18 / 24
【18】逸物
しおりを挟む
――やることをやらなきゃ。
必要な家事はノーラが済ませてくれているし、ベリザードという大神官専用の部屋も整えてあった。
夕食もノーラが下ごしらえをすでにしてくれているので、今すぐにアリアドネがやるべきことはない。
アリアドネは出しっぱなしだったティータイムセットを片付けると、ステュアートの部屋から本を借りてきた。
フューリア教に関するものと、悪魔に関するものだ。
どちらも別の本で読んだことがあったが、ステュアートの部屋にあるこの本はもっと詳しく載っているのである。
少しでも知識をつけて、ステュアートの妻として恥ずかしくないようにならなければ。
うんうんと頷いて、アリアドネはいつものように勉強を始めた。
◇
いつの間にか時間が過ぎていて、アリアドネは慌てて本を片付けた。
窓の外は夕暮れが辺りを彩り、今まさに、闇に引き込もうとしている頃合いだ。
悪魔に関する本を読んでいたためか、今日は特別に暗闇が怖く感じる。
完全に闇に支配される前に、アリアドネは屋敷中のランプをつけてまわった。
ふわりと橙色の明かりで満たされると、心まで解れたような気がして、ほっと安心する。
よし、と気合いを入れて、袖をまくった。
簡単な夕食の仕上げに取りかかる。
野菜たっぷりのポトフを皿に盛り付けているとき、ほとんど無意識に、先程読んだ本のことを思い返していた。
フューリア教の創設者――始祖と呼ばれる者が、どれだけ偉大な人物だったか、事細かに記されていたのだ。
アリアドネは、人生すべてを人助けに捧げた始祖の生き様に感動した。
「神の如く力で人々の怪我や病気を治し、絶望の淵にいた者に希望を与え続けた……か」
フューリア教の始祖は男だったという。
五十の歳で他界するまで、生涯誰とも結婚することなく常に身を清らかに保ち続けたと記録されていた。
現在のフューリア教に名を連ねる神官や巫女が独身でなければならないのは、始祖の在り方が元になっているのだ。
(人々を救った平和の象徴だった……って書いてあったわ。きっと優しい人だったのね)
どんな人だったのかしら、と考えて、幼い頃お世話になった牧師の姿を思い描いた。
記憶が引っ張られるように、他の兄弟姉妹のことも思い出す。
裕福ではなかったけれど、毎日が楽しかった日々は今でもかけがえのない宝物だ。いつまでも平和で穏やかなときが続くのだと思っていた。
――しかし、突如流行病が王都を襲った。
アリアドネはぎゅっと拳を握りしめる。
当時、すでに王族は遷都先である副都に移住していたこともあって、感染の危険性はないという情報が出回った。
そして間もなく、流行病が広がった王都はカーン帝国軍によって封鎖され、火で浄化されたのだ。
ズキリと、頭痛がした。
どくんどくんと心臓が大きく鳴り、奇妙な目眩がアリアドネを襲う。
(……私、あのときどうしたのかしら)
アリアドネが次に目覚めたのは、軍部のテントのなかだった。
直近の記憶がなかったが、アリアドネを保護した軍の男が言うには、焼け野原と化した元王都にぽつんと横たわっていたらしい。
当時のアリアドネがまだ幼かったこと。
流行病の症状が見られず感染も確認されなかったこと。
それらを理由に、軍部はアリアドネを保護したのだ。どうやら彼らには、元王都の国民を見殺しにしたという罪悪感があったらしい。
それを、唯一の生存者であるアリアドネを助けることで、贖おうとしたのだ。
「これでよし、と」
あえて声に出して、最後の皿を食卓に並べた。
静まりかえった部屋が、アリアドネの不安をあおり立てている気がしたのだ。
ふと、アリアドネは自分の身体を――それから、手のひらを見つめる。
(私、あのときどうやって生き残ったの……?)
