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【6】本音
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アリアドネは目の前に並ぶ料理を見て、それから向かい側に座っているステュアートを見つめた。
フューリア教は質素を美徳とすると聞いているが、この豪華さは一体何なのだろうか。
アリアドネとステュアート、それぞれの前に皿が四つも並んでいる。
スープとパン、サラダ、メインの肉料理だ。
量はそれほど多くないが、どれも高級料理だということは一目でわかる品ばかり。
サラダ一つとっても、これほど瑞々しく鮮度が良い野菜は、カーン帝国の都の中心部まで回ってはこないのである。
肉料理に使われているソースもとても香りがよい。見るからによい部位を使った肉料理は、見ているだけでヨダレが溢れてくる。かなりの手間をかけて作られた品だろう。
見たことの無い料理もある。肉料理の皿に、生肉のようなものが添えてあるが、一体何なのだろうか。
ステュアートは、神に対する感謝を述べた。簡略化したもので、すぐに終わる。
「では、いただきましょうか」
「は、はい」
先にステュアートが飲み物を一口飲んだのを見て、アリアドネもグラスに口をつけた。
すっきりとした果実酒で、とても飲みやすい。
水代わりに普段飲む葡萄酒とは違って、苦みも酸味もなかった。
「このテリーヌ、とても美味しいですよ」
「テリーヌ……?」
ステュアートの手元を見ると、生肉のようなアレを切り分けて食べているところだ。
テリーヌというらしいそれを、ステュアートを真似て一口食べる。
涙が出るほどに美味しかった。
人の食べ物とは思えない。神々が食すべきおいしさである。
(もしかして、大神官様はそれなりに美味しいものを食べなければならないとか)
フューリア教のなかでも大神官は特殊な存在だとか、そんなことをここに来る途中の馬車のなかで聞いた。
神に仕える神官や巫女は生涯清らかな身であり続けるために独身でなければならないのだが、大神官は妻を娶ることを推奨されているらしい。
しかも、複数の妻を迎えることが出来るという話である。
フューリア教に何人大神官と呼ばれる者がいるのか知らないが、その待遇は特別どころではない気がした。
「カーン帝国の皇帝陛下は、とても素晴らしい方ですね」
呑み込むのが勿体なくて、口のなかで溶けてしまう料理たちを必死で味わっていると、ステュアートが口をひらいた。
アリアドネは、次元が違いすぎる話題に目を見張って固まってしまう。
(皇帝陛下なんて、拝見することすら叶わない方なのに……っ!)
まるで、いい天気ですねとでも言いたげな軽い口調で話をするステュアートに、アリアドネはただただ驚いた。
住む世界が違う人なんだわ、とそっとステュアートを伺うと、はたりと彼の紫色の瞳と視線が合う。
「この食事は、皇帝陛下のご厚意で特別に作って頂いているのです」
「そうなんですか」
道理で、豪華なわけだ。
と、思ったのだが。
「フューリア教は質素を美徳とする、という教えを守ってくださっているようです。私的には、せっかく異国に来たのですから豪華な食事を堪能してもよいと思うのですけれど」
(あ、質素になってこれなのね)
カーン帝国皇帝とステュアートのいう『豪華』とは一体どんなものなのだろう。
この食事が質素だとすれば、いつもアリアドネが食べているものは残飯以下ではないか。
(これ以上関わらないほうがいい気がするわ)
アリアドネはサッと目を伏せた。
あまりにも住む世界が違いすぎて、どうして自分がここにいるのかわからなくなってしまう。
短時間に色々なことが起きすぎて、記憶が混乱していた。
一つ一つ思い返して、やっと自分がステュアートにプロポーズされたのだと思い出す。
(そう。あまりにも淡々とした口調だったから、何か事情があるのかもしれないと思ったのよ)
アリアドネとしては、リリアンのこともあるから出来るだけステュアートの望みを叶えてあげたい。
事を荒立てたくないしできるだけ穏便に済ませたいという気持ちもあるが、本当に困っているのならばできる限りのことはしたいのだ。
人は助け合って生きていくものだと、アリアドネを育てた牧師から何度も聞いていたのである。
実際に、アリアドネは多くの人に助けられて生きてきた。
それは当たり前だと甘受してはならないことで、すべてのことに感謝をしているうちに、恵まれている己を誇らしく思うようになるのだ。
少なくとも、アリアドネはそう思っている。
牧師はそこまで詳しくは言わなかったし、誰に教えられたわけではない。
けれど、物心つく頃には、アリアドネのなかにそのような考えがあった。
「照れる姿も、可愛らしいですね」
「え?」
顔をあげると、ステュアートがにっこり微笑んだ。
社交辞令のような明らかな作り笑顔だが、それよりも、彼の言葉にアリアドネはぽかんとしてしまう。
(照れる? あ、下を向いたから……?)
