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第一章 仕組まれた出会い

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 メリアは逃げていた。
 使用人のお仕着せのまま、ドレスの裾を持ち上げて、闇夜に包まれた庭園のなかを全力で走る。
 初夏のじんわりと攻めるような気温に押しつぶされそうな、息苦しい深夜だった。
 ドレスが皮膚に貼りつき、気持ちが悪い。

「メリアちゃん、どこかなー?」

 肌を撫でられたような、ぞっとする声が背中を追いかけてくる。恐怖で縮み上がった心臓が呼吸を不規則にさせて、軽い眩暈を起こした瞬間、足が縺れた。
 ズザッという土とお仕着せが擦れる音が、静寂に響いてしまう。

「んんー? こっちだね」

 男からはメリアの姿は見えないはずだ。少なくとも、それだけの距離はある。なのに、男の声音には、舐るように見られているような気持ち悪さがあった。

(逃げないと、早く)

 慌てて起き上がったせいで、また、足が縺れてしまった。
 焦ってはダメだ。いくら庭園の出入り口が一つだといっても、時間を作って策を練れば、ここから逃れられるはず。

(信じるの、自分をっ)

 宮廷使用人として王族主催のパーティの給仕をしていたメリアを騙し、獲物を狩るかのように追い詰めて楽しむ貴族に、心の底から軽蔑と吐き気を覚えた。
 このまま、相手の言いなりになどならない。
 なんとしても、逃げ切らなければ。

(気を強くもって、大丈夫だから!)

 自分に言い聞かせて、メリアは木の幹を手すり代わりに慎重に身体を起こした。
 刹那、ガクッと膝が折れて、再び地面へ倒れ込んでしまう。
 メリア自身の呼吸が酷く荒いことに、今頃になって気づく。
 基礎体力をつけるために、使用人としての体力作りも欠かさないが、それは夜会など長時間の仕事に備えるためであって、全力で走れば体力が尽きるのも早いというもの。
 今頃になって、相手がメリアの体力消耗を狙っていたのだと気づいたが、遅かった。

「大丈夫だよ、優しくしてあげるからね~」

 声が近づいてくる。
 ひりつく喉が奇妙な音をたてた。
 震える両手を無我夢中で動かして、お仕着せが汚れるのも構わずに、少しでも遠くへ這う。

「メリアちゃ~ん」
(いやぁ!)

 すぐそこの垣根の向こうに、あの男がいる。このままでは、確実に見つかってしまう。
 逃げられないと気づいた途端に、恐怖は氷の剣となってメリアを貫いた。逃げなければという思いに反して、身体が硬直して動かない。心臓はうるさいほどに脈打ち、呼吸は乱れ、歯は意図せずにガチガチとなる。

(逃げないと。逃げないと、早く!)

 誰かが、腰に触れた。

「っ!」

 そのまま抱き上げられて、喉から微かな悲鳴が漏れたが、それを防ぐように大きなゴツゴツとした手が口を抑え込む。
 後ろから羽交い絞めにされた状態で、荷物のようにメリアは運ばれる。
 木々の影が重なって、月光の一筋さえ通さない闇のなかへ引きずり込まれたメリアは、悔しさと恐怖から意識が遠くなるのを感じた。

(二十二年間守ってきた純潔が……)

 この場で、散らされるのだ。
 傲慢な子爵によって、オモチャのように。

「メリアちゃ~ん」

 メリアを追いかけてきた子爵の声が、離れた場所から聞こえる。一瞬、なにが起きているのか理解できず、メリアは子爵が二人存在するのではという、ありえない想像さえしてしまう。

(……向こうに子爵がいるってことは、私の後ろにいるのは誰?)

