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1巻

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 妻として頑張ろうと決めたのはいいが、何をすればいいのだろう。とついできた翌日、そっとジョージに尋ねたものの、彼はやや驚いたあと、すぐに無表情で「わかりかねます」と答えたのだ。
 露骨に落胆らくたんしたヴィオレッタをあわれに思ったのか、元気を出してくださいと言うかのように、彼はエリクから言付けを預かっていると告げた。
 喜んだのも束の間。その内容は「自分亡きあと、本当に愛した者と結婚できるよう財産を残す」というものだ。要は、ヴィオレッタを妻として屋敷に置くことは許可するが、エリク自身は彼女と一切関わるつもりがない、ということである。
 あのときはショックだったわ、と思い出して、知らずにため息をつく。

「奥様……?」

 フィアが心配そうに小首をかしげた。愛嬌あいきょうのある顔立ちをした彼女は、平凡な見た目のヴィオレッタよりもずっと可愛らしい。チョコレート色の瞳で見つめられて、ヴィオレッタは苦笑した。

「ごめんなさい、なんでもないの」
「いいえ! 今のため息は絶対に訳ありです!」

 力強くそう言ったフィアが、ぐっとこぶしを握りしめる。

「お気持ちをお察しいたします。お優しい奥様は現状をうれいておられるのですよね。いきなり祖父ほど年の離れた相手にとつがされて、さぞおつらいでしょう」
「……フィア、あのね」
「あっ、でしたら、気分転換に外出されてはいかがですか? あたしがお供いたします!」
(今日も押しが強いわ……フィア)

 だがそんなところも可愛いと、ヴィオレッタは笑みを深めた。
 淡々と仕事をこなす有能な侍女よりも、こうしてころころと表情を変えてくれるのを好ましく思うのは、ヴィオレッタが貴族に染まりきれていないせいだろう。淡々と仕事をされると、対応が素っ気なくなるし、寂しい。
 フィアとの会話をヴィオレッタは楽しんでいた。
 以前、妹のソフィに貴族らしくない変わり者と言われたことがある。
 彼女は罵倒ばとうしたつもりだろうけれど、ヴィオレッタはその言葉が嬉しかった。日本人として生きてきた記憶のある彼女は、豪華絢爛ごうかけんらんな日々やかしずかれて過ごす生活にあこがれてはいたものの、相手の身分によって態度を変える傲慢ごうまんな振る舞いには少なからず抵抗があったのだ。

「そうね、気分転換はよい案だわ。でも、街は少し遠いかもしれないわね」

 行くなら馬車の手配をしないとならないし、お忍びとなればそれなりの準備も必要になる。今からそれをやるのは、フィアの負担になるだろう。
 その気遣いに気付いていないだろう彼女は、純粋にヴィオレッタが街に行きたくないのだと考えたらしい。

「では、敷地内を散歩されてはいかがですか?」
「敷地?」
「はい! お屋敷にこもられていては、気持ちまで鬱屈うっくつしてしまいますからね。今日は天気もいいですし、屋敷の周辺を散歩されるだけでも楽しいかもしれません」

 ヴィオレッタはその代替案を気に入る。確かにこの三日間、屋敷のなかで過ごすだけだった。

「そうね、そうしましょう」

 紅茶を飲み終えると、さっそく散歩に出掛けることにした。
 とついでくるときに持ってきたドレスにショールをまとい、縁の大きな婦人用ハットを被る。
 実家から持ってきたドレスは三着。そのすべてが、パニエやコルセットをつけない、薄い生地で作られた簡素なものだ。
 エンパイア・スタイルという過去に流行はやったものだが、「下着のような薄着ではしたない」と言われることもあるため、社交界で着る令嬢はほとんどいない。ヴィオレッタも例外ではないけれど、屋敷で過ごす場合は別だ。

(誰にもにらまれないなんて、気が楽だわ)

