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第二章

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「申し訳なかった」
「……え……?」
 水瀬藍子は目の前の光景を呆然と見つめる。今起きていることが理解できない。
 いつものように資料室でお昼を食べようとお弁当持参でやってきたが、資料室には珍しく先客がいた。この第二資料室は、社内の奥まったところにあり、必要な時以外に人が近づくことはない。基本的に人といることが好きな藍子だが、お昼だけは誰にも邪魔されず食べたかった。それは昔からで、椎菜や家族とさえ昼食を共にすることは少ない。
 いつもは誰もいない部屋の中に見覚えのある人影をみつけ、思わず固まった藍子に向かっていきなり頭を下げた四谷が告げたのがそのひとことだった。
 いつも厳しい四谷が部下に謝罪するなど想像したことさえなかった。
「……噂だけで全てを知っている気になって……水瀬と瀬戸さんを傷つけた。申し訳ない」
 呆然とする藍子に四谷が再び頭を下げる。
「ま……待ってください……謝るのは、私の方です……。いくらなんでも上司に手をあげるのはやりすぎました……」
 あの時は本気で腹を立てていた。だからといってやっていいことではない。あわあわとする藍子に四谷が小さく笑った。それに藍子は再び言葉を失うほど驚いた。四谷の愛想笑い以外の笑顔を初めて見た。
「……親戚、か何かか?」
 不意に聞かれた言葉に藍子はパチクリと目を瞬いた。いきなり言われた言葉の意味が咄嗟には理解できない。
「意味がわからなんですが?」
 藍子のぶっきら棒な言葉に四谷は嫌な顔一つしなかった。内心でどう考えているかはわからないが、藍子のこの端的な口調はいつものことなのでいちいち気にしていられないのだろう。
「瀬戸さんと水瀬。……今の顔、似ていたからな」
「……新垣編集長に聞いていたんじゃないんですか? 私と椎菜は従姉妹です。年も近いのでよく一緒にいました」
 てっきり知っていて謝っていると思っていたのだが、違ったらしい。椎菜のこととは関係なしに、藍子のことも気にしてくれていたのだろう。
「……従姉妹……それでか……。ところで水瀬、最近のシーナの記事が載っている雑誌は?」
 四谷の前に積み上がっているLAYの雑誌を目にした藍子は不思議そうに首をかしげる。四谷がここにいたのはそれを読むためのようだが、四谷がLAYを読むのは珍しい気がする。男女問わず読者がいる雑誌だが、男性読者の目当ては大抵がいつ載るかわからない藍堂秦の記事であり、それ以外の記事は女性からの支持が強い。だからこそ、表紙に藍堂秦の名前がある時の売り上げは倍増するのだ。四谷自身も例に漏れずそういうタイプだったはずだ。それでも、たまには藍堂秦目当てで手にしているはずなのに、今更シーナの記事を探すのが不思議だった。
「……読んだこと、ないんですか?」
「……藍堂秦の記事が載っている時以外は見ないからな」
 どこかばつが悪そうな四谷に藍子は小さく笑みをこぼした。別にそれ自体おかしいことではない。ただ、シーナを嫌い、蔑んでいた四谷がその記事を読んでいないことが意外だったのだ。自分の目で何も確認せずに決めつけるのはらしくない気がする。「いつも、真実を見極める目を持て」は四谷の口癖だった。ジャーナリストではない藍子たちにとってもそれは必要な能力なのだ。
「……四谷編集長、もしかして……」
 わざとシーナの記事を避けていましたか……という藍子の疑問は口にすることができなかった。その言葉を口にしかけた一瞬四谷の空気が変わった。触れるな、触るな、関わるなと全身で告げている。それが四谷が持つ他人との壁なのだろう。彼にはその壁を無理やり打ち破る人が必要なのかもしれない。ただし、それは藍子ではない。藍子は、そこまで全力で四谷に関わりたいと思っていない。そんな中途半端な覚悟で触れていい話題ではないだろう。
「……シーナの記事はここ二年は毎月載っているので、すぐに見つかると思いますよ」
「毎月?外注で……?」
「それだけシーナの記事に需要があるということです。しかもあの子の場合、レイアウトもなにもかも全部自分でやって、うちはデータを貰うだけでなにも作業しなくていいので、編集部としてはものすごく楽らしいですよ」
 藍子は一番上に乗っている雑誌を手に取り、シーナの記事を出して渡した。それを読み進める四谷はすぐに真剣な表情を浮かべる。
 藍子はそれを邪魔しないようにそっと資料室を出た。今日は別の場所を探すこととする。四谷は気付くだろうか。椎菜が隠したくてしょうがないもの。藍子にさえ隠そうとしていることに、もし彼が気づいたなら、椎菜を見る彼の目は確実に変わる。藍子はそんな予感を感じていた。

 四谷はいくつかのシーナの記事を読み、驚いたように息をついた。四谷がシーナの記事を読んだのは彼女に特別扱いが始まる前なので数年は前になる。その頃は無難にまとまっているという印象しかなかった。紙面に割かれている割合も少ないので余計に他に埋れてしまっていたのかもしれない。だからこそ、それから数ヶ月後に噂となって聞こえてきた時別扱いと社長の愛人起用の噂をそのまま信じた。彼女が特別扱いされていることは事実で、四谷には彼女にそれだけの実力があるなんて思えなかったのだ。
 だが、今目にしたシーナの記事は四谷が読んだ頃とは別物だった。取材の着眼点もだが、魅力的でスイスイ読み進めてしまう文章もだ。人はほんの数年でここまで成長するものかとひどく感心した。
 だが、それよりも四谷を驚かせたのは彼女の書く文章のくせだった。このくせは、見覚えがある。
 直近のもので「藍堂秦」の記事が載っているものを探してシーナの記事と並べてみるとその事実は明らかとなった。
 藍堂秦は切り口も文体もどちらかというと男性的で、性別不明と言われているが、その記事の内容と名前から男性だと思われている。逆にシーナは記事の内容も切り口も全て女性を意識したものであり、女性記者だと認知されている。最も藍堂秦とは違い、シーナは正体を隠しているわけではないのだが。
 ぱっと見別人が書いたように見える記事だが、細かい癖は変えられていない。文章の癖は、ほかの細かい癖と同様にそう簡単に変えることができるものではない。藍堂秦がシーナに手ほどきをしている可能性もあるが、なんとなく同一人物なのではないかという気がする。
「……よく、ここまで……」
 二人の共通項は四谷が毎日のように様々な文章を読み込む編集者という仕事をしているから気づいたものであり、普通であればこの二人を結びつける要素はない。
「はい、よくできました」
 どこか揶揄するような口調が頭上から聞こえ、四谷はギクリと顔を硬ばらせる。そんな四谷の表情に新垣がクスリと笑う。
「鬼の四谷がそんな顔をするなんて、部下には言えないわよね」
 部下に対して厳しく接する四谷が陰でそう呼ばれていることは知っているが、それを面と向かって言ってくるのは新垣くらいだろう。新垣は四谷が瑞鳳者に入った時の教育係だったこともあり、同じ編集長という役についた今も頭が上がらない。
「……なぜ、ここに?」
「あなたなら、きっとここに来ると思っていたからね。……シーナの噂が嘘だと知ったなら、特別扱いの理由を知るためにあの子の記事を読むだろうし、今過去の記事を簡単に読めるのはここだけだもの。で、読んだらきっとあなたが大好きな藍堂秦のことにも気付くでしょう」
 スラスラと言い切られ、四谷は盛大に顔をしかめる。まるでずっと見ていたかのようにスラスラと言い当てる新垣が昔から苦手だった。彼女はほんの少しの仕草からさまざまなものを読み取る。その彼女の言葉は全て的を射ているのだ。その意図にすぐに気付くよりも、時間をおいて初めて気付くことが多い。四谷のような凡人がどんなに努力してもたどり着けない天才、それが新垣に対する四谷の印象だった。
「相変わらず、ですね……。この二人が同一人物なら……今の待遇も納得がいきます。……藍堂秦は警察にさえ顔が聞く、番犬ですから」
「あの子が怖い?」
 新垣の言葉に四谷は軽く首を振った。
 新垣に対すような畏怖と恐怖と、そして興味を持って見ていた藍堂秦。不思議とその正体を知った今も、椎菜に対する恐怖の感情は浮かばなかった。
「なら……よかったわ」
 どこか寂しげにさえ見える新垣が何を考えているのか、四谷には想像することさえできない。
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