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背中合わせの運命
目覚めまでの葬送曲【前編】
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とある田舎町の山のふもとに建つ古い建物…。
周辺地域の医療を支える熾天使(してんし)総合病院。
病院裏手に大きな百日紅(さるすべり)の樹が、建物に添うように育っていた。
夏は盛りの時期、濃いピンク色の小さい花が枝々に散りばめられたように咲いている。
辺りには芳醇な果実のような香りを放っていた。
その樹木のかげに隠すように設置された窓がある。
その内側には一部の者しか知らない特別室が存在した。
院長の近藤先生と、彼と懇意にしている人物だけが部屋の存在を知ることができる。
もし、部屋の位置が分かったとしても入室方法を教えてもらわなければ、たどり着けないだろう。
それほど病院の内部は複雑に入り組んでいた。
近藤先生と懇意にしている者の中に『伊上 要』の名前がある。
しばらく空き部屋になっていた特別室は、今現在〝 わけあり 〟な患者によって独占されていた。
特別室のベッドのプレートには『羽月 凱(うつき がい)、25歳・男性』の文字。
約3ヶ月前に事故により重体。
端正な顔立ちに長い黒髪、細身の高身長。
頭部と右腕に包帯が厚く巻かれ、左足は膝下から消失。
伊上さんの実験対象であり、仕事を依頼した本人でもある。
羽月 凱は数ヶ月ほどだが、誰も体験したことのない貴重な経験をしていた。
スマートフォンという媒体の中で生きていたのである。
そこでは本名ではなくKAIと呼ばれていた…。
そんな凱…いやKAIの様子を怪訝そうに遠くから見つめる眼がある。
その者は彼を看護をしつつ〝 記憶を戻す 〟作業を完了させたばかりだった。
こちらはガラス玉のように大きな瞳をし、変わった容姿をしていた。
銀色のショートヘア、真っ白な肌、細く長い腕。
とても可愛いらしい女の子の顔を持っているが…。
均整のとれた上半身とは対照的に下半身はワゴンと直結していて足は無い。
ワゴンに付いた車輪で自由に移動ができ、下段には相変わらず多くの工具や材料が積んであった。
そう、介護していたのはアンドロイド(正式名称はKEY-002)通称『きーちゃん』。
伊上さんが造った、彼の片腕とも言える優秀なAIロボットだ。
わけあり患者、もといKAIの回復は順調そのものであった…。
ほんの約17時間前までは…。
実は異変が起きてから、ほぼ半日ほど何の医療行為を受けることなく静かに寝かされている。
結果、いまの様態は〝 極めて 〟と付け足したいぐらいの重篤な状態に置かれていた。
なぜ何の処置もせずに?
これには色々理由があるのだが…あえて1つに絞るとするなら…。
看ていた者がアンドロイド(きーちゃん)だったから、だろう。
AIロボットである〝 きーちゃん 〟の長所と短所が如実に現れた、結果だった。
きーちゃんが伊上さんから頼まれた作業内容は…。
KAIの生体の脳の中にデータ全て書き込むこと。
データとは以前スマホに移動するために取り出した〝記憶(心)〟と、スマートフォンの中でAIとして蓄積してきた〝データ(経験)〟のこと。
それらは順調にKAIの脳内へとインプットされた。
1日に適正だと思われる上限量の記憶とデータを時間軸を変えないようにゆっくりと順番に行う。
常時バイタル(脈拍・呼吸・脳波など)のチェックも欠かさず、変化があればすぐ中止できるように待機もしていた。
ほぼ休憩無し昼夜問わず、の1週間にも渡る過酷な作業だ。
これを1人で完璧に、こなせたのはアンドロイドだからだろう。
データの書き込みは問題なく全てが順調に終わっていた。
きーちゃんにミスはない…。
最後のデータをインプットし数時間経てば目を覚ます、と伊上さんは予想していた…。
理由は、この作業が初めてではなかったからである。
以前2度ほど、スマホの中の彼を生身の身体の方へ戻して病院を移転した。
簡易的にではあるがデータの書き換えをし、問題なく意識を取り戻し記憶にも問題は無かった。
今回もそのつもりで見守っていたのだ。
しかし…KAIは、ほぼ1日経っても身動き1つしない。
この予想外のこと〝 目を覚まさない 〟という状態がアンドロイドにとって理解しがいたい現象だった。
だからと言ってこの約17時間、何もしていないわけではない。
彼女なりの方法で次の行動を決めていたのだ。
アンドロイドは状況を把握して数値化し、データにして予想や結果を導く。
つまり、どう対処するべきなのかを、問題が起こってからずっと計算していたのだ…。
その計算が終わるまでかなりの時間を要してしまっただけなのである。
もし、近くに人間がいて一緒に看ていたら違っていただろう。
人の目に映るKAIの様子は〝 生気を全く感じない 〟のだ。
常時、バイタルを表す機器も、低くはあれど多少の誤差の範囲だった。
体に異常はない、よって数値にはまだ表れはしない。
では、なぜ目覚めない?どうして彼の生気は失われてしまった?