 屋敷の外に出ると帽子の縁を軽く持ち上げ、ぽかぽかと暖かい太陽を見上げた。
 実家の屋敷では、社交界同様エンパイア・スタイルのドレスは不評で、使用人たちからは非常識だという目で見られていた。
 好きな本を読むだけなのにカッチリとコルセットをしたら、楽しめるものも楽しめないではないか。そうヴィオレッタは思うのだが、彼らは貴族としてのしきたりを重んじているのだ。
 伯爵令嬢というものは、何かと制限が多く、走っては駄目、大きな声を出しても駄目、口をあけて笑っても駄目。独身は不名誉で、働くなんてもってのほか、修道女は家に汚名を塗りたくるようなもの。そんな生活をいられれば、絵に描いたような「何もできない女」になるというのに、貴族社会では歓迎されるのだから、価値観の違いというのは恐ろしい。

「奥様」

 フィアに声をかけられて、ヴィオレッタは無意識に身体を強張らせた。
 伯爵令嬢は日に当たるものではない。そのための帽子なのに、太陽を見上げるなど愚かだ。
 ソフィならば冷ややかににらんだだろうし、実家の使用人は伯爵令嬢としてあるまじき行動だといさめるに違いない。日焼けは庶民がするもので、貴族令嬢が肌を焼くとははじになる。
 しかし――

「奥様、それでは帽子の意味がありません。ふふっ、日に焼けてしまいますよ」

 フィアはまるでおっちょこちょいなことをしているとでも言うように、くすくすと笑う。ヴィオレッタは身体の力を抜いた。

「そうね。けれど、日に焼けるのもよいと思うのだけれど」
「こんがり肌って、すごく健康的ですね! きっと奥様にお似合いです!」

 その言葉に、つい噴き出してしまう。いさめるどころか、日焼けを健康的だと表現し、似合うと言うなんて。
 フィアは目をぱちくりさせて首をかしげた。

「奥様? あたし、おかしなことを言いましたか?」
「いいえ、その通りよ。健康はとても大切だものね」
「あの、あたしはまだ侍女として日が浅くっ、失言をしてしまったのでしたら罰を受けます!」
「いいのよ、そんなこと気にしなくて。あなたはあなたのままでいてほしいわ」

 彼女まで王都の屋敷にいる使用人たちのようになっては、息苦しくてたまらない。
 そう思っての言葉だったが、フィアは感激したように目をうるませた。

「奥様……あたし、奥様についていきます! なんでもおっしゃってくださいね!」

 それから、二人で談笑しながら敷地内を散歩した。
 内容はフィアがヴィオレッタの侍女になった経緯である。
 彼女は近くの街で生まれ育ち、弟三人を養わなければならないのだという。そんな彼女は、ひと月ほど前にアベラール公爵家が出した侍女の求人を見て、すぐに応募した。給料が破格だったのだ。
 おそらく応募者が殺到しているから望み薄だろうと思ったが、当たって砕けろ根性で申しこむ。すると予想に反して、募集枠一人の高給取りの侍女に、見事受かったのである。
 その話を聞いたヴィオレッタは、感嘆した。

「それはすごいわね。公爵家の侍女なんて、そうそうなれるものではないもの」
「あたしもそう思ってます。まさか応募者があたし一人だけだったなんて、本当に幸運です!」

 けれど、フィアの満面の笑みを見つめたまま、そこで固まる。

「あら、応募者は殺到していなかったの?」
「はい! あとで聞いたんですが、エリク・アベラール卿が暮らす屋敷に足を踏み入れるなど正気じゃないと言われているみたいです。街の人たちはお金よりも保身を優先したと耳にしました」
「……正気じゃない……保身……」
「街では当たり前なんですよ。エリク・アベラール卿に関わってはならない、ってことは。あたしも幼い頃、寝物語に【エリク・アベラールの話】を聞かされました。……なんでも寝ない子のもとにやってきて、臓物でその子の頬をまわすとか」
(…………それはもはや変態の域ではないかしら)

