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パンドラの箱
もう1つの物語
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みうがシークレットライブに向かっていた同日の午後…。
もう一つの運命の歯車が動き出そうとしていた。
完璧な変装をした伊上さんが、とある駅に降り立ち眼鏡を抑えて空を見上げた。
その姿は知り合いが見ても彼女と分からないだろう。
灰色の曇り空はあっという間に泣き出し、地面にランダムなドット模様を打ち出す。
梅雨独特の湿り気と肌寒さが少し残る6月の中頃。
連日の降水確率は80%以上を示し、街には傘の花が咲き乱れている。
左手に用意していた少女趣味を思わせる可愛い雨傘の留めを外し、少し斜め前に差し金具を押す。
小気味良く空気を弾く音をさせて駅前にまた1つ傘が咲いた。
迷う様子もなく駅前広場を少し抜けた先のタクシー乗り場にゆっくりと向かう。
少ししてタクシーがやってくると朱色にリボン柄の透かしの入った傘を閉じ乗り込む。
ストッキングとプレーンなハイヒールを少し濡らし傘を右側にそっと置いた。
膝の上にはレトロな型押しの小さなハンドバックと花かご。
「R総合病院まで…裏口に停めてください。」
いつもより少し高い声を出し可愛らしく微笑む。
「はいよ。お譲ちゃん、お見舞いかね?」
初老の運転手がハンドルを切りながら興味本位で話しかけてきた。
車はゆっくりと駅前広場を抜け大通りに続く信号へと進む。
雨が窓ガラスを叩き景色を惚やけさせていた。
「そうなの。兄が入院していて。」
彼女は、ほんのちょっとだけ寂しそうな表情を浮かべ、アレンジされた花かごを持ち上げた。
バックミラー越しの視線は興味なさそうにチラッとするだけだった。
信号が変わり、さほど混んでいない道にスピードが出る。
道路の歩行者側の方に大きな轍(わだち)が広がって水溜りが出来ていたが避けることもなく駆け抜けた。
ビシャっという大きな音と共に歩いていた親子に泥水が掛かる。
気になって後ろを振り向くと子供が傘を落として大泣きしていた。
運転手に過ぎた景色を気にする様子は無い。
何事も起きなかったように前だけを見ていた。
それから、ほんの2分ほどで目的の建物が目の前に見えてくる。
裏口の方に向かい入口の目の前で停車。
停まると同時にサイドブレーキを引くものだから、車が大きく揺れる。
なかなかの荒い洗礼に怒鳴りそうになるのを浅い深呼吸でやり過ごした。
運転手がメーターを指差し身体を半分ひねって掌を出す。
もの言わず態度で〝 820円だよ 〟と請求しながら、
「病気かな? 怪我? どっちにしても早く治るといいね。
あ、そうそう。
帰りのタクシーに困るようだったら、そこにある名刺持って行くといい。
今日は平日だからすぐに迎えに来れると思うよ。」
営業スマイルを浮かべ、顎で名刺の場所を教えてきた。
よくあるタクシーのサービストーク。
親切だと思わせておいて売り上げの悪い平日に確実に客をつかむ手段。
運転も下手、気遣いも出来ない、そのくせ金に執着する。
普段の彼女ならこういう輩は嫌うのだが…
「本当? ありがとう。親切な人で助かります。」
と言いながら名刺を取り、札を渡すと釣りも貰わず降りた。
微笑を浮かべ軽くタクシーに会釈をし裏口の自動ドアに向かった。
ショートボブの黒髪を揺らし巨大な建物に吸い込まれるようにその姿は消えた。
R総合病院――。
ここは有名な巨大病院であり、あらゆる専門の科がある。
中庭には散歩コースが設けられ、春は花見もでき入院患者に人気のある病院だ。
そんな中庭を抜けた、ずっと奥に一般では入れない区画がある。
有名人やお忍びで入院する人のための施設で警備が厳しい。
入口はガードされており、扉は受付で開いてもらわないと入れないシステムだ。
隠されたように設計されているが中に入るとガラスで覆われていて明るい。
その区画のエントランスに変装した伊上さんはいた。
白いブラウスに紺のタイトスカート、ふわっとしたピンクのカーデガンを着て手には見舞い用の花かご。
