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夢の終わり、動き出す瞬間
熾天使に護られて【前編】
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次にKAIと向かう土地は聞いたこともないほど遠い田舎だった。
正直…夕方近くから行くのは気が引ける。
デート帰りに寄るような場所でもない。
1日が過ぎた現在…家で待っている〝 期日が迫ったレポート 〟という重圧が、ひしひしと現実味を帯びてきていた。
けれど今日のKAIは、そんな みうの状況を話しても予定を変更しようとしなかった。
遠くまで行かなければいけない理由は何も話してくれない。
不安はない。とは言い切れないが彼の態度が、前に伊上さんから聞いた〝 真実 〟と関係していると思う。
レポートは明日帰っても2日ある…。
何とかなるだろう。
駅の一番端っこの階段をゆっくりと降りた。
帰りとは逆行きの電車のホームの一番端で、ビルの間に闇が迫る空を眺める。
肌に湿り気のある風が吹き付けてきた。
太陽の暖かさが少し遠のいて、楽しかった休日の終わりを感じている。
夜はきっと肌寒い。
甲高い掠れる音を立てて鈍行列車が目の前に停車した。
エアーの抜ける音と共に扉が開く。
中を覗くと1両に数人ずつしかいない。
夕方以降に今から北へ向かえば、今日は公共機関を使って帰ってくることは出来ないだろう。
停車時間は2分。少し長い停車が乗ることを躊躇わせる(ためらわせる)。
ここでアパートに帰れば日常が戻るのかもしれない。
そんな馬鹿な考えがよぎった。
頭を軽く振って苦笑する。
いや…違う。
ここで帰れば後悔する。絶対にだ。
顔を上げて鈍行列車に乗り込み、近くの席に座った。
少し硬い座面に深く沈む。
『みう。……ありがとう。』
イヤホンから伝わるKAIのほっとしたような声、そこからあふれる気持ち。
彼の顔を見れずに閉じたままのスマホを両手で強く握る。
電車の中から夕焼けの街を眺めつつ、何度も乗り継ぎし1時間半ほど過ぎた。
目的の駅に着いた頃にはすっかり陽が落ちている。
見聞きしたこともない田舎町の駅を出て、そこから次はバスに揺られること20分。
バスは最終で今日の帰りの便は…もちろん無い。
停留所からでこぼこのアスファルトを少し歩いて、やっと目的地に到着した。
あたりは真っ暗で星がよく見える。
目の前には少し寂れた感じの街の医院。
山の手前に建っていて灰色がかった無機質な姿は何となく不気味だ。
壁には無数のひび割れや、点々と染み付いた黒ずみが建物の歴史を物語っている。
正面から見える窓に1つの灯りも無く人気を全く感じられない…廃墟と言われたら信じてしまうだろう。
ただ唯一の〝 病院として機能している 〟証明の証は看板だけだった。
〝 熾天使(してんし)総合病院 〟と入口の上部に掲げられた看板が時々点滅しながらオレンジ色に光っていた。
そうとう古い看板なのだろう。文字もかすれ気味だ。
熾天使、この存在を みうは偶然にも知っている。
大学の講義のとき先生が宗教学の1つとして話してくれたのを覚えていた。
熾天使…天使の最高位にあたる階級を表す言葉。見た目は人の姿を成していない。
6枚の翼と2つの頭を持ち、顔と身体を4枚の翼で隠し残りの2枚で飛翔する。
神への愛と情熱で身体が燃えているので〝 熾(燃える) 〟天使と呼ぶ。
神の次に汚れのない清らかな存在で一介の天使は触れることすら許されていない。
(余談だが…悪魔の王ルシファーが堕天する前は熾天使だった。12枚の美しい翼を持っていた。)
いわゆる一般的な天使のピュアなイメージとはかけ離れている。
その名の通り慈悲深いと捉えるか…ルシファーの隠れ蓑的な意味合いと取るのか…。
病院として奇抜な名称だ。
言葉の意味を知っていたが為よけいに戸惑ってしまう。
おまけにプラスチック製と思われる看板は黄ばみ、所どころ割れている。
中の電球に群れた虫達の影が容易に確認できた。
屋根と看板の間に巣くっている女郎蜘蛛がより一層、恐怖を駆り立てる。
生温い風が みうの全身を撫でていった。
『診療時間は終わっている。ここは表だから裏口から入ろう。』
KAIの声が聞けて少し安心する。
「か、勝手に入って…も? いいのかな。」
『ちゃんと話は通してある。
右側から回っていけば道なりに裏口に出る。簡単な道だ。』
頷きながら指示通りに進む。
足元は暗く見えない上に、大きな砂利が敷き詰められていてパンプスでは歩きづらい。
大きな蛾や、うるさく飛ぶカナブンに驚かされながらも無事に裏口らしき場所に出た。
小さな入口にあったインターフォンを押し待ってみる。
しばらくして、しゃがれているけど優しい声がし扉が開いた。