その原因は1つ…それは〝 心 〟にあった。
人間の脳はかなり複雑で、特に心(感情)というのは厄介な代物だ。
時には、思う・信じるだけで難病が治ってしまうが、その逆もある。
恐怖・無力感などマイナスの感情が自身の身体を内側から壊してしまう。
…今、現在のKAIの状態がこれである。
つまり、アンドロイド(造り物)の〝 数値で測ることで理解している眼 〟では見抜くことは不可能だったということ…。
最も、もっと状態が悪化してくれば如実に数値へ影響が出てくるだろうが、そうなってからでは救うことは難しい。
結果論となってしまうが、アンドロイド特有の仕方の無い短所であった。
とにかく…どんな時でも朝は必ず来る。
地球のメカニズムが変化しない限り。
熾天使総合病院の特別室にも光が差し込み始めた。
太陽が昇り、夜の冷気に温度が灯され、暖かさに誘われるように生き物が動き始める。
キラキラと光る朝の輝きは全ての存在に降り注いだ。
ヒヨドリが鳴き声を漏らしながら、百日紅の今朝1番に咲いた若い花をつつく。
新しい一日が始まる。その時、そうした瞬間。
誰の上にも平等に降り注ぐ、夏の朝の日差し。
それが部屋のカーテンの隙間から漏れ入り、一筋の白い光となってベッドで眠る彼の顔を照らす。
青白い肌に、ストレートな黒髪、ほどよく整った顔立ちが黄金色に包まれていた。
天使のような寝顔、と表現しても大げさではないほど彼は穏やかで美しい…。
生と死の際にいるからなのか、人ではないような存在感があった。
スマホの中にいた時の彼に近いとも言えるかもしれない。
淡々と一定のリズムを刻むように繰り返される静かな呼吸。
バイタルを示す電子音ですらリズムのように感じる空間。
時が此処だけ止まっているかのようだ。
きーちゃんは長い計算をやっと終え1つの決断を出すことができた。
ほんの少し安堵したような表情を見せ瞬きを1つする。
ワゴンの中に手を入れて『緊急用』のスマホを取り出し、電話を掛けた。
とぅるるる…とぅるる…ガチャ。
『…どうした? こんなに早くに。』
起きたばかりなのだろう、伊上さんの掠れた少しだけ低い声。
『作業ハ 無事ニ 17時間前、終了シマシタ。
デスガ、マダ 彼ハ目覚メズ 動キマセン。』
きーちゃんは彼から目を逸らさずに端的に説明する。
『あー。……了解。
みうに食事の用意とメモを残したら向かう。』
ブツッ。電話は切れた。
きーちゃんは用事の終わったスマホを丁寧にワゴンの元の場所に戻すと、KAIが観察できる位置にある壁際の充電スペースへ移動し待機する。
長考した分の消費した電力を補っていた。
しばらくして窓の外の百日紅の木の枝の一部が大きく揺れてヒヨドリが飛び立つ。
勢いで散った花が窓に影を落とす。
騒がしかった鳴き声は消え、彼に繋がれたバイタル(心電図・脳波計、など)の機器が命のカウントをする音だけがやけに大きく聞こえ部屋に広がった。
そのリズムが唯一〝 生きている 〟と教えてくれている…。
室内には、もう1つ低い特殊な機械音も混じっていた。
KAIを囲む機器の中に通常の病室にはない、ひときわ目立つ巨大な機材が並ぶ。
タワー型のハードディスク(10基搭載)が2台と、それと高速処理ができる業務用のパソコン。
それらはベッドの周囲をほぼ埋め尽くす大きさだ。
パソコンの本体から伸びる長いケーブルをたどるとベッドの上へと伸びており…。
その先はKAIの頭部の包帯の隙間(後頭部付近)へと消えていた。
後頭部の包帯の隙間からは〝 埋め込まれた端子 〟が露出し、ケーブルはそこに直接繋がっている。