 そう思った瞬間、メリアが先ほど躓いて転んだ辺りに、子爵の姿が見えた。
 でっぷりとした腹を撫で、ニヤニヤと笑いながら辺りを見回している。
 咄嗟に身を小さくして息をひそめ、子爵が早く立ち去ることを願った。子爵は辺りを見回して――こちらを見たときは生きた心地がしなかったが、影で見えないようだ――から、再び歩き始めた。

「うわっ」

 ズルッ、と子爵が木の根に足をとられ、その場で転倒する。子爵は膝から前に倒れ込み、地面についた両手の土を掃いながら起き上がった。

「痛っ、た。ちっ、おい、メリア! いい加減に出てこいっ」

 猫なで声だった子爵の声が、怒鳴り声に代わる。
 悲鳴を洩らさなかったのは背後からメリアの口を押える手があったからだ。
 やがて子爵は、メリアに対する罵り言葉を喚き散らしながら、王城へと戻って行った。
 完全に子爵の足音が消えると、メリアを拘束していた腰の腕と、口を覆っていた手が離れる。支えを失ったメリアは、ガクッとその場に膝をついた。

「使用人が、夜中に貴族と鬼ごっこか」

 心地よいバリトンの声が、馬鹿にした響きを含ませて降ってくる。
 恐る恐る声のほうを見上げると、暗さに慣れてきた目が、ぼんやりと相手の姿を捉えた。背の高い男だ。

「……助けて頂き、ありがとうございます」
「助けたわけではない。用事があって呼んだだけだ。きみは、夜会の給仕だろう」
「は、はい。ご用でしょうか」

 まだ身体はだるかったが、子爵が去ったことで安堵したメリアは、すぐに使用人の態度へ戻る。声には感情を含ませず、背筋を伸ばして――。
 ふと、しゃがみ込んだままだと気づいて、すぐに立ち上がろうとしたが、男がメリアの肩に手を置いてそれを制した。
 さすがに貴族の前で座り続けるなど無礼すぎると不安に瞳を揺らすと、男の影が動き、メリアと視線が近くなる。

「お、お待ちください。汚れてしまいます、こちらを下に――」
「いらん。私は軍人だ」

 持っていたハンカチを差し出す前に、男はすげなく返事をして、地面に座った。

(軍人……騎士様⁉)

 今夜、王城で開かれたパーティは、第二王子が予備期間に入ることを祝うものだ。
 予備期間とは、十三歳から十七歳までの、大人になる準備を行う期間のことで、仕事に慣れるために助手として弟子入りしたり、大人の振る舞いを身に着けたりと、十七歳から大人として扱われるレイゼルゾルト王国で、社会的に自立を促すために定められた制度だった。
 第二王子は、将来王位につく兄を補佐するため、騎士団への入隊が決まっている。明日より騎士見習いとして出仕することになるため、今夜のパーティには、普段は決して呼ばれるはずのない騎士団員も、無礼講という建前のもと出席しているのだ。
 大広間で開かれた夜会で、普段は見ることのない深緑色の軍服を纏った男が何人かいたのを覚えている。
 背の高い美丈夫である騎士団長と、騎士団長に影のように従う副団長は公の場やほかの夜会でも見かけるため顔は覚えているが、確かに今日は、ほかの騎士たちもパーティに出席していた。

「おい」
「は、はい。失礼いたしました。ご用をお伺いいたします」

 座ったまま頭をさげると、深いため息がした。
 叱責を覚悟で身を小さくすると、男がふいに距離を縮めてきて、メリアの背中と膝の裏にそれぞれ手を入れて、軽々と抱き上げた。

「ひぇっ」
「……変な声を出すな」

 思わず声が裏返ってしまったが、それを羞恥に思っている場合ではない。
 メリアは、自身を太っていると思っているのだ。若い娘たちはコルセットを締めたようなほっそりとした体躯をしているのに対して、メリアは今年二十二歳になったというのに、小柄で童顔、しかもムチムチとした肉付きがよい体型という非常に恥ずかしい姿をしていた。

