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【18】逸物

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  ――やることをやらなきゃ。

 必要な家事はノーラが済ませてくれているし、ベリザードという大神官専用の部屋も整えてあった。
 夕食もノーラが下ごしらえをすでにしてくれているので、今すぐにアリアドネがやるべきことはない。

 アリアドネは出しっぱなしだったティータイムセットを片付けると、ステュアートの部屋から本を借りてきた。
 フューリア教に関するものと、悪魔に関するものだ。

 どちらも別の本で読んだことがあったが、ステュアートの部屋にあるこの本はもっと詳しく載っているのである。
 少しでも知識をつけて、ステュアートの妻として恥ずかしくないようにならなければ。

 うんうんと頷いて、アリアドネはいつものように勉強を始めた。

 ◇

 いつの間にか時間が過ぎていて、アリアドネは慌てて本を片付けた。
 窓の外は夕暮れが辺りを彩り、今まさに、闇に引き込もうとしている頃合いだ。

 悪魔に関する本を読んでいたためか、今日は特別に暗闇が怖く感じる。
 完全に闇に支配される前に、アリアドネは屋敷中のランプをつけてまわった。
 ふわりと橙色の明かりで満たされると、心まで解れたような気がして、ほっと安心する。

 よし、と気合いを入れて、袖をまくった。
 簡単な夕食の仕上げに取りかかる。
 野菜たっぷりのポトフを皿に盛り付けているとき、ほとんど無意識に、先程読んだ本のことを思い返していた。

 フューリア教の創設者――始祖と呼ばれる者が、どれだけ偉大な人物だったか、事細かに記されていたのだ。
 アリアドネは、人生すべてを人助けに捧げた始祖の生き様に感動した。

「神の如く力で人々の怪我や病気を治し、絶望の淵にいた者に希望を与え続けた……か」

 フューリア教の始祖は男だったという。
 五十の歳で他界するまで、生涯誰とも結婚することなく常に身を清らかに保ち続けたと記録されていた。
 現在のフューリア教に名を連ねる神官や巫女が独身でなければならないのは、始祖の在り方が元になっているのだ。

(人々を救った平和の象徴だった……って書いてあったわ。きっと優しい人だったのね)

 どんな人だったのかしら、と考えて、幼い頃お世話になった牧師の姿を思い描いた。
 記憶が引っ張られるように、他の兄弟姉妹のことも思い出す。
 裕福ではなかったけれど、毎日が楽しかった日々は今でもかけがえのない宝物だ。いつまでも平和で穏やかなときが続くのだと思っていた。

――しかし、突如流行病が王都を襲った。

 アリアドネはぎゅっと拳を握りしめる。

 当時、すでに王族は遷都先である副都に移住していたこともあって、感染の危険性はないという情報が出回った。
 そして間もなく、流行病が広がった王都はカーン帝国軍によって封鎖され、火で浄化されたのだ。

 ズキリと、頭痛がした。
 どくんどくんと心臓が大きく鳴り、奇妙な目眩がアリアドネを襲う。

(……私、あのときどうしたのかしら)

 アリアドネが次に目覚めたのは、軍部のテントのなかだった。
 直近の記憶がなかったが、アリアドネを保護した軍の男が言うには、焼け野原と化した元王都にぽつんと横たわっていたらしい。

 当時のアリアドネがまだ幼かったこと。
 流行病の症状が見られず感染も確認されなかったこと。
 それらを理由に、軍部はアリアドネを保護したのだ。どうやら彼らには、元王都の国民を見殺しにしたという罪悪感があったらしい。
 それを、唯一の生存者であるアリアドネを助けることで、贖おうとしたのだ。

「これでよし、と」

 あえて声に出して、最後の皿を食卓に並べた。
 静まりかえった部屋が、アリアドネの不安をあおり立てている気がしたのだ。

 ふと、アリアドネは自分の身体を――それから、手のひらを見つめる。

(私、あのときどうやって生き残ったの……?)

 疑問に思ったのは、一瞬だった。
 解けた糸を再び巻き取るように、不安がシュルシュルとアリアドネの記憶の奥底に消えて行く。
 そのことに関して、アリアドネは僅かの疑問も持たなかった。

(昔のことだし、考えても答えなんて出ないわよね)

 そう結論付けたとき、シャランと手首のブレスレットが音をたてた。
 いつもは袖のなかに入れているから、視界にすら映らない。
 だが今は、食器を並べる際に袖を捲ったため、明るいランプに照らされて真鍮の金具がキラキラと光って存在を主張していた。

 ふと、アリアドネは首を傾げる。
 ブレスレットについている御守りを、反対の手でそっと摘まむ。

 ピンク色だったはずの石が、濃灰色になっていた。

 ◇

 ステュアートは、妖精の首根っこを掴んで頭上に掲げた。

『ちょ、待って、ごめっ、ごめんって、謝るからさ――!』
「謝罪で済むと思います? アソコを奪っておいて」
『しゃーなしだったんだってば、あたしだって命令されて仕方なくやったの! ね、フューリア教関係者なら、あんただってわかるでしょ? 契約した相手の願いは聞かなきゃなんないわけ!』