目立たず清楚な印象で、どう見ても一般のお嬢さんだ。
研究者の雰囲気は微塵も感じさせない。
受付前で止まり軽く会釈をし
「こんにちは。兄のお見舞いに来たの。」
と、身分証とバックを渡す。
姓名も年齢も嘘だらけの偽造の身分証だった。
受付嬢は無言で身分証をスキャンし、バックの中身を確認して返してくる。
手元で開錠のボタンを操作し右横にある扉を開け
「25号室です。時間は2時間までです。」
と、愛想なく言った。
「…。分かったわ。ありがとう。」
伊上さんは薄く笑って荷物を受け取り中に入った。
扉に入ると後ろですぐに音もなく閉じた。
ここを出るときは病室から備え付けの電話で伝える。
すると2分だけ鍵が開く。
その際は扉付近に警備員が配置される。
中は30病床ほどで全てが個室。
部屋のドアには患者の名などの記載は一切なく誰が入院しているか分からない。
床は鏡のように磨かれて、壁の下部に赤外線のセンサーが張られていた。
これはゴミや塵以外にも個人情報となるような落し物が無いように最新の注意が払われている為である。
数分動かない対象があるときは判断され吸われて処理されるのだ。
いま伊上さん以外の人の気配はない。
遠くでウィンウィンとお掃除ロボットが動く音が響く。
訪問者(伊上さん)の足にセンサーが当たりロボット達が目覚めたようだ。
ゆっくりと周囲を警戒しながら病室へ向かう。
25病室の手前で歩みをさらに緩めて、花束から花を1本抜いた。
短くカットされた黄色のフリージア。
ドアの前で化粧直しに見せかけ、おもむろにバックを開く。
中から小さな発信機を取り出した。
それを右手の中に隠しながら…
リップを引きつつ器用に小細工し、抜いたフリージアに取り付ける。
化粧道具をバックに仕舞うのと同時に発信機付きの花をワザと床に落とした。
髪に手をやり頬にかかった毛を払う。
腕時計に目をやり…心の中でカウントする。
1分…、30秒、……3、2、1。
ウィンウィン…
機械音がし角からお掃除ロボットが顔を出す。
目的に向かいまっしぐらに移動してくる。
伊上さんの足元に落ちた発信機付きの花だけを吸い込むとすぐに遠ざかり元の場所へ戻って行った。
ロボットが見えなくなったのを確認し部屋のドアに手をかけ開く。
部屋の中は廊下よりも暖かい。
コツコツコツ…ハイヒールの音が部屋の窓の方に向かっていく。
窓の外は特別室の為に作られた庭が目の前に広がる。
広葉樹のカシの木が青々と枝を伸ばし葉をつけ、紫陽花も咲いていた。
視線を窓から部屋の中に移す。
眼鏡のツルの部分にあるボタンを押してゆっくりと顔を上下左右に動かして内部をスキャンする。
しばらくして眼鏡のレンズに〝 OK 〟と表示が出て初めて声を出した。
「ここも危なくなってきたかもね。
受付でバックに盗聴できる発信機を仕込まれたわ。」
ベッドに横たわる人物に声を掛けた。
窓から遠ざかった場所にあるベッドには陽が差さない。
意図的に患者を隠すように配置してあるようだ。
伊上さんがベッドに近寄り覗き込む。
身体中を包帯で巻かれ、固定するために片腕は天井から垂れたロープで吊られていた。
顔は半分包帯で隠されていたが美しい顔立ちに見える。
「ふっ。…。」
苦しそうに顔を歪め言葉とも呻きとも判断できない音が漏れた。
「…。そう、まだ話せない、か。
生きているだけで奇跡だもんね。」
伊上さんはバックの底にある隠しケースを開きタブレットと何種類かの配線を出す。
頭の包帯を少し下げ髪の毛を分けると端子のような金属が姿を現した。
配線の先端を金属の穴に差し込んだ。
タブレットの黒い画面に白い文字が流れる。
《 逢いたい 》
伊上さんは申し訳なさそうに眼を瞑り囁くように小声で話す。
「…。不安定すぎるし君の体力の問題が…。
いまは無理。元に戻れなくなる可能性がある。」
《 ん。自業自得…か。》
吊るされた右腕が微かに震える。
しばらく沈黙が流れていた。
が、急に静かな空気を揺らすように雷を伴った大粒の雨が降る。
薄明かりで照らされていた部屋が一気に暗くなった。
窓ガラスに当たる音がやけに大きく聞こえてきた。
