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序章
新たな始まり
しおりを挟む夫、家族、親友、地位、プライド――。
数えきれないものを一度に失ったとき、アイナはどん底だった。
そんなアイナに、彼女は言った。
『何も失うものが無いなんて、幸せなこった。あとは這いあがるだけだねぇ』
【序章】
アイナは、肩をボキボキと鳴らして、貰った金銭を鞄にしまった。取り出した包帯やらの治療道具も、丁寧に箱にしまう。
「そういえば、明日公開処刑があるんですって」
農作業で怪我をした息子の肩に手を置きながら、老婆が言う。大黒柱の怪我が大したことないとわかり、ほっとして饒舌になったのだろう。先ほどまで、先生助けてくださいと涙ぐんでいたのに、今はカラカラと笑っている。
だが、話の内容は決して笑えるものではなかった。
「公開処刑なんて、今の時代に?」
「そうなのよ。二十年ぶりかしらねぇ。先生がこの街にいらしたのって、十年ほど前よね。ご存じないかしら」
「ないわ。そもそも、公開処刑は野蛮な行為よ」
法律で禁じられているわけではない。貴族は、己の領土で起きた諍いに対してとがめる権利があり、そこには死罪も含まれてる。今回のように、公開処刑となるのは余程の重罪人しかありえないはずだが、それでも晩年、公開処刑は野蛮な見世物として、世間から嫌煙されていた。
「それがよぉ、酷い話なんだ」
治療を受けた包帯だらけの腕を撫でながら、男が言う。五十歳ほどの男は、十ほども若い妻と三人の子ども、そして両親を養っている大黒柱だ。彼もまた、怪我が大したことなくて、心に余裕ができたのだろう。
「なんでも、領主様の娘を強姦したらしいぞ。最低な野郎だろう!」
聞いてもいないのに教えてくれた男は、正義感からか、自分の妻や娘にあてはめて考えてるのか、瞳に怒りを燃やしている。
だが、アイナは眉をひそめただけだった。彼の意見に賛同できない理由があったのだ。
アイナはかつて、縁あって領主の娘と会ったことがある。今は既婚者だが、当時の彼女はまだ可憐な令嬢だった。見目は可愛らしいが、腹のなかはとことん黒く、どれだけ残酷に美しい女を失脚させるかを常に考えているようだった。しかも極度の男好きで、いつだったか、自分を袖にした男爵を事故に見せかけて焼き殺そうとした事件もあった。
アイナは自宅に戻ると、往診用の鞄を置いた。
この街で暮らすことになったとき、アイナはこの家で一人暮らしをしていた医者に預けられた。六十近い女で、高齢だったが、動きは俊敏で獣のようだった。彼女が昨年亡くなるまで、アイナは十年近く助手を務め、彼女からあらゆる知識と経験を与えてもらった。
おかげで、彼女が亡くなった今も、こうして街で医者を続けて生活をしていられる。彼女は決して、アイナの母役ではなかった。甘やかすことは一切しなかったし、いつでも出ていけと言われていた。医学に失敗は許されないと、ミスをするたびに酷く打たれた。それでもアイナは彼女のもとで、医学を学び続けた。
楽な服装に着替えてから、夕食を取り、支度を済ませてさっさとベッドに入る。明日も早朝から往診があり、午前診療の時間に間に合わさなければならない。
ふと、思う。
午前の診療を早めに切り上げて、処刑を見に行こう。
アイナには確信があった。
死刑囚は、処刑されるほどの罪人ではないのだろう、と。だが、こうなってしまった以上、死刑囚を助けることはできない。方法がなくもないが、保釈金となる莫大なカネを積むか無実を立証するしかないのだから、無理な話だ。
(可哀そうな人)
これも、その人物の運命だ。
アイナは顔も知らない死刑囚を思いながら、同情した。
処刑は広場で行われた。
まるで死刑を祝うかのように咲き乱れる花々は、夏のこの時期に咲くものばかりで、春ほどではないが、辺りを暖かく包んでいる。
そよ風に揺れる穏やかさと、広場の奥に設置された断頭台の雰囲気がちぐはぐで、違和感の塊となってそこにあった。
アイナは民衆に紛れて、腕を組んで断頭台を見上げていた。
処刑執行人一人と、付き人が三人。そこに、記憶より頭に白いものが混じった領主と、その娘の姿がある。娘はアイナと同じ二十六歳だったが、アイナより遥かに可憐で若く見えた。悲しそうに視線を落としているが、口元は笑っている。
領主と娘は奥の椅子に腰をかけており、ゆったりと構えていた。
見物の民衆からは賛否のひそひそ声が聞こえたが、アイナはじっと断頭台を見つめた。やがて縄を掴んだ兵士が、死刑囚を引っ張ってきた。辺りにざわめきが起こる。
死刑囚は、背の高い大柄な男だった。顔立ちは整っているが表情に生気はなく、黒い髪は乱れている。一枚布に等しい、巻きつけるだけの簡素な衣類は見ているだけで腐臭がするような汚さだ。肌もあちこち汚れており、苔のような垢を貼り付けていた。
民衆がうめき声をあげる。どれもが嫌悪に満ちたものだったが、アイナが上げたうめき声は、己のこれからとるだろう行動についての諦めのうめき声だった。
(やっぱり、見に来るんじゃなかったわ)
けれど、こなかったらこなかったで、自分を責めたかもしれない。なぜなら、アイナは知っているからだ。領主とその娘がいかに性悪の腹黒であるかを。すなわち、死刑囚が罪人ではないかもしれない、ということを。
そして死刑囚を見て確信した。
彼はやはり、重罪人ではない。罪人は罪人の匂いがするからだ。罪人を見分けられないようでは、夜間診療を請け負うことはできない。
男は兵士に導かれるまま断頭台に上った。身を屈めると前髪で顔が見えなくなる。驚くほどに従順だった。
(訴えて。自分は処刑されるほどの罪を犯してないって。いいえ、無実だって)
けれど、アイナの願いは空しく、着々と準備は進む。
やはり、うめき声をあげた己は正しかったのだ、とアイナは観念した。
民衆の間にすっと伸びる手は、すぐに領主の目に止まったようだ。アイナは上げた手が震えないように力を込めて、領主へ叫ぶ。
「お待ちください!」
領主は不満そうに鼻を鳴らしたが、手を挙げているのがアイナであると知るや、慌てて処刑人を下がらせた。
「お父様?」
「お前もさがれ。そこの娘、お前の勇気に免じて一時的に保留にしてやろう。奥へ来い、話し合おうではないか」
領主は下卑た笑いを浮かべ、娘は不満そうに地団太を踏みながら去って行った。
アイナは、なんとか第一関門が突破できたことに対する安堵と、自らの今後を想像して、自嘲気味に口元を歪めた。
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