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第五章 血の繋がり

【5】

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 仕事を終えたその日、有希は待ち合わせのレストランへ向かった。
 レストランといっても気取った高級志向のものではなく、大手チェーン店のひとつで、気軽に利用できる場所である。
 有希は、空いている店内を見回して、待ち合わせ相手を探した。平日の夜、しかも給料日前とあって、店内はがらんとしている。
 店員が出てくると、有希の様子を見て「待ち合わせでしょうか」と聞いた。

「はい、もう来ているはずなんですが」
「あちらのお客様でしょうか」
「え? あ、はい」

 店員が示した先には、壁に向かうカウンターに座る美奈子がいた。美奈子が予め「ふたり」と言っておいてくれたのか、二人分の席が確保されている。
 有希は、店員にお礼を言って、美奈子のほうへ向かった。

「ママ、お待たせ」

 声をかけると、美奈子が振り返った。
 久しぶりに見る美奈子は、健康的な顔色で、表情もよい。ふわりと微笑む姿は、聖母かと思うほどに温かかった。

「有希ちゃん! お仕事、お疲れさま」

 隣に座って、店員が持ってきた水を受けとった。ありがとう、と店員にお礼を言う有希を見て、美奈子が破顔する。

「有希ちゃんの、そういうとこ好きだわ~」
「え?」
「なんでもなーい」
「……ママ、随分とご機嫌だね」
「だって、有希ちゃんと久しぶりに会えたんですもの」

 有希は、苦笑を浮かべて水を飲んだ。
 メニューを見ながら、美奈子の様子を横目で伺う。
 最後に会ったのは、手毬の家を出た日。美奈子は、有希に行かないでと縋りついた。父親が出て行った日を彷彿とさせる日だった、と今更ながら気づく。
 もう終わったことだとはいえ、美奈子は、父親に対してどんな気持ちを抱いていたのだろう。何も想ってなかった、というニュアンスで父親に話をしていたけれど、実際は、そんなことはなかったと思っている。
 家族で出かけた日は、皆笑顔で楽しく過ごしたし。父親の衣類を洗濯したり、取れたボタンを繕ったり、美奈子が楽しそうに父親の世話をやいていた記憶もある。

(ママって、プライド高いんだよね……かなり)

 前々から思っていたことだ。
 そして、美奈子の性格はそう簡単には変わらないだろう。手毬の言動次第では、変わっていくかもしれないけれど。

「ママ、パスタにしようかしら。有希ちゃんは、どれにする?」
「じゃあ、ドリア。ドリンクバーつけよっと」

 店員を呼んで注文して、ほっと一息ついた。
 カウンターの隣に座った美奈子が、少しだけ身体を乗り出してきた。

「有希ちゃんの話を聞きたいわ」
「私の? うーん、変わりないよ。職場と自宅を行ったり来たりしてる」
「片瀬さんとは?」
「うまくやってるよ」

 笑ってみせると、美奈子は苦笑した。

「そう、小さいころから仲がよかったものね」
「小さい頃っていつ? そんなに仲良くなかったと思うけど」
「毎晩、一緒に過ごしてたじゃない。最初のころは、心配で見に行ったりもしたのよ」
「そうだったの⁉」

 美奈子は、ええ、と頷くと机に肘をついて、懐かしい目を壁に向ける。

「正直、妬いたわよ。ふたりが仲良くなっていくのがわかったから。……このままだと、有希ちゃんまで私から離れていっちゃうって、思ったの」
「……私、少しでもママの役にたててたのかな」