「お、下ろしてっ」
「わかっている、少し移動するだけだ」

 男は、メリアが転んだ場所とは正反対、木々が重なるように乱立する庭園の小さな森の奥へ歩き出す。すぐに、月光が差し込む箇所があって、メリアはそこへ下ろされた。
 まるで壊れ物を扱うように、そっと木の根に座らされたとき、メリアは初めて男の顔を見た。
 首のあたりで軽くうねる漆黒の髪に、同色の瞳。
 触れるものすべてを切り裂いてしまうように鋭い眼光、形よく通った鼻梁に、僅かな笑みもない薄い唇。
 近くでメリアを見据える瞳は、鋭利でありながらも、獲物を吟味するような野性的且つ知的さもあった。目尻に微かな皴があることや、落ち着いた雰囲気、声の深みなどから、歳は四十歳前後だろうと見当をつける。
 ふいに。
 白い花を差し出す男の姿が、脳裏に蘇った。茎のない花弁だけの白いそれを手のひらにのせ、メリアに差し出す男の姿はぼんやりとしていて、鮮明さを欠いたまま、波が引くように記憶はどこかへと流れて見えなくなっていく。
 漆黒の瞳に自分の姿が映っているのを見たメリアは、頬を朱に染めて俯いた。

「あ、あの。お、おも、おも、かった、かと」
「……ああ」
(やっぱり!)

 内心で絶叫するメリアを、男はじっと観察している。
 ややのち、男はやっとメリアから手を放して、向き合うように地面に座った。改めて現状をみると、メリアは木の根が出っ張った椅子のような場所に座らされ、男は地面に直接座っている。
 メリアはまた心の中で絶叫した。

(騎士様を見下ろすなんて、なんて無礼なことをしてるの私!)

 慌てて立ち上がったメリアに、男はぎょっとした顔をした。なぜ、と思ったのもつかの間、足首に激痛が走り、身体を支えられず、前のめりに倒れ込む。
 男がすぐにメリアを受け止めて、ほっと息をついた。
 騎士の殿方に乗りかかるような体勢になってしまったメリアは、ズキズキと痛む足で無理やり地面に立とうとしたが、激痛に顔を苦悶に歪めながら再び崩れ落ちた。

「……馬鹿なのかきみは」
「ごめんな、さ」
「なんのためにきみを運んだと思っている? きみが歩けないだろうから運んでやったのだと察することすらできんのか。何度も手間をかけさせるな」
「ごめんなさいっ」

 助けて貰ったうえに、使用人としての責務さえ果たせないどころか、気を使ってもらい、迷惑まで掛けてしまった。
 情けなくて唇を噛んだのは、一瞬だけだ。
 静かに深呼吸をして、ゆっくりと、男から身を離した。そのまま、トスン、と地面に座り込む。

「大変失礼いたしました」
「足を見ろ」
「はい!」

 乗っかった弾みで、軍服のどこかを汚してしまったのかもしれない。慌てて男のトラウザーズを確認する。馴染みのない騎士団の制服なので、生地に詳しくないが、ほつれや傷みは確認できる。淡い月光に包まれながら、メリアは男のトラウザーズを余すことなく確認しようと、裾から膝、膝から太ももへと視線をあげていく。

「待て」
「はい」

 待てと言われて、すぐに顔をあげた。
 使用人は常に従順でなければならない。とくに、メリアのように宮廷に仕える使用人は決まった主を持たないため、貴族すべてを敬って日々を過ごすのだ。
 男は、眉間に皴を寄せてメリアを見ていた。
 鋭利な瞳にメリアの姿が映っていることが、なんだか不思議にさせる。
 また、メリアの脳裏に一瞬、白い花が浮かんだ。
 それが何かと取り出して考える前に、記憶はメリアの意志の届かない深くへと沈んでいく。

(どこかで、お会いしたことがある……ような気がするのは、間違いじゃないのかも)

 男を見た瞬間、脳裏に浮かんだ白い花。
 あれは、ハクモクレンの花だ。
 昔、自宅の庭にあったハクモクレンの木は、春になると美しい花を咲かせたものだ。

(もしかしたら、父の知り合いかもしれない)

