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第一章
1、
しおりを挟む朦朧とした意識の中で、暖かなぬくもりを感じた。
背中や肩を刺す痛みのなかで、そのぬくもりは唯一男の心を安らかにさせる。
彼には、どれだけ過去を遡っても得たことのない感覚だった。生まれてからずっと、奴隷として存在を許された彼にとっては。
ぼんやりとした意識がはっきりと覚醒したのは、朝日が顔に当たって眩しかったからだった。
目覚めると同時に、全身を襲う激痛と倦怠感を覚える。見覚えのない天井と、痛みを感じるという現実から己が生きていると知り、酷く落胆した。
様々な感情が、絶望にも似た仄暗さで男を包む。
記憶を遡ると、鞭で打たれたところからほとんど覚えていない。かすかに覚えている記憶は、死刑宣告をされ、断頭台に引っ張り上げられたところまでだ。
(俺はどうしたんだ)
そっと辺りを見回すと、やはり、見覚えのない場所だった。
簡素な部屋だ。ベッドと小卓、椅子、燭台しかない。傍に皮の擦り切れた茶色の鞄があるが、それもまた見覚えのないものだった。
身体を起こそうとして、激痛に悲鳴をあげた。喉から絞り出された悲鳴は雌鶏のようで、酷く滑稽だが、奴隷の彼にとって滑稽であることは、日常茶飯事でもある。
(……戻らなければ)
あるじのもとへ。
そうでなければ、また鞭で打たれるだろう。今度は、皮膚がそげるだけでは済まされないかもしれない。酷いときには骨まで見えることさえある。
ぞっとして身体を起こそうと再び腕を突っ張ったとき、ドアが音をたてて開いた。
「ちょっと、動かないで!」
女の声だが、そちらを振り向く余裕はなかった。痛みに唸って再びベッドに沈み込み、歯を食いしばって耐える。
今回は、随分と酷く痛めつけられたらしい。体罰には慣れているが、全身が火のように熱く頭がぼんやりとするのは、久しぶりのことだった。
ふと、陽光を遮るようにして、女の顔が覗き込んできた。
逆光で薄暗い女の顔は、見覚えのないものだ。歳は同じくらいか、少し年上だろう。
「横に向かせておいたはずだけど。上を向くと、背中が痛むでしょう? 俯ける?」
女が問いかけた。
何を企んでいるのだろう、と男は真っ先に彼女を警戒する。どんな命令でも従う覚悟はあるが、出来ないこともある。前のあるじのときのように。
女は男の腕に手を置いて、ベッドに片膝を置いた。
「支えるから、横になって。そのまま、むこうにごろんって転がるの」
せーの、と女が掛け声を発したので、言われるまま、体勢を変えた。想像以上の激痛に目の前が真っ赤になり、呼吸が浅くなる。悲鳴さえあげれずに、くぐもった唸り声が漏れた。
「息をして、ゆっくりと、長く」
言われるままに、呼吸を繰り返す。気のせいかもしれないが、少しだけ痛みが和らいだ気がした。女が男の口元に、小さなお椀を宛がった。
「飲んで。水分補給と、痛み止め。これを飲んだら痛みもマシになるわ」
喉がカラカラと張り付いていることを自覚して、溺れるように飲んだ。女は慣れた手つきで寝転がった男に水を飲ませ終えると、かろうじて身体にかかっていた薄い布団を退けた。初めて男は自分が全裸であることを知るが、元々まとっていたボロはただの布で、衣類と呼べるかも怪しい。
今更羞恥などという感情はなく、何をされるのか、何を命じられるのかと、それだけに男の意識は向いていた。
「化膿してるところは、しばらく様子を見るしかないわ。他は、治りつつあるから安心して。そうね、明日には熱も引くだろうし、二日もすれば歩けるようにもなると思う。あなたが、身体を鍛えていたからよ。治りが早いわ」
女はてきぱきと男の背中に何かを塗った。
そのころには、不思議と痛みを感じなかった。痛みというよりも、何も感覚がない。意識もぼんやり曖昧になってきて、男は眠るように意識を沈めた。
二日が過ぎて、男は支え無しで歩けるようになった。