〝 埋め込まれた端子 〟は、伊上さんによって行われた人体改造(インプラント)だ。
これを使い彼の記憶(心)をAIとして変換するのはもちろん、事故によって話せなくなった彼の言葉をパソコンで表示させたりもできる。
外部(見た目)は1つの小さな金属の端子であるが内部(脳内)ではコードが複雑に張り巡らされている。
その内訳を大きく分けるとこうだ。
脳の後頭部にある海馬(記憶)に1本、海馬近くのウェルニッケ中枢(言語)近くに1本、大脳皮質(感覚・思考)に2本…(他の部位にも数本)とコードが埋め込まれている。
それらは頭蓋骨の内側へと這うように伸ばされ、最終地点は後頭部にある1つの端子に全て繋がっている。
ちなみに脳内のコードは数年経てば体内に吸収される素材だ。
〝 埋め込まれた端子 〟を取り外すときは外部にある金属製の端子だけで済む。
この複雑な内視鏡手術を終えたとき、伊上さんは『マウスより大きいから楽だった』と感想を述べたとか…。
待機モードになっていた きーちゃんの耳が床下から微弱な音を感知した。
部屋の片隅で休憩をしたまま、ふと顔を上げる。
ほんの少しして足元にある地下の扉が開き、特別室の床に近藤先生が顔を覗かせた。
短髪の白髪に、浅黒い肌、目じりの深いシワが印象的だ。
今日は白衣を着ているが院長の威厳はあまりない。
それは人懐っこい笑顔のせいだろう。
「要から連絡があってね。わけあり君が大変なんだって?」
床下の扉を全開にし、70歳とは思えない機敏な動きで床から這い上がる。
その勢いに驚いて、とても小さな物体が部屋内を飛び回りどこかの物陰に身を潜めたが誰も気付かない。
それは院長の肩に乗っていた赤と黒のコントラストが可愛い、てんとう虫だった。
日課の朝の散歩をしたときにでも連れてきてしまったのだろう。
近藤先生は、よろけることもなく立ち上がる。
その場で開いていた扉を足で軽く蹴ると床下の扉はゆっくりと閉じていった。
両手をパンパンと叩いて白衣も軽くホコリを払いつつ、忙しなく壁際へと歩いて行く。
スタスタとスリッパの音を立てながら急ぐ手つきで右手を伸ばした。
部屋の隅の方に金属製の簡素なボタンがあり、それに手をかけると慣れた風に押す。
すぐにボタンの隣にあった棚が音も無く横に移動し、エレベーター(扉なし)が出現した。
乗っていた医療用ワゴン(機材が載っている)を引き出し、再びボタンを押して棚を元の位置に戻す。
一連の流れるような動作は迷いが無かった。
『近藤先生ハ ソチラノ エレベーターデ 来テクダサイ。
ト、要(カナメ)ガ 言ッテ マシタ。』
そう言いながら、きーちゃんはKAIから視線を外さない。
「要はワシのこと年寄り扱いしすぎじゃ…。
それに…エレベーターは部屋の中からしか開かんじゃないか。」
少し機嫌を悪くしたような口調で近藤先生は医療用の手袋をはめ用意を始める。
ガチャガチャと音を立てながら用具を金属性のトレーに並べた。
トレーの中からアンプル(ガラス製で密封された薬剤の入った小瓶)を取り出し丁寧に上部を折るとシリンジ(注射器)の針で液剤を吸い上げ、殻になったアンプルをトレーに戻す。
その注射器を歩きながら指で弾き空気を抜くとKAIのベッドに近付いた。
「全く…要の性格の悪さは父親に似すぎて気持ち悪いくらいじゃの。」
そんな風に陰口を言いつつも頬が緩み顔に深いシワが寄って優しい顔になる。
幼い頃の伊上さんの姿を思い出したみたいだ。
父親の陰にいつも隠れていた人見知りだった彼を…。
『ソレヲ 注射スルノデスカ?