打ち付ける雨粒は小さな滝を作っていたが、数分で水の膜になり窓全体を覆いつくし景色が荒く描いた絵画のようになる。
チリチリと雲の合間に放電が走った。
急変していく窓の外の景色を見つめながら〝 まるでこの人物の心を表すようだ 〟と伊上は思う。
タブレットが再び点滅し白い文字が躍る。
《 残された時間はどれぐらい? 》
微笑んだのか顔の包帯が歪にゆがんだ。
「…。貴方が死ぬのは勝手だけど…
それなら巻き込む前にそうしておくべきだったわね。」
伊上さんは深いため息をついた。
病人にイラついても現実は変わらない。
「ねぇ、このままじゃ治療も続けられない。
相手はどんな手段を使っても実行するでしょうね。
もちろん、そうなったら…彼女も無事ではない。」
伊上さんの顔は険しく曇る。
包帯で覆われていない方の瞳が揺れた。
しばらくしてタブレットに文字が現れる。
ゆっくり、
《 …。パンドラの箱を…。》と。
その瞳を見つめ決心を確信する。
「いいのね。でも、受け取らない可能性もあるのよ。」
《 その時は出来る限り、彼女を守って欲しい 》
タブレットに文字が流れ黒い瞳が閉じられる。
雨が弱くなり雷も止んだみたいだった。
その代わり外気温が下がって病室の窓が曇り出している。
眠ってしまった包帯に覆われた顔を見つめながら、あの日のことを思い出していた。
あの夜も寒かった。
初めは偶然で…。
死んだと思うぐらい酷かった。
仕掛けてきた相手も成功したと思っていたんでしょうね。
けど…、今ごろ探し始めたってことは…。
彼女は深く息を吐いてタブレットとコードを抜き片付けた。
持ってきた花かごを窓近くのテーブルに置く。
再び室内を見回した。
壁に設置された受話器を外し〝 帰るわ 〟と受付に伝える。
ドアの前で振り返り痛々しい包帯で巻かれた身体をちらりと見やった。
そして深く頷きながら
「ええ。そうね。」
数分前の頼まれ事に力強く答えると、ハイヒールの音を響かせ部屋を去る。
出口の扉に着く頃には深刻だった顔もほころばせ『兄を見舞いに来た妹』の表情を作り施設を後にした。
次に彼女が姿を現したのは駅前の繁華街。
駅から降りた大勢の人々が行き交う。
屋根が切れたところは傘が無ければ歩けないほどの土砂降りで地面にいくつもの水溜りが出来上がっている。
そんな街に伊上さんの朱色の花が1つ咲いた。
咲き乱れる他の雨の花の大群に混じりその姿は消えた。
その夜のこと…。
雨がひとしきり激しく降り続き、関東に大雨警報が発令された。
伊上はもう1つの仕事を終え研究所に戻る。
昼間に会った患者を転院するために受け入れ先の病院を探し手続をしてきた。
次は田舎町の総合病院だった。
R総合病院から車で1時間。
重病人の彼をどうやって運び出すか、が今の課題。
「さて…どうしたものかしら。」
パソコンの前で足を組みながら独り言を漏らす。
ふと、みうのことが気になりスマホで追跡をかけた。
仮のスマホを持っている限りGPSで現在地が分かる。
そして、それだけでなく過去にさかのぼって1時間以内の会話や映像が確認できるようになっていた。
彼女のプライバシーにも関わるのでいつもは位置確認だけ。
けれど、ここ最近の不審者からの接触や不穏な周囲の環境。
モニターの仕事をほぼ無理やり押し付けての結果がこれだ。
遠隔からの安全確認は必須だった。
「ん?なんで横浜にいるの…。」
追跡した赤い印は大きなコンサート会場のほぼ近く。
みうの性格を考えると…
意味もなく遠出をするような娘じゃない。
それもよっぽど理由がない限り出かけないはず、常に金欠なのだから。
遠い場所で、この時間に大雨の中…今日は帰らないつもりか。
パソコンでコンサート情報を照らし合わせる。
今日は…〝 シークレットライブ(A.A.T.M) 〟。
右手がキーボードから離れて顔を覆う。
「誰かに誘われたのね…。迂闊(うかつ)だったわ。」
仕方なく遠隔で みうのスマホを音声をONにして聞く。
『…間に合って良かったよ。…ザーッザーッ
……三咲くんが来てビックリした。…ありがとう。
ザザザッ、ザーッ、ピューン、ザッ…ん、……』
