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第二章 初めてのデート
【2】
しおりを挟む驚くほど穏やかな目覚めだった。
慎一郎の眠りは浅い。それでも疲れは取れるからいいと考えていたが、歳を重ねるごとに疲れを翌日に持ち越すようになっていた。
その疲れが、昨夜の深い眠りによって取り除かれて、穏やかな気分にさせていた。
しばらくベッドのなかで微睡んでいたが、ふと時計を見たときに、昨夜の出来事を思い出した。
はっ、と勢いよく身体を起こして、辺りを見回す。
ここは自室で、当然ながら有希の姿はない。そう理解した瞬間血の気が引いたが、リビングのほうから朝食をつくる包丁の音が聞こえてきて、ほっと息をついた。
一晩で、世界が変わってしまったかのようだった。
いつの間に、有希がこんなにも自分の生活の――いや、自分のなかの大半を占めていたのだろう。仕事にいくときに「いってらっしゃい」と、帰宅したときに「おかえりなさい」と言ってくれる彼女が、いなくなったら。
ご飯を一人で食べて、休日に自分で洗濯をして、誰とも会話せずに持ち帰った仕事を淡々とこなす日々に戻るなど、想像したくない。
家事に関しては、十年以上前より遥かに収入がよくなった慎一郎としては、家事代行サービスを頼めば済むことだが、そういうことではないのだ。
有希がいい。
この独占欲の理由については、昨夜の一件を思い出すと理由は簡単に導くことができた。
自分は有希を、一人の女性として好ましく思っているのだ。
これまで僅かとも反応しなかった性器が、あのようになってしまったことからも、よくわかる。
女性は不快の対象だった。
仕事では仕事と割り切って話をすることもあるが、プライベートでは一切の関係を断ってきた。美奈子もそうだ。男好きのする彼女の姿は、最初から好まなかった。だが、当時の自分は切羽詰まっていて、美奈子との共同生活に利益を見出し、お互いに条件を呑むことで共に暮らすことになった。
有希は、美奈子に似ている。
慎一郎は美醜についてはよくわからないが、有希がとても整った顔立ちをしていると思っている。視線をそらせなくなる大きな瞳や、ふっくらとした薄い唇などが、美奈子と同じなのだ。
(……同じ?)
同じなのに、美奈子のそれは嫌悪対象だ。
けれど、有希の瞳は美しくていつまでも眺めていたくなるし、唇に至っては、これは昨夜自覚したことだが、吸い付きたくなるような欲求を覚えるほどに愛らしい。
(まぁ、有希ですし。すべてが可愛いのは当然でしょう)
疑問はあっさり解決するが、すぐに、別の疑問――いや、難題を思い出した。
慎一郎はベッド脇に座って、ため息をついた。
(私は、彼女と離れたくないんですよ)
世間一般の養父のように、幼いころから成長を見守ってきたとは言い難いほど、関わりは希薄だった。その僅かな接点を、慎一郎はとても大切に思っていた。
そう気づいたのもまた昨夜だが、今後、有希が嫁にいったときの喪失感を想像するだけで、足元から崩れてしまうような恐怖を覚える。
ならば、どうすればいいのか。
自分は有希に惹かれているが、彼女にとって自分は義父でしかない。異性だと思われていないからこそ、昨夜のように警戒のない姿をみせるのだ。
信用されていると思えば悪くないが、どうも、腑に落ちない。
慎一郎は、携帯電話を取り出して、高校時代からの友人に電話をかけた。長い時間のすえに、相手がでる。
『はぁい。……なに、めっちゃ眠いんだけど』
「おはようございます。岳は、今の奥さんをどうやって口説いたのですか」
『ん~、なんだよ藪から棒に。そうだなぁ、しつこくデートに誘って、やっとデートのオッケー貰ったときに改めて告白したんだ。んで、めでたく付き合うことになったわけ』
「付き合う前にデートしたのですか」
『ああ。まぁ、そんなもんだろ。……え、なに、急に。お前からそんな話――』
ぷつ、と通話を切った慎一郎は、なるほど、と腕を組む。