 父は、メリアのように宮廷使用人として働いていた。母と結婚してからは王城内の寮を出て、メリアが物心つく頃に暮らしていた郊外の小さな一軒家に移り住んだという。

(何人か、父の知り合いが尋ねてきたから、そのなかの一人かも)

 メリアはそう見当をつけて、ひたすら「待て」を実行している。
 ややのち、男は深い哀愁に満ちたため息をついた。

「私の足を見てどうする。見ろと言ったのは、きみの足だ。痛むだろう」

 男が、メリアの足へ視線を落とす。
 足を見られる羞恥に頬を染めたメリアだったが、放り出すように地面に投げ出していた自身の足を目視した瞬間、血の気が引くのを感じた。
 右足首の辺りが、夜目でもわかるほどに変色して腫れている。

「ひっ! え、なにこれ……クラゲ色」
「斬新な例えだ。赤黒く変色しているのは内出血だな。きみが思っているより酷いぞ。ただの捻挫、と甘くみるな」
「ねねねね捻挫でこうなるんですか!」
「腫れが酷い。冷やすだけでは痛みは取れんだろう」
「そんな。明日には治るでしょうか?」
「馬鹿を言え。数週間は絶対安静だ。詳しくは医者に診てもらえ」
「そんな……仕事が」

 明日は別のパーティで給仕の仕事が入っている。不慮の事故とはいえ、前日に怪我をしてしまうなんて、プロの宮廷使用人として失格だ。
 メリアは蒼白になりながらも身を低くして、精一杯のお礼の姿勢を取る。
 メリアのような一介の使用人を助け、怪我にまで丁寧にアドバイスをくれた騎士へ最大級の敬意と感謝を伝えたかったのだ。

「私のような者を気にかけて頂き、ありがとうございます。このご恩は生涯忘れま――」
「どうでもいい。それよりも、さっきの男は誰だ」

 男は懐から手のひらほどのケースを取り出すと、ガーゼと塗り薬を引っ張り出した。湿布だとすぐにわかったが、メリアが遠慮を見せると鋭い目で睨まれたため、されるがまま大人しく湿布を足に固定してもらう。
 異性に、しかも大人の人に足に触れられることに胸が乙女らしく高鳴らないわけではなかったが、それ以上に失態に落ち込んでいた。

「痛み止めだ。対症療法だが、気休め程度にはなるだろう」
「何から何まで……私、返しきれないご恩を……」
「それで、さっきの男は誰だ」

 さっき、というのはメリアを追いかけてきた子爵のことだろう。
 メリアは伏目がちに、おずおずと相手の名を告げた。

「レイブランド子爵です」
「ああ……例の馬鹿息子か。粘着質で有名な男だ。被害女性も多いと聞く。面倒くさいのに目を付けられおって」

 それはメリアのせいではない。
 あえて言うのなら、小柄で童顔、その癖にやたらムチムチと色っぽい身体に生まれたせいだ。流行りの娘たちのように、すらりと細身の女性が好きな男性は多いだろう。だが、メリアのような触りがいのある肉を持つ女も、性的興奮を煽るらしい。
 これまでも、様々な男から卑猥ないたずらを仕掛けられ、嫉妬した女たちに嫌がらせをされてきた。
 幸い理解のある職場で、よい上司と同僚に恵まれたために、大きな不祥事を起こさずにこれたのだが、メリアは今年で二十二歳になった。
 婚礼適齢期を過ぎて数年経つが、未だに嫌がらせは減らない。
 それに。

(レイブランド子爵を怒らせてしまった)

 平民あがりの使用人が、貴族の誘いを断り逃げ、あげくに直接関わっていないとはいえ、子爵を転倒させてしまった。
 咎はどこまで及ぶのだろう。考えただけでも恐ろしい。
 加えて、目の前にいる素敵な騎士に見られていたかと思うと、惨めさに消えてしまいたくなる。
 青くなったまま黙り込んだメリアに、男は深いため息をついた。
 惨めな使用人に呆れ果てたのだろうと縮こまっていると、男が口をひらく。