男は一人で、女が持ってきたお膳に乗ったパンを食べている。パンは女の手のひらほども大きく、チーズやミルク、器にはジャガイモのスープまであった。
女は、これを置いて「食べておいて」と言い、どこかへ行った。
この二日間、女は男に食事を用意したが、いつだって、今回のようにご馳走だった。パンは多いし、ミルクやチーズがあるなんて贅沢すぎる。
こんなご馳走を与えて、何を求めているのだろうか。このあとに命じられるだろう何かに恐怖を覚えるが、食べても食べなくても、命令はくるだろう。ならば、食べておいたほうがいいに決まっている。
男は、生まれてから食べたこともないご馳走を、味わうようにゆっくりと食べ、ベッドに座った。腰に布団を巻いているが、衣類はない。元々纏っていたボロ布は、女が処分したと言っていた。血塗れで、使い物にならなかったそうだ。
足音が近づいてきて、女が戻ってきたことを知る。
現れたのはやはり女で、手には布で出来た鞄を持っていた。
「ただいま」
女は鞄から衣類を取り出した。貴族が着るような絹のものではないが、庶民が纏っている、袖やボタンのある衣類だ。夏らしい薄めのシャツは紺色で、スラックスは黒色をしている。どちらも大きく、男物のようだった。
「着てみて。寝てるときに採寸しておいたから、着れると思うんだけど」
「……俺が?」
思わずつぶやくと、女は目を見張った。空色の瞳が、くるりと可愛らしく動いた気がした。
ふと、女が微笑んだ。途端に部屋の空気が柔らかくなり、女の淡い金髪が陽光のように輝いたように見えた。
「なんだ、話せるのね。口がきけないのかと思ってたわ」
女は衣類をベッドに置くと、その隣に、麻の小袋を置いた。
「これは、旅費にあてて。宿代は払ってあるから。あなたはこれを着て、どこでも好きなところへ行くといいわ」
女は部屋の隅に置いてあった茶色い鞄を持つと、男を振り返った。
「じゃあね、元気で」
女はそのまま部屋を出て行った。
男はわけがわからずに、ベッドに座ったまま待った。何を待ってるのか自分でもわからないが、やがて、女が戻ってくるのを待っているのだと気づいた。
だが、日が暮れても女は戻ってこない。仕方なく用意された衣類を着て、少し窮屈だが贅沢な衣類の着心地に驚きながら、麻の小袋を持ち上げた。紐がついていたので首からさげて、服の下に小袋をしまう。
てっきりあの女が新しいあるじだと思っていたが、どうやら違うらしい。つまり、あるじは以前のまま、あの貴族の領主なのだろう。
領主から鞭で打たれたあと、処刑宣告をされたのに男はここにいる。領主は酷く怒っているだろう。
(戻らなければ)
男は、領主がいる街を目指した。予想より近く、隣街だったので少し歩くと着くことができたが、街へ入る直前になって、緑広がる野原を横断する細道で声を掛けられた。街から出てきた女で、手には売りに行くのだろう手作りの品物を持っている。
「あんた、何してんのさ!」
女は驚愕を貼り付けて男の方へ歩みを寄せたが、数歩で足を止めた。男に近づくことを恐れているようだ。
「アイナはどうしたのさ」
「アイナ?」
「あんたを助けた医者だよ。あんたに大金を払ったんだ。覚えてないのかい? あんたは処刑されるところだったんだよ。そこに、アイナが大金を出して保釈金にしたんだ」
男は、こぼれんばかりに目を見張る。
確かに自分は処刑されるはずだった。なぜ生きているのだと思っていたが、それは領主の気まぐれなどではなく、あの女がカネを出したからだったのだ。
「とにかく、あんたはこの街から追放されたんだよ。ここにいちゃまずいよ!」
男は慌てて来た道を戻った。
滞在していた宿で、宿主に女が向かった先を問う。宿の店主は気前よく教えてくれて、男は女が向かった先を知ることが出来たが、慌てた。
女はこの先にある大河を渡るつもりだという。
大河を渡ってしまったら、数多の街があちこちに点在するため、もう会うことが出来ないだろう。
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