決して照れているわけではないけれど、もしかしたらアリアドネの気持ちを和やかにしようとしてくれているのかもしれない。
だから、素直にお礼を言った。
「ありがとうございます」
「本当のことですから、礼には及びません。アリアドネさんは、とても純粋な方なのですね」
「そ、そうですか?」
アリアドネは、曖昧に微笑んだ。
「ええ、純粋でなければ、見ず知らずの魔獣をあのように大切になさいませんから」
くすりと微笑みながら言われて、アリアドネは頬を真っ赤にさせた。
リリアンを庇ったことを思い出したのだが、顔から火がでるほど恥ずかしい。
なにせ、アレは魔獣ではなかったのだ。大切に桶に鎮座させて名前までつけていた自分の記憶を消し去ってしまいたい。
「ただ、無知なだけです」
「あなたの優しさに私は救われたのですよ。正直に言うと、二度と見つからないと思っておりました。見つかっても、どこか千切れていたり、犬に嚙まれていたり、面白がって見世物にされていたり……最悪な状態はいくつでもあげられます。しかし、あなたが大切に保管していてくださったので、しっかりとくっつきそうです」
(く、くっつくって……どんな仕組みになってるのかしら)
ステュアートが己の股間をカチッとはめ込むところを想像してしまい、アリアドネは軽く首を振った。
だが彼の言うように、美しいままの状態で保護(?)できたことはよかったといえるだろう。もし心無い者が逸物を見つけていて、それを見世物にしているところを想像したアリアドネは居たたまれない気持ちになった。
アリアドネは誤魔化すように曖昧に微笑んで、メインの肉をすっとナイフで切り分けて口に運ぶ。ナイフであっさり切れたことからもわかるように、最高級の肉を使っているようだ。
気まずいし住む世界が違うけれど、今この料理だけは堪能してもいいだろう。
舌でとろける味わいに、うふふ、とつい笑みがこぼれた。
その後は、他愛ない話をぽつぽつと交わしながら、食事の時間が過ぎた。
「――アリアドネさん」
食事が終わって、王宮の使用人だろう者が食器を下げたあと。
ステュアートが口を開いた。
皿を下げたあとのテーブルに向けていた視線をずらすと、真剣な表情のステュアートがアリアドネを見つめている。
「あなたに、私の妻になって頂きたいのです。あなた以外に考えられません」
変わらず、ステュアートからは何か含みのようなものを感じるが、例え嘘をついていたとしても、彼の言葉すべてが偽りというわけではないだろう。
なぜならば、ステュアートの紫色の瞳が驚く程に透き通っているからだ。
(何か事情があるのかしら)
例えば――結婚したくない相手と結婚させられそうになっていて、その防波堤にアリアドネを使いたい、とか。
(……お困りなら、助けて差し上げたいけれど)
アリアドネの胸がズキンと痛んだ。
ラティスに振られてからまだ数時間しか経っていないのに、他の男と結婚するというのは心が受け付けないのだ。
アリアドネの心はまだラティスにある――。
それに、ステュアートは誤解をしている。
彼はアリアドネを純粋だと言ったのだが、それはどうやら、アリアドネが『魔獣を庇った』ことに起因しているらしい。
膝の上で、ぎゅっと親指を握り込むように拳を作った。
無意識のうちに逸らしていた視線を戻しながら、ぐっと顔を上げる。
「あ、あの! 違うんです」
「はい……?」
ステュアートが、微笑んだまま首を傾げていた。
「魔獣を、その、リリアンは……しかるべき施設に渡す予定でした。魔獣の飼育は禁じられていますから。……さっきリリアンを庇ったのは、私の……精神状態がいつもと異なっていたからです」
「と、おっしゃいますと?」
「……ずっと好きだった方に振られたんです」
ステュアートには、魔獣を庇ったアリアドネが心優しく見えたのだろうが、あの行動は決してそんな美談ではない。