「先ほど、返しきれない恩、と言ったな? 私に借りがある、という意味で間違いないか」
「はい」

 弱弱しく頷く。
 使用人としての矜持を総動員させて、目下の問題は頭の片隅に追いやった。追いやれる内容ではないが、最後まで使用人として仕事を全うしたい。
 今は、目の前の騎士の望むままに、宮廷使用人としての職務を果たすのだ。

「きみは、独身だな? 指輪をしていない」
「は、はい」
「恋人はいるのか」
「いえ、おりません」

 なぜそんなことを聞くのだろう。
 首を傾げるメリアに、男はなるほどと頷いて、再び思考の海に沈んだ。沈黙が降りると、今後の処遇を想像して気が滅入る。頭の隅に追いやったはずなのに、すぐに顔を擡げてくるほどに、ことは深刻なのだ。
 レイブランド子爵の件である。彼は貴族だ。平民のメリアは、彼の言葉に従わなければならないのに、追いかけられて逃げ出してしまった。彼が去り際に激怒していたことからも、間違いなくメリアへ報復を考えるだろう。つまり、解雇だ。
 十三の頃から仕えてきた宮殿を去らねばならない。貯蓄で暫くは生活できるとはいえ、早いところ次の仕事を見つけなければならないだろう。
 最悪なのは、連帯責任を取らされたときだ。メリアの上司や同僚にまでも咎が及ぶのだけは、なんとしても避けたい。

「ならば、まとめて恩とやらを返してもらおう」

 男は、にやりと悪い笑いを浮かべて、メリアの顎にそっと指を添える。そのまま上を向かされて、すぐ近くで目が合った。

「このまま独身を貫くというのなら、お互いのために有効活用せんか?」
「それは、どういうことでしょう」
「レイブランド子爵は今後、きみときみの周囲を潰しにかかるだろう。やつのこれまでの行動から予測した可能性の一つだが、あれだけ悪態をついていたのだから、ほぼ間違いない」

 騎士の制服を着た男の冷静な断言に、メリアは血の気が引くのがわかった。
 やはりそうなのだ。メリアの想像は、決して被害妄想などではなく、今後、現実として起こる可能性が高い。

「そこで、これは提案なのだが。私への恩を返すという意味でも、私と結婚しないか」
「はい。わたくしに出来ることでしたら、なんでも――え」

 聞き間違いだろうか。
 これ以上の不敬は犯さないと、意気込んで返事をしたのはいいが、男は今、なんと言ったのか。

「あの、今、け、結婚、とおっしゃいましたか」
「そうだ。私には妻を娶らねばならない理由がある。だが相手がいない。きみの場合は、子爵からの報復を止めたい。どの道仕事はやめざるを得なくなるが、きみの知人友人に被害が及ぶことはなくなるだろう」

 確かに、既婚女性や婚約者のいる女性を無理やり襲うのは、身分のある男でも外道とされる所業だった。それでも、相手が身分を持たない平民ならば、無理やり犯そうがそれを咎める者はいないのが現実だ。
 だがもし、メリアが婚約しており、その相手が騎士だった場合は別だ。
 いくらメリアが平民でも、騎士は国王の兵である。その妻は勿論のこと、婚約者の純潔を散らそうとした子爵は、王の兵を軽視したとして、確実に罪に問われることになるのだ。
 男の申し出は、願ってもないことだった。
 子爵が権力にものを言わせて、メリアの大切な人々を脅かすこともなくなるだろう。

「異論はあるか」
「貴方様にとっての利がございません。いいえ、わたくしのような使用人を妻になど、侮られることだって考えられます」
「私がそんなこともわからずに、結婚を持ちかけたと思っているのか? 何度も言わせるな、私には妻を娶らねばならない理由がある。その点において、きみは適していると言えるだろう。この契約は、お互いのためだ」