疑問に思ったのは、一瞬だった。
解けた糸を再び巻き取るように、不安がシュルシュルとアリアドネの記憶の奥底に消えて行く。
そのことに関して、アリアドネは僅かの疑問も持たなかった。
(昔のことだし、考えても答えなんて出ないわよね)
そう結論付けたとき、シャランと手首のブレスレットが音をたてた。
いつもは袖のなかに入れているから、視界にすら映らない。
だが今は、食器を並べる際に袖を捲ったため、明るいランプに照らされて真鍮の金具がキラキラと光って存在を主張していた。
ふと、アリアドネは首を傾げる。
ブレスレットについている御守りを、反対の手でそっと摘まむ。
ピンク色だったはずの石が、濃灰色になっていた。
◇
ステュアートは、妖精の首根っこを掴んで頭上に掲げた。
『ちょ、待って、ごめっ、ごめんって、謝るからさ――!』
「謝罪で済むと思います? アソコを奪っておいて」
『しゃーなしだったんだってば、あたしだって命令されて仕方なくやったの! ね、フューリア教関係者なら、あんただってわかるでしょ? 契約した相手の願いは聞かなきゃなんないわけ!』
それもそうか、と手を下ろしかけたステュアートだったが、カーン帝国で妖精がノリノリだったことを思い出して、ぎゅっとさらに強く握りしめた。
「かなり乗り気のようでしたが?」
『そ、そうしろって、命令されたの……だから、しゃーないの……ぐふ、もう駄目これ、あかんやつ……』
「使えない妖精ですね」
チッと舌打ちをして手を離した。
妖精は、はぁはぁと全身で息をしながら地面にへたり込む。
そこに、世話係として連れてきたレオが申し訳なさそうに口をひらいた。
「あのう、大神官様。本当に、遠征に行かなくてもいいんですか?」
「必要ありません」
ステュアートはすげなく答えた。
遠征としてフューリア教本部を出発し、向かったのはワリュデリン聖国の首都からほど近い大森林である。
近いと言っても二時間はかかるうえに、大森林というだけあって森は大規模なので、目的の異形を見つけるのに時間がかかってしまった。
それでも、異形の気配を濃厚に感じることが出来る上に会話もできるレオを連れてきたことで、かなり早めに目的を達成できたのだ。
「最初から私の目的はこの妖精ですから」
「ですが、悪魔が出現した街はどうなるのですか!? まさか、このまま見殺しにするんじゃ……」
「すでに、下僕を向かわせています。今朝方報告が入ったのですが、やはり悪魔出現は偽りだったようです」
「えっ!?」
ぎょっとするレオにも見えるように、ステュアートが使役している精霊という名の下僕を具現化させた。
人の形を取らせているため、パッとみたところ、二十歳の青年といった感じだ。
だが、着ている物は奇妙で、全体的に纏う雰囲気も人間離れしている。
つい昨日使役契約を結んだ精霊である。
大神官や一部の神官巫女は精霊と契約をし、使役している場合が多い。
だがステュアートはこれまで、精霊と契約をしなかった。
理由としては、代償を支払わなければならないから――ではなく、自分で大体のことが出来てしまうからだ。
居てもいいけれど、居なくてもいい。
それがステュアートの使役精霊に対する認識であった。
レオが、ぺたりと床に座り込んだ。
「こんな強力な精霊が、人と契約を結ぶことがあるなんて……」
驚いているレオに、ステュアートはふんと鼻を鳴らす。
「何を馬鹿なことを。これくらいの精霊でなければ、離れた場所に飛ばせないでしょう?」
適材適所を意識して契約したのだから、当然だ。
精霊にも得意不得意があり、この精霊はもの凄い速さで移動できるという利点を見込んで採用したのである。
「悪魔の件は偽りだと確認済みですから、ご安心を」
「は、はぁ、そうでしたか。……えっ、偽り? そんなことあるんですか? 誰がそんなことを!?」
混乱しているらしいレオの言葉に、ステュアートはフッと笑った。