 電話をしたとき、美奈子は有希が特別だと言っていた。その意味を有希はまだ知らないけれど、聞こうとも思わない。怖くて聞けない、というのが本音だった。
 親子として過ごした日々は、とても心地よかった。
 家事を手伝ったり、一緒に買い物に行ったり。有希が家事のほとんどをするようになり、美奈子がパートに出かけるようになっても、顔を合わせるたびにほっとした。
 有希が美奈子の役にたてている限り、美奈子は有希を捨てたりしないとわかっていたからだ。
 美奈子は、プライドが高い。
 そしてとてつもなく、不器用で――薄情な一面もある。
 慎一郎をずっと好きだった気持ちは確かだろうけれど、父親のことを愛していたのもまた事実だと有希は思っている。そうでなければ、父親が出て行ったあと、あんなに泣きじゃくってふさぎ込むことはなかっただろう。
 今度こそ、美奈子には幸せになってほしいというのが、有希の望みだ。慎一郎と恋仲になってしまった有希に、そんなことを想う権利などないのかもしれないけれど。
 ふと、美奈子が黙り込んでいることに気づいて、顔をむける。きょとんとした様子の美奈子が、有希をみていた。

「ママ?」

「何を言っているのかしら、と思って。有希ちゃんは、そんなこと考えなくていいのよ。役に立つとか、立たないとか。琴葉もそうだけれど、ママの子どもに生まれてきてくれて、とても感謝しているのよ。……ふふ、でもやっぱり、有希ちゃんは特別」
「役に立たなくてもいい……?」
「え? そういうものでしょう、だって私たち、親子じゃないの」

 当たり前のように言う美奈子に、有希は驚いた。
 美奈子は、プライドが高い。不器用で薄情で、そして我儘だ。自分に振り向かない慎一郎に固執したのも、そういったプライドから来ていたのだろう。
 なぜ有希が、美奈子のことをそんな悪女のように思うようになったのかは、彼女の周りの友人関係を見ていれば明白だった。美奈子は、自分に都合のいい友人を傍におく。上辺のみの付き合いばかりで、深くまでお互いを話したりする相手を持たない。
 いつでも簡単に手を切れる、そんな相手を選んでいる。
 無意識なのだろうけれど、有希は、そんな美奈子が心配だった。

「片瀬さんの、誤解は解けたの?」
「ああ、血縁関係の? 解けたよ。連絡くれて助かった」
「それはよかったわ。……ねぇ、有希ちゃん。片瀬さんとのこと、ママ、認めてるのよ。ただね、ママのことも忘れないでほしいの」
「勿論。ママも、マリさんと幸せになっても、私のこと忘れないでよ」
「当たり前じゃないの」

 ふふ、と笑う美奈子の笑顔は、これまでよりも、遥かに女性らしい。愛されている自信が、彼女を美しくさせるのだろう。
 注文していた料理がきて、お互いに食べ始めた。

「ママは、マリさんにどこまで話したの?」
「何を?」
「片瀬さんとの関係、とか」

 とか、という部分にあえて含みを持たせたけれど、美奈子は気づかないまま、少し考える素振りをしてから、答えた。

「何も話してないわ。私が片瀬さんを好きだった、ってことも言ってないし。同棲が契約だったことも話してないの。マリちゃんは今でも、私と片瀬さんは恋愛結婚したんだと思ってるでしょうね」
「本当のこと、言わないの?」
「必要ないもの」

 必要ない、と言い切る美奈子から、有希は視線を逸らした。
 ふたりの関係について、有希はどうこういうつもりはない。けれど、もしかして、と思うときがある。
 美奈子は今、手毬ではなく、恋に恋している状態なのではないか、と。
 有希は考えるのを、強引にやめた。
 美奈子が何を選んで、どんな道を歩もうと、有希の母親であることに変わりはない。これまでも、これからも。
 それからは、思い出話や、今後について話した。
 母子として、また、友人同士のように。

 有希が帰宅したのは、深夜十時を過ぎた頃だった。
 慎一郎はまだ帰っていない。変わらず多忙な彼の帰宅は、基本は十一時前。だが最近は、それよりも早いことが多かった。
 早く帰ってこないかな、と。
 ふたりで暮らすアパートでひとり、有希は慎一郎を待つ。