 なんだか、想像のエリク・アベラールの恐ろしい部分が、好き勝手に改竄かいざんされている気がする。

「でも、ジョージ様は仕事を丁寧に教えてくださるし、奥様もお優しくて素敵な方だし、あたし、応募してよかったです!」

 えへへ、と照れるフィアの可愛い笑顔を前に、ヴィオレッタは思考に沈む。
 エリクに関して、王都の貴族たちの間でもよくないうわさがあるのだから、彼が暮らす地元で恐れられているのも当然なのだろう。
 そう自分に言い聞かせたのは、これまで信じていなかった恐ろしいうわさの数々が、もしかしたら真実なのかもしれない、と考えてしまったからだ。
 例えば人の生き血をすする……といった禍々まがまがしい話も。
 ヴィオレッタは恐る恐るフィアに聞いた。

「フィア、その、旦那様は本当に……うわさのように……恐ろしい方なの?」
「そのように皆、言ってます。でも、あたしはお会いしたことがないので……」

 悪魔は貴族にのみくという。そのせいか、貴族らは【悪魔あくまき】を毛嫌いしており、その言葉を使うのすら躊躇ためらう。だからヴィオレッタは、【悪魔あくまき】について詳しく知らない。
 知っていることといえば、人生において三度の洗礼を受ける必要があることと、【悪魔あくまき】だと判断された者が幽閉される、ということだけだ。

「でも、こんなに素敵な奥様まで恐れられるのは、なんだか納得いきませんよ!」

 黙りこんだヴィオレッタを気遣ったらしいフィアが言った。

(ん?)

 聞き捨てならない言葉に振り返ると、彼女は力強く続ける。

「あのエリク・アベラール様の妻になる女性なのだから、化け物に違いないって。皆、そんなことを言うんですよ!」
(それは、知りたくなかったわ)

 顔を引きつらせるヴィオレッタだが、人が未知のものにおびえたり恐れを抱いたりすることは理解している。エリクが恐れられるのは仕方がない。そういう状況を作ったのはアベラール公爵家だ。
 そこでふと、考えた。
 この状況をエリク自身は納得しているのだろうか。結婚云々うんぬんは嫌がっているらしいが、彼が望んで幽閉されているとは思えない。
 そのとき、雷に打たれたような衝撃が走る。

(私、エリク様のことを少しも知らないわ……お名前と年齢、【悪魔あくまき】だってくらいしか)

 突然決まった結婚なので当然だが、夫婦になったからには相手を知っていきたい。
 ヴィオレッタはやっと、妻として最初にやるべきことを決めた。
 ――エリク・アベラールの苦悩の原因だろう【悪魔あくまき】について知り、理解していこう。
 結婚が決まってから何度目かわからない強い決意を胸に、フィアを振り返る。

「ねぇフィア。【悪魔あくまき】ってどういったものか、詳しくわかるかしら?」

 途端にフィアは表情をくもらせた。

「申し訳ございません、奥様。あたしはよく知らなくて……あ! うわさなんですが、【悪魔あくまき】は悪魔に『命』という対価を支払って、欲しいものを得た罪人のことだと聞いたことがあります!」
「きぇ」

 変な声が出るほどヴィオレッタは狼狽ろうばいする。
 自分もまた【悪魔あくまき】なのだろうか。前世の人生を終えたとき、不思議な場所で出会った青年を思い出す。あの青年に取引の対価として、「ヴィオレッタが愛する」を支払った。それはまさに、今フィアが言った【悪魔あくまき】の条件そのものではないか。
 青年は天使だと自称していたが、実は悪魔だという可能性は充分ある。

(で、でも私、今まで洗礼で【悪魔あくまき】だって言われたことがないもの。きっとあの青年は本当に天使だったのよ)