「……誰がこんなくだらないことをしているのでしょうね」
視線を、まだ呼吸を整えている妖精に向ける。
彼女は視線を受けて慌てて逃げようとしたが、簡単に逃がすステュアートではない。
羽を摘まみ、目の前に持ち上げた。
『ぎゃ――っ!』
「まだ何もしてません」
『まだ、ってことはこれからするじゃん! やだっ、離して外道!』
「あなた、誰と契約してあんな馬鹿げたことをしたんですか?」
『話すわけないでしょ、こちとら守秘義務っていうのがあって、依頼人のことは話せないのよ』
「わかりました。では私と契約しましょう」
妖精が絶望的な顔をした。
なぜか傍に居た精霊が、憐れんだ顔をしてソッと視線を遠くに向けた。
『話すからっ!』
「守秘義務があるのでしょう? より強力な命令に従わせて差し上げようというのです。感謝なさい」
『やっ、やめっ』
ハッ、とステュアートが下卑た笑いを浮かべる。
人を見下し嘲るのに慣れた表情だ。
妖精が、今にも漏らしそうなほどにぷるぷると震えている。
『やだ、やっ、いっ、いや――――っ!』
◇
「なんですぐ連絡くれなかったんですか!?」
仕事終わり、様子を見に寄ったアランが目を吊り上げて怒鳴った。
ビクッと震えて、アリアドネは小さくなる。
「あの、何を……?」
「あなたが今、屋敷に一人だということです。いくらなんでもおかしいでしょう!?」
「確かに同じ時期に重なるのはおかしいけど、一つ一つは起こりうることだと……思ったの」
報告するべきことだったのね、と落ち込むアリアドネに、アランは途端に情けない顔をした。
「まぁ、いいでしょう。ベリザード大神官様が今夜からここに泊まり込んでくださることは俺も聞いてますから。でも二人きりには出来ないですし、俺も泊まることにします」
パッ、とアリアドネは顔をあげた。
アランがいてくれるなら心強い。
「ありがとうございます、アランさん」
「構いませんよ。俺はステュアート大神官様にこれ以上無いほどの借りがあるんで」
アランが何気なく髪を掻き上げた。
この季節、日暮れとともに少しだけ涼しくなるとはいえ、まだまだ暑い。
シャランと音が鳴る。
(そうだわ、アランさんも同じ御守りを持ってたんだった)
御守りの石について尋ねてみよう。
もしかしたら、時間と共に変色する素材なのかもしれない。
口を開こうとしたとき、アランの手首に御守りが見えた。
ステュアートを示すチャームはなく、彼のブレスレットには石と小さな飾りが揺れている。
(あら?)
同じ時期に着け始めたはずなのに、アランの石は受け取ったときのまま綺麗なピンク色をしていた。
そのときだった。
――ガシャン!
屋敷の奧で、ガラスが割れる音がした。
アリアドネとアランはぎょっとして、お互いに顔を見合わせる。
「なんの音でしょうか? 私、ちょっと見てきますね」
「俺も行きます」
音のしたほうに、二人でおそるおそる近づいていく。
そこは、空き部屋だった。
つい今日、ベリザードのために整えた部屋である。
中庭とのドア代わりにもなっている大きなガラスが割れていた。
床にガラス片が飛び散っているのを見て、アリアドネは唖然としてしまう。
床にごろんと拳大ほどの石が落ちており、明らかに誰かが投げ込んだものだった。
嫌な予感がした。
おそらくアランも嫌な予感を覚えたのだろう、表情が固まっている。
この部屋は中庭に面しているが、向かい側に護衛用の小屋がある。
そのため、屋敷の外から石を投げ込むことが出来ないのだ。
塀越しに石を投げたところで、護衛用の小屋に当たってここまで届かない。
つまり、誰かが中庭に侵入して、すぐ近くから石を投げつけたのだ。
「アランさ――」
言葉は途中で途切れた。
ぐるんと脳が揺れて、遅れて背中に衝撃がくる。
呼吸ができずにいると、腹部にも痛みを感じた。
呼吸ができずに悶絶しながら、アリアドネは何が起きたのか頭を回転させる。
(誰かに、殴られた……?)