要ハ マダ 来テ イマセンヨ。』
近藤先生の予想外の行動に困ったように言う きーちゃん。
「バイタルは許容範囲で安定してるのだろう?」
真剣な表情に戻り、威圧感すらにじませながら注射器を片手に きーちゃんに振り向きながら聞いた。
『…ソウデス。起キナイダケデス。』
「うむ。これはゾルピデム酒石塩酸じゃ。
通常は不眠症に用いられるのだが…。」
近藤先生はそう言いながらKAIのむき出しになっている手を軽く叩いた。
次に手首を持ち上げて少し高い位置から落とす。
何の反応もない。
痛みや振動による生体反応なし。
意識レベルは極めて悪い。
要の予想通りだろう…。
なら、たぶんコイツが効くじゃろう。
『! ソレハ 大変デス! モット 起キナク ナリマス!』
慌てて充電を抜き、ワゴンを走らせ近藤先生に近付いた。
すぐ隣にやってきた きーちゃんにニヤリと笑いかけ、
「わけあり君は夢から覚めることが出来ないのだ。
意識障害を起こしているんだろう。
放っておけばベジ(植物状態)になる。
だから、コイツで脳に刺激を送ってみるんじゃ。」
そう言い終わると手馴れた様子で点滴のゴムの部分に注射した。
ゾルピデムは点滴の液剤と混ざり合い、ゆっくりとKAIの体に染みていく。
彼の青白い顔は整いすぎてるせいか造り物のようだった。
周辺地域の医療を支える熾天使(してんし)総合病院。
病院裏手に大きな百日紅(さるすべり)の樹が、建物に添うように育っていた。
夏は盛りの時期、濃いピンク色の小さい花が枝々に散りばめられたように咲いている。
辺りには芳醇な果実のような香りを放っていた。
その樹木のかげに隠すように設置された窓がある。
その内側には一部の者しか知らない特別室が存在した。
院長の近藤先生と、彼と懇意にしている人物だけが部屋の存在を知ることができる。
もし、部屋の位置が分かったとしても入室方法を教えてもらわなければ、たどり着けないだろう。
それほど病院の内部は複雑に入り組んでいた。
近藤先生と懇意にしている者の中に『伊上 要』の名前がある。
しばらく空き部屋になっていた特別室は、今現在〝 わけあり 〟な患者によって独占されていた。
特別室のベッドのプレートには『羽月 凱(うつき がい)、25歳・男性』の文字。
約3ヶ月前に事故により重体。
端正な顔立ちに長い黒髪、細身の高身長。
頭部と右腕に包帯が厚く巻かれ、左足は膝下から消失。
伊上さんの実験対象であり、仕事を依頼した本人でもある。
羽月 凱は数ヶ月ほどだが、誰も体験したことのない貴重な経験をしていた。
スマートフォンという媒体の中で生きていたのである。
そこでは本名ではなくKAIと呼ばれていた…。
そんな凱…いやKAIの様子を怪訝そうに遠くから見つめる眼がある。
その者は彼を看護をしつつ〝 記憶を戻す 〟作業を完了させたばかりだった。
こちらはガラス玉のように大きな瞳をし、変わった容姿をしていた。
銀色のショートヘア、真っ白な肌、細く長い腕。
とても可愛いらしい女の子の顔を持っているが…。
均整のとれた上半身とは対照的に下半身はワゴンと直結していて足は無い。
ワゴンに付いた車輪で自由に移動ができ、下段には相変わらず多くの工具や材料が積んであった。
そう、介護していたのはアンドロイド(正式名称はKEY-002)通称『きーちゃん』。
伊上さんが造った、彼の片腕とも言える優秀なAIロボットだ。
わけあり患者、もといKAIの回復は順調そのものであった…。
ほんの約17時間前までは…。
実は異変が起きてから、ほぼ半日ほど何の医療行為を受けることなく静かに寝かされている。
結果、いまの様態は〝 極めて 〟と付け足したいぐらいの重篤な状態に置かれていた。
なぜ何の処置もせずに?