 きっとそうだ。そうに違いない。
 ヴィオレッタはこっそり【悪魔あくまき】について調べるのは危険かもしれないと考え直した。万が一、彼女も【悪魔あくまき】だと言われて幽閉されれば、エリクと会う機会は生涯やってこない。

(そういえばあの青年、自己紹介の他にも何か話していたような……全く聞いていなかったわ)

 青い顔でひたいを押さえる。後悔で頭痛を覚えたのだが、そんな自分を心配そうに見つめているフィアの視線に気付いて、無理やり微笑ほほえんだ。

「教えてくれてありがとう、フィア」
「奥様……申し訳ございません、確信もないことを口にして不安にさせてしまいました。それだけじゃなくて、旦那様を罪人のように言うなんて……奥様の夫になった方なのに」

 しゅんと項垂うなだれるフィアに、苦笑する。素直で真面目な彼女を落ちこませたくなくて、励ましの言葉をつむごうとしたとき――

「今から、【悪魔あくまき】とは何か、具体的なことを聞きにいきましょう!」

 彼女はがばっと顔を上げて力強く言った。

「……え? 今から……誰に聞きに……?」
「ここの敷地内にある教会に、鎮守ちんじゅ様が常駐されてるそうです」
「教会があるの? 敷地内に?」

 驚いて聞き返しながらも、ヴィオレッタは小首をかしげる。

鎮守ちんじゅ様、って何をなさる方なの?」

 神父様ではなく、鎮守ちんじゅ様。
 初めて聞く役職名らしきそれは、言葉の響きからして普通の教会の役職ではなさそうだ。
 フィアはうーんと考えながら、たどたどしく説明をしてくれた。

「神父様のさらに上位に位置する方です。【悪魔あくまき】の呪いをしずめる、大変希少なお力をお持ちで……確か、そんな感じでした。【悪魔あくまき】の専門家ってところでしょうか」
「……専門家……」
「はい。なのできっとお詳しいですよ、行きましょう!」

 そう言うと、「こっちです!」とヴィオレッタをうながして歩きはじめる。
 ついていきそうになって、ヴィオレッタは慌てて足を止めた。
 これまでの洗礼で【悪魔あくまき】と認定されなかったのは、神父では見つけられない何かが――例えば結界のようなものがあった、という可能性はないだろうか。
 この世界がどの程度、悪魔や天使といったファンタジー要素を取りこんでいるのかわからないけれど、【悪魔あくまき】が存在するのだから結界だってあってもおかしくない。
 仮に、そういった何かの理由で神父には気付かれなかったが、ヴィオレッタも【悪魔あくまき】と呼ばれる存在だった場合、神父の上位に位置するという鎮守ちんじゅなる者に会うのは危険だ。
 ヴィオレッタはじりじりと後ろに下がる。フィアが向かう先は、屋敷に着いた日に遠くに見えたつたが絡まったドーム型の建物である。

「奥様、大丈夫ですか?」
「え、ええ。その、少し目眩めまいがしただけだから。今日は屋敷にもど――」
「大変です! すぐにでも鎮守ちんじゅ様に見てもらいましょう。医師も兼ねているって、ジョージ様がおっしゃってました!」
(万能の香りがするわ……鎮守ちんじゅ様)

 会ったこともない相手なのに、若干の胡散臭うさんくささを感じるのはなぜだろう。
 フィアがヴィオレッタを優しく気遣いながら教会に向かって歩き出す。彼女の表情は懸命に仕事をまっとうしようとする侍女のそれだ。

(いい子なのよ。本当にいい子なの……でも、少しずれているように思うのは、気のせいかしら)

 ちょっと足を踏ん張ったりふらついてみせたりし、その都度「屋敷に戻りましょう」とうながす。けれど、フィアは「あたしがおんぶします!」とまで言った。
 彼女の必死さに根負けするかたちで、ヴィオレッタはずるずると教会に向かう。