アリアドネはただ、寂しかったのだ。
一瞬でも自分の心に空いた穴を埋めてくれたリリアンを失ったら、アリアドネがまた苦しくなる……そう感じたから、全力で彼らの前に立ちはだかったに過ぎない。
あのときは自覚がなかったが、今思えば、アリアドネは非常に利己的だったのだ。
それらの気持ちを、ゆっくりと言葉を選びながらステュアートに伝えた。
彼はかすかに目を見張っていたが、アリアドネがすべて話終えると顎に手を当てて「ふむ」と頷いた。
「あ、あの……そういうことなので」
わかりました、残念です。
落胆とそれ以上の軽蔑が混ざった声音で、ステュアートがため息混じりに言う――と、思っていた。
ステュアートは、すっと目を細めて柔らかく微笑んだ。
アリアドネはふっと自分を包む空気が変わったのをはっきりと感じた。まるで、真綿で撫でられるようなふわふわとした心地を覚える。
(……なに?)
真っ先に思い浮かべたのは、母体の羊水である。
当然母の腹にいた頃の記憶は無いが、おそらくふわふわと暖かなぬくもりに包まれていたに違いない。
今のように――。
「あなたは、とても優しくて思いやりがある方のようです。その真っ直ぐで清らかな心をもって、多くの人を笑顔にしてこられたのでしょう。……ですが、自分自身には厳しく接しておいでのようですね」
「えっ」
――ちょっと自分に厳し過ぎるんじゃないかい?
――気楽に行こう、アリアドネは自分を追い込み過ぎるんだ
――自分にも優しくしておやりよ
自分自身に厳しい、とこれまで幾度となく言われてきたことだ。
しかし皆それなりに付き合いのある人達だから、まさか会ったばかりのステュアートに見破られるとは思わなかった。
今頃になって、アリアドネはステュアートが大神官であることを理解した。
(……すごい方。私を妻にとお求めになるなんて、本当に困ってらっしゃるのね)
ステュアートは笑みを深めた。
「他者に優しく自分に厳しいけれど、利己的なところもある。アリアドネさんはじつに人間らしい方です。とても、素敵だと思っておりますよ」
「大神官様」
「ステュアート、とお呼びください」
「ステュアート様……」
アリアドネは視線を逸らすことができずに真っ直ぐステュアートを見つめる。
「アリアドネさん。私は、あなたのすべてを受け入れます」
アリアドネは、瞳を潤ませた。
ずっと欲しかった言葉だ。
こうして、彼は人々を救っているのだろう。
大神官は、きっとステュアートの天職なのだとアリアドネは思った。
ここまで彼に言わせて、心が動かないわけがない。
(私、卑怯だったわ。自分の愚かさを挙げ連ねて、ステュアート様に結婚を考え直して頂くつもりだったもの)
相手に言わせてはいけない。
アリアドネは、今度こそ真摯に答えようと気持ちを新たにして、ステュアートを見つめた。
そして。
「好みじゃないので、ごめんなさい!」
思っていることを素直に伝えたのである。
フューリア教は質素を美徳とすると聞いているが、この豪華さは一体何なのだろうか。
アリアドネとステュアート、それぞれの前に皿が四つも並んでいる。
スープとパン、サラダ、メインの肉料理だ。
量はそれほど多くないが、どれも高級料理だということは一目でわかる品ばかり。
サラダ一つとっても、これほど瑞々しく鮮度が良い野菜は、カーン帝国の都の中心部まで回ってはこないのである。
肉料理に使われているソースもとても香りがよい。見るからによい部位を使った肉料理は、見ているだけでヨダレが溢れてくる。かなりの手間をかけて作られた品だろう。
見たことの無い料理もある。肉料理の皿に、生肉のようなものが添えてあるが、一体何なのだろうか。
ステュアートは、神に対する感謝を述べた。簡略化したもので、すぐに終わる。