 ◇

「部長、最近雰囲気が変わりましたね」

 自動販売機の前で揶揄するように声をかけてきたのは、同期の櫻井だった。同期といっても、すぐに配属先が別れたため、顔を合わせることなど滅多にないのだが、多くの同期が辞めていくなか、残っている数少ない顔見知りでもある。

「……気持ち悪い話し方は辞めて貰えませんか」
「酷いな、片瀬は。部長になったって聞いてたけど、相変わらず仕事人間だなぁ。野心家なところも、変わらずか?」

 慎一郎は、コーヒーを買って横にはけると、櫻井を軽く睨みつけた。

「何かご用ですか」
「人間嫌いも健在か」

 軽く笑いながら、櫻井も自動販売機でコーヒーを買った。

「さっき、お前を見ながらそんな話をしてる子がいたぞ」
「はい?」
「『部長、最近雰囲気が変わりましたね』ってな」

 声色をつくって話した櫻井は、コーヒーをその場であけて飲み始めた。ふぅ、と息をつくと、櫻井はにやりと笑ってみせる。

「あれか、順調に出世してる優越感か?」
「あなただって、支店長になったと聞きましたが」
「そうだよ、つい最近なったんだよ支店長に。お前が何年か前に通過した道を、やっとな」
「……嫌味ですか」
「お前のほうが嫌味だろうが。ま、お前は入社んときから、頭二つ分ほど抜きんでてたし、出世してる分、仕事もこなしてるの知ってるよ。ずっとサービス残業してるんだって?」
「ただ残っているだけです。いいですか、サービス残業などというものは存在しません、違法です」
「はいはい、言い方の違いね。……すごいよな、本当に。目標は、役員だろ? 俺のこと贔屓してくれよな」
「はい?」

 慎一郎は、コーヒー缶の蓋に指を添える。
 かしゅっ、と、心地よくプルタブが開く音が響いた。
 櫻井は、冗談だよ、と肩をすくめた。

「お前が違法行為嫌いなのは、知ってる。贔屓なんかされなくても、実力でのしあがってやるさ」
「私、出世はもう望んでいませんよ。残業も、どうしても必要なとき以外は止めることにしました」
「へ?」

 コーヒーで喉を潤して、ふぅ、と慎一郎はひと息つく。

「昔は、出世欲もありましたが。今はむしろ、時間と責任感を奪われるポストはご免被りたいですね。出世するのは嬉しいことですが、そこへたどり着くまでの犠牲を想うと、現状維持で申し分ないと思っています」
「……お前、本当に変わったな」

 心底馬鹿にされたような気がして、軽くねめつける。
 櫻井は、朗らかに笑って、「お前も人間だったんだな」と酷く心外なことを言った。

「表情もほとんど変わらない、見た目は彫刻みたいに整ってる、言うことは全部正しくて辞書を読んでいるみたい、そんなやつだったのに」
「……ロボットの話ですか?」
「お前の話だよ! 雰囲気も柔らかくなっちゃって。何か、人生を変えるような出来事でもあったのか?」

 慎一郎は、缶コーヒーをじっと見つめたあと、残りを一気に飲み干した。
 缶を捨てて、

「ありましたよ」

 と、答えて歩き出す。
 なぜか櫻井がついてきた。そもそも、なぜ本部にいるのだろうか。彼は支店勤務のはずなのだが。

「早く仕事に戻ったらどうです?」
「休憩中だから。それで、何があったんだよ。気になるだろ、お前がこんだけ変わったんだぞ?」
「……どういう意味ですか」
「余程のことがあったに違いないだろうが」

 追及してくる櫻井に、慎一郎はため息をついた。

「近々、結婚するかもしれません」
「うぁ?」

 随分と間抜けな声をあげて、櫻井が固まる。

「なんですか、その反応」
「いや。え、三回目の結婚?」
「正式には二度目ですね。前回は入籍してませんから」
「……別れてたのか」

 そこにはあえて返事をせずに、慎一郎はふと思い出したことを口にした。

「結婚式をあげるときは、あなたにも招待状を送らせていただきますよ」
「今回、本気だなお前」
「……いちいち、馬鹿にしてきますね。あなたは」
「してないって。いや、あー、でもそうか。お前が変わったのって、ははー、なるほどなぁ」