ブチンッ。音声を切る。
みうの安全も確認したし誰と何処に居るのかも分かった。
これ以上調べるのはマナー違反なので切り上げようとしたが、片付けていた手が止まる。
三咲くんと居るなら、まずは一安心。
それにしても雑音多かったな。
途中に入った甲高い音が気になる…電波が遮断するような…。
んー。
少し迷ったが遠隔でデバイスを開く。
「っ、やっぱり。どこまでも姑息なヤツめ。」
瞬時に異常を見つけプロテクトを掛けた。
「まだ実質な被害はなさそう…。
ウイルスまで仕込むってどういう性格してるのかしら。」
ため息をまた1つついて今度は電話を掛けた。
みうの周辺にあるスマホの番号ぐらいはすぐに調べられる。
プルルル、プルルル、プルルル…
なかなか相手は出ない。
12回目のコールで
『…誰?』
ためらいがちな低い声が聞こえた。
「出てくれてありがとう。
突然で悪いけど隣の子に代わってくれる?」
『っ。い、伊上さん?なんで…』
みうが勢いよく電話に出る。
「スマホに細工されたみたい。
なるべく使わないで欲しいの。
戻ったらすぐに来てくれる? 番号はショートメールで送るから。」
通話はそこで切る。
長い会話は無用だ。
素早く必要な情報を三咲くんのスマホにSMSで送った。
中身は例のエレベーターの番号と簡単なメッセージ…。
《…都合が合うなら、このスマホの持ち主も一緒に。》と。
パソコンを落とし、スマホをポケットにしまう。
コーヒーを飲みながら帰り支度をし始めた。
みうは素直だから明日には三咲くんと一緒にここに来るだろう。
KAIの入ったスマホによって何らかのトラブルに巻き込まれ始めているのは彼女も感じている。
もう誤魔化せない。し、その必要も無くなった。
明日、話せることを2人に伝えて…どうするかは みう次第だ。
戦い抜くのも退くのも、どちらになっても勇気ある決断として褒めてあげよう。
伊上はそう心の中で呟いた。
もう一つの運命の歯車が動き出そうとしていた。
完璧な変装をした伊上さんが、とある駅に降り立ち眼鏡を抑えて空を見上げた。
その姿は知り合いが見ても彼女と分からないだろう。
灰色の曇り空はあっという間に泣き出し、地面にランダムなドット模様を打ち出す。
梅雨独特の湿り気と肌寒さが少し残る6月の中頃。
連日の降水確率は80%以上を示し、街には傘の花が咲き乱れている。
左手に用意していた少女趣味を思わせる可愛い雨傘の留めを外し、少し斜め前に差し金具を押す。
小気味良く空気を弾く音をさせて駅前にまた1つ傘が咲いた。
迷う様子もなく駅前広場を少し抜けた先のタクシー乗り場にゆっくりと向かう。
少ししてタクシーがやってくると朱色にリボン柄の透かしの入った傘を閉じ乗り込む。
ストッキングとプレーンなハイヒールを少し濡らし傘を右側にそっと置いた。
膝の上にはレトロな型押しの小さなハンドバックと花かご。
「R総合病院まで…裏口に停めてください。」
いつもより少し高い声を出し可愛らしく微笑む。
「はいよ。お譲ちゃん、お見舞いかね?」
初老の運転手がハンドルを切りながら興味本位で話しかけてきた。
車はゆっくりと駅前広場を抜け大通りに続く信号へと進む。
雨が窓ガラスを叩き景色を惚やけさせていた。
「そうなの。兄が入院していて。」
彼女は、ほんのちょっとだけ寂しそうな表情を浮かべ、アレンジされた花かごを持ち上げた。
バックミラー越しの視線は興味なさそうにチラッとするだけだった。
信号が変わり、さほど混んでいない道にスピードが出る。
道路の歩行者側の方に大きな轍(わだち)が広がって水溜りが出来ていたが避けることもなく駆け抜けた。
ビシャっという大きな音と共に歩いていた親子に泥水が掛かる。
気になって後ろを振り向くと子供が傘を落として大泣きしていた。
運転手に過ぎた景色を気にする様子は無い。
何事も起きなかったように前だけを見ていた。
それから、ほんの2分ほどで目的の建物が目の前に見えてくる。
裏口の方に向かい入口の目の前で停車。
停まると同時にサイドブレーキを引くものだから、車が大きく揺れる。
なかなかの荒い洗礼に怒鳴りそうになるのを浅い深呼吸でやり過ごした。
