虎に百合の花束を

六花瑛里

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本編

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 あれからひと月が経った。

 まだひと月。たったひと月。やっとひと月。


 タイガに会いたい。タイガに会いたい。タイガが恋しい。










 ふとした瞬間に彼への想いが溢れだす。零しても零してもとめどなく溢れでる。蓋をしても溢れだすそれに…視界が歪む。


 あの日、大雅へメッセージを送った後、スマホが悠莉の手から落ちた。拾い上げたスマホの画面が細かい蜘蛛の巣のようにひび割れていて、その画面が自分の心のようで、落としただけで壊れるはずがないのに、落ちどころが悪かったのかスマホは電源さえ入らなくなった。細かくひび割れた真っ暗な画面に映った自分の顔が酷くいびつに歪んでいた。

 兄の悠翔の目には、どんな顔に見えていたんだろうか。今にも死にそうに見えたのかもしれない。『俺が修理代を出すから、今からお店に行こう』と言ってくれた。悠翔の気遣いは嬉しかったけど、悠莉はそれを断った。

 修理してどうなるんだろう。直ったスマホにタイガからの連絡は来ない。電源が入るスマホを見て、未練がましく彼に連絡を入れようとしてしまうかもしれない。蔑まれて罵られて冷めた瞳で見られたら……悠莉は自分を保っていられない。


 スマホが壊れたのは誤って落とした自分が悪いのだから、バイト代を修理に充てると言って、無理やりに家族を納得させた。

 何かに集中していれば大雅のことを考えずにすむから、途中からでも受講できるという講義を受け、ゼミの教授に頼んで雑用をさせてもらって、バイトのシフトも増やした。途中から入った講義は授業内容についていけるようにと、空いた時間は集中して勉強した。大学の図書館に入りびたり、帰宅しても部屋にこもって勉強をした。バイトのシフトを増やした分、バイト代はいつもより多かった。そのバイト代で修理は出来るかもしれない、でもまだ足りないかもしれない。


 もう分からない。









 「悠莉!スマホは修理した?」

 このひと月、友達の茉緒マオからの挨拶は『おはよう』からスマホの修理の有無になった。
 スラリと背の高い茉緒は、透明感のある色彩のウルフカットのショートヘアの美人さん。通りすがれば、ほとんどの男性が振り向く。

 「おはよう、茉緒。まだ修理に出してないよ」

 悠莉の挨拶に茉緒は不満な顔をする。

 「いつ出すつもりなの?」

 これもいつものこと。でも、いつもと違うのは、

 「今月のバイト代が入ったらお店に持って行こうと思ってる」
 「やっと修理する気になったのね。……長かったー」

 のらりくらりと曖昧にしていた悠莉の返答が、やっと具体的になった。その言葉に茉緒はホッとしたように笑った。

 「良かったよ。講義を増やしたせいで忙しくてお茶にも行けずにいるし、バイトのシフトも増やして夜も遊べなくなるし、……それに」

 茉緒が悠莉の正面に立つ。

 「まだ辛そう。悠莉の辛そうな姿、見てるの辛い」
 「ごめん」

 こみ上げてくる何かをぐっと我慢して無理に笑おうとして、ちょっと失敗したかもしれないと思ったのは、茉緒の顔もまた辛そうな笑顔だったから。

 「あ、そういえば、今日はゼミの飲み会があるの。私は参加は無理なんだけど、悠莉は参加できそう?」
 「今日?なんか急だね」
 「飲み会の話はだいぶ前にLIMEで流れてたんだよ。亜子ちゃんから悠莉からの返答がないから自動的に参加にしてるらしいんだけど、本当に参加できるのか聞いてほしいって、昨日メッセ来たの」
 「あー……なんかごめん。バイトは休みだから飲み会に参加できるよ。場所と時間、教えて」
 「え!?バイト休みなの?ごはん食べに行きたかったよー。今日も明日も予定があって無理だよー」
 「あー……なんかごめん?」







 「円城寺さん、」

 途中参加した講義が終わり教室を出ると、後ろから声を掛けられた。名前を呼ばれ、悠莉が振り向くと、同じ講義を受けていて分からないところを丁寧に教えてくれる親切な人――清水がいた。
 白いTシャツの上にシャツを羽織った長身の彼は、黒髪で野暮ったい前髪にふちのない眼鏡を掛けていて、同じ講義を受ける女子からは隠れイケメンと言われている。

