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第一章 二人きりの誕生日
【1】
しおりを挟む携帯電話が鳴って、メールがきたことを知らせた。
美奈子からだ。今夜は急遽パート仲間と飲みに行くことになったので、帰りは遅くなるという連絡だ。
有希はすぐに、了解の返事をする。そこに一言、ママは綺麗なんだから気をつけてね、と添えて。
「――知ってた、けど」
有希は一人で呟いて、携帯電話を机に置いた。
机に並んでいる夕食は、三人分。
有希、美奈子、そして慎一郎の分だ。
姉の琴葉とふたりの義兄は、大学を卒業してすぐに一人暮らしを始めた。それぞれバイトで貯蓄をしていたらしく、就職先に合わせて引っ越したのだ。
かつては六人で暮らしていたマンションも、今ではがらんとしていた。それを寂しいと思わないのは、この家庭環境がやや特殊なためだ。
目の前の食卓にある椅子は、五人分。この家で暮らしていた人間が六人であることを考えると、明らかに違和感がある。だがこれまで、一度として椅子が六脚必要になったことはなかった。
食卓について、有希は項垂れた。
高校を卒業したあと、有希は大学へは行かずに、近場に就職した。月給はあまりよくないが、残業がないという素晴らしい職場だ。逆にいうと時間内に仕事を終わらせなければならないため、仕事中はかなり多忙だが、それでも就職できただけ有難かった。
軽くため息をついて、有希は美奈子の分の夕食にラップをはる。今夜のメニューは、美奈子の好きな煮魚をメインに、ほうれん草ときのこのグラタン風マヨネーズ焼き、豆腐を荒く砕いてつくった甘めのおから、の三品だ。
先ほど炊けたご飯は、炊き込みご飯だった。
がちゃり、と。
玄関から音がして、はっと顔をあげた。
慎一郎だ。咄嗟に時計を見ると、二十三時半をさしている。明日は土曜日なのでゆっくりできるとはいえ、この時間に連絡を寄越した美奈子は外泊するつもりだろう。
有希はすぐに玄関へ向かい、「おかえりなさい」と言った。
今年四十五になる慎一郎は、出会った当時よりやや目じりの皴が増えたものの、背筋の伸びた背広姿は若々しく、いかにも出来る男、といった風体だ。金融関係の仕事をしている彼は、いつも帰宅は十一時を過ぎる。
慎一郎は有希をみて、ああ、と気のない返事をする。
「夕食、できてますよ」
「……そうですか」
「すぐに支度しますね」
ぺこり、と会釈をして、有希はリビングへ戻った。
慎一郎は過度の干渉を嫌う。だから、ほとんど関わってはいけない、というのが暗黙の了解だった。それは有希だけでなく、美奈子も、琴葉も、義兄二人も、同じだった。
夕食を温めなおしたころ、白いシャツと黒いスラックスに着替えた慎一郎がやってきた。右手に紙袋をぶら下げている。二人分の食事をちらりと見て、何を思ったのか目を伏せてから、彼の定位置である食卓の椅子につく。
ふと、隣の椅子に、彼は紙袋を置いた。高級そうな艶やかな紙袋のそれは、一体なんだろう。気になかったが、慎一郎がとくに何も言わないので、有希もあえて聞かなかった。
「ご飯は、いつも通りでいいですか?」
「ええ」
炊飯器から、大きめの慎一郎の茶碗に大盛りよそって、彼の前に置く。慎一郎は軽く手を合わせてから、食べ始めた。律儀に手を合わせる辺り、好感がもてる。
「今日はママ、帰りが遅くなるそうです」
「いつものことでしょう」
そう答える慎一郎の声音は無感情――少なくとも以前の有希ならそう思っていただろう。だが、今ではその無感情のなかにも微かな感情がみえる。
今のは、心の底から興味がない反応だ。
だから有希はそれ以上、何も言わなかった。
美奈子が「新しい家族が増えるの」と有希たち姉妹に言ったとき、有希はてっきり、美奈子が再婚するものだと思い込んでいた。だが現実は違った。美奈子は慎一郎と入籍はしておらず、同じ家で暮らす「内縁の夫婦」になっている。
実際はお世辞にも夫婦とはいえない他人だけれど、この家で暮らす限り慎一郎が養ってくれるため、美奈子はパートを掛け持ちして働く必要がない。だから、美奈子は慎一郎と暮らし始めてから、母親として沢山構ってくれた。参観日も来てくれたし、保護者面談も意欲的に参加した。
美奈子がパートを再開したのは、上の義兄が家を出てからだ。上の義兄は、バイト以外は家にいる時間が多めで、有希たち家族とも仲良くしていた。その義兄が、この閉鎖的ともいえる奇異な家庭の雰囲気を、明るくしてくれていたのだ。
美奈子は、慎一郎に頭があがらない。
紹介されたときから察していたけれど、美奈子は慎一郎に対してかなり怯えており、機嫌を損ねないように、必要以上に気を使っていた。それは、琴葉や元妻の連れ子だという義兄ふたりも同じで、誰もが慎一郎と関わるのを敬遠していた。