運転手がメーターを指差し身体を半分ひねって掌を出す。
もの言わず態度で〝 820円だよ 〟と請求しながら、
「病気かな? 怪我? どっちにしても早く治るといいね。
あ、そうそう。
帰りのタクシーに困るようだったら、そこにある名刺持って行くといい。
今日は平日だからすぐに迎えに来れると思うよ。」
営業スマイルを浮かべ、顎で名刺の場所を教えてきた。
よくあるタクシーのサービストーク。
親切だと思わせておいて売り上げの悪い平日に確実に客をつかむ手段。
運転も下手、気遣いも出来ない、そのくせ金に執着する。
普段の彼女ならこういう輩は嫌うのだが…
「本当? ありがとう。親切な人で助かります。」
と言いながら名刺を取り、札を渡すと釣りも貰わず降りた。
微笑を浮かべ軽くタクシーに会釈をし裏口の自動ドアに向かった。
ショートボブの黒髪を揺らし巨大な建物に吸い込まれるようにその姿は消えた。
R総合病院――。
ここは有名な巨大病院であり、あらゆる専門の科がある。
中庭には散歩コースが設けられ、春は花見もでき入院患者に人気のある病院だ。
そんな中庭を抜けた、ずっと奥に一般では入れない区画がある。
有名人やお忍びで入院する人のための施設で警備が厳しい。
入口はガードされており、扉は受付で開いてもらわないと入れないシステムだ。
隠されたように設計されているが中に入るとガラスで覆われていて明るい。
その区画のエントランスに変装した伊上さんはいた。
白いブラウスに紺のタイトスカート、ふわっとしたピンクのカーデガンを着て手には見舞い用の花かご。
目立たず清楚な印象で、どう見ても一般のお嬢さんだ。
研究者の雰囲気は微塵も感じさせない。
受付前で止まり軽く会釈をし
「こんにちは。兄のお見舞いに来たの。」
と、身分証とバックを渡す。
姓名も年齢も嘘だらけの偽造の身分証だった。
受付嬢は無言で身分証をスキャンし、バックの中身を確認して返してくる。
手元で開錠のボタンを操作し右横にある扉を開け
「25号室です。時間は2時間までです。」
と、愛想なく言った。
「…。分かったわ。ありがとう。」
伊上さんは薄く笑って荷物を受け取り中に入った。
扉に入ると後ろですぐに音もなく閉じた。
ここを出るときは病室から備え付けの電話で伝える。
すると2分だけ鍵が開く。
その際は扉付近に警備員が配置される。
中は30病床ほどで全てが個室。
部屋のドアには患者の名などの記載は一切なく誰が入院しているか分からない。
床は鏡のように磨かれて、壁の下部に赤外線のセンサーが張られていた。
これはゴミや塵以外にも個人情報となるような落し物が無いように最新の注意が払われている為である。
数分動かない対象があるときは判断され吸われて処理されるのだ。
いま伊上さん以外の人の気配はない。
遠くでウィンウィンとお掃除ロボットが動く音が響く。
訪問者(伊上さん)の足にセンサーが当たりロボット達が目覚めたようだ。
ゆっくりと周囲を警戒しながら病室へ向かう。
25病室の手前で歩みをさらに緩めて、花束から花を1本抜いた。
短くカットされた黄色のフリージア。
ドアの前で化粧直しに見せかけ、おもむろにバックを開く。
中から小さな発信機を取り出した。
それを右手の中に隠しながら…
リップを引きつつ器用に小細工し、抜いたフリージアに取り付ける。
化粧道具をバックに仕舞うのと同時に発信機付きの花をワザと床に落とした。
髪に手をやり頬にかかった毛を払う。
腕時計に目をやり…心の中でカウントする。
1分…、30秒、……3、2、1。
ウィンウィン…
機械音がし角からお掃除ロボットが顔を出す。
目的に向かいまっしぐらに移動してくる。
伊上さんの足元に落ちた発信機付きの花だけを吸い込むとすぐに遠ざかり元の場所へ戻って行った。
ロボットが見えなくなったのを確認し部屋のドアに手をかけ開く。
部屋の中は廊下よりも暖かい。
コツコツコツ…ハイヒールの音が部屋の窓の方に向かっていく。
窓の外は特別室の為に作られた庭が目の前に広がる。
広葉樹のカシの木が青々と枝を伸ばし葉をつけ、紫陽花も咲いていた。