軽く会釈をする。
と、お爺さんが扉から顔だけ出す。
建物の不気味さからは想像できないほど優しくて人懐っこそうな笑顔だ。
「待っていたよ。さぁ、入りなさい。」
周りを警戒するように視線を動かすと みうの肩へ手を伸ばし中へと引き込み扉を閉めた。
すぐ後ろで鍵を閉める音が響く。
「…ここで、無駄なおしゃべりは厳禁じゃ。少しばかり我慢しなさい。」
そう告げると長い廊下へ向けて歩き出す。
付いて来れば分かるという態度で病院の奥へと消えてしまうその姿を早足で追いかけた。
お爺さんと みうの足音だけが廊下に響く…。
院内は最低限の灯りしかなかった。
奥へ奥へと進んで行くと所どころ壁や床の色の違いに気付いた。
途中で増設を繰り返した建物なのだろう。
外観からは想像できないほど広く迷路のようだ。
ずいぶん歩いた頃…。
お爺さんの歩く速度が弱まって、こちらを振り返りながら話しかけてきた。
「…お嬢さんのほうが少しばかり遅かったみたいじゃ。もう先に来てるぞ。」
「えっ。誰が…?」
緊張と恐怖と早足で少し息が上がり、詰まったような声が出た。
コツコツコツ…コッ。
お爺さんの靴が止まり1つの病室の前で振り返った。
その扉にはめられた擦りガラスが柔らかい色に染まっていて中に人がいることが分かる。
「お前さんが良く知る者だ。」
そう言いながら病室の扉を引いた。
お爺さんの身体が病室に消えていった…。
慌てて駆け寄り開かれた病室の扉に手を掛け―――
部屋の中に身を乗り出し、目に映った光景に息を飲んだ。
少し古そうだが現役と思わしき機器の数々が音や光を放って稼動している。
それらは奥のベッドに寝ている患者に全て繋がれているようだ。
入口近くのソファーには白衣を着た伊上さんが座っていた…。
部屋の中の柔らかく暖かい空気に包まれる。
「い、伊上さん!」
思わず見知った顔に声を掛けてしまう。
「やっと到着ね。お疲れ様。
案内してくれたのは私の知り合いなの。この病院の院長。」
伊上さんが立ち上って近付いてきて、いつもの微笑で話しかけてきた。
慌てて後ろを振り返ってお爺さんに再びお辞儀をする。
「あ、海(みう)です。」
「院長の近藤だ。要(かなめ)の父親はワシの教え子でな…。
海さん、遠いところよく来たね。」
目じりのシワが深くなって微笑む。
笑うと優しさがにじみ出る。
「さ、みうちゃん。長い話になるからこっちに座って。」
ベットの近くにある椅子に腰掛けるよう伊上さんが促してきた。
次にスマホをスピーカーにして持つように指示される。
院長は扉付近の長椅子にゆっくりと腰掛けた。
伊上さんが周りを見回して〝 準備が整ったわね 〟と みうの隣に立った。
KAIが静かに会話の口火を切る。
『…みう。ここがゴールだ。
説明もせず、いきなり連れてきて悪かった。
いま起きている真実を話すよ。』
伊上さんが頷きながら みうの肩に手を掛けて
「そうね…。その前に〝 彼 〟の説明が必要じゃない?」
とベッドの上へと視線を送った。
ベッドに横になる人物…伊上さんが言う〝 彼 〟は、目の部分を布で隠されて静かに眠っているようだった。
規則正しく胸が上下している。
左腕には点滴が刺してあり、他にも機械から伸びた線がいくつか身体に繋がれていた。
伊上さんが彼の頭付近で みうを呼ぶ。
椅子から立ち上がり伊上さんの隣に立つと、彼の目にかかっている布をそっと外した。
端正な目元と眉が現れ、綺麗な鼻筋と薄い唇、包帯で巻かれた頭部の隙間から黒髪がのぞく。
閉じられた瞳にかかる長い睫毛が息をする度にほんの少しだけ揺れて微小に光っていた。
白みがかった肌には毛細血管が少しだけ浮き出している。
骨太の首に通る太い血管。ほんのちょっと朱色に染まっている耳。
近くにいるだけで彼の温度が周りの空気を通して肌に伝ってきた。
生を感じるほど生々しくもあるのに端麗で儚い…。
ひと目、見た瞬間…錯覚を起こしてしまっていた。
あまりにも似すぎていたから…。
数時間前にこの顔に良く似た人物が隣で笑って…。
その彼がここで寝ている? いや、違う。
手元を見るとKAIはちゃんとスマホにいる…。
あまりにも今見ている〝 生きている 〟彼にKAIが似すぎていた。
脳が混乱する…。
心臓が飛び跳ねるように脈打った。
突然のことで言葉が声にならない。
うまく話せなくて両手でクチを押さえる。
心臓からの急激な血流を受けて鈍器で殴られたかの衝撃が頭に走り、その場にしゃがみ込んだ。
立ってなど…いられない…。
…床に座り込みながらもう一度、手元のスマホに視線を落とした。
KAIの眼を見ながら深呼吸し時間をかけて、ちょっとずつ落ち着く。
数分後。浅く息をしながらも何とか話せた。
「どう…して、どうして彼がKAIにそっくりなの?