これには色々理由があるのだが…あえて1つに絞るとするなら…。
看ていた者がアンドロイド(きーちゃん)だったから、だろう。
AIロボットである〝 きーちゃん 〟の長所と短所が如実に現れた、結果だった。
きーちゃんが伊上さんから頼まれた作業内容は…。
KAIの生体の脳の中にデータ全て書き込むこと。
データとは以前スマホに移動するために取り出した〝記憶(心)〟と、スマートフォンの中でAIとして蓄積してきた〝データ(経験)〟のこと。
それらは順調にKAIの脳内へとインプットされた。
1日に適正だと思われる上限量の記憶とデータを時間軸を変えないようにゆっくりと順番に行う。
常時バイタル(脈拍・呼吸・脳波など)のチェックも欠かさず、変化があればすぐ中止できるように待機もしていた。
ほぼ休憩無し昼夜問わず、の1週間にも渡る過酷な作業だ。
これを1人で完璧に、こなせたのはアンドロイドだからだろう。
データの書き込みは問題なく全てが順調に終わっていた。
きーちゃんにミスはない…。
最後のデータをインプットし数時間経てば目を覚ます、と伊上さんは予想していた…。
理由は、この作業が初めてではなかったからである。
以前2度ほど、スマホの中の彼を生身の身体の方へ戻して病院を移転した。
簡易的にではあるがデータの書き換えをし、問題なく意識を取り戻し記憶にも問題は無かった。
今回もそのつもりで見守っていたのだ。
しかし…KAIは、ほぼ1日経っても身動き1つしない。
この予想外のこと〝 目を覚まさない 〟という状態がアンドロイドにとって理解しがいたい現象だった。
だからと言ってこの約17時間、何もしていないわけではない。
彼女なりの方法で次の行動を決めていたのだ。
アンドロイドは状況を把握して数値化し、データにして予想や結果を導く。
つまり、どう対処するべきなのかを、問題が起こってからずっと計算していたのだ…。
その計算が終わるまでかなりの時間を要してしまっただけなのである。
もし、近くに人間がいて一緒に看ていたら違っていただろう。
人の目に映るKAIの様子は〝 生気を全く感じない 〟のだ。
常時、バイタルを表す機器も、低くはあれど多少の誤差の範囲だった。
体に異常はない、よって数値にはまだ表れはしない。
では、なぜ目覚めない?どうして彼の生気は失われてしまった?