「では、いただきましょうか」
「は、はい」
先にステュアートが飲み物を一口飲んだのを見て、アリアドネもグラスに口をつけた。
すっきりとした果実酒で、とても飲みやすい。
水代わりに普段飲む葡萄酒とは違って、苦みも酸味もなかった。
「このテリーヌ、とても美味しいですよ」
「テリーヌ……?」
ステュアートの手元を見ると、生肉のようなアレを切り分けて食べているところだ。
テリーヌというらしいそれを、ステュアートを真似て一口食べる。
涙が出るほどに美味しかった。
人の食べ物とは思えない。神々が食すべきおいしさである。
(もしかして、大神官様はそれなりに美味しいものを食べなければならないとか)
フューリア教のなかでも大神官は特殊な存在だとか、そんなことをここに来る途中の馬車のなかで聞いた。
神に仕える神官や巫女は生涯清らかな身であり続けるために独身でなければならないのだが、大神官は妻を娶ることを推奨されているらしい。
しかも、複数の妻を迎えることが出来るという話である。
フューリア教に何人大神官と呼ばれる者がいるのか知らないが、その待遇は特別どころではない気がした。
「カーン帝国の皇帝陛下は、とても素晴らしい方ですね」
呑み込むのが勿体なくて、口のなかで溶けてしまう料理たちを必死で味わっていると、ステュアートが口をひらいた。
アリアドネは、次元が違いすぎる話題に目を見張って固まってしまう。
(皇帝陛下なんて、拝見することすら叶わない方なのに……っ!)
まるで、いい天気ですねとでも言いたげな軽い口調で話をするステュアートに、アリアドネはただただ驚いた。
住む世界が違う人なんだわ、とそっとステュアートを伺うと、はたりと彼の紫色の瞳と視線が合う。
「この食事は、皇帝陛下のご厚意で特別に作って頂いているのです」
「そうなんですか」
道理で、豪華なわけだ。
と、思ったのだが。
「フューリア教は質素を美徳とする、という教えを守ってくださっているようです。私的には、せっかく異国に来たのですから豪華な食事を堪能してもよいと思うのですけれど」
(あ、質素になってこれなのね)
カーン帝国皇帝とステュアートのいう『豪華』とは一体どんなものなのだろう。
この食事が質素だとすれば、いつもアリアドネが食べているものは残飯以下ではないか。
(これ以上関わらないほうがいい気がするわ)
アリアドネはサッと目を伏せた。
あまりにも住む世界が違いすぎて、どうして自分がここにいるのかわからなくなってしまう。
短時間に色々なことが起きすぎて、記憶が混乱していた。
一つ一つ思い返して、やっと自分がステュアートにプロポーズされたのだと思い出す。
(そう。あまりにも淡々とした口調だったから、何か事情があるのかもしれないと思ったのよ)
アリアドネとしては、リリアンのこともあるから出来るだけステュアートの望みを叶えてあげたい。
事を荒立てたくないしできるだけ穏便に済ませたいという気持ちもあるが、本当に困っているのならばできる限りのことはしたいのだ。
人は助け合って生きていくものだと、アリアドネを育てた牧師から何度も聞いていたのである。
実際に、アリアドネは多くの人に助けられて生きてきた。
それは当たり前だと甘受してはならないことで、すべてのことに感謝をしているうちに、恵まれている己を誇らしく思うようになるのだ。
少なくとも、アリアドネはそう思っている。
牧師はそこまで詳しくは言わなかったし、誰に教えられたわけではない。
けれど、物心つく頃には、アリアドネのなかにそのような考えがあった。
「照れる姿も、可愛らしいですね」
「え?」
顔をあげると、ステュアートがにっこり微笑んだ。
社交辞令のような明らかな作り笑顔だが、それよりも、彼の言葉にアリアドネはぽかんとしてしまう。
(照れる? あ、下を向いたから……?)