(……大丈夫よ。もし、もし! 【悪魔あくまき】だって言われても、大事にはならないわ)

 エリクとヴィオレッタの結婚は、アベラール公爵家とオーリク伯爵家、双方の結び付きのためのものだ。すでに書類上の婚姻は結ばれたと聞いているし、エリクに【悪魔あくまき】のヴィオレッタをあてがったとなると外聞がいぶんが悪い。双方の家はこぞって彼女が【悪魔あくまき】なのを隠すだろう。

(そもそも、私が【悪魔あくまき】だと決まったわけではないし……大丈夫よ、たぶん!)

 ヴィオレッタは繰り返し、そう自分に言い聞かせるのだった。


 ドーム状の教会は、近くで見るとより古風なおもむきのある建物だった。
 他の建物も年代物と呼べる雰囲気だが、この教会はどちらかといえば、太古の遺跡のようである。まるでこの周辺だけ時代や世界観がちぐはぐな、奇妙な様子だ。
 そんな教会の周辺を、春だというのに大きく広がった紫陽花あじさいいろどっている。
 この生で紫陽花あじさいを見るのは初めてだ。もしかしたら、この世界では春に咲くのかもしれない。
 そんなふうに、ヴィオレッタが教会や紫陽花あじさいについて考えたのは、ほんの一瞬だった。
 紫陽花あじさいの緑色の葉に向けて、象の形をしたジョウロを傾けている青年がいる。ゴシックな服装をし金縁のモノクルをつけたその青年に、ヴィオレッタは激しく見覚えがあった。
 彼はまるでヴィオレッタが来るのを見越していたかのように、微笑ほほえみながら振り返る。そして、ジョウロを持ったまま会釈えしゃくをした。

。俺は鎮守ちんじゅのメッセと申します。どうぞお見知りおきを」

 鎮守ちんじゅを名乗る青年は、どこをどう見ても【契約】を交わした自称天使の青年だった――
 ドーム状の建物はステンドグラスが美しい礼拝堂だ。といっても会議室ほどの広さしかなく、全体的に圧迫感を覚える。
 しかし美術的観点から見れば、これ以上ないほど素晴らしい。壁に彫りこまれたレリーフ一つとっても精緻せいちで、王都の美術館に寄贈されている有名彫刻家の作品にも引けを取らなかった。
 天井には鮮やかな色彩で微笑ほほえむ女神の絵が描かれている。正面に教壇のような机があって、その上にある、赤子の天使をかたどった彫刻も細部までった作りだ。
 ただ、昼間だというのに仄暗ほのぐらい。ステンドグラスから降りそそぐ陽光はほとんどなく、壁にしつらえてある鉄製の古めかしい蝋台しょくだいで輝く蝋燭ろうそくが、ぼうっと辺りを淡く照らしている。

「こちらが礼拝堂になります」

 メッセと名乗った青年が広間を示す。

「本来ならば奥の応接室にご案内したいのですが、奥様をお連れするには気が引けまして」
「なぜ私が『奥様』だとわかるのですか?」
「現在、敷地内に在する女性は、エリク・アベラール卿の奥様とその専属侍女のみですから」

 苦笑するメッセに、ヴィオレッタはそれもそうだとうなずいた。つい過剰な反応をしたかもしれない。
 メッセはヴィオレッタを礼拝堂の一番前の椅子に案内すると、壁側にあった丸椅子を運んできて、向かいに座った。

「奥の部屋は俺の生活スペースにもなってるんです。ご用件はこちらでお伺いいたします」
「ありがとうございます」
「俺のような鎮守ちんじゅに、そんなに丁寧にならなくてもいいですよ」

 はにかむ彼に、ヴィオレッタは胸中で小首をかしげる。

(てっきり、あの自称天使の青年だと思ったけれど……もしかして、別人なのかしら)