それに私、この人のこと知ってる…よ。
家の近くで、ずっと前に会って…」
ベッドの上の彼はKAIにも似ていた…。
が、顔を見ていて昔の記憶が蘇り、もう1人似ている人物を思い出す。
スマホを受け取るもっと前…バイトの行き帰りに見かけていた人。
いつも優しい笑顔と声で街角で歌っていた…お兄さん。
事故で電柱が折れてからは見ていない。ずっと気になっていた人。
『そいつが…俺だからだよ。みう。
目の前にあるのは俺の体だけ…。
簡単に言うと今の状態は〝 意識(魂) 〟をデジタル化してスマホに移してるんだ。
俺はあの電柱の側で…よく歌ってた。みうのことも覚えている…。』
ちょっと…待って。急なことでまた頭が混乱している…。
いま何て言った??
KAIはAIではなく生きた人間だったと。そういうこと…なの?
そして街角で歌っていたお兄さんが…KAIだった…。
みうはショックが大き過ぎてベッドの側で、うずくまるようにして動けなくなってしまった。
大きく肩を揺らし息を止めては泣かないように懸命に耐えている。
そんな彼女の様子を見て、伊上さんが隣にしゃがみ込み優しくゆっくりと説明を始めた。
「KAIをスマホに移したのは私なの。
難しい話は…今は省くわね。
研究者としてAIを人間に近づけようと日々奮闘していた時…それ(事故)は目の前で起こったの。」
そう言い切ると みうの肩を抱いて優しく立ち上がらせベッド横の椅子に座らせた。
ベットの上の彼の顔に布を掛けると振り返って話し続ける。
「まず…彼がどうして、こうなってしまったのか。
私が知っている始まりから話すわね。」
みうは不安げな顔をしつつも視線を伊上さんに送り頷いた。
「…みうちゃんの家の近くで3ヶ月ほど前にあった大きな事故は知っているでしょ。
私は偶然にあの道を通っていて事故を目撃してね。」
伊上さんが当時を思い出すかのように眉を寄せ悲痛な表情で話す―――
トラックが猛スピードで電柱に衝突したとき…私はとっさに物陰に隠れた。
折れた電柱の影には血だらけの青年。
あの勢いでは即死しているかもしれない。
周囲を見回し近付こうとしたとき強いライトが照らす。
さっきのトラックが一度引き返してきて停車し、車の中から彼の様子を見ると走り去って消えた…。
まるで生死を確認するかのように。
これは事故…ではない。
事故に見せかけた殺人だ。
トラックが去ったのを見てから、青年を懇意にしていた病院へ誰にも見つからないように運んだ。
幸い、電柱がクッションになり即死していなかった…が…。
内臓の損傷と頚椎が一部ダメージがあり、左足が絶望的で…膝から下を切断することに…。
電柱の下敷きになっていた右手は複雑骨折していた。
「生死の境を彷徨う彼が…うわ言で呟いたの。
逢いたい人がいるって。
名前も知らない娘だけど、死んでしまうなら…もう一度話がしたいと。」
それが みうちゃん…あなたなのよ。と伊上さんが優しく微笑む。
その言葉に涙が溢れて止まらない。
スマホのKAIの上にもボタボタと涙が零れ落ち、嗚咽が止められなくなる。
伊上さんが みうの優しく頭を撫でた。
正直…夕方近くから行くのは気が引ける。
デート帰りに寄るような場所でもない。
1日が過ぎた現在…家で待っている〝 期日が迫ったレポート 〟という重圧が、ひしひしと現実味を帯びてきていた。
けれど今日のKAIは、そんな みうの状況を話しても予定を変更しようとしなかった。
遠くまで行かなければいけない理由は何も話してくれない。
不安はない。とは言い切れないが彼の態度が、前に伊上さんから聞いた〝 真実 〟と関係していると思う。
レポートは明日帰っても2日ある…。
何とかなるだろう。
駅の一番端っこの階段をゆっくりと降りた。
帰りとは逆行きの電車のホームの一番端で、ビルの間に闇が迫る空を眺める。
肌に湿り気のある風が吹き付けてきた。
太陽の暖かさが少し遠のいて、楽しかった休日の終わりを感じている。
夜はきっと肌寒い。
甲高い掠れる音を立てて鈍行列車が目の前に停車した。
エアーの抜ける音と共に扉が開く。