慎一郎に養ってもらっている身として、彼の機嫌を損ねるわけにはいかない。そんな縛りで覆われた家庭を息苦しく思うのは当然だろう。下の兄と琴葉は、友達との遊びだの、部活だのと理由をつけて家にあまりいなかったし、就職するなり、解放されたといわんばかりに引っ越していってしまった。
人が少なくなると、今度は美奈子が家にあまり帰らなくなった。有希が自宅から通勤すると聞いたときの、心底安堵した美奈子の表情は、脳裏に鮮明に焼きついている。
「……考えごとですか?」
気がつくと、慎一郎が有希をみていた。食事の箸が止まっていることに気づいたらしい。
無感情な声に、微かに心配そうな響きがある。
有希は笑って、ちょっと、と答えた。
「家も広くなったな、と思って」
「広さは変わりませんよ」
「そういう意味ではなくて」
「ああ。三人が家を出て行きましたからね」
慎一郎は食事の手を止めることなく、言葉を続ける。
「当然でしょう。大学まで費用を出したのです、あとは自分で生きて行ってもらわないと。もともと彼らは、元妻の連れ子ですから」
突き放したような言い方に聞こえなくもない。
だが彼は淡々と事実を述べただけだ。
「いくら契約結婚とはいえ、やはり入籍するべきではありませんでした。結果として、二人を引き取ることになったのですから。ですが、過去の失敗は繰り返しません。あなたの母親とは、入籍せずにいてよかったと思っています」
これもまた、突き放した言い方だ。
けれど、何年もこうして顔を合わせていると、微かな表情の変化や声音の違いから、そのままの言葉の意味で、彼が言っているわけではないことがわかる。
仮にそのままの意味であっても、慎一郎を責めることはできない。彼は、契約結婚だと割り切った相手の裏切りにより、血の繋がらない子どもを二人も育てなければならなくなったのだから。
そう、だから慎一郎には子どもを見てくれる母親的存在が必要だった。加えて、仕事関係で信用を得るためにも、妻という存在が必要だったという。正式な入籍をしていないのは、一度目の結婚で酷い裏切りを受けたのだと知っている会社側からは、ただ憐れむような言葉をいくつか投げられただけで、内縁の関係であることは深く追求されなかったらしい。
もしかしたら、酷く頭の回る慎一郎が、そう思わせるように立ちまわったのかもしれない。結果として、彼は「所帯」と「育児をしてくれる母親」を手に入れた。
そして言わずもがな、美奈子もまた、自分たち家族を養ってくれる男を手に入れたのだ。
「こうして二人で話していると、一緒に暮らし始めた日の晩を思い出します」
慎一郎の言葉に、有希は顔をあげた。
「何かありましたっけ?」
「帰宅した私に、あなたが『おかえりなさい』と言いました。そして今日のように、夕食が出来ていると言ったのです。深夜の十一時頃だったというのに。覚えていませんか?」
「お、覚えています。もの凄く緊張しましたから」
一緒に暮らす際に、いくつか決まり事があった。そのなかで最も大きいのが、慎一郎のプライベートへの干渉は不可というものだ。
だが、慎一郎と有希のあいだではプライベートの認識が異なっており、有希としては一家の大黒柱である慎一郎へ夕食を作らないなど考えられなかった。
当時、有希は八歳。
すでに有希は、パートに出ている美奈子の代わりに家事の大半を行っていた。
学校が終わってから買出しをして夕食を作っていた有希は、当然、慎一郎のぶんも作った。ふたりの兄が「いらないよ」と口をそろえて言ったけれど、有希は、慎一郎の帰宅を待って、ご飯があることを伝えたのだ。
有希を含む五人はとっくに夕食を食べ終えて、それぞれの部屋に引っ込んでいた。美奈子も例外ではなかった。
慎一郎は、がらんとしたリビングに、一人分の夕食が置かれた食卓と、ソファに置いてあった有希が時間つぶしに読んでいた本を見て、非常に驚いた。そして、逡巡のすえに、食事を食べたのだ。
それからも、有希は慎一郎に食事を作り続けた。夕食がいらない場合の連絡手段として、個人的に電話番号とメール交換もしていた
もっぱら二人の会話は、皆が部屋に引っ込んだあと。
そんなふうに関わってすぐに、彼のちょっとした感情の変化にも気づけるようになり、皆が思っているほど怖い人ではないことがわかった。
居候である有希はまだ気を使っている部分が多いけれど、ほかの兄弟たちのように、就職したからといって家を出ようとは思わない。
家に一人残す美奈子が心配だというのもあるが、何より、有希自身が、慎一郎と離れたくないのだ。
一体、いつから。
いつから――彼に、恋心を抱いているだろう。
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