 慎一郎は、話は終わったと考えて、櫻井をそのままにして仕事に戻った。
 それがいけなかった。
 その日のうちに、「片瀬がガチ恋してて、近々結婚するらしい」という噂が職場全体に流れた。
 誰かとすれ違うたびに、おめでとうございます、と言われるはめになり、気恥ずかしいながらも、ありがとう、と返した。
 一部の、自分より立場が上の人から「なぜ教えてくれなかった」と責められもしたが、「具体的なことはまだ決まっていないので」と持ち前の営業コミュニケーションスキルを駆使して乗り切った。
 結婚も三度目ということで、左程反応されることはないと思っていた慎一郎にとって、周りの反応は意外だった。
 何気なくそれを漏らしたら、最近あまりにも慎一郎が変わったからだと、部下が教えてくれた。
 なんでも、全体的に雰囲気が柔らかくなって、関わりやすくなったとか。笑顔も見せてくれるようになって嬉しいです、とまで言われてしまった。
 これまでの慎一郎は、一体どんな酷い人間だったのだろう。
 腑に落ちない部分がないではないが、皆から祝ってもらえるというのは、悪い気分ではなかった。
 その日も仕事を終えて、自車で帰宅する。
 今週末は、特別養護老人ホームにいる母親に会いにいくことになっていた。有希と、そして克哉も一緒だ。まだ母親には知らせておらず、克哉が当日、「兄が来てるけど会ってみる?」と聞いてくれるという。
 克哉いわく、当日ゴリ押し作戦というらしい。
 自宅のアパートが見えてきて、慎一郎は考えを振り払った。駐車場へ車を止めて、軽い足取りでアパートへ向かう。
 部屋の明かりがついているのが見えて、無意識のうちに微笑んだ。
 有希が待ってくれている。
 それだけで、こんなにも嬉しくなる。
 鍵でドアをひらくと、有希が出てきた。

「おかえりなさい!」

 笑顔の有希に、ただいま、と返す。この瞬間が、本当に、幸せだ。

「……有希」
「ん?」
「ドアのチェーンは毎回してくださいと言っているでしょう」

 あ、と有希が声をあげる。いたずらがバレた子どものように、少しだけ怯えた表情をみせる有希に、苦笑を向けた。
 怒っているわけではない、心配なのだ。

「忘れないでくださいよ、あなたは可愛いんですから」
「……気を付けます」
「よろしい」
「夕食出来ていますよ。私は今日、食べてきたので」
「……そうでした。美奈子さんと会ってきたんですね」

 さりげなく有希の表情を見るが、迷いや憂いは見られない。慎一郎は笑みを深めた。

「では、夕食のときに、どんな話をしたのか聞かせていただけますか?」
「はい。すぐに準備をしますね」

 慎一郎は、いつものように先に着替えて、リビングへ向かう。夕食の準備をしている有希を眺めて、今を実感する。
 こんなふうに、穏やかに過ごせる日がくるなんて思ってもいなかった。
 絶えず何かに苛立っているか、怯えているか、そんな日々を過ごしてきた。友人もいるし、出世も人より出来ていると自負している。順風満帆な人生のはずだった。だが、今ならばわかる。どれだけ自分が、虚しい日々を歩んできたのかを。

「あ、準備できましたよ」

 慎一郎に気づいた有希が、ぱっと微笑んだ。
 花開くような明るい笑みに、自然と微笑を浮かべている自分がいる。
 帰る場所が、できた。
 慎一郎が帰る場所は、有希の傍。
 これからずっと、生涯変わらない、大切なもの。
 慎一郎は幸福を、噛みしめた。
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