 メリアはいつか、両親のように仲睦まじい夫婦になりたいと夢をみてきた。
 愛し合って結婚したメリアの両親は、ささやかな幸せをとても大切にしており、両親が惜しみなく与えてくれた愛を受けて育ったメリアが、両親のような恋愛結婚に憧れを抱くのも当然のことだった。
 男が持ちかけてきたのは、間違いなく契約結婚だ。
 相手が騎士なので、ある種の玉の輿ではあるが、あいにく、メリアは贅沢をしたいという性分ではない。

「不満かね?」
「いいえ!」

 メリアは、勢いよく首を横に振った。
 今年二十二歳、とっくに婚期の過ぎたメリアが今後、宮廷使用人という多忙な身で、尚且つ閉鎖的な世界で恋愛結婚が出来るとは思えない。
 そもそも、両親が亡くなってからは仕事に忙殺され、いつの間にか結婚願望すら手放していた。
 そんな理由もあって、突然舞い込んだ結婚話があまりにも唐突すぎて、現実味がなかった。
 自分のような平民が騎士様から求婚されるなど、例え契約結婚であっても、起こるはずがないからだ。
 もしかしたら冗談で揶揄われているのかもしれない、と一瞬だけ考えたけれど、目の前の男は変わらず冷やかな雰囲気でそこにおり、面白がっているようには見えない。
 それでも、すべて鵜呑みにして馬鹿を見るよりも、疑ったことで叱責を食らってでも、もう一度確認したほうがいいだろう。

「あの、本当に、結婚して頂けるのですか?」
「きみさえ良ければ」

 そう言う男の声が、殊の外、優しかった。
 少なくともメリアにはそう聞こえて、とくん、と鳴った心音が、甘やかな心地と共に身体に染み込んでいく。

(この方と結婚したら……そしたら、レイブランド子爵の報復を恐れなくて済む)

 そう理解した瞬間、メリアは気が緩むのを感じた。
 どれだけ気丈に振る舞おうと、レイブランド子爵に追い掛け回された恐怖や、報復を受けるだろう今後を考えると、どうすることも出来ない己が悔しくて悲しくて、情けなかったのだ。
 メリアは、溢れそうになる涙をこらえて男を見つめる。
 誰にも頼れないこの状況で、一筋の光を照らしてくれた彼に尽くそう。
 例え契約結婚であっても、メリアはずっと、彼のために生きよう。
 心に誓っていると、男は懐から折りたたんだ婚姻届けを取り出した。メリアが知っている婚姻届と形式が違うけれど、確かに婚姻届だ。持ち歩いているのだろうか。

「もし、私からの求婚を受けてくれるのならば、ここに名を」

 男が空欄を示して、ペンを渡す。
 メリアがフルネームで名前を書くと、男はその場で自らも名前を書いた。

――ゲオルグ・グートハイル

 その名を見て、メリアは息を呑む。
 この国に、知らぬ者などいない有名な名前だったからだ。

(嘘。あの、グートハイル閣下……? この方が?)

 メリアの心が、じわじわと不安に苛まれる。
 もし彼が本当にゲオルグ・グートハイルならば、メリアと結婚などするはずがない。
 なぜならば、レイゼルゾルト国王がもっとも寵愛する部下だと公言しているのが、騎士ゲオルグ・グートハイルだからだ。
 彼の天才的な頭脳があるからこそ、レイゼルゾルト王国は他国からの侵略を退け続けることが出来ていることは、国民すべてが知るほどに有名な話である。
 そのように高名で、実力も地位も名誉もある男が、メリアのような使用人を妻になど望むはずがない。

「私は式の準備に取り掛かる。細かな取り決めは私に丸投げしろ。こちらから行動を起こすまで、この件は誰にも言わないように。レイブランド子爵が何か言ってきたら、婚約者がいるとだけ言っておけ」
「はい。あ、あの……グートハイル閣下」
「なんだ」
「……ありがとうございます」