違う。
アリアドネは、腹部を強く蹴られたのだ。
そのまま壁に激突したせいで呼吸ができず、今苦しい思いをしている。
ぎょっとしたアランが、アリアドネの傍に駆け寄ってくるのが見えた。
そんな彼の背後、銀色の髪を煌めかせながら彼に向かってナイフを振り上げる女がいる。
危ない、と叫びたいけれど、声がでない。
くぐもった声が漏れただけだ。
しかし、アランは敏感に察したようで、かろうじてナイフを避ける。女はすぐさまアランに足をかけて転ばせ、再びナイフを振り下ろす。
ガッ、とナイフが床に刺さった。
アランが身体をひねって避けていなければ、間違いなく彼の身体――股間の辺り――を貫通していただろう。
固まるアランを前に、女はナイフを引き抜く。
「っ、な、なにが、目的なの!」
なんとか力を振り絞って、声をあげる。
擦れていたけれどそれなりに大きな声が出て、女がピクリと反応した。
彼女の視線が、アリアドネに向く。
女はやつれていた。
目は落ち窪み、頬は痩け、壮絶な雰囲気を纏っている。
――ああ、彼女はリィナです。以前彼女の両親に世話になったので、彼女とも面識がございますよ。
ステュアートの声が頭のなかに蘇る。
彼女を見かけたのは、たった一度だけ。フューリア教本部に来たときだ。
あのとき、アリアドネはリィナのことが気になった。
大勢いた巫女たちのなかでリィナだけは特別に存在感を放っているように感じたのだ。
例えるならば、静かな湖に浮かぶボロボロの小舟のよう――。
嫌でも目についてしまう、手を差し伸べたくなる、そんなふうに見えた。
「リィナ……さん?」
リィナは小さく身体を震わせた。
彼女はギリッと歯を食いしばると、ナイフを持つ腕を振り上げる。
「待って、あなた、何をする気なの!?」
フッ、とリィナが笑う。
だがそれも一瞬で、カッと目を病的なまでに見開くと、低く囁くような声で言う。
「見ればわかるでしょう?」
リィナは、アランとの距離を詰めた。
「こいつの逸物を潰しにきたの。永遠に、子どもを作れないように」
必要な家事はノーラが済ませてくれているし、ベリザードという大神官専用の部屋も整えてあった。
夕食もノーラが下ごしらえをすでにしてくれているので、今すぐにアリアドネがやるべきことはない。
アリアドネは出しっぱなしだったティータイムセットを片付けると、ステュアートの部屋から本を借りてきた。
フューリア教に関するものと、悪魔に関するものだ。
どちらも別の本で読んだことがあったが、ステュアートの部屋にあるこの本はもっと詳しく載っているのである。
少しでも知識をつけて、ステュアートの妻として恥ずかしくないようにならなければ。
うんうんと頷いて、アリアドネはいつものように勉強を始めた。
◇
いつの間にか時間が過ぎていて、アリアドネは慌てて本を片付けた。
窓の外は夕暮れが辺りを彩り、今まさに、闇に引き込もうとしている頃合いだ。
悪魔に関する本を読んでいたためか、今日は特別に暗闇が怖く感じる。
完全に闇に支配される前に、アリアドネは屋敷中のランプをつけてまわった。
ふわりと橙色の明かりで満たされると、心まで解れたような気がして、ほっと安心する。
よし、と気合いを入れて、袖をまくった。
簡単な夕食の仕上げに取りかかる。
野菜たっぷりのポトフを皿に盛り付けているとき、ほとんど無意識に、先程読んだ本のことを思い返していた。
フューリア教の創設者――始祖と呼ばれる者が、どれだけ偉大な人物だったか、事細かに記されていたのだ。
アリアドネは、人生すべてを人助けに捧げた始祖の生き様に感動した。
「神の如く力で人々の怪我や病気を治し、絶望の淵にいた者に希望を与え続けた……か」
フューリア教の始祖は男だったという。
五十の歳で他界するまで、生涯誰とも結婚することなく常に身を清らかに保ち続けたと記録されていた。
現在のフューリア教に名を連ねる神官や巫女が独身でなければならないのは、始祖の在り方が元になっているのだ。
(人々を救った平和の象徴だった……って書いてあったわ。きっと優しい人だったのね)
どんな人だったのかしら、と考えて、幼い頃お世話になった牧師の姿を思い描いた。
記憶が引っ張られるように、他の兄弟姉妹のことも思い出す。
裕福ではなかったけれど、毎日が楽しかった日々は今でもかけがえのない宝物だ。いつまでも平和で穏やかなときが続くのだと思っていた。
――しかし、突如流行病が王都を襲った。
アリアドネはぎゅっと拳を握りしめる。
当時、すでに王族は遷都先である副都に移住していたこともあって、感染の危険性はないという情報が出回った。
そして間もなく、流行病が広がった王都はカーン帝国軍によって封鎖され、火で浄化されたのだ。
ズキリと、頭痛がした。
どくんどくんと心臓が大きく鳴り、奇妙な目眩がアリアドネを襲う。
(……私、あのときどうしたのかしら)
アリアドネが次に目覚めたのは、軍部のテントのなかだった。
直近の記憶がなかったが、アリアドネを保護した軍の男が言うには、焼け野原と化した元王都にぽつんと横たわっていたらしい。
当時のアリアドネがまだ幼かったこと。
流行病の症状が見られず感染も確認されなかったこと。
それらを理由に、軍部はアリアドネを保護したのだ。どうやら彼らには、元王都の国民を見殺しにしたという罪悪感があったらしい。
それを、唯一の生存者であるアリアドネを助けることで、贖おうとしたのだ。
「これでよし、と」
あえて声に出して、最後の皿を食卓に並べた。
静まりかえった部屋が、アリアドネの不安をあおり立てている気がしたのだ。
ふと、アリアドネは自分の身体を――それから、手のひらを見つめる。
(私、あのときどうやって生き残ったの……?)
