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第1章「はじまりのうた」

思わぬ誤算と先立つもの

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「コーバー、今日の分だ。」

「ありがとうございます。ネストルさん。」

俺はネストルさんから例の黒っぽい塊を受け取った。
それを口に含み、水で飲む。

「どうだ?調子は?」

「お陰様で何とかなりそうですね。」

俺はあの日以来、毎日欠かさずネストルさんのくれる例のブツを飲んでいた。
あんなにも抵抗があったが、一度飲んでしまえば覚悟が決まる。
やるならやるできっちりした方がいい。
中途半端な事をしていては俺の場合は本当に死んでしまう。

例のブツを飲み続けているのは、この世界の腸内細菌を確実に定着させる為だ。
一度飲めば終わるって言う単純な話じゃない。
腸内細菌と言うのはそう簡単に体に定着するものではないからだ。
特に大人になってすでに腸内環境が一つの形を確立してしまっている場合は簡単じゃない。

そもそも口から飲むのだから、まず胃に行く。
胃に行けば当然、胃酸に出くわす。
胃酸と言うのは消化の他に殺菌をすると言う働きがある。
だからはっきり言って、口から菌が入ってもここでほぼ死滅してしまうものだ。
そして運良く生き残って腸まで届いても、そこは既に満ち満ちに住人がいて陣取り合戦を繰り広げている。
そんなところにぽっと出の菌がちょっと入ったって、住み着く場所がないのだ。
だからやるならそれなりの時間をかけ、常に口から援軍を送り続けないと駄目である。

ただ今回俺の場合は、元々持っていた菌がこの世界に適応しきれない為に腸内の情勢が崩れている。
いわば腸内に氷河期と戦国時代が来ている。
なので一定期間、そこにニューフェイスをどんどん投下して陣地を持たせようとしている状態だ。
一度陣地を持たせることができれば、その後の陣地の大きさは俺の食生活と生活環境に合わせて内部でバランスをとっていってくれるはずだ。

「熱はどうだ??」

俺をのぞき込んだネストルさんが顔を近づけ、クンクンしてくる。
どうも汗の具合などから判断しているみたいだ。
鼻息がくすぐったくてちょっと笑ってしまう。
ネストルさんは少し過保護だよなぁと思いつつ、その鼻先をぽんぽんと撫でた。

「大丈夫ですよ、ありがとうございます。」

俺は答えて微笑んだ。
まだ若干熱っぽくはあるが、大した事じゃない。

ここまで多少熱も出たけれど、高熱にみまわれたりもせず、本当運が良かった。

腸内環境がガタガタになった時と言うのは免疫機構にも注意が必要だ。
腸は第二の免疫機関と呼ばれる場所。
あまり知られていないが、免疫細胞の70%程は腸に存在している。
だからここが戦国時代になると免疫の方にも影響が出てしまう。
しかも今回は、それまでにない未知の世界の腸内細菌を定着させようとしていた。
だから当然ここでも戦争が開戦される事になる。
ただでさえ生存に向かない環境に落っこちて身体が色々ダメージを受けているのだ。
そりゃそれなりに熱も出るし、弱っているから他の病気にも気をつけなければならないし、とにかく大変だった。

「何か……異世界転移がこんなに大変だとは思わなかった……。」

やっと体調も腹の具合も落ち着いてきて、俺はほうっと安堵のため息をついた。
本当、事実は小説より奇なりとは言ったもんだ。
俺もぽんっと行ってスローライフを満喫したり、冒険を楽しんだりできれば良かったんだけどね。
どうもそんな楽しくはいかなかった。
転移先に運がなかったといったところなのだろうか?

「……本当に大丈夫か??」

「平気ですって、心配症だなぁ。」

大丈夫と言いつつ、何度も死にかけたりクロッキーになったので、ネストルさんは不安そうだ。
こんなに大きな体なのに、実家の犬みたいで可愛い。
俺は転移先には恵まれなかったかもしれないけれど、巡り合わせの運はとても恵まれたと思う。
柔らかいお腹の毛に包まれ、不安そうにすぴすぴ鼻を鳴らすネストルさんを眺めて笑った。

「………ニョルの実、食べるか?それともゴーズが良いか?!」

そう言ってブドウみたいな房の物と芋みたいな物を差し出される。
俺はお礼を言ってどっちも受け取った。
一度にたくさんは食べられないので、少しずつ時間をかけて食していく。

なんだかんだ何か贅沢だよな、俺。
ふっかふかな温かい毛並みに包まれて、上膳据膳で何もせずに食べて寝てるだけ。
ある意味、贅沢なスローライフを過ごしているのかもしれない。
そう思うと自然と笑みがこぼれた。
ただ流石にそろそろ風呂に入りたいけどね。














ネストルさんの献身的なお世話により、俺はとうとうこの世界で何とか無事生活できそうなところまで来た。
着ていた服を洗い終え、ふうと一息つき澄んだ池の水に浸かる。
本当、来た時は陸にいながら空気中の水分で溺れて死にかけるし、食べ物は受け付けないし、どうなるかと思った。
俺は頭と体を洗いながらそんな事を思う。