 ゲオルグは婚姻届を懐にしまうと、軍服を掃いながら立ち上がった。
 そして当たり前のように、メリアを抱き上げる。

(ひいっ!)
「あぅ、お、重いので! 大丈夫ですから!」
「問題ない。これでも軍人だ、重くても多少は持てる」

 ゲオルグがメリアの湿布を固定した足を見て答えた。
 メリアは羞恥で真っ赤になりながら、小さな声で呟いた。

「……痩せます」
「なぜ。太ってなどいないだろう」
「重いので」
「軽い人間などいまい。それに男はもっと重い。そのままでよい」

 メリアを重いと言ったのは、単純に事実を述べただけだったらしい。安堵しつつも、むちむちとした身体をお仕着せ越しに触れられていると思うだけで、恥ずかしかった。
 淡い月光に包まれた静寂に満ちた庭園を、抱きかかえられたまま大広間へ戻っていく。風に乗って喧騒が聞こえ始めた頃、ゲオルグが足を止めた。
 どうしたのだろう、と顔をあげたメリアは、こちらに走ってくる鳶色の髪の男を見止めて、慌てて腕のなかから降りようとした。

「動くな、落ちる」
「で、ですが、副団長様がこられます。私は使用人ですので、このようなお姿ではご無礼に当たります」
「問題ない」

 駆け寄ってきたのは、騎士副団長のガルームだった。
 三十歳と年若い彼は、ゲオルグの腕のなかにいるメリアを見て、こぼれんばかりに目を見張った。

「グートハイル様、そのご令嬢は――」
「足を怪我している。即急に手当てを頼む」
「畏まりました」

 ガルームは両手を差し出してメリアを受け取ろうとしたが、ゲオルグが首を振ることで制する。

「医務室へ直接向かう。医者を寄越してくれ」
「はっ!」

 すぐに踵を返す騎士副団長の姿を見て、メリアは驚きとそれを補い余るほどの安堵を覚えた。
 ゲオルグ・グートハイルは、『騎士軍師』だ。
 国王が彼のために与えた『騎士軍師』という階級は、騎士団長についで地位があり、その下に騎士副団長が続く。
 前例のない『騎士軍師』という地位を作ってまで、国王がゲオルグを騎士団に置きたがるほど、知略に長けた天才という証明でもあった。
 百を見通す目を持ち、人の数倍先を読んで行動しているという騎士軍師ゲオルグ・グートハイル。

(本物……だ)

 軍服を身に纏う騎士団員で、副団長を命令一つで動かせる者など限られてくる。
 間違いなくこの男は、国王の懐刀と名高い『騎士軍師』。
 本物の、ゲオルグ・グートハイルだ。

「固まっているな。痛むのか」
「いいえ。あの、申し訳ございません。私、閣下を疑っておりました」
「当然だろう。きみは使用人として教育されてきたのだ、身分が上の者に尽くすのは当然だという反面、真意を見抜く必要がある。私が、本物のゲオルグ・グートハイルか確かめたかったのだろう? その点では、ヴィラー副団長が来たのは丁度よい」

 メリアのような女の考えなど、騎士軍師の地位を戴く彼にはお見通しだったようだ。
 恥じ入って俯くメリアを抱えたまま、ゲオルグは医務室へ向かって歩き出す。

「心配は不要だ。屋敷も、それなりの資産もある。使用人は最低限しかおらんので、その辺りは好きに増やせばいい」
「え?」

 心配は不要、という言葉とそれを補足するように続く言葉の意味がわかりかねて、メリアは、コテ、と首を傾げた。
 ゲオルグは、元々厳めしい顔をさらに厳しくしてメリアを見下ろす。

「……きみは、私が本物のゲオルグ・グートハイルか。私に資産があるのか。その点を気に揉んでいたのだろう? 若い娘が私のような男との結婚を承諾する理由など、資産以外あるまい」
「え、あの……子爵から助けて頂けるという、十分過ぎる理由がございますが――」

