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1巻

1-2

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 死、という恐ろしい言葉に小さく震えた翠は、彼の言葉の意味するところを考えて、息を呑む。
 軽い口調で言われたが、つまりこの青年は、命を差し出せと言っているのだ。

「……それって、私が今後、愛するだろう男性が犠牲になる、ってことですか? 私自身の命を奪うんじゃなくて?」
「そう、理解が早くて助かる」
「それでは意味がありません! 私は結婚して幸せな家庭を築きたいんです。それなのに、その相手の命を奪うなんて!」

 そこで青年がスッと目を細めた。瞳はわずかも笑っておらず、ただジッと翠を見つめる。

「な、なんですか? 間違ったことを言った覚えはありません」
「この【契約】は決定事項だ。きみは自らの望みを俺に提示する権利があるだけなんだよ」
「決定事項って……それって、来世で私が愛した人は、理不尽な死を向かえるってことですか?」
「そう。その点は揺るがない。きみがどれだけ拒絶しても」

 ニッ、と青年は白い歯を見せて笑った。

「きみの望みは幸せな結婚、ってところだろう。こうして見たところ、きみは前世でも前々世でも独身だったようだ。輪廻りんねの性質だね。これはどれだけ転生を繰り返しても未来永劫えいごう続く」

 でも、と青年はねこで声を出す。

「俺が手を貸せば、来世では幸せな結婚生活を送れる。まぁ、相手が死ぬまでの期限付きだけど」

 翠はふらりとよろけて、一歩後ろに下がった。
 どうして彼は、翠に【契約】を持ちかけたのだろう。なぜ愛した男が死ななければならない?

(――決定事項って、何よ)

 疑問と違和感、そして怒りが湧いてくる。
 しかし、感情のまま叫んだところで状況は好転しないとわかる程度には、翠は大人だ。

「罪悪感は覚えなくていい。どうせ、転生すればこれまでの生もここでの会話もすべて忘れる」

 青年がますます笑みを深めた。そして胸に手を当てると、優雅な仕草で自己紹介を始める。
 彼が高位の天使であるというところまでは耳に入れていたが、途中から翠は聞き流した。
 自分のことでいっぱいで、青年のことにまで思考を回す余裕がない。

(私は……愛した人を不幸にする?)

 翠はふらふらと床に座りこむ。絶望と焦燥感しょうそうかん愕然がくぜんとしているうちに、あることに思い至った。

(私には願いを提示する権利があると言っていたわ)

 そこでごくりと生唾を飲む。
 願いは決まった。緊張で、どくんどくんと心臓が大きく脈打っている。

「――さて。そろそろ願い事は決まったか?」

 青年に問いかけられ、翠は我に返った。考えに沈んでいる間に、青年の自己紹介は終わったらしい。何か他にも説明していた気がするが、聞きそびれてしまった。
 翠は大きく息を吐き出して顔を上げ、青年を見る。彼は面白そうに目をすがめていた。

「【契約】します」
「それがいい。で、願いはなんだ? 美女に生まれたい? 運命の男をイケメンに指定する?」
「対価として見合っていれば、なんでもいいんですよね?」
「ああ。俺ほど高位の天使になれば、大抵のことはできるからな。ほら、言ってみな?」

 翠はうなずいて、口をひらく。

「来世でも、翠として生きた記憶を引き継がせてください。当然、ここでの会話も」

 力強く言った彼女を前に、青年が静止する。ややのち、首をかしげた。

「……いやちょっと待って。きみの願いは恋愛絡みじゃないのか?」
「人生、恋愛がすべてじゃありませんよ」

 翠はキッパリと言う。
 正直、のどから手が出るほど結婚したい。愛されたい。幸せな家庭を築きたい。
 けれど、いずれ現れるだろう愛する人を犠牲にしてまで、自分の願いを叶えたいとは思わなかった。絶望することがわかっていて、そこに向かって歩むなど愚の骨頂ではないか。
 ならばいっそのこと、一番の望みを捨てて他のことをたくさん叶えたい。
 翠が死んだのは三十歳手前。恋愛以外にもやり残したことは山ほどある。記憶を引き継げれば、それらに挑戦する機会が与えられるだけではなく、大切な両親のことも忘れないで済む。社畜生活ですっかりたいになっていた健康面にも、来世では気を遣おう。両親は翠に多くを求めず、ただ健康でいてくれればいいと言っていたのに、それすら忘れていた自分が恥ずかしい。
 翠は決意を込めて、こぶしを握りこんだ。