 「これ、円城寺さんがまだ受けてない時に取ったノートのコピーなんだけど、これがあれば少しはみんなに追いつけると思うんだ」
 「いいの?」
 「うん、早く授業の内容に追いついてほしいから」
 「清水くん、ありがとう。最初の日に清水くんの隣に座って良かったよー」

 渡されたノートのコピーを受け取って、中身をパラパラと見れば、明らかに後から書き加えられた形跡が見られた。そのおかげで、とても分かりやすく解説されている。

 「スマホ、壊れたっていうの本当だったんだね」
 「え?」
 「さっき、友達の鳴海さんとスマホの修理の話していたのが聞こえてきて」
 「ああ、そうなんだよ。先月に落として壊しちゃったんだ」
 「てっきり、連絡先を教えたくないから、壊れたって言ったんだと思ってた」
 「あー……なんかごめん」
 「僕の方こそ勝手な思い込みをしちゃってて恥ずかしいな」
 「コピーありがとう。ありがたく活用させていただきます」

 本来ならば、清水に何かお礼をするべきなのだけど……妥当なモノは何があるだろう。

 「清水くん、学食になっちゃうけど今度ランチご馳走するね」
 「いいの?ありがとう、円城寺さん。何か分からないところがあったら言ってね」
 「うん、また教えてください」


 二人で笑い合って別れた。穏やかな時間が流れていくのが分かった。

 大雅との時間はあっという間だった気がする。2年という時間が花火のようにだった。パッと光って消えていく、それでも……あの時間が恋しく思ってしまう。
 もし、この想いを彼に伝えたら――燻り続ける熱は冷めるのだろうか。


 





 「悠莉先輩、顔色が悪いですけど大丈夫ですか?」

 声がした方を見えれば、後輩の亜子が心配そうな顔で悠莉を見ていた。
 顔色が悪いのは、あまり眠れてないから。あとは、勉強とバイトかな。と悠莉は苦笑した。

 バイト先の店長から働きすぎ!と言われて、今週は明日(金曜日)まで休みにされた。持て余した時間に困っていたところに、ゼミの飲み会の話が舞い込んで参加した。

 「うん、大丈夫だよ。今、何時かな?」
 「えっと、もうすぐ21時ですね」
 「そっか。私、明日早いから、そろそろ抜けるね」
 「分かりました。ゆっくり休んでくださいね」

 ありがとうと亜子に手を振って、静かに部屋の外に出た。久しぶりの飲み会は、お酒が飲めそうにない。


 どこに居ても結局は大雅のことばかり考える自分が嫌になる。もう忘れよう。きっぱり忘れよう。男はあの男だけじゃない。


 お店の外に出て、新鮮な空気を吸い込んで静かに吐いた。

 よし!帰ろう。帰ったら、お風呂の入浴剤に高いヤツを使って、ボディクリームも高級なのを使って自分を磨こう!大学が終わったら、スマホを修理に出して、修理代は通帳の中のお金で間に合うといいなぁ。足りなかった時は……悠翔にお願いするか。


 このひと月の間の記憶が大学とバイトであやふやだけど、兄は元気に過ごしていたんだろうか。

 友達からは毎日のようにスマホの修理状況を聞かれていた。茉緒からは連絡が出来ないと怒られて、彼女に大雅とのことを話したら一緒に泣いてくれて、バカだとまた怒られた。
 茉緒のことを思い出すと彼女に会いたくなって、連絡したいのに出来ないから、やっぱりスマホが無いと不便だ。……あ、茉緒は今日はデートだった。連絡しても会えない。



 立ち止まって空を見上げれば、雲一つなく晴れているのに星は見えなくて、どこまでも濃い藍色が静かに広がっている。怖いくらい静かな夜空は、何かを知っているのに何も知らないように存在していて、暗くて吸い込まれそうなのに苦しさを飲み込んでくれるような優しさを感じて少し切なくなってしまう。


 「……タイガ…」

 ずっと声に出せなかった。声に出したら色んなものが溢れてしまうと思って言えずにいた。久しぶりにその名前を、夜空に向かって小さい声で囁いた。

 この夜空の下に彼もいる。今日だけはタイガを想って眠りにつこうか。温かくて砂糖を多めに入れた甘いココアを飲んだら、星が見えない夜空を眺めて彼との想い出を抱きしめて眠るのもいいかもしれない。




 ふわっと後ろから漂う香りは彼の香りと似ていて鼻の奥がツンと痛くなった。

 「――やっと見つけた。リリィ」

 ひと月ぶりに聞いた心地よい低い声が悠莉の身体を包み込んだ。









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