疑問に思ったのは、一瞬だった。
解けた糸を再び巻き取るように、不安がシュルシュルとアリアドネの記憶の奥底に消えて行く。
そのことに関して、アリアドネは僅かの疑問も持たなかった。
(昔のことだし、考えても答えなんて出ないわよね)
そう結論付けたとき、シャランと手首のブレスレットが音をたてた。
いつもは袖のなかに入れているから、視界にすら映らない。
だが今は、食器を並べる際に袖を捲ったため、明るいランプに照らされて真鍮の金具がキラキラと光って存在を主張していた。
ふと、アリアドネは首を傾げる。
ブレスレットについている御守りを、反対の手でそっと摘まむ。
ピンク色だったはずの石が、濃灰色になっていた。
◇
ステュアートは、妖精の首根っこを掴んで頭上に掲げた。
『ちょ、待って、ごめっ、ごめんって、謝るからさ――!』
「謝罪で済むと思います? アソコを奪っておいて」
『しゃーなしだったんだってば、あたしだって命令されて仕方なくやったの! ね、フューリア教関係者なら、あんただってわかるでしょ? 契約した相手の願いは聞かなきゃなんないわけ!』
それもそうか、と手を下ろしかけたステュアートだったが、カーン帝国で妖精がノリノリだったことを思い出して、ぎゅっとさらに強く握りしめた。
「かなり乗り気のようでしたが?」
『そ、そうしろって、命令されたの……だから、しゃーないの……ぐふ、もう駄目これ、あかんやつ……』
「使えない妖精ですね」
チッと舌打ちをして手を離した。
妖精は、はぁはぁと全身で息をしながら地面にへたり込む。
そこに、世話係として連れてきたレオが申し訳なさそうに口をひらいた。
「あのう、大神官様。本当に、遠征に行かなくてもいいんですか?」
「必要ありません」
ステュアートはすげなく答えた。
遠征としてフューリア教本部を出発し、向かったのはワリュデリン聖国の首都からほど近い大森林である。
近いと言っても二時間はかかるうえに、大森林というだけあって森は大規模なので、目的の異形を見つけるのに時間がかかってしまった。
それでも、異形の気配を濃厚に感じることが出来る上に会話もできるレオを連れてきたことで、かなり早めに目的を達成できたのだ。
「最初から私の目的はこの妖精ですから」
「ですが、悪魔が出現した街はどうなるのですか!? まさか、このまま見殺しにするんじゃ……」
「すでに、下僕を向かわせています。今朝方報告が入ったのですが、やはり悪魔出現は偽りだったようです」
「えっ!?」
ぎょっとするレオにも見えるように、ステュアートが使役している精霊という名の下僕を具現化させた。
人の形を取らせているため、パッとみたところ、二十歳の青年といった感じだ。
だが、着ている物は奇妙で、全体的に纏う雰囲気も人間離れしている。
つい昨日使役契約を結んだ精霊である。
大神官や一部の神官巫女は精霊と契約をし、使役している場合が多い。
だがステュアートはこれまで、精霊と契約をしなかった。
理由としては、代償を支払わなければならないから――ではなく、自分で大体のことが出来てしまうからだ。
居てもいいけれど、居なくてもいい。
それがステュアートの使役精霊に対する認識であった。
レオが、ぺたりと床に座り込んだ。
「こんな強力な精霊が、人と契約を結ぶことがあるなんて……」
驚いているレオに、ステュアートはふんと鼻を鳴らす。
「何を馬鹿なことを。これくらいの精霊でなければ、離れた場所に飛ばせないでしょう?」
適材適所を意識して契約したのだから、当然だ。
精霊にも得意不得意があり、この精霊はもの凄い速さで移動できるという利点を見込んで採用したのである。
「悪魔の件は偽りだと確認済みですから、ご安心を」
「は、はぁ、そうでしたか。……えっ、偽り? そんなことあるんですか? 誰がそんなことを!?」
混乱しているらしいレオの言葉に、ステュアートはフッと笑った。