視線を窓から部屋の中に移す。
眼鏡のツルの部分にあるボタンを押してゆっくりと顔を上下左右に動かして内部をスキャンする。
しばらくして眼鏡のレンズに〝 OK 〟と表示が出て初めて声を出した。
「ここも危なくなってきたかもね。
受付でバックに盗聴できる発信機を仕込まれたわ。」
ベッドに横たわる人物に声を掛けた。
窓から遠ざかった場所にあるベッドには陽が差さない。
意図的に患者を隠すように配置してあるようだ。
伊上さんがベッドに近寄り覗き込む。
身体中を包帯で巻かれ、固定するために片腕は天井から垂れたロープで吊られていた。
顔は半分包帯で隠されていたが美しい顔立ちに見える。
「ふっ。…。」
苦しそうに顔を歪め言葉とも呻きとも判断できない音が漏れた。
「…。そう、まだ話せない、か。
生きているだけで奇跡だもんね。」
伊上さんはバックの底にある隠しケースを開きタブレットと何種類かの配線を出す。
頭の包帯を少し下げ髪の毛を分けると端子のような金属が姿を現した。
配線の先端を金属の穴に差し込んだ。
タブレットの黒い画面に白い文字が流れる。
《 逢いたい 》
伊上さんは申し訳なさそうに眼を瞑り囁くように小声で話す。
「…。不安定すぎるし君の体力の問題が…。
いまは無理。元に戻れなくなる可能性がある。」
《 ん。自業自得…か。》
吊るされた右腕が微かに震える。
しばらく沈黙が流れていた。
が、急に静かな空気を揺らすように雷を伴った大粒の雨が降る。
薄明かりで照らされていた部屋が一気に暗くなった。
窓ガラスに当たる音がやけに大きく聞こえてきた。
打ち付ける雨粒は小さな滝を作っていたが、数分で水の膜になり窓全体を覆いつくし景色が荒く描いた絵画のようになる。
チリチリと雲の合間に放電が走った。
急変していく窓の外の景色を見つめながら〝 まるでこの人物の心を表すようだ 〟と伊上は思う。
タブレットが再び点滅し白い文字が躍る。
《 残された時間はどれぐらい? 》
微笑んだのか顔の包帯が歪にゆがんだ。
「…。貴方が死ぬのは勝手だけど…
それなら巻き込む前にそうしておくべきだったわね。」
伊上さんは深いため息をついた。
病人にイラついても現実は変わらない。
「ねぇ、このままじゃ治療も続けられない。
相手はどんな手段を使っても実行するでしょうね。
もちろん、そうなったら…彼女も無事ではない。」
伊上さんの顔は険しく曇る。
包帯で覆われていない方の瞳が揺れた。
しばらくしてタブレットに文字が現れる。
ゆっくり、
《 …。パンドラの箱を…。》と。
その瞳を見つめ決心を確信する。
「いいのね。でも、受け取らない可能性もあるのよ。」
《 その時は出来る限り、彼女を守って欲しい 》
タブレットに文字が流れ黒い瞳が閉じられる。
雨が弱くなり雷も止んだみたいだった。
その代わり外気温が下がって病室の窓が曇り出している。
眠ってしまった包帯に覆われた顔を見つめながら、あの日のことを思い出していた。
あの夜も寒かった。
初めは偶然で…。
死んだと思うぐらい酷かった。
仕掛けてきた相手も成功したと思っていたんでしょうね。
けど…、今ごろ探し始めたってことは…。
彼女は深く息を吐いてタブレットとコードを抜き片付けた。
持ってきた花かごを窓近くのテーブルに置く。
再び室内を見回した。
壁に設置された受話器を外し〝 帰るわ 〟と受付に伝える。
ドアの前で振り返り痛々しい包帯で巻かれた身体をちらりと見やった。
そして深く頷きながら
「ええ。そうね。」
数分前の頼まれ事に力強く答えると、ハイヒールの音を響かせ部屋を去る。
出口の扉に着く頃には深刻だった顔もほころばせ『兄を見舞いに来た妹』の表情を作り施設を後にした。
次に彼女が姿を現したのは駅前の繁華街。
駅から降りた大勢の人々が行き交う。
屋根が切れたところは傘が無ければ歩けないほどの土砂降りで地面にいくつもの水溜りが出来上がっている。
そんな街に伊上さんの朱色の花が1つ咲いた。
咲き乱れる他の雨の花の大群に混じりその姿は消えた。
その夜のこと…。
雨がひとしきり激しく降り続き、関東に大雨警報が発令された。