決して照れているわけではないけれど、もしかしたらアリアドネの気持ちを和やかにしようとしてくれているのかもしれない。
だから、素直にお礼を言った。
「ありがとうございます」
「本当のことですから、礼には及びません。アリアドネさんは、とても純粋な方なのですね」
「そ、そうですか?」
アリアドネは、曖昧に微笑んだ。
「ええ、純粋でなければ、見ず知らずの魔獣をあのように大切になさいませんから」
くすりと微笑みながら言われて、アリアドネは頬を真っ赤にさせた。
リリアンを庇ったことを思い出したのだが、顔から火がでるほど恥ずかしい。
なにせ、アレは魔獣ではなかったのだ。大切に桶に鎮座させて名前までつけていた自分の記憶を消し去ってしまいたい。
「ただ、無知なだけです」
「あなたの優しさに私は救われたのですよ。正直に言うと、二度と見つからないと思っておりました。見つかっても、どこか千切れていたり、犬に嚙まれていたり、面白がって見世物にされていたり……最悪な状態はいくつでもあげられます。しかし、あなたが大切に保管していてくださったので、しっかりとくっつきそうです」
(く、くっつくって……どんな仕組みになってるのかしら)
ステュアートが己の股間をカチッとはめ込むところを想像してしまい、アリアドネは軽く首を振った。
だが彼の言うように、美しいままの状態で保護(?)できたことはよかったといえるだろう。もし心無い者が逸物を見つけていて、それを見世物にしているところを想像したアリアドネは居たたまれない気持ちになった。
アリアドネは誤魔化すように曖昧に微笑んで、メインの肉をすっとナイフで切り分けて口に運ぶ。ナイフであっさり切れたことからもわかるように、最高級の肉を使っているようだ。
気まずいし住む世界が違うけれど、今この料理だけは堪能してもいいだろう。
舌でとろける味わいに、うふふ、とつい笑みがこぼれた。
その後は、他愛ない話をぽつぽつと交わしながら、食事の時間が過ぎた。
「――アリアドネさん」
食事が終わって、王宮の使用人だろう者が食器を下げたあと。
ステュアートが口を開いた。
皿を下げたあとのテーブルに向けていた視線をずらすと、真剣な表情のステュアートがアリアドネを見つめている。
「あなたに、私の妻になって頂きたいのです。あなた以外に考えられません」
変わらず、ステュアートからは何か含みのようなものを感じるが、例え嘘をついていたとしても、彼の言葉すべてが偽りというわけではないだろう。
なぜならば、ステュアートの紫色の瞳が驚く程に透き通っているからだ。
(何か事情があるのかしら)
例えば――結婚したくない相手と結婚させられそうになっていて、その防波堤にアリアドネを使いたい、とか。
(……お困りなら、助けて差し上げたいけれど)
アリアドネの胸がズキンと痛んだ。
ラティスに振られてからまだ数時間しか経っていないのに、他の男と結婚するというのは心が受け付けないのだ。
アリアドネの心はまだラティスにある――。
それに、ステュアートは誤解をしている。
彼はアリアドネを純粋だと言ったのだが、それはどうやら、アリアドネが『魔獣を庇った』ことに起因しているらしい。
膝の上で、ぎゅっと親指を握り込むように拳を作った。
無意識のうちに逸らしていた視線を戻しながら、ぐっと顔を上げる。
「あ、あの! 違うんです」
「はい……?」
ステュアートが、微笑んだまま首を傾げていた。