 それもそうか、と手を下ろしかけたステュアートだったが、カーン帝国で妖精がノリノリだったことを思い出して、ぎゅっとさらに強く握りしめた。

「かなり乗り気のようでしたが?」
『そ、そうしろって、命令されたの……だから、しゃーないの……ぐふ、もう駄目これ、あかんやつ……』
「使えない妖精ですね」

 チッと舌打ちをして手を離した。
 妖精は、はぁはぁと全身で息をしながら地面にへたり込む。

 そこに、世話係として連れてきたレオが申し訳なさそうに口をひらいた。

「あのう、大神官様。本当に、遠征に行かなくてもいいんですか?」
「必要ありません」

 ステュアートはすげなく答えた。
 遠征としてフューリア教本部を出発し、向かったのはワリュデリン聖国の首都からほど近い大森林である。
 近いと言っても二時間はかかるうえに、大森林というだけあって森は大規模なので、目的の異形を見つけるのに時間がかかってしまった。

 それでも、異形の気配を濃厚に感じることが出来る上に会話もできるレオを連れてきたことで、かなり早めに目的を達成できたのだ。

「最初から私の目的はこの妖精ですから」
「ですが、悪魔が出現した街はどうなるのですか!? まさか、このまま見殺しにするんじゃ……」
「すでに、下僕を向かわせています。今朝方報告が入ったのですが、やはり悪魔出現は偽りだったようです」
「えっ!?」

 ぎょっとするレオにも見えるように、ステュアートが使役している精霊という名の下僕を具現化させた。
 人の形を取らせているため、パッとみたところ、二十歳の青年といった感じだ。
 だが、着ている物は奇妙で、全体的に纏う雰囲気も人間離れしている。

 つい昨日使役契約を結んだ精霊である。

 大神官や一部の神官巫女は精霊と契約をし、使役している場合が多い。
 だがステュアートはこれまで、精霊と契約をしなかった。
 理由としては、代償を支払わなければならないから――ではなく、自分で大体のことが出来てしまうからだ。

 居てもいいけれど、居なくてもいい。
 それがステュアートの使役精霊に対する認識であった。
 レオが、ぺたりと床に座り込んだ。

「こんな強力な精霊が、人と契約を結ぶことがあるなんて……」

 驚いているレオに、ステュアートはふんと鼻を鳴らす。

「何を馬鹿なことを。これくらいの精霊でなければ、離れた場所に飛ばせないでしょう?」

 適材適所を意識して契約したのだから、当然だ。
 精霊にも得意不得意があり、この精霊はもの凄い速さで移動できるという利点を見込んで採用したのである。

「悪魔の件は偽りだと確認済みですから、ご安心を」
「は、はぁ、そうでしたか。……えっ、偽り? そんなことあるんですか? 誰がそんなことを!?」

 混乱しているらしいレオの言葉に、ステュアートはフッと笑った。

「……誰がこんなくだらないことをしているのでしょうね」

 視線を、まだ呼吸を整えている妖精に向ける。
 彼女は視線を受けて慌てて逃げようとしたが、簡単に逃がすステュアートではない。
 羽を摘まみ、目の前に持ち上げた。

『ぎゃ――っ!』
「まだ何もしてません」
『まだ、ってことはこれからするじゃん! やだっ、離して外道!』
「あなた、誰と契約してあんな馬鹿げたことをしたんですか?」
『話すわけないでしょ、こちとら守秘義務っていうのがあって、依頼人のことは話せないのよ』
「わかりました。では私と契約しましょう」

 妖精が絶望的な顔をした。
 なぜか傍に居た精霊が、憐れんだ顔をしてソッと視線を遠くに向けた。

『話すからっ!』
「守秘義務があるのでしょう? より強力な命令に従わせて差し上げようというのです。感謝なさい」
『やっ、やめっ』

 ハッ、とステュアートが下卑た笑いを浮かべる。
 人を見下し嘲るのに慣れた表情だ。
 妖精が、今にも漏らしそうなほどにぷるぷると震えている。

『やだ、やっ、いっ、いや――――っ!』

 ◇

「なんですぐ連絡くれなかったんですか!?」

 仕事終わり、様子を見に寄ったアランが目を吊り上げて怒鳴った。
 ビクッと震えて、アリアドネは小さくなる。

「あの、何を……?」
「あなたが今、屋敷に一人だということです。いくらなんでもおかしいでしょう!?」
「確かに同じ時期に重なるのはおかしいけど、一つ一つは起こりうることだと……思ったの」