「今生でやり残したことを来世でやりたいんです。そのために記憶の引き継ぎを! ぜひ!」

 来世ではアレもコレも試したい。そんな想像をしていると、なんだか楽しみになってきて、ずいっと身を乗り出す。

「さぁ!」
「……きみ、思ってた性格と違うな」

 青年は盛大なため息をついて軽く手を振る。

「まぁいいか。……あぁ、でもそれだとこっちの対価が……やや吊り合わないな」
「できないんですか?」
「できなくはない。だが等価交換にならないんだ」

 そう言って、思案するように腕を組んでうなった。

「そうだ、こうしよう。本来なら『きみが愛した男の死を望む』ところだけど、『きみが愛した男と相思相愛になって肌を合わせた日から二十五年後に、その男の死を望む』にする」

 翠はきょとんとする。随分と条件が追加されたようだ。
 青年が「条件をつけることで【契約】内容がやや軽くなるんだ」と説明する。

「あのう、二十五年後っていうのは?」
「二十歳で愛する男ができたら、四十五歳までその相手が生き延びるということだ」
「……もし、二十五年経たずに事故で亡くなったら?」
「【契約】は絶対だ。きみとそういう状況になった時点で、二十五年間の健康的な生が確約される。この二十五年間は命を奪わない。これで【契約】の吊り合いが取れるはずだ」
「ちなみに、死ってどういう意味ですか? たましいを奪うの?」

 悪魔が人のたましいを食べる、といったことを想像していた翠に、青年は苦笑した。

「望むのは命でもたましいでもない。あくまで『死』だ。そのあとは通常の輪廻りんねに沿うだろう」

 眉をひそめる翠に、さらに言う。

「安心するといい。きみが愛した男は、きみを生涯大切にする。相思相愛になるのは間違いない。もし途中で愛されなくなったら、その男は運命の相手じゃなかったということだ」
「運命の相手……?」
「そう。来世できみは、運命の相手と出会って恋をする」

 少しだけ、胸がときめいた。来世では相思相愛になれる男と巡り会えるというのだから、結婚を渇望する身からすれば嬉しいに決まっている。
 けれど、その甘いときめきはそっと胸の奥にしまう。

(来世では誰のことも愛さないわ)

 二十五年後だろうと、命を奪うなんてできるはずがない。青年は翠に恋をさせたいようだが、恋愛が人生のすべてではないのだ。
 そうして翠はヴィオレッタとして新たな生を受けた。
 だが伯爵令嬢として転生したばかりに、結婚は義務としてついて回る。幸いなことに、両親はヴィオレッタに結婚をいしなかったが。
【契約】した天使の青年は、ヴィオレッタが愛した男の命を奪うのだから、愛さなければいいのかもしれないが、結婚にあこがれている彼女には形だけの結婚をする自信がなかった。
 貴族の結婚は愛がないと言われているが、ヴィオレッタ自身が夫になる人を全力で愛したいという願望を秘めている。
 もし、結婚相手を愛してしまったら……
 皮肉にも、前世や青年と【契約】を交わした記憶があるからこそ、ヴィオレッタはあれほど望んでいた結婚を避けて生きなければならなくなっていた。


 ――ガタン、と馬車が揺れて、ヴィオレッタは眠りから覚めた。
 ここはどこだろうと考えて、すぐにエリク・アベラールのもとにとつぐ途中だと思い出す。
 あれほど避けていた結婚をすることになったせいか、昔の夢を見たらしい。

(懐かしいわ。結構はっきりと覚えているものなのね)

 前世、そして天使と名乗る青年との【契約】。
 改めて、ヴィオレッタは頭のなかで確認した。
 自分がとつぐ相手は、六十六歳の男性。
 この世界の平均寿命は七十歳前後だというから、今から二十五年も生きることはそうないはずだ。

(先王陛下が九十歳まで生きたと聞くけれど、かなり珍しいことだし。エリク様が九十歳になるのは、今から二十四年後だわ)

 ヴィオレッタはずっと、愛した人の寿命を縮めてしまうことを恐れていた。しかし、元より年配の男ならば、先に天寿をまっとうし、彼女が相手にもたらす『死』は機能しなくなるのではないか。
 ――ヴィオレッタは何はばかることなく、全力で夫を愛することができる。
 それなりに現実を見てきた彼女は、結婚が甘いだけのものではないことも理解している。そもそも、相手のエリクがどのような人物なのかもわからないし、彼は【悪魔あくまき】として塔に幽閉されているというから、一般的な結婚生活は望めないかもしれない。
 それでも、夫婦になるという縁を大切にしたいと思う。
 誠心誠意、妻として尽くそう。心から愛そう。
 まだ見ぬ夫を想い、ヴィオレッタは強く決意したのだった。