【契約】をしたときの記憶は会話以外、ひどくおぼろげだ。ゴシックな服装とモノクルという、ぱっと見た印象で同一人物だと勘違いしただけという可能性はある。
 ヴィオレッタは当時の自分の記憶を信用していない。
 自称天使の青年に関しても服装とモノクルは覚えていても、髪と瞳の色は忘れている。モノクルを左右どちらにつけていたのかさえ曖昧あいまいだ。
 目の前の青年は、青に近い黒色の髪と瞳をしているけれど……
 少なくともフィアがいる今、メッセが【契約】相手の天使なのかどうかを確かめることはできないし、もし本当にあの青年だとしてもヴィオレッタには関係のないことだ。
 いや、関係がないことであってほしい。今このタイミングで再会するなど何か理由がありそうで、不安を覚える。

「それで、ご用件をお伺いしてもよろしいでしょうか」

 メッセの言葉に、ヴィオレッタは気を取り直した。

「実は、【悪魔あくまき】について詳しく知りたいの」
「ほう、それはなぜです?」
「夫が【悪魔あくまき】と言われているのに、私、【悪魔あくまき】についてよく知らなくて」
「つまり、妻として夫のことを知りたい、と」
「ええ、その通りよ」

 少ないやりとりだったが、言いたいことは伝わったらしい。メッセは意味深に微笑ほほえんでうなずくと、【悪魔あくまき】について説明を始めた。

「【悪魔あくまき】とは、一言で表せば呪われた者のことを言います」
「呪われた者……?」

 ヴィオレッタは咄嗟とっさに自分の身体を見る。彼女が愛した者は定められた死に至るというそれは、呪いに入るのではないか。不安になり、そっと両腕で身体を抱きしめた。

「呪いの種類は様々で……奥様、どうかされました?」
「い、いえ。続けてちょうだい」
「……俺はその呪いを感じたり、薬でかんしたりするのが役目です。心配されなくても、奥様自身は呪われていませんよ。むしろ、美しき天才天使の加護がついているようです」
「天使の加護……?」
「美しき天才天使、の加護です」

 なんだか「美しき天才」という部分を強調されている気がする。ヴィオレッタは「美しき天才天使の加護」と繰り返した。メッセは満足そうにうなずいて、【悪魔あくまき】についての話を続ける。

「【悪魔あくまき】には、発作のような呪いが繰り返し現れるのですが、その際、必ず周囲になんらかの被害が出ます」
「周囲に? 自分に、ではなくて?」
「その通りです。そこが厄介やっかいなんですよ」

 彼はうなり、考えるように天井を見上げつつ、ぽつぽつと話した。

「これは以前俺が出会った【悪魔あくまき】の少年の実例なのですが、彼は十四歳で症状が現れました。『店に陳列ちんれつされている購入前のパンの中心を指で押し潰してしまう衝動』を持つ【悪魔あくまき】だったのです」
「……え?」

 意味がわからなくて、彼の言葉を噛み砕きながらヴィオレッタは想像する。
 焼きたてパンが並ぶ店に飛びこみ、陳列棚にあるすべてのパンの中心を指でズブッと押し潰す客。

(買う前のパンを全部……怖いけれど、【悪魔あくまき】というには微妙な気も……)

 なんとも言えない顔になる彼女に、メッセが真剣に言う。

「その程度と思われるでしょう。ですが、これはかなり珍しい軽度の実例です」
「軽度? もっと大変な事例もあるの?」

 彼はうなずいて、「通り魔のような危険行為が発作として現れる者もいます」と続けた。ヴィオレッタはゾクリと身体を震わせる。心なしか、数度気温が下がったように肌寒さを感じた。

(本物の悪魔にかれたようになるということかしら)

 ――旦那様の呪いは、とても恐ろしく……そして、危険なものです。
 ふいに、ジョージの言葉が脳裏をよぎる。あの灰色の塔を思い出した。
 あそこにエリクは幽閉されているのだ。それも五十年以上も。
 ヴィオレッタは自分自身に置き換えて想像し、恐怖ですくがる。
 三歳で初めて受けた洗礼、あのときにもし【悪魔あくまき】だと言われていたら――

「……エリク様は心細い思いをなさっているのではなくて?」

 つい、こぼれた言葉にメッセは軽く目を見張り、考えるようにあごに手を当てた。

「毎日のようにお会いしておりますが、心細いというよりも、心がない状態……ですね」
(心がない……?)