 報告するべきことだったのね、と落ち込むアリアドネに、アランは途端に情けない顔をした。

「まぁ、いいでしょう。ベリザード大神官様が今夜からここに泊まり込んでくださることは俺も聞いてますから。でも二人きりには出来ないですし、俺も泊まることにします」

 パッ、とアリアドネは顔をあげた。
 アランがいてくれるなら心強い。

「ありがとうございます、アランさん」
「構いませんよ。俺はステュアート大神官様にこれ以上無いほどの借りがあるんで」

 アランが何気なく髪を掻き上げた。
 この季節、日暮れとともに少しだけ涼しくなるとはいえ、まだまだ暑い。
 シャランと音が鳴る。

(そうだわ、アランさんも同じ御守りを持ってたんだった)

 御守りの石について尋ねてみよう。
 もしかしたら、時間と共に変色する素材なのかもしれない。

 口を開こうとしたとき、アランの手首に御守りが見えた。
 ステュアートを示すチャームはなく、彼のブレスレットには石と小さな飾りが揺れている。

(あら?)

 同じ時期に着け始めたはずなのに、アランの石は受け取ったときのまま綺麗なピンク色をしていた。

 そのときだった。

――ガシャン!

 屋敷の奧で、ガラスが割れる音がした。

 アリアドネとアランはぎょっとして、お互いに顔を見合わせる。

「なんの音でしょうか? 私、ちょっと見てきますね」
「俺も行きます」

 音のしたほうに、二人でおそるおそる近づいていく。

 そこは、空き部屋だった。
 つい今日、ベリザードのために整えた部屋である。
 中庭とのドア代わりにもなっている大きなガラスが割れていた。
 床にガラス片が飛び散っているのを見て、アリアドネは唖然としてしまう。

 床にごろんと拳大ほどの石が落ちており、明らかに誰かが投げ込んだものだった。

 嫌な予感がした。
 おそらくアランも嫌な予感を覚えたのだろう、表情が固まっている。

 この部屋は中庭に面しているが、向かい側に護衛用の小屋がある。
 そのため、屋敷の外から石を投げ込むことが出来ないのだ。
 塀越しに石を投げたところで、護衛用の小屋に当たってここまで届かない。

 つまり、誰かが中庭に侵入して、すぐ近くから石を投げつけたのだ。

「アランさ――」

 言葉は途中で途切れた。
 ぐるんと脳が揺れて、遅れて背中に衝撃がくる。
 呼吸ができずにいると、腹部にも痛みを感じた。

 呼吸ができずに悶絶しながら、アリアドネは何が起きたのか頭を回転させる。

(誰かに、殴られた……?)

 違う。
 アリアドネは、腹部を強く蹴られたのだ。
 そのまま壁に激突したせいで呼吸ができず、今苦しい思いをしている。

 ぎょっとしたアランが、アリアドネの傍に駆け寄ってくるのが見えた。
 そんな彼の背後、銀色の髪を煌めかせながら彼に向かってナイフを振り上げる女がいる。

 危ない、と叫びたいけれど、声がでない。
 くぐもった声が漏れただけだ。
 しかし、アランは敏感に察したようで、かろうじてナイフを避ける。女はすぐさまアランに足をかけて転ばせ、再びナイフを振り下ろす。

 ガッ、とナイフが床に刺さった。
 アランが身体をひねって避けていなければ、間違いなく彼の身体――股間の辺り――を貫通していただろう。

 固まるアランを前に、女はナイフを引き抜く。

「っ、な、なにが、目的なの!」

 なんとか力を振り絞って、声をあげる。
 擦れていたけれどそれなりに大きな声が出て、女がピクリと反応した。

 彼女の視線が、アリアドネに向く。
 女はやつれていた。
 目は落ち窪み、頬は痩け、壮絶な雰囲気を纏っている。

 ――ああ、彼女はリィナです。以前彼女の両親に世話になったので、彼女とも面識がございますよ。

 ステュアートの声が頭のなかに蘇る。
 彼女を見かけたのは、たった一度だけ。フューリア教本部に来たときだ。
 あのとき、アリアドネはリィナのことが気になった。

 大勢いた巫女たちのなかでリィナだけは特別に存在感を放っているように感じたのだ。
 例えるならば、静かな湖に浮かぶボロボロの小舟のよう――。
 嫌でも目についてしまう、手を差し伸べたくなる、そんなふうに見えた。

「リィナ……さん?」

 リィナは小さく身体を震わせた。
 彼女はギリッと歯を食いしばると、ナイフを持つ腕を振り上げる。

「待って、あなた、何をする気なの!?」

 フッ、とリィナが笑う。
 だがそれも一瞬で、カッと目を病的なまでに見開くと、低く囁くような声で言う。

「見ればわかるでしょう?」

 リィナは、アランとの距離を詰めた。

「こいつの逸物を潰しにきたの。永遠に、子どもを作れないように」
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