 清々すがすがしいほどの晴天の下、ヴィオレッタは不気味な雰囲気をかもしている塔を見上げた。
 春の心地よい風にそよぐ淡い金色の髪を軽く後ろに払い、ブルースピネルのような色の目をそっと細める。そよぐ風は春らしく暖かいのに、辺りは薄暗いうえに肌寒い。

(ついにやってきた……けれど)

 ここは、アベラール公爵領の僻地へきちにあるエリク・アベラールの屋敷の前である。
 どこまでも続きそうな高い塀で囲まれた敷地の広さに、ヴィオレッタは驚きを隠せない。
 巨大な門扉の前で馬車が停まり、彼女はトランクを持って降りる。

(なんだか、妖気がただよってるような……)

 ヴィオレッタにそんなものを感じ取る力はないのだが、門の向こうに高々とそびえる灰色の塔は、なんとも言えない仄暗ほのぐらい圧を放っていた。

「ヴィオレッタお嬢様」

 名前を呼ばれて、ハッと振り返る。
 ここまでヴィオレッタを運んでくれた老いた御者が、深々と礼をしていた。彼がやや沈んでいるように見え、ヴィオレッタは心付けをはずみ、渡そうとする。御者はいつもアンソニーに従順なので従わざるを得なかったが、こんな僻地へきちまで来たくはなかったのだろう。
 御者が不機嫌な理由をそう考えたヴィオレッタだったが、彼は首を横に振って心付けを辞退した。

「どうか、お元気で。……お嬢様の幸せを願っております」

 その声は震えている。短い言葉だったけれど、胸が苦しくなるほど感情が伝わってきた。
 ヴィオレッタはふと、父がこの御者をとても気にかけていたことを思い出す。
 貴族として偉ぶったところのなかった父は、この御者だけでなく、すべての使用人に心を砕いていた。ヴィオレッタはそんな父が誇らしかったが、アンソニーやソフィは違ったらしい。心を砕くのならば、もっと上流階級の者と親しくなれる努力のほうにすべきだと考えているのだ。
 彼らの考えは貴族としては当然のもので、父やヴィオレッタが珍しいのだろう。そういった意味では、彼女は兄妹たちのなかで最も父に似ていた。
 御者はヴィオレッタを通して父を見ているのだろうか。本心はわからないが、どんな理由にせよ自分がとつぐのを寂しいと感じてくれる人がいると知り、ふわりと胸が温かくなる。

「ありがとう。あなたもどうかお元気で」

 御者はぎゅっとこぶしを握りしめると、きびすを返して馬車の御者台に乗りこみ、そのまま去った。
 ヴィオレッタは改めて門扉を見上げる。
 そのとき、門の向こうに見える屋敷のドアが開き、執事服の男が姿を現した。
 五十絡みで、白に近い金髪を几帳面きちょうめんに頭にでつけている。しゃんと伸びた姿勢で歩き出した彼は、ヴィオレッタに気付いて一瞬足を止めたが、すぐさま門までやってきた。

「ヴィオレッタ様でございますか?」
「はい。お約束通り、本日とついでまいりました」

 ヴィオレッタはトランクを地面に置き、ドレスの両端をちょこんと持って挨拶あいさつする。
 執事は彼女を見て、トランクを見て、辺りをざっと見回してから、無表情で挨拶あいさつを返した。

「わたくしはこちらの屋敷で執事をしております、ジョージと申します」

 ジョージがヴィオレッタのトランクを持ち、先導する。
 巨大な門をくぐったヴィオレッタは、目をまたたいた。心地よい春なのに、辺りは真冬の公園のようにがらんとしている。塀や建物といった人工物以外、植木や花々などの庭をいろどるものが物悲しいほどない。