伊上はもう1つの仕事を終え研究所に戻る。
昼間に会った患者を転院するために受け入れ先の病院を探し手続をしてきた。
次は田舎町の総合病院だった。
R総合病院から車で1時間。
重病人の彼をどうやって運び出すか、が今の課題。
「さて…どうしたものかしら。」
パソコンの前で足を組みながら独り言を漏らす。
ふと、みうのことが気になりスマホで追跡をかけた。
仮のスマホを持っている限りGPSで現在地が分かる。
そして、それだけでなく過去にさかのぼって1時間以内の会話や映像が確認できるようになっていた。
彼女のプライバシーにも関わるのでいつもは位置確認だけ。
けれど、ここ最近の不審者からの接触や不穏な周囲の環境。
モニターの仕事をほぼ無理やり押し付けての結果がこれだ。
遠隔からの安全確認は必須だった。
「ん?なんで横浜にいるの…。」
追跡した赤い印は大きなコンサート会場のほぼ近く。
みうの性格を考えると…
意味もなく遠出をするような娘じゃない。
それもよっぽど理由がない限り出かけないはず、常に金欠なのだから。
遠い場所で、この時間に大雨の中…今日は帰らないつもりか。
パソコンでコンサート情報を照らし合わせる。
今日は…〝 シークレットライブ(A.A.T.M) 〟。
右手がキーボードから離れて顔を覆う。
「誰かに誘われたのね…。迂闊(うかつ)だったわ。」
仕方なく遠隔で みうのスマホを音声をONにして聞く。
『…間に合って良かったよ。…ザーッザーッ
……三咲くんが来てビックリした。…ありがとう。
ザザザッ、ザーッ、ピューン、ザッ…ん、……』
ブチンッ。音声を切る。
みうの安全も確認したし誰と何処に居るのかも分かった。
これ以上調べるのはマナー違反なので切り上げようとしたが、片付けていた手が止まる。
三咲くんと居るなら、まずは一安心。
それにしても雑音多かったな。
途中に入った甲高い音が気になる…電波が遮断するような…。
んー。
少し迷ったが遠隔でデバイスを開く。
「っ、やっぱり。どこまでも姑息なヤツめ。」
瞬時に異常を見つけプロテクトを掛けた。
「まだ実質な被害はなさそう…。
ウイルスまで仕込むってどういう性格してるのかしら。」
ため息をまた1つついて今度は電話を掛けた。
みうの周辺にあるスマホの番号ぐらいはすぐに調べられる。
プルルル、プルルル、プルルル…
なかなか相手は出ない。
12回目のコールで
『…誰?』
ためらいがちな低い声が聞こえた。
「出てくれてありがとう。
突然で悪いけど隣の子に代わってくれる?」
『っ。い、伊上さん?なんで…』
みうが勢いよく電話に出る。
「スマホに細工されたみたい。
なるべく使わないで欲しいの。
戻ったらすぐに来てくれる? 番号はショートメールで送るから。」
通話はそこで切る。
長い会話は無用だ。
素早く必要な情報を三咲くんのスマホにSMSで送った。
中身は例のエレベーターの番号と簡単なメッセージ…。
《…都合が合うなら、このスマホの持ち主も一緒に。》と。
パソコンを落とし、スマホをポケットにしまう。
コーヒーを飲みながら帰り支度をし始めた。
みうは素直だから明日には三咲くんと一緒にここに来るだろう。
KAIの入ったスマホによって何らかのトラブルに巻き込まれ始めているのは彼女も感じている。
もう誤魔化せない。し、その必要も無くなった。
明日、話せることを2人に伝えて…どうするかは みう次第だ。
戦い抜くのも退くのも、どちらになっても勇気ある決断として褒めてあげよう。
伊上はそう心の中で呟いた。
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エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
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※ 8/4 誤字修正しました。
※ なろうにも投稿しています。
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