「……誰がこんなくだらないことをしているのでしょうね」
視線を、まだ呼吸を整えている妖精に向ける。
彼女は視線を受けて慌てて逃げようとしたが、簡単に逃がすステュアートではない。
羽を摘まみ、目の前に持ち上げた。
『ぎゃ――っ!』
「まだ何もしてません」
『まだ、ってことはこれからするじゃん! やだっ、離して外道!』
「あなた、誰と契約してあんな馬鹿げたことをしたんですか?」
『話すわけないでしょ、こちとら守秘義務っていうのがあって、依頼人のことは話せないのよ』
「わかりました。では私と契約しましょう」
妖精が絶望的な顔をした。
なぜか傍に居た精霊が、憐れんだ顔をしてソッと視線を遠くに向けた。
『話すからっ!』
「守秘義務があるのでしょう? より強力な命令に従わせて差し上げようというのです。感謝なさい」
『やっ、やめっ』
ハッ、とステュアートが下卑た笑いを浮かべる。
人を見下し嘲るのに慣れた表情だ。
妖精が、今にも漏らしそうなほどにぷるぷると震えている。
『やだ、やっ、いっ、いや――――っ!』
◇
「なんですぐ連絡くれなかったんですか!?」
仕事終わり、様子を見に寄ったアランが目を吊り上げて怒鳴った。
ビクッと震えて、アリアドネは小さくなる。
「あの、何を……?」
「あなたが今、屋敷に一人だということです。いくらなんでもおかしいでしょう!?」
「確かに同じ時期に重なるのはおかしいけど、一つ一つは起こりうることだと……思ったの」
報告するべきことだったのね、と落ち込むアリアドネに、アランは途端に情けない顔をした。
「まぁ、いいでしょう。ベリザード大神官様が今夜からここに泊まり込んでくださることは俺も聞いてますから。でも二人きりには出来ないですし、俺も泊まることにします」
パッ、とアリアドネは顔をあげた。
アランがいてくれるなら心強い。
「ありがとうございます、アランさん」
「構いませんよ。俺はステュアート大神官様にこれ以上無いほどの借りがあるんで」
アランが何気なく髪を掻き上げた。
この季節、日暮れとともに少しだけ涼しくなるとはいえ、まだまだ暑い。
シャランと音が鳴る。
(そうだわ、アランさんも同じ御守りを持ってたんだった)
御守りの石について尋ねてみよう。
もしかしたら、時間と共に変色する素材なのかもしれない。
口を開こうとしたとき、アランの手首に御守りが見えた。
ステュアートを示すチャームはなく、彼のブレスレットには石と小さな飾りが揺れている。
(あら?)
同じ時期に着け始めたはずなのに、アランの石は受け取ったときのまま綺麗なピンク色をしていた。
そのときだった。
――ガシャン!
屋敷の奧で、ガラスが割れる音がした。
アリアドネとアランはぎょっとして、お互いに顔を見合わせる。
「なんの音でしょうか? 私、ちょっと見てきますね」
「俺も行きます」
音のしたほうに、二人でおそるおそる近づいていく。
そこは、空き部屋だった。
つい今日、ベリザードのために整えた部屋である。
中庭とのドア代わりにもなっている大きなガラスが割れていた。
床にガラス片が飛び散っているのを見て、アリアドネは唖然としてしまう。
床にごろんと拳大ほどの石が落ちており、明らかに誰かが投げ込んだものだった。
嫌な予感がした。
おそらくアランも嫌な予感を覚えたのだろう、表情が固まっている。
この部屋は中庭に面しているが、向かい側に護衛用の小屋がある。
そのため、屋敷の外から石を投げ込むことが出来ないのだ。
塀越しに石を投げたところで、護衛用の小屋に当たってここまで届かない。
つまり、誰かが中庭に侵入して、すぐ近くから石を投げつけたのだ。
「アランさ――」
言葉は途中で途切れた。
ぐるんと脳が揺れて、遅れて背中に衝撃がくる。
呼吸ができずにいると、腹部にも痛みを感じた。
呼吸ができずに悶絶しながら、アリアドネは何が起きたのか頭を回転させる。
(誰かに、殴られた……?)