「あの、ジョージ様」
「奥様、わたくしのことはジョージとお呼びくださいませ」
「ジョージ、なぜこの辺りは草木がないのかしら」

 ヴィオレッタの素直な疑問に、ジョージはうなずいた。

「手入れをする者がおりませんので、何も生えないよう土に特殊な薬を混ぜてあるのです」
「まぁ、そうでしたの」

 この屋敷の旦那様であるエリクは、塔に幽閉されているという。彼が今どのような状況に置かれているのか具体的には知らなかった。もしかしたら、庭を眺められないのかもしれない。
 ジョージに案内されたのは、彼が出てきた屋敷のさらに奥にある、別の屋敷だ。
 馬車から降りたときに気付いていたけれど、かなり広大な敷地らしい。先にも別の建物があって、そのまた奥にはつたの絡まったドーム型の建物が見えた。そのドームよりももっと奧に、レンガ造りの塔が建っている。

(あれがエリク様の暮らしておられる塔かしら)

 どうやらエリクが暮らす塔を最奥に、複数の建物が敷地内に収まっているようだ。小さな都市国家みたいだとヴィオレッタは思った。ジョージに案内された屋敷をじっくりと見つめる。
 アンティークな雰囲気がただよう木造の建物で、ドアをくぐった正面に赤い絨毯じゅうたんを敷いた階段がある。ドアの近くの壁に椅子が二脚、その隣の飾り棚には精緻せいちな八面体のガラス細工が並べてあった。吹き抜けの天井もガラス張りで、差しこんだ陽光がガラス細工をキラキラと輝かせている。

「綺麗……」

 そうつぶやいて、ヴィオレッタはぱっと微笑ほほえんだ。

「素敵なお屋敷ね」
「奥様にはこちらの屋敷を使っていただくようにと、旦那様よりおおせつかっております」
「ここで暮らせるなんて、嬉しいわ。旦那様にお礼を言いたいのだけれど」
「奥様が大変お喜びだとお伝えいたします。すぐに専属の侍女を寄越しますので、大変恐縮ではございますが、お待ちいただけますでしょうか」

 けれど、ジョージの言葉にぽかんとする。

「あの、旦那様とはいつお会いできるのかしら」
「旦那様は奥様にはお会いになりません」
「……え?」

 目を見張る彼女を見つめるジョージは、どこまでも無表情だ。彼は淡々と続ける。

「旦那様は呪われているのです。それゆえ、奥様にお会いになることはできません」
「……そんなに大変な呪いなの?」

 そこで初めてジョージが感情を見せた。ギリッと奥歯を噛みしめて悔しそうに顔をしかめ、サッと視線を床に落とす。

「旦那様の呪いはとても恐ろしく……そして、危険なものです」
「せめて、話をしたいわ。壁越しでもいいから……」
「奥様」

 彼は首を横に振る。そして次に顔を上げたときには、すでに無表情に戻っていた。

「旦那様は奥様を束縛なさいません。旦那様と会うこと以外でしたら、ご自由に過ごしていただくようにおおせつかっております」
「……自由って……」
「恋人を作っていただいても、この屋敷でその恋人と共に暮らしていただいても結構とのことです。趣味に没頭されるのでしたら、お好きなだけ資産をお使いいただいても構いません」

 趣味とやんわり言うが、貴族の趣味とはつまり、買い物のことだ。ドレスや宝石を好きなだけ買っていいという意味である。
 打ちひしがれ言葉が出ないヴィオレッタに一礼すると、ジョージは屋敷を出ていった。
 一人きりになるなり、彼女は床に座りこむ。ぬくもりにあふれているように見えた木造の床は、冷たく硬かった。
 今頃になって、ようやく気付く。自分にとって今回の結婚話が唐突かつ強制であったように、エリクにとっても突然のことで、きっと不本意な形で押し切られたのだろう。

(……幸せな結婚なんて、やっぱり私には無理なのかしら)

 元々、あの青年と取り引きした時点であきらめたはずのことだ。

(いいえ。旦那様は好きなことをしてもいいと言ってくださっているようだし、とついだことでお兄様たちのお役にも立てたのだから……これは、幸せ、よね?)

 求めていた夫婦の形とは違っても、今のヴィオレッタは自由だ。衣食住だって保証されている。これはある意味で、幸せな結婚生活ではないだろうか。
 実家での肩身の狭い日々は終わり、好きなことをして過ごしてよいのだから――
 清々すがすがしい心地になってもいいのに、心は重く自己嫌悪でいっぱいだ。吐き気もする。

(納得して【契約】し、誰も愛さないと決めたくせに……愛しても大丈夫な方が現れたからその人を愛そうなんて、都合がよすぎたのよ)