 それはという意味ではなく、心が空っぽという意味だろうか。そういった意味合いに受け取ったものの、実際のところはわからない。詳しく尋ねる前に、メッセが続けた。

「ですがまぁ、幽閉とはいえ、公爵領にこれほどの敷地を与えられている方です。粗雑に扱われているわけではありません。どうか、奥様はご自身を大切になさってください」

 彼の声音は忠告の色をびており、ヴィオレッタは狼狽ろうばいする。

「どういう意味かしら」
「ご自身でよくおわかりでしょう」

 ギュッと膝の上でこぶしを握りしめた。
 メッセはヴィオレッタにこれ以上エリクに関わるなと言っているのだ。それほどまでに、エリクの【悪魔あくまき】は恐ろしいものなのだろう。
 ヴィオレッタはふらりと立ち上がり、そのままきびすを返そうとして――その場に踏みとどまる。
 様々な決意を胸にここにいるのだ。ヴィオレッタがエリクの妻になったのは揺るがない事実。ならばせめて、妻として夫を心配するくらいは許されるのではないだろうか。

「あなたはエリク様を治療なさっているそうね」

 これ以上エリクへの想いを否定してほしくなくて、つい話題を変えてしまった。露骨すぎただろうか。
 メッセは何度かまばたきをしたあと、苦い顔で歯切れ悪く答える。

「治療? ……治療、ええ、まぁ、そのようなものですね」

 沈黙が降りた。これ以上話を広げるつもりはないようだ、と判断できる。どうやら治療については、あまり詳しく聞けないらしい。

(ううん、充分だわ。今日はあくまで【悪魔あくまき】について聞きにきたんだもの)

 落ちこみたくなくて、そう思うようにする。

「メッセさん、突然訪れたにもかかわらず丁寧に対応してくださってありがとう。私はこれで――」
「奥様」

 けれど、メッセは慌てたように口をひらいた。
 言葉をさえぎったことに気付いたようで小さく謝罪すると、深呼吸をしてから話しはじめる。

鎮守ちんじゅの役目は、普段から【悪魔あくまき】本人の体調を管理して少しでも発作の回数を減らし、発作時には本人の負担が軽くなるよう調整することです。……それだけしかできません」
「管理……?」
「はい。ですので、万が一発作が起こった場合、俺にはどうすることもできないんです。医者のように治療できるわけでもなければ、【悪魔祓いエクソシスト】のようにいたものをはらえもしませんから」

 そう言われて、ヴィオレッタは無意識のうちに鎮守ちんじゅという職を【悪魔祓いエクソシスト】みたいなものだと思いこんでいたことに気付いた。

「……では、その、エリク様は発作を起こしたとき、どうなさっているの?」
「部屋に閉じこもっておられます。薬が効いているようで、わずかに理性が残っているのです。……ですが、さぞおつらいでしょう」
「閉じこもって、一人で耐えておられるのね」

 胸の奥にずしりとした痛みを覚えてうつむく。どれほどの頻度ひんどでその発作が起こるのか知らないが、エリクがずっと一人で耐えてきたのだと思うと涙があふれそうだ。

「奥様、なぜ【悪魔あくまき】を【悪魔あくまき】と呼ぶようになったのか、ご存じですか?」
「それは……いいえ、知らないわ。悪魔にかれたような行動を取るからではないの?」


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 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

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