 メリアは、ほんのりと頬を染めて言う。

「もしかしたら閣下の名を騙る何者かに連れ去られてしまうのでは、と危惧しておりました。何度か、上司や貴族の名を使って暗所へ呼び出されたこともございますので」
「……今の私ほどきみの身体を目的としている男はいないだろう。きみを妻にするのだから」

 むす、とどこか不機嫌な様子でゲオルグが言う。
 そういう意味ではないのだが、ゲオルグの機嫌を損ねるかもしれないので、メリアはそれ以上何も言わなかった。
 連れていかれた医務室で手当てを受けている間に、ゲオルグは「後日迎えにくる」と言い残し去って行った。
 事情を聞いた上司が医務室へやってくると、包帯と添え木で固定されたメリアの足を見て、顔を青くし、今日はこのまま休むようにと命じた。
 メリアの直属の上司は品のある老齢の女性使用人だが、やってきたのは今回の夜会に関する準備や給仕を取り仕切る男性使用人だったため、仕事が終え次第手の空いた者に迎えに来させると約束してくれた。
 メリアは使用人用の医務室でベッドに横たわりながら、今頃になって痛み出してきた足に涙を浮かべつつ、ついさっき起こった出来事を思い出していた。
 ゲオルグの鋭利な目に射抜かれたときは驚いたが、レイブランド子爵から助けられたと知ったとき、これまでに感じたことのない喜びを覚えた。
 もしかしたら、落としたハンカチを拾ってもらったくらいの些細な喜びだったのかもしれない。恐怖から解放された気の緩みもあっただろう。
 それらの事情が加わったとしても、ゲオルグがメリアを救ってくれたことに変わりはないし、メリアがゲオルグの正体を知って衝撃を受けた理由を考えると、メリアが抱いた感情そのものが何か、わかるというものだ。
 恋かどうかはわからない。
 けれど、好意を寄せていることは間違いなかった。
 窮地を救ってもらったのだ、そういった感情を持つのは当然だろう。歳の差など気にならないし、身分で偉そうな態度をとる男でもない、とても素敵な方だ。

「……それに、初恋の人に似てる」

 さっきは気が動転していて思考が突飛もない方向へ向かってしまったが、今ならば、一介の使用人でしかなかった父と、王が重宝している騎士軍師であるゲオルグが、顔見知りのはずがないとわかる。
 メリアが実家の庭を思い出したのは、かつてハクモクレンの木の下で出会った男とゲオルグが、よく似た雰囲気を醸していたからだ。
 出会ったのは、メリアが宮廷使用人見習いになってすぐの頃。
 十三歳の春、ハクモクレンの花が美しく咲き誇る季節だった。
 もう顔も覚えていないが、仕事で初めて失敗して落ち込んでいたメリアを励ましてくれた、背の高い男がいた。
 両親に何を言われても自信を取り戻せずにいたメリアに、男が言ったのだ。

――そうしてうじうじ悩みくさっていけばいい。きみはこれから、いくらでも好きな道を歩めるのだから、投げ出したところで問題はないだろう。

 今思うと、本当に励まされたのかわからない会話だった。
 厳しい言葉だが、彼と言葉を交わし、他者から助言や評価を貰ったことで、メリアは再び前を向くことが出来た。
 そのあと一年足らずで両親が他界し、メリアは生きていくためにも仕事に打ち込むしかなくなったことで、実家を手放さざるを得なくなり、宮廷使用人見習いとして王城に住み込むことになった。
 甘えの許されない日々を送り、激務に取り込むうちに出世し、仕事に忙殺される日々を送ってきたのだ。

(見習いになってから、もう九年……早いものね)

 メリアはそっと、目を伏せた。
 今日を境に何かが変わるという予感に、微かな期待と、それを補い余る不安を抱えながら。

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