 それに、あくまで「愛しても大丈夫」というのはヴィオレッタの判断でしかない。もし彼女がエリクを愛したら、彼は二十五年後の死が確定するのだ。
 私と愛し合ったら二十五年後に死にます、と伝えれば、彼はどう思うだろうか。ヴィオレッタを敬遠するかもしれない。誰だって余命を決められて、嬉しいことなどないのだ。
 それなのに、としかさの方だから大丈夫などと決めつけて――

(私、最低だわ)

 もし今後、エリクと会う機会があれば、そのときは真っ先にヴィオレッタの事情を打ち明けよう。
 自分が受け入れられていないことは、すでに察している。面会さえ許されないのだから、エリクはヴィオレッタと関わりたくないのだろう。
 それでも、とヴィオレッタは顔を上げた。
 いつまでも落ちこんでなどいられない。愚かさを自覚したのだから、同じことをしないようにすればいいのだ。前世での社会人経験から、取り返せる間違いというものがあることは知っている。今回はそれだ。

(私はエリク様にとついできたのだもの。たとえお会いできなくてもできる限りの務めを果たすわ)

 そう気持ちを新たにしたのだった。


     †


 ヴィオレッタの専属として雇った侍女を向かわせたあと、ジョージはエリクのもとを訪れた。
 昼間でもぼんやりと薄暗い回廊が続く塔の最上階に、彼はいる。
 ドアをノックすると、静かな返事があった。そっとドアをひらき、暗がりのなかでベッドに腰を下ろしているエリクを見つける。ジョージからは背中しか見えないため、表情はうかがれない。

「奥様を屋敷にご案内いたしました」
「そう」

 エリクの口調はいつもと変わらず、優しいけれど感情を感じさせない、無機質なものだ。
 長い幽閉生活で、彼は変わってしまった。一体いつ頃から、彼の笑顔を見ていないのだろう。
 そんなことを考えていたジョージは、つい、普段ならば口にしないことを言葉にする。

「奥様は旦那様にお会いしたいようでした」

 言ってから、しまったと後悔したが遅い。
 それができないから彼はここにいるのに、これでは嫌味混じりに責めているだけではないか。

「僕に?」

 エリクが驚いたように顔を上げた。
 ジョージは無表情のまま、おや、と思う。すっかり伸びて背中に垂らした白銀の髪が揺れて、エリクがゆっくりと振り返る。長い前髪の隙間から覗く翡翠色ひすいいろの瞳が、わずかな驚きを宿していた。

「なぜ? ……ああ、社交辞令だろう。それとも結婚式の催促さいそくかな。不本意にとついできたとはいえ、世間一般では式を挙げるのが当然らしいからね」

 エリクはそう言って、無機質な目をベッドのシーツに向ける。

「彼女には自由にしてもよいと、改めて伝えておいてくれないかな。僕が死んだあと、本当に愛した人と結婚できるように財産も残すから、と」

 いつもの無気力な彼に戻っていた。
 ジョージは口をひらこうとしたが、言葉が見つからず、うなずいてその場をあとにする。
 エリクは今回の結婚に最後まで乗り気ではなかった。
 しかし、アベラール家当主である彼の弟が取り決めた家同士の結び付きを重視したのである。
 エリクの幽閉を命じた彼の実母は、とっくに他界していた。つまり、彼は今、自らの意思で塔に引きこもっている。
 それほどまでに、彼自身、呪われた身が恐ろしいのだろう。
 エリクは優しすぎる。だから、自分のせいで誰かが傷付くのが許せないのだ。
 使用人用の建物に戻ったジョージは、そっとため息をついた。
 ちょうどそれを見ていた厨房ちゅうぼう担当の使用人であるグラフィンが、眉根を寄せる。
 ジョージのおいに当たる彼は、二十五歳とまだ若い。ややお調子者で適当なところがあるが、こと料理に関しては妥協を許さない男だ。

「どうしたよ叔父貴、浮かない顔をして。いや、叔父貴の顔がいかめしいのはいつもか、ははっ!」

 こちらの悩みなど知らず、からからと笑うおいを、ジョージはにらける。渾身こんしんの怒りを込めたせいか、さすがのグラフィンもジョージの悩みが簡単なものではないと悟ったらしい。

「どうしたんだよ?」
「奥様がいらしたのだが――」
「あー、エリク様も難儀だよなぁ。あのお年で二十歳の妻をめとらされるとか。つか、相手って伯爵家の令嬢だろ? 金目当てに決まってんじゃん」