中を覗くと1両に数人ずつしかいない。
夕方以降に今から北へ向かえば、今日は公共機関を使って帰ってくることは出来ないだろう。
停車時間は2分。少し長い停車が乗ることを躊躇わせる(ためらわせる)。
ここでアパートに帰れば日常が戻るのかもしれない。
そんな馬鹿な考えがよぎった。
頭を軽く振って苦笑する。
いや…違う。
ここで帰れば後悔する。絶対にだ。
顔を上げて鈍行列車に乗り込み、近くの席に座った。
少し硬い座面に深く沈む。
『みう。……ありがとう。』
イヤホンから伝わるKAIのほっとしたような声、そこからあふれる気持ち。
彼の顔を見れずに閉じたままのスマホを両手で強く握る。
電車の中から夕焼けの街を眺めつつ、何度も乗り継ぎし1時間半ほど過ぎた。
目的の駅に着いた頃にはすっかり陽が落ちている。
見聞きしたこともない田舎町の駅を出て、そこから次はバスに揺られること20分。
バスは最終で今日の帰りの便は…もちろん無い。
停留所からでこぼこのアスファルトを少し歩いて、やっと目的地に到着した。
あたりは真っ暗で星がよく見える。
目の前には少し寂れた感じの街の医院。
山の手前に建っていて灰色がかった無機質な姿は何となく不気味だ。
壁には無数のひび割れや、点々と染み付いた黒ずみが建物の歴史を物語っている。
正面から見える窓に1つの灯りも無く人気を全く感じられない…廃墟と言われたら信じてしまうだろう。
ただ唯一の〝 病院として機能している 〟証明の証は看板だけだった。
〝 熾天使(してんし)総合病院 〟と入口の上部に掲げられた看板が時々点滅しながらオレンジ色に光っていた。
そうとう古い看板なのだろう。文字もかすれ気味だ。
熾天使、この存在を みうは偶然にも知っている。
大学の講義のとき先生が宗教学の1つとして話してくれたのを覚えていた。
熾天使…天使の最高位にあたる階級を表す言葉。見た目は人の姿を成していない。
6枚の翼と2つの頭を持ち、顔と身体を4枚の翼で隠し残りの2枚で飛翔する。
神への愛と情熱で身体が燃えているので〝 熾(燃える) 〟天使と呼ぶ。
神の次に汚れのない清らかな存在で一介の天使は触れることすら許されていない。
(余談だが…悪魔の王ルシファーが堕天する前は熾天使だった。12枚の美しい翼を持っていた。)
いわゆる一般的な天使のピュアなイメージとはかけ離れている。
その名の通り慈悲深いと捉えるか…ルシファーの隠れ蓑的な意味合いと取るのか…。
病院として奇抜な名称だ。
言葉の意味を知っていたが為よけいに戸惑ってしまう。
おまけにプラスチック製と思われる看板は黄ばみ、所どころ割れている。
中の電球に群れた虫達の影が容易に確認できた。
屋根と看板の間に巣くっている女郎蜘蛛がより一層、恐怖を駆り立てる。
生温い風が みうの全身を撫でていった。
『診療時間は終わっている。ここは表だから裏口から入ろう。』
KAIの声が聞けて少し安心する。
「か、勝手に入って…も? いいのかな。」
『ちゃんと話は通してある。
右側から回っていけば道なりに裏口に出る。簡単な道だ。』
頷きながら指示通りに進む。
足元は暗く見えない上に、大きな砂利が敷き詰められていてパンプスでは歩きづらい。
大きな蛾や、うるさく飛ぶカナブンに驚かされながらも無事に裏口らしき場所に出た。
小さな入口にあったインターフォンを押し待ってみる。
しばらくして、しゃがれているけど優しい声がし扉が開いた。
軽く会釈をする。
と、お爺さんが扉から顔だけ出す。
建物の不気味さからは想像できないほど優しくて人懐っこそうな笑顔だ。
「待っていたよ。さぁ、入りなさい。」
周りを警戒するように視線を動かすと みうの肩へ手を伸ばし中へと引き込み扉を閉めた。
すぐ後ろで鍵を閉める音が響く。
「…ここで、無駄なおしゃべりは厳禁じゃ。少しばかり我慢しなさい。」
そう告げると長い廊下へ向けて歩き出す。
付いて来れば分かるという態度で病院の奥へと消えてしまうその姿を早足で追いかけた。
お爺さんと みうの足音だけが廊下に響く…。
院内は最低限の灯りしかなかった。