いきなり告白するよりも、デートに誘ってよい雰囲気のなかで告白するというのは、人の心情からしても理にかなっている。人間は雰囲気に弱いものだ。
慎一郎は、自覚したからには気持ちを告げようと考えている。
黙ったまま傍にいるのは有希を裏切っているようなものだ。素知らぬ顔で傍にいるくせに、彼女をそういう目でみてしまっているのだから。
告白して、たとえ断られたとしても、一瞬だけでいいから、自分を異性として意識してもらいたい。
ふと、慎一郎は目を伏せた。
有希はとても女性らしく成長した。女性らしくという点は、本当ならば嫌悪の対象なのに、有希は違う。なぜならば、有希だから。
よし、と気合をいれてリビングに向かうと、有希が朝食をつくっていた。
いつもの光景なのに、やたら有希が可愛らしく見えて、頬が緩むのを必死で引き締める。
「おはようございます」
「おはようございます!」
今日も明るい有希だが、どこかよそよそしいのは、昨夜の一件のせいか。それはそうだ。義父だと思っていた男が、突然「男」としての反応をみせたのだから。
気持ち悪いと思われたかもしれない。
そんな想像に落ち込みながら、断られるかもしれないと覚悟をきめて、デートに誘う。
有希は迷いも見せずに頷き、話し合ったのち、水族館へ行くことになった。
なんだか、身体がふわふわする。感情が飛び跳ねているように喜色をみせ、自分が自分ではないような、おかしな気分だった。
これが誰かを愛するということなのか。
恋は人を愚かにすると聞いたことがあるけれど、今初めて、その意味を理解できた。慎一郎は、有希が望めばなんだってしてしまいそうだ。
支度をしてリビングに行けば、有希が待っていた。
有希はほんのりと化粧をしており、触ると柔らかい長い髪を後ろで結んでいた。普段はつけないシュシュが、彼女の可憐さを引き立てている。
衣類は、肩の部分がふわりと広がった桃色のブラウスに、たおやかなレースがあしらわれた裾の長い白のスカートを着ていた。
普段見ることのない、仕事のスーツとも違う女性らしい服装に、慎一郎は目を見張った。
「よく似合ってますよ」
声をかけて初めて、有希が気づいたように振り返った。
「あ、ありがとうございます。外出用の服なんて、あまり持ってなくて」
有希はそういうと、先ほどからちらちらと気にしていたらしい、慎一郎の全身をじっくりと見つめた。
「……変ですか?」
慎一郎は、青い前開きのシャツとジーパンという簡素ないでたちだが、これが外出用のお洒落だった。どちらも普段は着ないもので、タンスの奥からひっぱりだしてきたのだ。綺麗に片付けてあったため、皴もない。
「いえ、とても似合っています。片瀬さんは、やっぱり恰好いいですね」
照れたようにそういう有希は、とてつもなく可愛かった。
抱きしめてキスをしたいと思ったが、恋人ではないので諦める。
もし、有希と恋人になれたら。
そんな万が一の可能性を、想像する。
きっと自分は、彼女を生涯離さないだろう。毎日のように肌を合わせて、これ以上ないほどにくっついていたい。
これまでは、性的なことを考えたとき真っ先に浮かぶのは、母の淫靡な姿だった。
けれど、今日はそれさえどうでもよかった。あえて意識しなければ思い出さないくらい、どうでもよいことになっていた。
(私は、私です)
しごく当然なことを、改めて思う。
有希が昨夜くれた言葉とぬくもりは、青天の霹靂ともいえた。あれほど絡めとられて身動きができずにいた過去が、愛しい娘の一言で、さっと霧が晴れるように消えたのだから。
有希を車の助手席に乗るように促して、先に車へ行った。
すぐに自宅の施錠をした有希がやってくる。
慎一郎は、緊張した面持ちで助手席に座る有希を見て、微笑んだ。
ナビを入力したあと、有希の甘い香りに我慢できずに、彼女の髪をさらって軽く指に巻きつける。しっとりと柔らかい触り心地に、目を眇めた。
「……片瀬、さん?」
「すみません、出発します」
ゆっくりと車は滑るように動き出す。
今日という長い日が、始まった。
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