 そもそも貴族の結婚とはそういうものだ、と言いかけて、ジョージはふと思考にふける。
 あの伯爵令嬢は貴族とは思えない軽装だった。専属の侍女は来ないとも聞いていたが、使用人のような服で門前にいるのを見たときは、伯爵令嬢という肩書きと目の前の女が一致しなかったほどだ。

「で、奥方ってどんな人? 俺の予想では、めっちゃきつい性格の女だな。とつさきがなくて【悪魔あくまき】のエリク様にとつがされたんだ。うわっ、貴族ってサイテーだね」
「憶測でものを言うものではないし、使用人として礼儀をわきまえた発言をせんか」
「いいじゃん、どうせここには最低限の使用人しかいないんだし……あ、でも今後は奥様専属に雇った侍女も出入りするのかぁ」

 この建物では、住みこみで働いている使用人一同が寝泊まりしている。設備が充実しており、食事作りのほか、様々な準備をここで行う。エリクが男なので、当然ながら使用人専用の建物も男所帯だった。
 しかしヴィオレッタがとついできたことによって、先日新しく侍女を雇った。彼女個人の部屋はヴィオレッタが暮らす屋敷にあるが、主の身の回りの世話をするためにここにも出入りするだろう。

「素直で可愛い子だったな。きっつい奥様に仕えるなんて、かわいそうだ。しんどくなったら俺がなぐさめてあげよう」
「旦那様の奥様をそのように言うものではない。何度も言わせるな」

 強い口調でたしなめられ、グラフィンは「はぁい」と気のない返事をした。
 ジョージは自身の仕事のために部屋に戻る途中で、足を止める。

「……私も、そのように思っていたな」

 突然決まった、エリクの結婚。
 よわい六十六の【悪魔あくまき】の彼にとつがされる、年若い伯爵令嬢。年齢的にも婚期ギリギリのその女性は重大な欠点があって、にえのようにエリクにあてがわれたのだろう。
 口に出してこそいないが、そう決めつけていた。
 実際に何か欠点があるのかもしれないが、出迎えたときの様子からは、それほど性格に問題があるようには感じない。

(なんにせよ、好きに暮らしてよいということはお伝えした。今後、奥様は自由に暮らすだろう)

 少し距離はあるが、出掛けられる範囲に街もある。
 幽閉生活をしているとはいえ、公爵家の人間であるエリクの資金は潤沢じゅんたくだ。ヴィオレッタはそれを好きに使っても構わない。
 彼女のような若い娘が望まぬ結婚をいられるのはとてもつらいだろう。もしかしたら悲しみをまぎらわせるために、明日にでも遊びに出るかもしれない。
 それに本来、貴族の妻というのは世継ぎを期待されるが、エリクには必ずしも必要ではなかった。アベラール公爵家はエリクの弟が継いでいるし、エリク自身に子を望んでいる様子もなければ、周囲が求めているわけでもない。
 つまりヴィオレッタは、とついできただけで充分に役目を果たしたことになるのだ。
 だから、自由に過ごしていいと伝えたとき、ジョージは彼女が喜ぶものだと思っていた。
 しかし、喜ぶどころか、彼女の珍しいブルースピネルのような瞳は激しい困惑に揺れ、確かな落胆らくたんを映したのだ。あの表情は、一体どういう意味だろうか。
 ジョージはヴィオレッタの姿を思い返しながら、ふむ、とうなる。

(奥様を迎えられたことで旦那様に笑顔が戻ればよいが……そうはならないのだろうな)

 さすがに望みすぎだ、と自嘲じちょうした。


     †


 ヴィオレッタは蜂蜜はちみつを溶かした紅茶を飲んでほっと息をついた。

美味おいしいわ」

 途端に、そばに控えている赤毛の少女がぱっと花ひらくような笑顔になる。愛らしいチョコレート色の瞳がくるりと輝いて、その無邪気な様子にヴィオレッタも表情をほころばせた。
 少女はヴィオレッタ専属侍女として雇われた十六歳の娘で、名前をフィアという。公爵家に仕える侍女としてはまだ未熟だが、ヴィオレッタはフィアの素直なところをとても気に入っていた。

「ありがとうございます、奥様!」

 褒められて喜ぶフィアは、伯爵令嬢として生まれ育ったヴィオレッタの周囲にはいなかったタイプだ。実家の使用人たちは年配の者が多く、ヴィオレッタより年下の人間はいなかった。
 そんなフィアと共にエリクが与えてくれた屋敷で暮らしはじめて、三日が過ぎている。一日に一度、ジョージが様子を見に来る以外に、誰とも会わない。


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