「………っ!!コーバー!水に浸かるなど!!体が冷えて熱が出たらどうするのだ!!」

見回りと食料調達に行っていたネストルさんが、そんな俺を見つけて大慌てになっている。
何かお母さんみたいだなぁと思わず笑った。

「いやでも、このまま服も体も汚れたままというのも、衛生的に良くないですし。」

「全く!ちょっと待っておれ!!」

ネストルさんはそう言うと、しばらく動かなくなった。
何をしているんだろう??
俺は水に浮かんだまま、それを見ていた。

少しの間の後、ネストルさんは目を開いてペッと何か大きな物を吐き出した。
何か硬い殻に包まれていたそれを足で踏んで壊す。

「?!」

「ほら、無いよりマシだろう!!」

殻の中から出てきた物を爪で引っ掛け、ネストルさんが俺の方に差し出してくれる。
びっくりしたまま水から上がり、それを受け取った。

「え?!どういう事ですか?!」

受け取ったそれは布だった。
どういう布かはわからないが、ひとまずありがたく受け取って体に巻着付ける。

「………何で布?!しかも吐き出した?!」

どこから出てきたのだろう?
人間ポンプみたいなものだろうか??
よくわからずに目を瞬かせる。

「ああ、それか?今、作った。」

「作った?!」

「我はルアッハだぞ??一度取り込んで分析が済んでいるものなら、体内に成分が十分存在すれば同じものを作る事ができる。」

「………はい?!なんですか?!その機能は?!」

「あまり複雑なものは時間もかかるし面倒だし難しいが、簡単なものなら出してやれると思うぞ??」

俺はぽかんと口を開けてネストルさんを見上げた。
ネストルさんはそんな俺を不思議そうに見ている。

「何をそんなに驚いているのだ??コーバー??」

「………お、驚きますよ!!俺の居た世界には!!そんな事ができる存在はありません!!」

「そうなのか??」

驚く俺に対し、ネストルさんはきょとんとしている。
魔法とかとは違うが、さすがは異世界。
思いもよらない事が当たり前だったりするみたいだ。

まったりするように、ネストルさんがその場に座る。
洗濯物を適当に木の枝に掛け終わると、俺はそのお腹の辺りに潜り込んだ。
うん、温かい。
さっぱりはしたが、やはり水に入って体が冷えている。
思わずクシュンとクシャミをすると、それみろ言わん事じゃないと窘められた。
なんだかおかしくて笑ってしまった。

「……とは言え、まぁなんだ。せっかく身綺麗にもしたのだ。服が乾いたら、スーダーの街に行ってみるか??」

「本当ですか?!」

「そろそろお前も調理された物を食べたいだろう?違うか??」

「そりゃ食べたいですよ!!」

俺が嬉しそうに答えると、ネストルさんもなんだか上機嫌に喉を鳴らした。
ゴロゴロと響くそれがとても心地よい。

「それにしても、ネストルさんはお金は持っているのですか??」

「お金??」

「ええ?お金がないと、何も買えないでしょう??」

「そうなのか??」

不思議そうにそう言われ、俺は首を傾げた。
何だろう?この世界には通貨はないのだろうか??
だとしたら物々交換をしているのだろうか??

「なら、いつも何を持っていって引き換えているんですか??」

「引き換える??」

なんだか話が噛み合わない。
少しだけ嫌な予感がした。

「………あの、ネストルさん。」

「何だ?」

「この世界にはお金というものは存在しないのですか??」

「お金……いや、あると思うぞ??スーダー達は使っている。」

「なら、ネストルさんは今までどうやってスーダーの街で何かもらっていたんですか??大きな獲物でも仕留めて持っていっていたんですか??」

「いや??我が行くと、皆、色々くれた。」

「…………あ~……。」

俺は片手で目を覆った。
やっぱりか、そんな気はしていたのだ。

「どうした?コーバー??」

「は~、こりゃ、大変だ……。」

「何がだ??」

ネストルさんはきょとんとしている。
まぁ無理もない。

恐らく今までネストルさんは、スーダーの街に行くと、その大きさや強さ、そしてこの地を守るマクモであることから、タダで物を貰っていたのだ。
だから行けばもらえるものだと思いこんでいる。

だが世の中、そんなに甘い訳がない。

俺も考えが甘かった。
ネストルさんが連れて行ってくれると言うから、無意識にそれに甘える気でいた。

だが街に行っても先立つものがないのだ!!

街に行ったら美味しい食べ物の他、着替えや調理道具が欲しいと思っていたが、それに見合う何かが必要だ。
それはつまり、お金になるものだ。

そう、俺は何かを買う為に、まずは働かなくてはならないのだ。

「うわ~どうしよう~!!」

こういう時、小説なら何かチートがあって解決したり、それまでの知識や経験を活かして上手く行く。
だが俺はごく普通のサラリーマンだ。
正直、ここで役に立つ知識や経験は何もないと思う。
資料作成やデータ解析なんて、どうやって売り込めばいい?!
パソコンもないここでは俺のスキルなんて全く無価値だ。

だからといって俺は、ネストルさんとは違い大きな獲物を仕留めたりなど出来ない。
そりゃ頼めばネストルさんは仕留めて来て街まで運んでくれるだろう。

だが、それでいいのか?!
自分?!

「……どうしたんだ?!コーバー??」

「う~ん、自分に何ができるのか考えています……。」

とにかく物だろが技術だろうが、何かを売ってお金を得なければならない。
全てはそこからだ。
それができなければ、街に行く意味がない。

何だ?!
何なら売れる?!

売れるもの…自分が欲しいと思えるもの……。

ここ数年、何か欲しいと心を動かされたものなんてあっただろうか?
日々の暮らしに追われていて、必要だから買うだけで、心を動かされて買ったものなんかない。
そう思うと本当、自分は何で必死に働いていたのか、何で生きていたのかと思ってしまう。

「……落ち込むな!考えろ!何かあるはずだ!!」

心を動かされたもの……。
俺の心が、動かされたもの………。

そう考えた時、ある事がふわっと頭の中に浮かんだ。

あれは…嬉しかった……。
凄く心が動かされた……。


「………ダメ元だ、それに賭けよう。」


俺は覚悟を決めた。
きっと大丈夫。

何故かそんな風に前向きに考えられたのだった。
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