屋とは隣り合っている。
居間にいたころすでに寝ぼけていたから、見間違えてしまったのだろう。
ハインリヒも、いつもの無表情に驚きを浮かべている。
エマは恥ずかしくなって、布団にもぞもぞと隠れながら伝えた。
「あの、ごめんなさい。すごく眠くて、入る部屋を間違えたみたい」
「……そうでしたか」
布団から起きると、ハインリヒはサッとエマから視線を逸らした。
「私は、外におりますので……」
「待って、すぐに出て行くから。ごめんなさい、仕事で疲れてるのに、ベッドを独占してしまって」
「お嬢様が謝られることなど、何もございません」
ハインリヒはハッキリと告げた。
突き放されたような気がして――お前が何をしようと関係ないと言われているようで――胸がズキリと痛む。
(彼にとって、この結婚はとても嫌なものだったのね)
ディライト伯爵からの命令で仕方なく受け入れたに過ぎないのだろう。
やはり一度、話し合うべきだ。
エマの都合ばかり押しつけてしまったから、今度はハインリヒの望むことを優先したい。
「ねぇ、ハインリヒ。いつでもいいから、話し合う時間をくれないかしら」
ベッドから起き上がってシーツを整えながら言うと、ハインリヒは足早にやって来てしゃがみ、シーツを押さえた。
「お嬢様、このようなことは私が致します」
「……私、勝手なこと」
「そうではございません。お嬢様は、この家のご令嬢なのです。雑事はどうか、私どもにお任せください」
(あ)
思いのほか近くにハインリヒの顔があって、エマは彼の端正な顔立ちに見惚れる。
ふわりと香る男性的な匂いに、胸が甘くときめいた。
ふと、ハインリヒがエマを振り返った瞬間、はたりと目があった。
ハインリヒの体が大きく震え、同時に、彼の顔が茹でダコのように真っ赤になる。
「あっ」
彼が、油断したような声をあげた。誤魔化すようにサッと視線を逸らしてから、動揺を隠しきれないまま口をひらいた。
「先ほどおっしゃった話し合う時間ですが、私の都合など考慮していただく必要はございません。命じて頂ければ、すぐにでも――」
「じゃあ、今でもいいの?」
真っ赤な頬、震える声。
ぎゅっとシーツを握りしめる手。
普段とは違うハインリヒの姿に、エマは胸を温める。
どれほど気持ちを封じても、片想いでしかないと期待を捨てても、エマのなかに宿った恋心は簡単に消えてはくれないようだ。
最初は、少し気になるだけだった。
いつの間にハインリヒの存在が、これほどまでにエマのなかで大きくなったのだろう。
他の使用人でも、貴族の子弟でも、友達でも、駄目なのだ。
エマにとって、ハインリヒでないと――。
エマは、そっとハインリヒに手を伸ばした。
彼がエマから視線を逸らしているうちに。
「今……かしこまりましッ」
頬に触れると、ハインリヒは目を見張って硬直してしまう。赤い頬はそのままに、彼の瞳が僅かにギラつくのを感じる。
ハインリヒが、エマの手から逃れようとゆっくりと後ろに体を逸らそうとした。
咄嗟に、逃がすまいと彼の肩に手を置く。
ぱたん、と尻もちをつくハインリヒの膝に乗り上げると、彼の両肩にそれそれ手を置いて、いつも見上げているハインリヒを見下ろした。
「ハインリヒ、あのね」
「お、お嬢様、椅子を用意致しますので」
「……私に触れられるのが、そんなにいや?」
頬を染めたかと思えば、エマを避ける。
瞳に情欲を見たかと思えば、またエマを避ける。
ハインリヒの理性は、とことんエマを嫌っているのだろうか。
そんな気持ちが言葉に表れてしまったようだ。
エマの声は、悲しみに震えていた。
「お父様に言われて、仕方なく私と結婚したのは知っているわ。もう遅いかもしれないけれど……これからはハインリヒの希望を無視するつもりはないから、それを知っていてほしいの」
ハッと、ハインリヒがエマを見た。
彼は慌てたように瞳を揺らすが、それだけだ。
「……全部話すわ。どうして、あなたと結婚することになったのか」
「話す、とは……?」
「この結婚は、お姉様の発案なの。私も同意して、仕組んだのよ」
愕然としているハインリヒに、エマはすべてを話した。
少しずつ明かしていく算段だったが、そんな打算的な余裕は到底もてなかったのだ。
ただ黙って聞いていたハインリヒは、話し終えてエマが黙り込むと、困惑と疑心、そして悲しみの混ざった複雑な表情を浮かべた。
(嫌われてしまった……かしら)
彼という人間の意志を無視して、彼の人生に介入したのだ。
軽蔑されても仕方がないことだとわかっているけれど、実際に嫌われてしまうと、胸が軋むように痛む。
エマは静かに体から力を抜いた。
ハインリヒの肩に置いたままだった手を退けて、彼から離れようとしたとき。
唐突に、ハインリヒがエマの手を掴んだ。
大きく力強いその手に驚くエマに、ハインリヒが身を乗り出してくる。
「お嬢様は、私に触れられることが嫌ではないのですか」
エマを見つめるハインリヒの表情は、泣きそうだった。切実さを帯びた瞳は揺れて、無表情ばかりの彼が、人間らしい感情をありありと浮かべていることに、エマの心も揺さぶられる。
「嫌なわけないわ。私、本当は誰とも結婚をしたくなかったの。さっき話した商売のこともあるし。……でも、ハインリヒだから」
「私、だから?」
「ええ。貴族でも、王族でも、嫌だけれど。ハインリヒとなら、夫婦になりたいって思ったの」
掴まれた手を握り返して、指を絡めた。
「……私、驕っていたの。もしかしたら、ハインリヒも私のこと憎からず思ってくれてるんじゃないかって思ってたのよ。……最初に、ハインリヒに聞くべきだったわ。私と結婚してくれませんか、って」
繋いだ手の甲を、ハインリヒが撫でた。
たまらないというように、何度も。その触れ方に性的なものを感じて、エマはまた期待してしまう。
「お嬢様、申し訳ございません」
その期待は、数秒で砕け散った。
ハインリヒは心から懺悔するような、呼吸すら苦しいといわんばかりの声で言った。
彼の感情が表れた声音は、聞くだけでエマまで辛くなってしまう。
いいのよ謝らなくて。
受け入れてもらえないことは、わかっているから。
そう言わないと、と思うのにエマは言い出せないでただ唇を噛む。
(早く、いいのよ、って言って、ハインリヒを安心させてあげないと)
わかっているのに、エマは失恋の苦しみから声が出せないでいた。
どこまでも愚かな自分が嫌になる。嫌われて当然だ、エマのような自分勝手な人間なんて。
ふと、ハインリヒがますますエマの手を強く握りしめた。
「私は……私は、身の程もわきまえず、お嬢様に懸想しております」
「……ハインリヒ?」
大人なハインリヒは、エマを落ち着かせるために方便を言ったり、自己犠牲をしたりすることがある。
彼はいつだって、優秀な執事だったからだ。
そんな彼が瞳を潤ませてエマを切実に見つめてくる姿に、ぞくぞくと体が甘美に震えた。
これは演技ではない。
「お嬢様。私は……こ、このように、お嬢様に触れても……良いのでしょうか」
力強く握りしめるハインリヒの手のひらの熱さがエマの心に溶けて、彼に対する愛しさが込み上げてくる。
たまらずに、彼の首筋に抱きついた。
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