奥へ奥へと進んで行くと所どころ壁や床の色の違いに気付いた。
途中で増設を繰り返した建物なのだろう。
外観からは想像できないほど広く迷路のようだ。
ずいぶん歩いた頃…。
お爺さんの歩く速度が弱まって、こちらを振り返りながら話しかけてきた。
「…お嬢さんのほうが少しばかり遅かったみたいじゃ。もう先に来てるぞ。」
「えっ。誰が…?」
緊張と恐怖と早足で少し息が上がり、詰まったような声が出た。
コツコツコツ…コッ。
お爺さんの靴が止まり1つの病室の前で振り返った。
その扉にはめられた擦りガラスが柔らかい色に染まっていて中に人がいることが分かる。
「お前さんが良く知る者だ。」
そう言いながら病室の扉を引いた。
お爺さんの身体が病室に消えていった…。
慌てて駆け寄り開かれた病室の扉に手を掛け―――
部屋の中に身を乗り出し、目に映った光景に息を飲んだ。
少し古そうだが現役と思わしき機器の数々が音や光を放って稼動している。
それらは奥のベッドに寝ている患者に全て繋がれているようだ。
入口近くのソファーには白衣を着た伊上さんが座っていた…。
部屋の中の柔らかく暖かい空気に包まれる。
「い、伊上さん!」
思わず見知った顔に声を掛けてしまう。
「やっと到着ね。お疲れ様。
案内してくれたのは私の知り合いなの。この病院の院長。」
伊上さんが立ち上って近付いてきて、いつもの微笑で話しかけてきた。
慌てて後ろを振り返ってお爺さんに再びお辞儀をする。
「あ、海(みう)です。」
「院長の近藤だ。要(かなめ)の父親はワシの教え子でな…。
海さん、遠いところよく来たね。」
目じりのシワが深くなって微笑む。
笑うと優しさがにじみ出る。
「さ、みうちゃん。長い話になるからこっちに座って。」
ベットの近くにある椅子に腰掛けるよう伊上さんが促してきた。
次にスマホをスピーカーにして持つように指示される。
院長は扉付近の長椅子にゆっくりと腰掛けた。
伊上さんが周りを見回して〝 準備が整ったわね 〟と みうの隣に立った。
KAIが静かに会話の口火を切る。
『…みう。ここがゴールだ。
説明もせず、いきなり連れてきて悪かった。
いま起きている真実を話すよ。』
伊上さんが頷きながら みうの肩に手を掛けて
「そうね…。その前に〝 彼 〟の説明が必要じゃない?」
とベッドの上へと視線を送った。
ベッドに横になる人物…伊上さんが言う〝 彼 〟は、目の部分を布で隠されて静かに眠っているようだった。
規則正しく胸が上下している。
左腕には点滴が刺してあり、他にも機械から伸びた線がいくつか身体に繋がれていた。
伊上さんが彼の頭付近で みうを呼ぶ。
椅子から立ち上がり伊上さんの隣に立つと、彼の目にかかっている布をそっと外した。
端正な目元と眉が現れ、綺麗な鼻筋と薄い唇、包帯で巻かれた頭部の隙間から黒髪がのぞく。
閉じられた瞳にかかる長い睫毛が息をする度にほんの少しだけ揺れて微小に光っていた。
白みがかった肌には毛細血管が少しだけ浮き出している。
骨太の首に通る太い血管。ほんのちょっと朱色に染まっている耳。
近くにいるだけで彼の温度が周りの空気を通して肌に伝ってきた。
生を感じるほど生々しくもあるのに端麗で儚い…。
ひと目、見た瞬間…錯覚を起こしてしまっていた。
あまりにも似すぎていたから…。
数時間前にこの顔に良く似た人物が隣で笑って…。
その彼がここで寝ている? いや、違う。
手元を見るとKAIはちゃんとスマホにいる…。
あまりにも今見ている〝 生きている 〟彼にKAIが似すぎていた。
脳が混乱する…。
心臓が飛び跳ねるように脈打った。
突然のことで言葉が声にならない。
うまく話せなくて両手でクチを押さえる。
心臓からの急激な血流を受けて鈍器で殴られたかの衝撃が頭に走り、その場にしゃがみ込んだ。
立ってなど…いられない…。
…床に座り込みながらもう一度、手元のスマホに視線を落とした。
KAIの眼を見ながら深呼吸し時間をかけて、ちょっとずつ落ち着く。
数分後。浅く息をしながらも何とか話せた。
「どう…して、どうして彼がKAIにそっくりなの?