違う。
アリアドネは、腹部を強く蹴られたのだ。
そのまま壁に激突したせいで呼吸ができず、今苦しい思いをしている。
ぎょっとしたアランが、アリアドネの傍に駆け寄ってくるのが見えた。
そんな彼の背後、銀色の髪を煌めかせながら彼に向かってナイフを振り上げる女がいる。
危ない、と叫びたいけれど、声がでない。
くぐもった声が漏れただけだ。
しかし、アランは敏感に察したようで、かろうじてナイフを避ける。女はすぐさまアランに足をかけて転ばせ、再びナイフを振り下ろす。
ガッ、とナイフが床に刺さった。
アランが身体をひねって避けていなければ、間違いなく彼の身体――股間の辺り――を貫通していただろう。
固まるアランを前に、女はナイフを引き抜く。
「っ、な、なにが、目的なの!」
なんとか力を振り絞って、声をあげる。
擦れていたけれどそれなりに大きな声が出て、女がピクリと反応した。
彼女の視線が、アリアドネに向く。
女はやつれていた。
目は落ち窪み、頬は痩け、壮絶な雰囲気を纏っている。
――ああ、彼女はリィナです。以前彼女の両親に世話になったので、彼女とも面識がございますよ。
ステュアートの声が頭のなかに蘇る。
彼女を見かけたのは、たった一度だけ。フューリア教本部に来たときだ。
あのとき、アリアドネはリィナのことが気になった。
大勢いた巫女たちのなかでリィナだけは特別に存在感を放っているように感じたのだ。
例えるならば、静かな湖に浮かぶボロボロの小舟のよう――。
嫌でも目についてしまう、手を差し伸べたくなる、そんなふうに見えた。
「リィナ……さん?」
リィナは小さく身体を震わせた。
彼女はギリッと歯を食いしばると、ナイフを持つ腕を振り上げる。
「待って、あなた、何をする気なの!?」
フッ、とリィナが笑う。
だがそれも一瞬で、カッと目を病的なまでに見開くと、低く囁くような声で言う。
「見ればわかるでしょう?」
リィナは、アランとの距離を詰めた。
「こいつの逸物を潰しにきたの。永遠に、子どもを作れないように」
10
お気に入りに追加
335
あなたにおすすめの小説
監禁蜜月~悪い男に囚われて【短編】
乃木ハルノ
恋愛
「俺はアンタのような甘やかされたご令嬢が嫌いなんだよ」
「屈服させるための手段は、苦痛だけじゃない」
伯爵令嬢ながら、継母と義妹によって使用人同然の暮らしを強いられていたミレイユ。
継母と義妹が屋敷を留守にしたある夜、見知らぬ男に攫われてしまう。
男はミレイユを牢に繋ぎ、不正を認めろと迫るが…
男がなぜ貴族を嫌うのか、不正とは。何もわからないまま、ミレイユはドレスを脱がされ、男の手によって快楽を教え込まれる──
長編執筆前のパイロット版となっております。
完結後、こちらをたたき台にアレンジを加え長編に書きなおします。
【R-18】嫁ぎ相手は氷の鬼畜王子と聞いていたのですが……?【完結】
千紘コウ
恋愛
公爵令嬢のブランシュはその性格の悪さから“冷血令嬢”と呼ばれている。そんなブランシュに縁談が届く。相手は“氷の鬼畜王子”との二つ名がある隣国の王太子フェリクス。
──S気の強い公爵令嬢が隣国のMっぽい鬼畜王子(疑惑)に嫁いでアレコレするけど勝てる気がしない話。
【注】女性主導でヒーローに乳○責めや自○強制、手○キする描写が2〜3話に集中しているので苦手な方はご自衛ください。挿入シーンは一瞬。
※4話以降ギャグコメディ調強め
※他サイトにも掲載(こちらに掲載の分は少しだけ加筆修正等しています)、全8話(後日談含む)
【R-18】逃げた転生ヒロインは辺境伯に溺愛される
吉川一巳
恋愛