その原因は1つ…それは〝 心 〟にあった。
人間の脳はかなり複雑で、特に心(感情)というのは厄介な代物だ。
時には、思う・信じるだけで難病が治ってしまうが、その逆もある。
恐怖・無力感などマイナスの感情が自身の身体を内側から壊してしまう。
…今、現在のKAIの状態がこれである。
つまり、アンドロイド(造り物)の〝 数値で測ることで理解している眼 〟では見抜くことは不可能だったということ…。
最も、もっと状態が悪化してくれば如実に数値へ影響が出てくるだろうが、そうなってからでは救うことは難しい。
結果論となってしまうが、アンドロイド特有の仕方の無い短所であった。
とにかく…どんな時でも朝は必ず来る。
地球のメカニズムが変化しない限り。
熾天使総合病院の特別室にも光が差し込み始めた。
太陽が昇り、夜の冷気に温度が灯され、暖かさに誘われるように生き物が動き始める。
キラキラと光る朝の輝きは全ての存在に降り注いだ。
ヒヨドリが鳴き声を漏らしながら、百日紅の今朝1番に咲いた若い花をつつく。
新しい一日が始まる。その時、そうした瞬間。
誰の上にも平等に降り注ぐ、夏の朝の日差し。
それが部屋のカーテンの隙間から漏れ入り、一筋の白い光となってベッドで眠る彼の顔を照らす。
青白い肌に、ストレートな黒髪、ほどよく整った顔立ちが黄金色に包まれていた。
天使のような寝顔、と表現しても大げさではないほど彼は穏やかで美しい…。
生と死の際にいるからなのか、人ではないような存在感があった。
スマホの中にいた時の彼に近いとも言えるかもしれない。
淡々と一定のリズムを刻むように繰り返される静かな呼吸。
バイタルを示す電子音ですらリズムのように感じる空間。
時が此処だけ止まっているかのようだ。
きーちゃんは長い計算をやっと終え1つの決断を出すことができた。
ほんの少し安堵したような表情を見せ瞬きを1つする。
ワゴンの中に手を入れて『緊急用』のスマホを取り出し、電話を掛けた。
とぅるるる…とぅるる…ガチャ。
『…どうした? こんなに早くに。』
起きたばかりなのだろう、伊上さんの掠れた少しだけ低い声。
『作業ハ 無事ニ 17時間前、終了シマシタ。
デスガ、マダ 彼ハ目覚メズ 動キマセン。』
きーちゃんは彼から目を逸らさずに端的に説明する。
『あー。……了解。
みうに食事の用意とメモを残したら向かう。』
ブツッ。電話は切れた。
きーちゃんは用事の終わったスマホを丁寧にワゴンの元の場所に戻すと、KAIが観察できる位置にある壁際の充電スペースへ移動し待機する。
長考した分の消費した電力を補っていた。
しばらくして窓の外の百日紅の木の枝の一部が大きく揺れてヒヨドリが飛び立つ。
勢いで散った花が窓に影を落とす。
騒がしかった鳴き声は消え、彼に繋がれたバイタル(心電図・脳波計、など)の機器が命のカウントをする音だけがやけに大きく聞こえ部屋に広がった。
そのリズムが唯一〝 生きている 〟と教えてくれている…。
室内には、もう1つ低い特殊な機械音も混じっていた。
KAIを囲む機器の中に通常の病室にはない、ひときわ目立つ巨大な機材が並ぶ。
タワー型のハードディスク(10基搭載)が2台と、それと高速処理ができる業務用のパソコン。
それらはベッドの周囲をほぼ埋め尽くす大きさだ。
パソコンの本体から伸びる長いケーブルをたどるとベッドの上へと伸びており…。
その先はKAIの頭部の包帯の隙間(後頭部付近)へと消えていた。
後頭部の包帯の隙間からは〝 埋め込まれた端子 〟が露出し、ケーブルはそこに直接繋がっている。
〝 埋め込まれた端子 〟は、伊上さんによって行われた人体改造(インプラント)だ。
これを使い彼の記憶(心)をAIとして変換するのはもちろん、事故によって話せなくなった彼の言葉をパソコンで表示させたりもできる。
外部(見た目)は1つの小さな金属の端子であるが内部(脳内)ではコードが複雑に張り巡らされている。
その内訳を大きく分けるとこうだ。
脳の後頭部にある海馬(記憶)に1本、海馬近くのウェルニッケ中枢(言語)近くに1本、大脳皮質(感覚・思考)に2本…(他の部位にも数本)とコードが埋め込まれている。
それらは頭蓋骨の内側へと這うように伸ばされ、最終地点は後頭部にある1つの端子に全て繋がっている。
ちなみに脳内のコードは数年経てば体内に吸収される素材だ。
〝 埋め込まれた端子 〟を取り外すときは外部にある金属製の端子だけで済む。
この複雑な内視鏡手術を終えたとき、伊上さんは『マウスより大きいから楽だった』と感想を述べたとか…。
待機モードになっていた きーちゃんの耳が床下から微弱な音を感知した。
部屋の片隅で休憩をしたまま、ふと顔を上げる。
ほんの少しして足元にある地下の扉が開き、特別室の床に近藤先生が顔を覗かせた。
短髪の白髪に、浅黒い肌、目じりの深いシワが印象的だ。
今日は白衣を着ているが院長の威厳はあまりない。
それは人懐っこい笑顔のせいだろう。
「要から連絡があってね。わけあり君が大変なんだって?」
床下の扉を全開にし、70歳とは思えない機敏な動きで床から這い上がる。
その勢いに驚いて、とても小さな物体が部屋内を飛び回りどこかの物陰に身を潜めたが誰も気付かない。
それは院長の肩に乗っていた赤と黒のコントラストが可愛い、てんとう虫だった。
日課の朝の散歩をしたときにでも連れてきてしまったのだろう。
近藤先生は、よろけることもなく立ち上がる。
その場で開いていた扉を足で軽く蹴ると床下の扉はゆっくりと閉じていった。
両手をパンパンと叩いて白衣も軽くホコリを払いつつ、忙しなく壁際へと歩いて行く。
スタスタとスリッパの音を立てながら急ぐ手つきで右手を伸ばした。
部屋の隅の方に金属製の簡素なボタンがあり、それに手をかけると慣れた風に押す。
すぐにボタンの隣にあった棚が音も無く横に移動し、エレベーター(扉なし)が出現した。
乗っていた医療用ワゴン(機材が載っている)を引き出し、再びボタンを押して棚を元の位置に戻す。
一連の流れるような動作は迷いが無かった。
『近藤先生ハ ソチラノ エレベーターデ 来テクダサイ。
ト、要(カナメ)ガ 言ッテ マシタ。』
そう言いながら、きーちゃんはKAIから視線を外さない。
「要はワシのこと年寄り扱いしすぎじゃ…。
それに…エレベーターは部屋の中からしか開かんじゃないか。」
少し機嫌を悪くしたような口調で近藤先生は医療用の手袋をはめ用意を始める。
ガチャガチャと音を立てながら用具を金属性のトレーに並べた。
トレーの中からアンプル(ガラス製で密封された薬剤の入った小瓶)を取り出し丁寧に上部を折るとシリンジ(注射器)の針で液剤を吸い上げ、殻になったアンプルをトレーに戻す。
その注射器を歩きながら指で弾き空気を抜くとKAIのベッドに近付いた。
「全く…要の性格の悪さは父親に似すぎて気持ち悪いくらいじゃの。」
そんな風に陰口を言いつつも頬が緩み顔に深いシワが寄って優しい顔になる。
幼い頃の伊上さんの姿を思い出したみたいだ。
父親の陰にいつも隠れていた人見知りだった彼を…。
『ソレヲ 注射スルノデスカ?
要ハ マダ 来テ イマセンヨ。』
近藤先生の予想外の行動に困ったように言う きーちゃん。
「バイタルは許容範囲で安定してるのだろう?」
真剣な表情に戻り、威圧感すらにじませながら注射器を片手に きーちゃんに振り向きながら聞いた。
『…ソウデス。起キナイダケデス。』
「うむ。これはゾルピデム酒石塩酸じゃ。
通常は不眠症に用いられるのだが…。」
近藤先生はそう言いながらKAIのむき出しになっている手を軽く叩いた。
次に手首を持ち上げて少し高い位置から落とす。
何の反応もない。
痛みや振動による生体反応なし。
意識レベルは極めて悪い。
要の予想通りだろう…。
なら、たぶんコイツが効くじゃろう。
『! ソレハ 大変デス! モット 起キナク ナリマス!』
慌てて充電を抜き、ワゴンを走らせ近藤先生に近付いた。
すぐ隣にやってきた きーちゃんにニヤリと笑いかけ、
「わけあり君は夢から覚めることが出来ないのだ。
意識障害を起こしているんだろう。
放っておけばベジ(植物状態)になる。
だから、コイツで脳に刺激を送ってみるんじゃ。」
そう言い終わると手馴れた様子で点滴のゴムの部分に注射した。
ゾルピデムは点滴の液剤と混ざり合い、ゆっくりとKAIの体に染みていく。
彼の青白い顔は整いすぎてるせいか造り物のようだった。
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