「魔獣を、その、リリアンは……しかるべき施設に渡す予定でした。魔獣の飼育は禁じられていますから。……さっきリリアンを庇ったのは、私の……精神状態がいつもと異なっていたからです」
「と、おっしゃいますと?」
「……ずっと好きだった方に振られたんです」
ステュアートには、魔獣を庇ったアリアドネが心優しく見えたのだろうが、あの行動は決してそんな美談ではない。
アリアドネはただ、寂しかったのだ。
一瞬でも自分の心に空いた穴を埋めてくれたリリアンを失ったら、アリアドネがまた苦しくなる……そう感じたから、全力で彼らの前に立ちはだかったに過ぎない。
あのときは自覚がなかったが、今思えば、アリアドネは非常に利己的だったのだ。
それらの気持ちを、ゆっくりと言葉を選びながらステュアートに伝えた。
彼はかすかに目を見張っていたが、アリアドネがすべて話終えると顎に手を当てて「ふむ」と頷いた。
「あ、あの……そういうことなので」
わかりました、残念です。
落胆とそれ以上の軽蔑が混ざった声音で、ステュアートがため息混じりに言う――と、思っていた。
ステュアートは、すっと目を細めて柔らかく微笑んだ。
アリアドネはふっと自分を包む空気が変わったのをはっきりと感じた。まるで、真綿で撫でられるようなふわふわとした心地を覚える。
(……なに?)
真っ先に思い浮かべたのは、母体の羊水である。
当然母の腹にいた頃の記憶は無いが、おそらくふわふわと暖かなぬくもりに包まれていたに違いない。
今のように――。
「あなたは、とても優しくて思いやりがある方のようです。その真っ直ぐで清らかな心をもって、多くの人を笑顔にしてこられたのでしょう。……ですが、自分自身には厳しく接しておいでのようですね」
「えっ」
――ちょっと自分に厳し過ぎるんじゃないかい?
――気楽に行こう、アリアドネは自分を追い込み過ぎるんだ
――自分にも優しくしておやりよ
自分自身に厳しい、とこれまで幾度となく言われてきたことだ。
しかし皆それなりに付き合いのある人達だから、まさか会ったばかりのステュアートに見破られるとは思わなかった。
今頃になって、アリアドネはステュアートが大神官であることを理解した。
(……すごい方。私を妻にとお求めになるなんて、本当に困ってらっしゃるのね)
ステュアートは笑みを深めた。
「他者に優しく自分に厳しいけれど、利己的なところもある。アリアドネさんはじつに人間らしい方です。とても、素敵だと思っておりますよ」
「大神官様」
「ステュアート、とお呼びください」
「ステュアート様……」
アリアドネは視線を逸らすことができずに真っ直ぐステュアートを見つめる。
「アリアドネさん。私は、あなたのすべてを受け入れます」
アリアドネは、瞳を潤ませた。
ずっと欲しかった言葉だ。
こうして、彼は人々を救っているのだろう。
大神官は、きっとステュアートの天職なのだとアリアドネは思った。
ここまで彼に言わせて、心が動かないわけがない。
(私、卑怯だったわ。自分の愚かさを挙げ連ねて、ステュアート様に結婚を考え直して頂くつもりだったもの)
相手に言わせてはいけない。
アリアドネは、今度こそ真摯に答えようと気持ちを新たにして、ステュアートを見つめた。
そして。
「好みじゃないので、ごめんなさい!」
思っていることを素直に伝えたのである。
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