それに私、この人のこと知ってる…よ。
家の近くで、ずっと前に会って…」
ベッドの上の彼はKAIにも似ていた…。
が、顔を見ていて昔の記憶が蘇り、もう1人似ている人物を思い出す。
スマホを受け取るもっと前…バイトの行き帰りに見かけていた人。
いつも優しい笑顔と声で街角で歌っていた…お兄さん。
事故で電柱が折れてからは見ていない。ずっと気になっていた人。
『そいつが…俺だからだよ。みう。
目の前にあるのは俺の体だけ…。
簡単に言うと今の状態は〝 意識(魂) 〟をデジタル化してスマホに移してるんだ。
俺はあの電柱の側で…よく歌ってた。みうのことも覚えている…。』
ちょっと…待って。急なことでまた頭が混乱している…。
いま何て言った??
KAIはAIではなく生きた人間だったと。そういうこと…なの?
そして街角で歌っていたお兄さんが…KAIだった…。
みうはショックが大き過ぎてベッドの側で、うずくまるようにして動けなくなってしまった。
大きく肩を揺らし息を止めては泣かないように懸命に耐えている。
そんな彼女の様子を見て、伊上さんが隣にしゃがみ込み優しくゆっくりと説明を始めた。
「KAIをスマホに移したのは私なの。
難しい話は…今は省くわね。
研究者としてAIを人間に近づけようと日々奮闘していた時…それ(事故)は目の前で起こったの。」
そう言い切ると みうの肩を抱いて優しく立ち上がらせベッド横の椅子に座らせた。
ベットの上の彼の顔に布を掛けると振り返って話し続ける。
「まず…彼がどうして、こうなってしまったのか。
私が知っている始まりから話すわね。」
みうは不安げな顔をしつつも視線を伊上さんに送り頷いた。
「…みうちゃんの家の近くで3ヶ月ほど前にあった大きな事故は知っているでしょ。
私は偶然にあの道を通っていて事故を目撃してね。」
伊上さんが当時を思い出すかのように眉を寄せ悲痛な表情で話す―――
トラックが猛スピードで電柱に衝突したとき…私はとっさに物陰に隠れた。
折れた電柱の影には血だらけの青年。
あの勢いでは即死しているかもしれない。
周囲を見回し近付こうとしたとき強いライトが照らす。
さっきのトラックが一度引き返してきて停車し、車の中から彼の様子を見ると走り去って消えた…。
まるで生死を確認するかのように。
これは事故…ではない。
事故に見せかけた殺人だ。
トラックが去ったのを見てから、青年を懇意にしていた病院へ誰にも見つからないように運んだ。
幸い、電柱がクッションになり即死していなかった…が…。
内臓の損傷と頚椎が一部ダメージがあり、左足が絶望的で…膝から下を切断することに…。
電柱の下敷きになっていた右手は複雑骨折していた。
「生死の境を彷徨う彼が…うわ言で呟いたの。
逢いたい人がいるって。
名前も知らない娘だけど、死んでしまうなら…もう一度話がしたいと。」
それが みうちゃん…あなたなのよ。と伊上さんが優しく微笑む。
その言葉に涙が溢れて止まらない。
スマホのKAIの上にもボタボタと涙が零れ落ち、嗚咽が止められなくなる。
伊上さんが みうの優しく頭を撫でた。
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