気が付いたら男性向けエロゲ『王宮淫虐物語~鬼畜王子の後宮ハーレム~』のヒロインに転生していた。このままでは山賊に輪姦された後に、主人公のハーレム皇太子の寵姫にされてしまう。自分に散々な未来が待っていることを知った男爵令嬢レスリーは、どうにかシナリオから逃げ出すことに成功する。しかし、逃げ出した先で次期辺境伯のお兄さんに捕まってしまい……、というお話。ヒーローは白い結婚ですがお話の中で一度別の女性と結婚しますのでご注意下さい。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
【R18】助けてもらった虎獣人にマーキングされちゃう話
象の居る
恋愛
異世界転移したとたん、魔獣に狙われたユキを助けてくれたムキムキ虎獣人のアラン。襲われた恐怖でアランに縋り、家においてもらったあともズルズル関係している。このまま一緒にいたいけどアランはどう思ってる? セフレなのか悩みつつも関係が壊れるのが怖くて聞けない。飽きられたときのために一人暮らしの住宅事情を調べてたらアランの様子がおかしくなって……。
ベッドの上ではちょっと意地悪なのに肝心なとこはヘタレな虎獣人と、普段はハッキリ言うのに怖がりな人間がお互いの気持ちを確かめ合って結ばれる話です。
ムーンライトノベルズさんにも掲載しています。
猫に転生したらご主人様に溺愛されるようになりました
あべ鈴峰
恋愛
気がつけば 異世界転生。
どんな風に生まれ変わったのかと期待したのに なぜか猫に転生。 人間でなかったのは残念だが、それでも構わないと気持ちを切り替えて猫ライフを満喫しようとした。しかし、転生先は森の中、食べ物も満足に食べてず、寂しさと飢えでなげやりに なって居るところに 物音が。
美貌の騎士団長は逃げ出した妻を甘い執愛で絡め取る
束原ミヤコ
恋愛
旧題:夫の邪魔になりたくないと家から逃げたら連れ戻されてひたすら愛されるようになりました
ラティス・オルゲンシュタットは、王国の七番目の姫である。
幻獣種の血が流れている幻獣人である、王国騎士団団長シアン・ウェルゼリアに、王を守った褒章として十五で嫁ぎ、三年。
シアンは隣国との戦争に出かけてしまい、嫁いでから話すこともなければ初夜もまだだった。
そんなある日、シアンの恋人という女性があらわれる。
ラティスが邪魔で、シアンは家に戻らない。シアンはずっとその女性の家にいるらしい。
そう告げられて、ラティスは家を出ることにした。
邪魔なのなら、いなくなろうと思った。
そんなラティスを追いかけ捕まえて、シアンは家に連れ戻す。
そして、二度と逃げないようにと、監禁して調教をはじめた。
無知な姫を全力で可愛がる差別種半人外の騎士団長の話。
騎士団長は恋と忠義が区別できない
月咲やまな
恋愛
長き戦に苦しんでいたカルサール王国。その戦争を終結させた英雄シド・レイナードは、戦争孤児という立場から騎士団長という立場まで上り詰めた。やっと訪れた平和な世界。三十歳になっていた彼は“嫁探し”を始めるが、ある理由から地位も名誉もありながらなかなか上手くはいかなかった。
同時期、カルサールのある世界とはまた別の世界。
神々が作りし箱庭の様な世界“アルシェナ”に住む少女ロシェルが、父カイルに頼み“使い魔の召喚”という古代魔法を使い、異世界から使い魔を召喚してもらおうとしていた。『友達が欲しい』という理由で。
その事で、絶対に重なる事の無かった運命が重なり、異世界同士の出逢いが生まれる。
○体格差・異世界召喚・歳の差・主従関係っぽい恋愛
○ゴリマッチョ系騎士団長と少女の、のんびりペースの恋愛小説です。
【R18】作品ですのでご注意下さい。
【関連作品】
赤ずきんは森のオオカミに恋をする
黒猫のイレイラ(カイル×イレイラの娘のお話)
完結済作品の短編集『童話に対して思うこと…作品ミックス・一話完結・シド×ロシェルの場合』
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる