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少女の初恋と、魔法の指輪

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「不思議な指輪ですか」

 私は首を傾けて言いました。正面にいる少女――私の同級生で、最近仲良くなったばかりの日暮さん――は頷きました。

 ここは壱女野市立第一小学校、南校舎の三階、六年二組の教室です。

 現在、教室には私と日暮さんしかいません。つい先ほどまで男子達がぎゃははぎゃははと遊んでいましたが、いつのまにかいなくなりました。

 はたから見れば、後ろの席に女の子二人が固まり、和やかなお話をしているように見えるはずです。しかし、そう問屋はおろしません。

 話している内容は胡散臭いものなのです。

「これ、指につけるといいことが起こるの」

 日暮さんは何と言いましょうか、ものすごく真剣そうな顔でこちらを見ています。対応を間違ったら、友情にひびが入りそうな勢いです。

 おかしいです。さっきまで、「あと少しで卒業だね」みたいな会話をしていたような気がしたのですが、何故こんな流れに。

 とりあえず、私はじっと指輪を見つめてみます。

 くすんだ銀色の、きっと指にはめたら、親指でもぶかぶかになりそうなくらい大きい指輪です。飾りとして、埋め込むように真っ黒で、良く光る石が一つ付いています。確かに何かしらの力を持っていそうな特別感がある。――と言われたら、少し信じてしまいそうな感じですが、本当にそんなことがあるとは思えません。

「そですか」とりあえず、曖昧に返しておきましょう。

「信じてないでしょう」

「そんな馬鹿な」

「……」

 うつむきがちに睨まないでください。怖いです。

「……日暮さん、なんでそんなもの持っているんですか」話題をそらしましょう。

「秘密」私の考えた質問は跳ねのけられてしまいました。

「指にはめてみたらいい。貴方もこれが奇跡――魔法ってわかる」

 日暮さんは指輪を差し出します。

 彼女の顔は夕日に照らされ、赤く染まっています。妙に真剣な顔です。

 小学校六年生ともなれば落ち着きが出てくるものです。学校七不思議などという怪しげなものに対する興味も、「うっそだぁ」みたいな感情含みで、楽しいから信じるとか、そういう世界に入ってくる年齢なのです。多分。

 なので、奇跡を起こす指輪などというありがちな不思議に対して、少し斜に構える必要があるのです。浮かれてはいけません。大人にほほえましい等と思われてはいけないのです。もう、三か月後には中学生なんですから。

「むぅ」

 しかし、何故こんなに彼女は真剣な顔で指輪を差し出してくるのでしょうか?私は不思議でなりません。何か企みが、というと人聞きが悪いのですが、何か裏があるのでしょうか?

 なんだか、緊張してきました。

 まぁ、しかし。私は考えます。

つける程度では、それほど問題はないでしょう。流石に。

「うん、じゃあ、はめてみます」

 手の平を差し出すと、日暮さんは嬉しそうに笑いました。

 そして、

「はい」と、私が差し出した左手の薬指に、指輪を勝手にはめました。



 ――その瞬間、私の意識は飛びました。





   ◇◇◇





 日暮さんが転校してきたのは、一学期の半ばです。普通そんな時期に転校生なんてこないんだよ。と、誰かクラスメイトが言ったような気がします。

その時私はまだ席替え前でしたので、ちょうど真ん中の真ん中あたりにいました。 

 私のクラスは三十五人クラスで、彼女が入って三十六人になりました。

「――日暮、トウコです。よろしくお願いします」

 ショートカットの、色の白い女の子が固い声であいさつします。彼女の顔はこわばり、何かに脅えているようにも、何かを威嚇しているようにも見えました。

「――日暮君は少し事情があって、な。色々大変なんだけど、君達は仲良くしてやってくれ。席は、廊下側の一番後ろだ。さぁ」

 先生は言って、彼女の背中を押しました。

 一歩足を踏み出す前に先生を振り仰いだ彼女の顔に、私は心が軋むのを感じました。

 十二歳と言えど、女だったようです。――それは確信に似た、何かです。

 彼女は先生を信頼している。それがわかりました。

 この校区では転校生と言うのは割合多い方です。なので、皆慣れたように彼女に群がりましたが、彼女のかたくなな表情は緩みませんでした。

 皆そう、悪い人達ではありません。校風という奴でしょうか、彼女のかたくなさを、受け止めるだけの技量がありました。しかし、それ以上ではありません。彼女を溶かすことまではできませんでした。

 そんな彼女が私に話しかけきたのは、偶然、ではなく、必然でした。

 私は学級委員長をしていたのです。

「日暮さん、学校を案内するのでついてきてください」

 私がそういうと、日暮さんは会いも変わらず、非常に硬い表情でうなずきました。

 少しオンナゴコロというやつで勘づくものはありましたが、それを理由に自分の仕事を放棄するようなことや、相手を追い詰めるようなことはしません。そんなの、子供のすることですし。

 それにしても極めて友好的に話しかけているつもりなのですが、彼女はなかなか固い表情とそらした視線を変えようとはしません。返事はするけど、自分からは関わってこない、そんな風に。

 そういう性格でしょうか。よくわかりませんけど、私は彼女が暇そうにしている時は、話しかけるようにはしていました。

 あるとき、彼女は珍しく私と長く会話を続けました。

「普通っていうのは、いいことだと思うんだ」と、日暮さんが言いました。

「何故でしょう」私は返しました。

「おかしくないってことだもの」

「おかしいって?」

「それは、外れることだよ」

「外れる。例えば?」

「しちゃいけないことをする」

「しちゃいけないことって?」

「犯罪になるようなこと」

「万引きとか」

「そうそう。あとはいじめとか」

「なんだか、話がずれているよ」

「そうかも。ともかく、普通っていうのはいいことなの。だって、外れていないってことなんだから」

 かたくなな、言葉だと思いました。そして、それは何かの彼女にとっての芯が通っている。私は、日暮さんの言葉に、頷くことしか出来なかったのです。

 彼女は頷いた私を少し見て、それから再び口を閉ざしました。彼女は何かを伝えたかったのだろう、そう思いました。でも、私にはそれを受け止めることができませんでした。何を伝えたかったのか、わからなかったのです。





  ◇◇◇





「痛い」

 割れるように頭が痛い。その感覚で目が覚めました。

「………トウコ、お前は――」

 人の声が聞こえます。うるさいです。頭に響きます。

 手を頭に当てます。む、何か違和感です。

「……」

 目を開けてその手を見ます。あれ、違和感増幅です。

 おおきくないですか、この手。

「あれ?」自分の声にも何処か違和感です。

「大丈夫か!」

 シャッと、何かが開くような音がします。

 まだ痛い頭を動かし、音の方を見ます。

 どうやら白いカーテンを開けた音のようです。その先に、何やら黒い人影があります。

 ぼさぼさの黒い頭、黒いスーツで、妙に心配そうな表情の、二十代の男性です。知り合いです。

 頭が痛いですが、ここは大人ぶりましょう。子供扱いはあまりされたくありません。

「千藤先生、一体何があったのでしょうか?」

「……大丈夫そうだな」

 可愛い生徒の質問に担任の先生は疲れた表情で、私の顔を見たのでした。



「トウコから話は聞いた」

 先生は腕を組みました。

 千藤先生は去年赴任してきた先生です。去年も担任の先生でした。

 保健室には私と先生と日暮さんがいます。日暮さんは先生の姪だそうで、それを知っている相手(主に私です)の前では名前で呼ぶことが多いです。先生は基本的に先生としての立場を崩さないように気をつけている方ですが、日暮さんの前では少し崩れやすいです。

 先生と日暮さんの関係を知ったのには色々あったのですが、今は割愛です。

 現在、放課後も放課後です。もはや外が真っ暗です。私が気絶していた時間はさほど長くなかったようですが、冬場ですし、もともとの時間も遅かったので今は結構遅い時間です。

 今帰ったら怒られそうです。しかし、帰るわけにもいきません。

「……十八あたりかな、多分二十にはいってないだろう。よかったな、野寺、このまま成長すればなかなか美人になるぞ。……いてッ!」

 日暮さんが先生を蹴りました。これは――セクハラと言う奴なのでしょうか。

 私は自分の身体を触ってみます。

 腕が長くなりました。足も長いです。お腹はくびれているようです。

そして、胸があります。

 そう、先生が言った通り、私の身体はなんというか、大きくなってしまったようなのです。

「不思議です」私は首をかしげました。

「奇跡の魔法です」と、先生をちらりと見て、日暮さん。

「お前なぁ……」先生は頭をおさえて言います。「なんでそんなにお前等のんきなんだ……」

「奇跡の魔法……」私は眉をひそめながら言います。

 そんな、馬鹿な。しかし、私は確かに成長してしまっています。

 実は気絶してから五年経っている――ということも先生と日暮さんを見るとありえないことだとわかります。

 ありえない。しかし、何がありえないのでしょうか。

 それにしても、

「指輪は何処に行ったのでしょう」

 私は自分の左の薬指を見ました。そこには何もありません。

 不思議なことに、指輪は突然消えてしまっていたのです。

 不思議と言えば服装もです。身長も胸囲もおしりの大きさも、以前より非常に大きくなってしまったのですが(いえ、常識の範囲内での成長の部類で、決して太っているというような状況ではありません)、現在着ている服は少々きついものの、ちゃんと身体についてきています。

 しかし、

「どうしよう……」

 困りました。だってこのままでは家に帰れません。これは困ります。今日は金曜日です。明日明後日はお休みですが、宿題も出ましたし、帰らないとお母さんに怒られてしまいます。

「日暮さん、貴方、指輪のこともっと知らないの?」

 私の追及に日暮さんは先生を睨む目を緩め、こちらを見ました。私は多分、とっても困った顔をしていたと思います。

 日暮さんは少し息を飲んだようでした。そして、彼女は下を向きました。

 誤魔化す時のくせです。その仕草に、先生と私は少し視線を合わせました。

「……私のときも、指輪は消えた。でも、すぐに出てきた」彼女は言いました。

「出てきたって、何処から?」先生は極めて穏やかに問いかけます。

「手の、中」ちいさな声で日暮さんは続けます。

「トウコ」先生は日暮さんの名前を呼びました。「何か隠しているのか?」

 先生の言葉に日暮さんは少しうつむきました。そして、

「その指輪、願い事が叶うと、出てくる。みたい」と言いました。

 今度は私が息を飲みました。





「――突然すみませんでした。大丈夫です、はい。では、あ、いえいえ、服はトウコ――日暮のを貸しますのでお気づかいは……。はい、そういうことで……」

 先生は電話を切りました。

 ところ変わってここはとある民家です。一戸建てです。結構大きくて驚きです。マンション生まれのマンション育ちの身かつ、実は友達の家にはあまりいかないのも相まってテンションが上がってしまいます。でもでも、駄目です。人の家を勝手に見て回るほど子供ではないので、静かにこたつに入り、坐っています。

「野寺さん、お茶と、ご飯」

「有難うございます……」

 日暮さんは非常に落ち込んだ表情でお盆に載せた諸々を運んできました。

「いただきます」

 先生と私と日暮さんでちゃぶ台を囲みます。

 温かなご飯と野菜炒めです。割りばしで戴きます。塩コショウとお肉の味がする、シンプルながら美味しいおかずです。ご飯も家とは少し違う味ですが、美味しいです。あまりお肉が好きではない私は、たっぷりの野菜に大満足です。

 顔を上げると、妙にちらちら日暮さんはこちらを見てきます。

「なんでしょう?」

「……美味しい?」

「美味しいですよ、凄いですね。日暮さんこんなに自分でお料理が出来るなんて」

「そんなこと、ないよ」

「ありますよ。私なんてお母さんが心配性すぎるせいで、サラダしか作ったことがないんです」

「……」

 純粋にすごいなぁと思っただけなのに、日暮さんは妙に暗い表情ままです。

「……」

 先生はそんな日暮さんのことを心配そうに見ています。

 三人無言で食事が進みます。途中先生がつけたテレビの音だけが部屋に響きます。

 テレビを見ながら食事なんて、初めてのことです。ここが他人の家だと言うことを深く感じ入ります。

 日暮さんは保健室の時から落ち込んでいる様子です。確かに、今回の出来事は彼女が発端です。

 しかし、先生も不思議です。このような意味のわからない事態を特に驚きもせずに受け止めているように感じます。なんというか、私の考えていた大人的対応ではあるのですが、何か別の事実も見えるような気がします。

 この二人、私が知る以上の何かを知っていること、確実です。けれども、二人の緊迫しているような、諦めているような、何かを探っている様子からして、そう簡単に話してくれそうにはありません。いえ、話してはくれるでしょう。でも、それは時が来たら。そういうことなのでしょう。――多分。

「ごちそうさまでした」

 三人の声が重なりました。

 流石に全てをしてもらうのは申し訳ないので、お皿洗いを手伝います。日暮さんも手伝ってくれようとしましたが、先生に呼び止められ、引きづられて行きました。日暮さんが何か隠している原因の一つに、私の存在があると踏んだのでしょう。何やら二人の中に隠し事あるようですし。

私も気にはなりますが、大人なので今回はみなかったことにしておきます。

 日暮さんが悪意を持っておこなったことではないことはわかっています。そのようなことをする子ではないから友人なのです。そもそも、先生と日暮さんは親戚なのです。叔父と姪。ならば、私よりも両方、お互いのことを知っているはずです。仕方がないことです。

 それに、まぁ、きっと私にも教えてくれるのでしょう。今回に関係しているのならば。

 私は綺麗に並べられたお皿を見ながら、腕を組みました。

 ――綺麗に、無駄のない皿の並びです。我ながら完璧です。

 母は皿洗いだけは手伝わせるので、こればかりは大得意なのです。

 そうして先生は日暮さんに色々と尋問――もとい質問をしたようです。

 お皿洗いが終了し、こたつで待っていると二人は戻ってきました。私はついていたテレビを何となく消します。

 そして、先生は真剣な顔で口を開きました。

「とりあえず、お前等風呂入って来い」



   ◇◇◇



 じつは、他人の家のお風呂に入るのは初めてです。

「野寺さん、湯加減どう?」

「なかなかのお手前です」

「よかった」

 さらにいえば、家族以外の他人とお風呂に入るのは、非常に珍しいことです。

 というか、林間学校の温泉くらいしか身に覚えがありません。私は日暮さんと肩を並べて湯船につかりながら、小さく息をしました。

「せまい?」

「え?あ、そうですね。やっぱり」

 私の身体は大人になっているわけですから、やはり、二人並んで湯船につかると狭いです。「でも、落ち着きます」

「そうだね」

 私の言葉に日暮さんは頷きました。そして、

「でかい」と胸をもまれました。

「……」どうしよう。日暮さんは私の胸をもみます。

「私もこれくらい大きくなるかな」日暮さん、かなり真剣な顔です。

「………」

「柔らかいね」

「そうみたいですね」

 反応し損ねているうちに、日暮さんは胸から手を放しました。少し安堵します。しかし、

「おりゃ」

「ひゃっ」

 今度は腰を掴まれました。

「肉がついてる……」真面目な顔で何を言っているんですか。

「日暮さん、何がしたいんです……?」

「触りたい」

 率直です。

「………」

 抱きつくような形で日暮さんは私の身体を触ります。

 なんだか不思議な感覚です。実を言うと、普段はあまり女の子同士でも触れあわないものですから。

「ねぇ」日暮さんが言いました。「野寺さんって、好きな人がいるんでしょ」

「………」なんて言おう。私は悩んで、口をつぐみました。

 抱きついた状態のまま。日暮さんは何も言いません。私も何も言えず。ただ、お湯が揺れます。

「私、野寺さんのこと、好きだよ」

「私も日暮さんのこと、好きですよ」

 顔を上げた日暮さんは少し困ったような、でも、どこからみても完璧な笑顔でした。



  ◇◇◇



「で、これからなんだが」

 先生は切り出しました。

「今日はいい。この家に泊まってくれ。だが、その先だ。――君の願い事は何なんだ?」

 私はその言葉に少しだけうつむきました。

「……願い事」

 願い事。それは、今、ここで言えるようなものなのでしょうか。

 私は横目で日暮さんをみます。

 日暮さんも私を見ていました。

「言いたくないのかい?」

 先生は気遣わしい様子で私に言いました。穏やかな声です。

 私は否定しませんでした。日暮さんを見ます。そして、先生を。

「そうだな」と、先生は頷きました。「先にこちらの話をした方が、いいかもしれん」

 先生は日暮さんを見ました。

 日暮さんは、静かに先生と視線を合わせました。

 彼女の目に映るのは、何なのでしょう?恐怖でしょうか、それとも、怯え?

「トウコは、」

「いいよ、レン。私が言う」

 先生が言い始めた時、日暮さんは首を振りました。そして、私に向き直ります。

「あのね、黙っていたことがあるの」



 この世界には不思議がある。それと出会う人は少ない。でも、居ないわけじゃない。

 そして、

「私は、魔法使い、なの」

 私の友人は魔法使いだったようなのです。なるほど。

「……ふーん。で?」

 尋ね返すと、先生と日暮さんは目を丸くしました。

「魔法使いだよ?驚かないの?!」と身を乗り出した日暮さん。

「驚きましたよ」

「野寺は魔法とか信じていないんだろう?!なんでこんな時だけ何事もないように、で?とか言い出すんだ?!」と先生。

「だって、日暮さんは魔法使いなんでしょう?」

「そうだけど」「そうだが」

「じゃ、信じます。それで?」私は二人に肩をすくめて見せたのです。

「想定外だった」先生は頭をかきました。

「……」妙に複雑な顔で日暮さんがこちらを見てきます。

「なんですか」

「変な子」

「失礼な」

「本当、変な子」

「何なんですか、もう。信じた友人にその発言ですか」

「ゆ、友人」

何故か日暮さんは顔を赤らめます。

私はふと、その顔を見て、彼女と仲良くなった人のことを思い出しました。



 その日は夏祭りでした。

 私は両親と弟と共にお祭りに着ていました。正直、こういうところはあまり友人と来たことがありません。そんな中で、私は見知った人影を見ました。

「――日暮さん?」

 影、そう、影です。

 黒くて、彼女くらいの背の高さで、体つきもそんな感じの影。それが人ごみに消えて行きました。あっちには……神社の境内があったはずです。その姿を目で追い、首を傾げ、私はすぐ隣にいた母に声をかけました。

「お母さん、なんか今、変なもの走っていかなかった?」

「え?何が?」

 いか焼きに気を取られていたらしい母はこちらを見て首をかしげました。

「ううん、気のせいかも」

 気のせいではないですが、そういうことにしておきます。

「あ、お母さん、ゆうくんが変なもの触ってる!」

「あらやだ、ゆうくん駄目よ」

 母は弟に手を伸ばす。父はタコ焼きを抱えて笑顔でこっちにやってくる。

(日暮さん、一人なのかな)

 そう思ったら、少し心が痛くなりました。

(日暮さん、一緒に来るような人、いるのかな。家族の人とか)

 そう思った瞬間、私の頭に千藤先生の顔が浮かびました。

「……お母さん」

「なぁに」

「私、友達見かけたから、声かけてくる」

「こんなに人がいっぱいいるのに大丈夫?お父さんについていってもらえば?」

「ううん、大丈夫。このまま回っていくでしょ?だいたい流れで場所わかるし、家への帰り方もわかるもん」

「そう、じゃあ、お金だけ」

 母の差し出す紙のお金を丁寧にお財布に入れて、私はお父さんと弟に手を振り、人ごみにまぎれました。

「日暮さーん?」

 人が多くて自分の声も上手く耳に届きません。 

 私は、ふらふらと歩きながら、さっきみた影を探します。

「黒の服を着ていたってことかな?」

 黒の人影を重点的に、と、お祭りを一周、二週。反転してもう一週。

「……いませんね」

 私は両親弟との遭遇の危機を神社の石垣の手前の木陰に隠れてやり過ごしつつ、あごに手をおきました。あ、いえ、友人に会うと言った手前会わずに家族に会うのは少し恥ずかしいもので。

 しかし、これだけ探していないと言うことは、つまり彼女はもう帰ってしまったと言うことなのでしょうか?

「うーん」

 若干の下心があったことは否定できませんが、日暮さんの様子がおかしかったことに対する心配もあるのです。

「帰れていたら、いいのですが」

 彼女もここに引っ越してきて数カ月と言えど、もう小学6年生です。そこまで心配しなくていいのかもしれません。

さて、帰るならば、チョコバナナ位は食べたいものです。確かチョコバナナは何件かありました。どの店にしようかと悩みつつ、そういえば神社にお賽銭でも入れておこうと足を踏み出した瞬間、何かに足を取られました。回るように転びます。危うく溝にはまるところです。

「いった……」何があったと言うのか。

「うぅ……」

 私の声に誰かの声がかぶりました。

 慌てて身を起こします。そこにいたのは、

「日暮さん……」

 始めてみた日よりも少し伸びた髪、かたくなな表情は泥と涙にぬれています。

 そして、真っ直ぐの瞳。

「の、でら、さん」

 彼女の声が、私の名前をかたどりました。

 いつの間にやら彼女と私は遭遇することが出来たのでした。



 あれは非常に不思議な出来事でした。何故か涙が止まらない様子の日暮さんにハンカチをわたし、急いでたこ焼きを買ってきました。

 たこ焼きを渡すと、彼女は「迷子になってしまったんだ」とだけ言いました。私は「そうなんだ」と言って頷きました。

 それから二人でとても他愛のない話をしました。家の場所とか、好きな食べ物の話とか。

そんな中で日暮さんは顔を赤らめ、笑いました。

二人でたこ焼きを食べ終えて、「チョコバナナを食べにいこっか」と立ちあがった時、既にお祭りは片づき始めていました。お祭りに背を向けて話していたため、気付きませんでした。

焦った私と日暮さんの前に、汗をたらしながら走ってきた千藤先生が現れました。そこで初めて日暮さんが先生の姪であり、今一緒に住んでいると言うことを聞いたのでした。





「私ね、魔法使いって言っても、あんまり強い力を持ってないの。というか、かなり駄目な部類の子だったんだ。それで、上手くいかなくて、レンに引き取られたの」

「そうだったんだ」

 初めて聞く日暮さんの過去です。

 日暮さんは真剣です。非常に真剣です。私もそれを受け止めなければいけません。

「私のお母さんは、レンのお姉さんで、私を残して死んでしまったの。お父さんはもっと前に死んじゃってたから、お父さんのおかあさんとお父さん、つまり私のおばあちゃんとおじいちゃんに引き取られたの。普通の子だったら、私はきっとずっとそこにいた。でも」日暮さんは大きく息を吸った。

「私は上手く魔法が使えないから、いらないって………」

「トウコ」気遣わしげに先生が日暮さんの様子をうかがいます。

 日暮さんは顔を上げて先生を見、少し笑いました。

「大丈夫、そんなに今は辛くない。レンは私に良くしてくれてる。そんな感じで、色々、あって。私はあっちの家から出て、レンのところにきた。今まで、普通の生活なんてしたことないし、どうしていいかわからないし、上手く使えないって言っても、魔法使いだし。見つかったら嫌われちゃうと思って」

「……」

 私は彼女に視線を向けたまま、彼女も私を見つめたまま、じっと動きません。

 先生は何も言いません。

「あの指輪は、お母さんがくれたの。何かあったら指にはめてねって。そしたら、いいことがあるよって」

「じゃあ、それがあの指輪?」

「そう。いつもはこんなこと起きるわけじゃない。いつもじゃないの。でも、指輪がきっかけでよくなることがあったから、何かあっても、きっといい結果になるだろうって思って、それで」

 そう言って、日暮さんは黙り込みました。

私は少し考えて、口を開きました。

「日暮さん。話してくれて、ありがとう」

 手を伸ばし、日暮さんの強く握ったこぶしを包みます。

 私はきっと、うまく微笑むことが出来ていたのでしょう。

 日暮さんの顔が大きくゆがみました。

「……野寺、さん」

 彼女は肩を震わせ、絞り出すように言います。

「私、何にも考えてなかった。貴方を、あなたっていう人ともっと仲良くなりたくて、どうにかしたくて、ずっと一緒にいたくて。ずっと一緒にいるためには何かしてあげたいと思った。でも、そんなの、私の勝手だった。私にいい結果が出たって、そんなのいつものことじゃなかった。何が起こるかわからないものだって、一番わかってた。のに、上手くいっていたからって、説明もせずに、貴方を巻き込んだ」

 あふれ出た涙は止まりません。頬を伝う涙がキラキラ輝きます。机を挟んで反対の彼女。私はその頬に指を伸ばし、涙をぬぐいます。あのときは、ただ見ていることしかできなかった涙。

 今はこんなにたやすく涙をぬぐうことが出来る。

「友達なんていたことなかったの。私が前に暮らしていたところでは私は皆と一緒に遊ぶことも出来なかったから、変な、危ない子だって言われてたから。でもここではそんなこと言われない。それで」

 日暮さんは私の左手を見ました。きっと、指輪をはめた手を。

「貴方と仲良くなりたくて、それを願ってお母さんから貰った指輪をはめたら、貴方を仲良くなれた。あの指輪は、いつも私を助けてくれた。だから私はきっとあの指輪は願いがかなう指輪だと思っていたの。それを貴方に貸したら、きっと貴方のためになると思った。でも、――そうだよね、あのときだって怖い想いをしたんだから。今回だってそう簡単にいくわけがない」

 つぶやくように彼女は言いました。私は彼女の言うことを理解しました。

 夏祭りのときの彼女は、今の私のように変なことになってしまっていたと言うことなのでしょか。

「野寺さん、私」

 日暮さんは震えながら私を見ました。

「いいよ」私は言いました。

「言わなく、いいよ。わかったから」

「でも」

「でもも何もないよ。私は日暮さんの友達だし、それを変える気はないよ」

 出来たら、こんな事態になる前に彼女の庫裏からそのことについて話して欲しかったけど――、きっと今回のようなことがなければ彼女は私に話してくれたはずなのです。

 友達、だから。

「――俺も、すまん」

 先生が私に頭を下げました。

「こいつの保護者は俺だ。なのに、甘すぎた。そして、君にまで迷惑をかけた。すまない」

「いえ、先生。大丈夫です」

「……」日暮さんは下を向きます。

 日暮さんの過去に何が、先生と何があったのか、だいたいの想像しかできません。でも、それもいつかは話してくれるでしょう。

 私は大人なのです。全てを受け入れ、それを優しく包み込む、それが私の思う大人。

 そんな大人になって、私は――、

「で、野寺は何を願ったらそうなったんだ?」

 先生の言葉に私は固まりました。



   ◇◇◇



「寝てないでしょう」

 隣の布団から日暮さんのもぞもぞする音と声が聞こえますが、私は聞こえないふりをします。

 ――いいい、えええ、とあの、たんま!たんまというやつです!混乱しているので今日は寝させて欲しいのです!

 不審げな先生にそういい切り、私は睡眠を勝ち取りました。いえ、どちらかと言うと、寝る前に考えるための時間とでも言いましょうか。色々現状を整理しなければいけません。

 願いがかなう指輪、というと、つまり私の願い事を叶わせるためにこの現状は成り立っているわけです。

 さて、私の願い事とは何でしょう?

 そうですね、やはりおいしいものを食べたいとかでしょうか?あまりダイエット!等と考えるほど現状(というか、以前の身体です)に不満はなかったのですが、おいしいものはいいですね。お小遣いが制限される小学生としたらケーキとか思う存分食べてみたいですね!あとは可愛い服が欲しい!とかでしょうか。……いえ、これが完全に見当違いなことはわかっています。うぐぐ。

 好きな人、私にはそういう相手がいます。そして、その相手は私と今、同じ家にいる人です。

(千藤、せんせ)

 私は心の中で、あくまで心の中でその名前をつぶやきました。



 千藤レンゾウ、という名前を先生が黒板に書いた時、教室の皆は大笑いしました。

 何故でしょう?誰が口火を切ったのでしょうか?

 若くて、少し緊張している様子で、まゆ毛のしっかりした男の先生の名前は妙な笑いに包まれたのです。

「せんどう、レンゾウです、よろしくお願いします」

 先生は挨拶をしました。

「せんせー、彼女いるのー?」

「せんせー、何歳なのー?」

「せんせー、なんで名前カタカナなのー?」

 様々な質問が、空中を飛び交います。私は、その質問に答えて行く先生を見ながら、全く違うことを考えていました。

 それは、

「――はい、質問はここまで。また、なんか聞きたいことがあったら、何時でも聞いていいけど、今は、決めなきゃいけないことあるから、そっちを先にします!はい、まず、学級委員長を決めたいと思います」

 先生の言葉に、私は手を強く握りました。



 私はどうやら真面目な人間に見えるようだと知ったのは、四年生の時でした。

 一年生の時に、学級委員になって、それから、毎年クラスが変わり、クラスメイトが変わっても、私は毎年のように学級委員に選ばれました。クラスメイト達は少し距離をとります。真面目だから、一緒にふざけたりしないよね。そんなこと、言われて驚いた覚えもあります。そんなとき、「そんなことないよ」といったのに、皆何故か妙にふわついた視線で「そうかな」といいました。距離、いつからかわからないそんなものが、いつの間にか私のクラスメイト達の間に会ったのです。

 悪意ではないからこそ、どうしようもない溝。年々広がるそれに私はどうしていいかわからず、立ちつくしていました。

 そして、四年生の一学期。学級委員として、多数決で私が選ばれた時。私は唇を噛みました。

「いいわよね?野寺さん」と言ってきた先生に、小声で「いやです」と言いました。

「そうはいっても」先生は困ったように眉を寄せました。「多数決だから」

「私は毎年学級委員をやっています。今年はやらずにいたいです」

「でも」先生はクラスを見まわしました。

 私の席は一番前です。私は振りかえりません。皆がどんな顔をしているのか、想像だけで、十分です。

「ねぇ、皆。野寺さんがやりたくないみたいなんだけど、他にやってみたい人いる?」

 教室がざわめきであふれました。

「せんせー、野寺さんが一番良いと思います」お調子者の男子が声を上げました。彼とは二年生の時に同じクラスでした。

「あら、斎藤くん。なんで?」

「だって、野寺さんは、真面目だから」

 彼の言葉に、皆が同意する声が聞こえました。

 わたし、まじめじゃない。

 いつもそうでした。真面目だから、そう言って皆私に笑顔を向ける。そういうのじゃないのに。いけないことした話とか、誰それがだれそれに恋をしたとか、そんな話は私にはしてくれません。私は、真面目だから。だから、そんなことに巻き込んじゃいけないんだ。そう、誰かが言いました。

 下を向きました。どうしてだろう、どうしてなんだろう。

 なんで、私はそんな風なんだろう。口をつぐみます。何も言いません。いえ、何も言えません。

「じゃあ、野寺さん。いいかしら?」先生の声が聞こえました。

 そして、私はなし崩し的に学級委員になってしまったのでした。



 結論からいえば、結局5年生でも学級委員になってしまったのでした。

「先生、プリント集めてきました」

「ありがとう」

 廊下で千藤先生に集めたプリントを差し出します。しかし、千藤先生は沢山手に荷物を抱えていて、少し困った顔をしました。私はそのプリントを引っ込め、

「これ、職員室まで私がもっていきますね」

「野寺は気が効くなぁ、ありがとう」

 先生は笑います。

「いえ」私は視線をそらしました。

「野寺のこと、皆褒めているぞ」

「そうですか」

「前田先生と、高橋先生と」

 両方とも、私を受け持ったことのある先生です。

「ちょっと待ってろ」

 職員室の前につきました。先生は早足で机に向かい、荷物を置いて、何かを探すように引き出しを開けた後、こちらに戻ってきました。

そして、じっと私を見てから、にこりと、笑みを浮かべます。私は少し居心地が悪くなり、少し背筋を伸ばします。

先生は手を伸ばし、私の手をとりました。何かを握らせ、言います。

「お腹がすいたなら、これをやる。買い食いしたくなったら、先に俺を探せよ。他の先生に見つかったら怒られるからな。放課後、一緒に勉強しようか」先生は笑いました。

「なぁ、野寺。先生っていうのは頼るためにいるんだぞ」

「……」思わず息を飲みました。

「じゃ。また、あとで」

 先生は何事もなかったように去って行きました。

「あら、野寺さん、どうしたの?」先程名前のでた高橋先生が立ちつくす私に声をかけました。

「いえ……。失礼します」

 私は高橋先生を避けるように職員室から離れました。

(ばれてた、でも、なんで)

 女子トイレに入ります。個室で大きく息をして、手を開きました。

「おまんじゅう……」

 透明なビニールに包まれたそれは、柔らかく、少し甘いにおいがします。

「なんで……」

 妙に目頭が熱くて、唇を噛みます。

先生。知ってた。



 父はそのころは仕事が忙しく、母は弟の入院の付き添いで忙しかったのです。

 両方とも、なかなか家に帰ってきません。家に帰っても、暗い家で、私は一人でした。ご飯の作り方は知りません。危ないから、待っていなさいって言われていました。

 待ちました。暗くなって、お腹がすいて、眠くなっても帰ってこなかった。

 ――お腹すいた。

 家にあるものを全部ひっくりかえして、それでもご飯はなくて。

 ――どうしよう。

 一度カップラーメンを食べようとして、お湯を沸かして、やけどをしました。赤くなった手を見て、涙が滲みました。

 ――痛いよう。

 一人で夜を過ごすのが怖くて、でも、一人しかいなくて。

 私は、いうならば、ただの臆病なのです。外れることが怖い。もし、先生の言うとおりにしなかったら、怒られるかもしれない。怖い。お母さんのいうとおりにしなかったら怒られるかもしれない、怖い。全部、怖い、怖いで、だから、

(家に帰る前に、公園とコンビニに行ってた)

 家に帰るのをギリギリにしたくて、家と学校の間の公園とコンビニを何個も行ったり来たりしていた。公園はともかく、本当は学校帰りにコンビニはあんまり行っちゃいけない。でも、そこにしか行けなかった。

(コンビニなら、言い訳出来る)

 ちょっと買い物に来ただけなんです、そういい張れるように、逃げ道を確保して。

 こんな時、本当に真面目な子だったら、イイ子だったら、きっと私は家でちゃんと待っていることが出来るはずです。でも、私は違います。

 言い訳の材料を探して、見つけて、それに沿うようにただ、逃げている。

 私は鐘の音を聞きました。

「予鈴……」

 もうすぐ、授業が始まってしまいます。

「……」

 気付けば、おまんじゅうは強く握り過ぎて形を変えていました。

 それを、私はスカートのポケットに入れました。

「………千藤、先生」

 つぶやいた声は、少しだけうるんでいました。





(それから)

 私は自分で、先生に話しかけることが多くなりました。

「先生」

「どうした、野寺」

「なにか、おしごとありますか?」

「えぇと」先生は首を軽くかしげます。

「そうだな、掲示物作らないと。そろそろ冬のなんか、飾りたいな」

「手伝います」

 私の言葉に先生は「ありがとう」といいました。

 そんなこんなで、放課後色々と作業を手伝ったり、何かと話を聞いてもらっているような日常を過ごすうちに、母の帰宅も、父の帰宅も早くなりました。弟の状態も良くなり、家に明るさが戻ってきました。

(先生)

 先生と生徒ではなく、先生と、児童です。

 同じ踏み台になんて、全く上がっていません。私はただの教え子で、子供で、児童です。

 先生は先生の本分をしただけです。わかっています。わかっているからこそ、私は先生が好きなのです。

「先生の好きなタイプの人は?」堂々と聞いても、先生は全く動じません。

「そうだな、落ち着いた人かな」当たり前です。先生にとって、私はただの子供なのですから。

「そうですか」

「野寺はどうだ?最近、村田と仲良くないか?」

「違います」

 きっぱりとした言葉に、先生は「手厳しいなぁ」と笑います。

(千藤、先生)

 恋とは何でしょうか?私には正直よくわかりません。

 でも、この苦しい感じは。もし、先生が私ではない誰かと仲良く手を繋いで行ってしまったら。私はきっと辛いのでしょう。



「……あ」

 ふいに頬に感触がありました。

 いつの間にか寝ていたようです。身を起こし、あたりを見渡します。

 ここは日暮さんの部屋です。横を見ます。日暮さんが寝ています。ベッドは一人用なので二人で寝ると非常に狭いです。でも、寝る前にひたすらお互いに譲り合って、結局二人で使うことになったのです。

「……」

 頬をなぞります。生温かい感触。

「涙……」

 手が大きく、足も前より長く、お肉がついたので柔らかい。着ている服は先生の服です。真新しいスウェットには、優しいにおいはしません。

 私はため息をついて、ベッドから立ち上がりました。

「……どこいくの?」

 後ろからかけられた声に、びくりと肩をすくめました。

 振り返ると日暮さんが掛け布団から目元だけだして、こちらを見ています。

「……おトイレ、ですよ?」

「なんだ……」おや、何故ため息をつくのですか。

「場所、わかる?」日暮さんはいいました。

「ええと、階段の傍の、お風呂の隣ですよね?」

「レンの部屋は二階。鍵はかかってないから、どうぞ」

「……へ?」

 私の間の抜けた声に返事をせず、日暮さんは布団に頭まで入ってしまいました。

「……」

 ええと、つまり、それはどういうことなのでしょう?



 トイレの水を流します。

「先に入ったの、先生でしょうか」

 トイレに入った時、便座が持ち上がっていました。父がときたまやります。

「……」深く考えないようにしましょう。

 トイレから出ると、まず目にはいったのは、階段です。

 部屋に入って、どうしろと言うのでしょう?というか、

「日暮さん、私の気持ちに気付いていたのでしょうか……?」

 なんでしょう、すさまじい敗北感です。

 ひっそり、ひっそり、私は歩を進めます。階段を登り切り、そして――、

「あれ」

 首をかしげます。

「電気、ついてる?」

 良く見るとドアの下の隙間から明かりがもれています。

 耳を澄ませます。しかし、物音はしません。

「……」

 こんこん、と小さくノックしました。返事は帰ってきません。

「………」

 そっと、ドアノブに手をかけ、そのまま開けてしまいます。

 明るさで目がくらみます。

 先生は部屋の真ん中で(凄く散らばった部屋です)、机に突っ伏していました。

 一歩一歩、ひっそり近づきます。

「せん、せ?」

 危うく床に置かれた(落ちた?)本を踏みそうになりながら、私は先生に声をかけました。

「風邪ひきますよ……」

 先生に触れることの出来る位の距離で、私は足を止めました。座り込みます。

「せんどう、せんせ」

 寝息は穏やかなものです。

 頭を抱え込むように突っ伏しているので、先生の顔は見えません。

 どうしよう。起こすべきでしょうか?私は部屋を見渡しました。

 色々とあります。さっき踏みそうになった本を拾ってみると、それは何やら何処かで見たことのある名前の本です。

「そっか、教科書に載っている本だ」

 まだ、入っていない範囲ですが、確かに教科書に載っている小説のタイトルと一緒です。教科書には一部しか載っていませんが、ここにあるのは一冊です。何枚もポストイットが挟まったそれは、少しくたびれています。

 他にも、落ちている本はどれも授業に関係していたり、指導に関係していたりするものばかりです。

 棚は半々くらいでしょうか?漫画と多分、ミステリーのようなものと難しい名前の本が雑多に並べられています。

「……」先生を見ます。

 ふいに、先生は身動きしました。

「む……」

 私が息を飲んで見守っていると、先生は顔をこちらに向けました。

 乱れた前髪、閉じたままの瞳。太いまゆ毛は、同じクラスのおしゃれな子にいわせるとどうやら野暮ったいらしく、それを指摘された先生は笑ってごまかそうとしていました。

「せんせ」

 私の声は、思ったよりも大きく部屋に響きました。

 肩を震わせ――起こすために声をかけたのです。なのに、なのに、なんでこんなに私は恥ずかしいのでしょう。何故、こんなに怖いのでしょう。

 もし先生が起きてしまったら。どうなるのでしょうか。

「……」

 ――どうにもなりません。

 私は、子供です。

 先生は私に対して、ただの一児童くらいの認識しかないでしょう。いえ、日暮さんとの仲を考えると、被保護者の友人と言うことで、少しは前向きな意見を聞くことが出来るかもしれません。しかしでも、結局はその程度です。

 半年もしたら、私は中学生になってしまい、先生と会う機会は一気に減ります。先生の姪である日暮さんは同じ中学校に進学する予定ですし、彼女を通じて交流は途絶えることはない。――と思うのだけど。

 もし私の知らないところで先生が恋人を作るとか、一足飛びに結婚してしまうとか、おういうことがあるかもしれません。おとなとこどもの距離、そんなものが長くて、遠くて、どうしようもないんです。

 でも、今行動をしても、結果は見えています。千藤先生は先生です。真面目でいい先生です。そんな先生は教え子なんかと恋愛しちゃいけないんです。ふじゅんいせーこーゆーとか、そういうのになっちゃうのです。そんなことしないと思うけど、そんなことする先生は見たくない。私は先生に先生として立派で会って欲しいとも願っているんです。

 ずっと、思っていました。私がもし、先生と同じ年だったら、先生は私を女の子として考えてくれたでしょうか?しかし、そんな状況で、私は先生に恋をすることがあったでしょうか?

 答えは見えません。最初からないものなのだから、当然です。

 こっそりクラスの子に見せてもらった漫画には、中学生(私からすると中学生は大人に見えますが、大人からみると中学生も子供に含まれるでしょう)の女の子が大人の男の人を好きになって、それを成就させるために色々と頑張って最後にはお付き合いまではいかずとも。将来的にはそういう方向に行くんじゃないかな、みたいな期待をさせるような作品もありました。

 でも、そんなの、ただの創作です。ファンタジーです。

 私の現状とは違う意味でファンタジーです。

 私は唇を噛みました。私は、先生とどうなりたいのか。そう考えれば考えるほど、私は自分が先生の児童であることの喜びと、先生という男の人の傍にいたいと思う感情で心がふらふらします。

「……」

 自分の足を見下ろします。

 緩やかな曲線を描く足は、子供の身体の時とは違って、「子供」ではなく「女の人」という感じがします。

 でも、心は子供のままです。

 身体だけが大人になっても、先生と恋が出来るようになるわけではありません。

 なのに、私の心の何処かで、先生と年齢が近ければどうにかなっていたんじゃないかとでも、思っていたのでしょうか?

「あさはか」

 まこと、あさはかです。

 私は床に膝をつき、先生を間近に見ます。

 じっと、じっと。

 息を止めていたことに気付いて大きく息をします。

 吸いこんだ空気に先生の匂いを感じます。

 ――優しい香り。

「せんせ」つぶやいた声は、夢の世界にいる先生には届きません。

「あのね」なんでかわからないけど、涙が出てきそうです。

「私、せんせいのこと、好きなんだよ」きっと、考えすぎなんです。

 こどもがおとなとれんあいしちゃいけないなんて、そんなことはないのです。

 そもそも子供なんて、いつかは大人になるものです。だから、この想いはいつか叶うかもしれないんです。でも。

「私、先生のこと、先生としても、好きなんだよ」

 つぶやいた言葉に自分で少し驚きました。

「あさはかな次は、考えすぎ、ですよ」

 考えたって、何も始まらない問題を、私はなんでこんなに思い悩んでいるのでしょう。

 友達の叔父さんで、先生で、野暮ったくて、鈍感で、頑張りやなこの人が好き。

 私は、どうしたいんだろう。凄く考えていました。日暮さんとの関係とか、私が子供であることとか、先生が大人であることとか、色々。

(決めなきゃ)

 でも、結局、行動しなければ何も始まらない。行動することを迷っていたら、背中を押された。そういうことなのです。

 先生は静かに寝たまま。だから、私は。

「おやすみなさい、先生」

 静かに身をかがめます。ふわりと先生の香りが私の鼻をくすぐります。

 こちらを向いた、右頬。そこに小さく唇をつけて、

「大好きです」

 まだ、言わないけど。伝えないけど、

「――私、いつかはちゃんと言いますから。この身体くらい、大人になったらきっと。ううん、絶対」

 決めた、約束した。多分、自分と。



  ◇◇◇



 朝、目が覚めるとそこにいたのは、小学生の私でした。

「何があったんだ?」と、先生。

「いいじゃない。治ったなら」嬉しそうに日暮さん。

「あ、あはは」笑ってごまかしたつもりの、私。

 朝ごはんを三人で食べます。今日は私もお手伝いしました。卵焼き、焦げて味も薄いけど、私作です。

「おいしいぞ」先生は笑いながら言ってくれました。

 二人の家はお昼前に出ました。

 先生は送っていこうとしましたが、私は断りました。日暮さんと二人で、私の家でご飯を食べようと思います。

「何があったのか、今度ちゃんと教えてね」

 私の家に向かいながら、日暮さんは念を押しました。

「うん」

 そう言った私ですが正直何がどうという問題ではないのでしょう。多分、背中を押すだけだったのです。もしくは、未来の方向が変わったのでしょうか。

 二人、何事もないように休日の外を歩く。今思えば、あの出来事は一体何だったのか、心底わからなくなってきます。夢だったのでしょうか?そうだとしても、私は構いません。ただ、あのとき感じた気持ちは、確かに私のものでした。

 そういえば。

「この指輪、これ本当にいいの?」

私の魔法が解けて、手の中に出現した指輪を、日暮さんは受け取ることを拒みました。

「いいの。あげるっていったでしょ」

「でも」私は躊躇いました。「これは貴方のお母さんの形見なんでしょう?」

「うん。だけど、だからこそ、持っていて」

「日暮さん……」どうしよう、指輪を見ます。そんな私に日暮さんは言いました。

「トウコでいいよ。というか、名前で呼んで欲しいな」

「……じゃあ私も」

 彼女も、きっとこの指輪で心の何処かに変化が訪れたのでしょう。だからこそ、私と友達になった。きっとこの指輪は願いをかなえる指輪じゃないんです。想いを変える、きっかけをくれる、それだけ。何をなすかはその人に託されている。

「トウコ、もし私が協力してって言ったら、協力してくれる?」

 何を、とは言いません。

「もちろん、協力する」にやりと笑った彼女に、私も笑い返しました。

 魔法使いだったらしい友人と、鈍い私の先生な想い人と、変なところで真面目な私の日常は、これからどうなっていくのでしょう。

 いえ、きっとこれからずっとずっと仲良く、もっともっと仲良く、幸せになるんです。

「まずは、夜這からにする?きっとレン驚くよー」

「……そですね」

「え、ホント?!」

 少し驚いた友人の手を、私は笑いながら勢いよく掴みます。そして、

「大好きだよ、トウコ!だから、ずっと一緒にいようね」想いを躊躇わずに告げるのです。

 未来は私の手に。

 だからもう、迷わないんです。
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