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猫の手は震える。そして「ナニカ」を描く
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「ひーちゃん、ひ~ちゃ~ん。おじゃましてもいいかしら~」
自室で勉強をしていた私の耳に、ノックの音と母の声が届く。
弾むような声、とはまさにこのことだろう。
何かいいことでもあったのだろうか?
先程リビングで夕飯を食べていた時には、そんな話はしていなかったのだが。
参考書をぱたんと閉じると、座ったままでぐっと伸びを一回。
勉強の集中が途切れた心に、秋の始まりを告げる鈴虫の優しい音色がじわりとしみ込んでくる。
塾の予習も出来たことだし、今日はそろそろ休憩にしてもいいかな。
ぼんやりとそんな事を考えながら、私は廊下にいる母に声を掛けた。
「ん、大丈夫。入ってきていいよ」
「はーい、と言いたいけれど、差し入れを持ってきたの。だから開けてもらっていいかしら?」
あぁ、だからこんなうきうきとした様子なのか。
母は人懐こい性格もあり、近所の人や知人から色々な物をいただく機会が多い。
ふんわりとした輪郭に、黒目がちなぱっちりとした瞳。
それに加えてのんびりとした雰囲気や、実年齢を感じさせない童顔の笑顔が、『ほっとけない存在』として男女問わずに愛され……。
いや、周囲から見守ってもらっているのだ。
つまりは今日も、何か貰い物があったのだろう。
それが嬉しくて報告に来たといったところか。
椅子から立ち上がり、扉へと向かう私に本能が警告を告げる。
いや、待て。
ならばなぜ、夕食の際にその差し入れの話をしなかった?
あのおしゃべり大好きな母が、私に言ってこないはずはない。
「えっと、お母さん。……何か、たくらんでないよね」
「ひーちゃん、なにを、いっているの! わたしは、なにもおどろかせようとか、かんがえてないよ!」
うわ、これは何か驚かそうとしてるわ。
話している言葉、全部ひらがなじゃん。
とはいえ、このままにするわけにもいかない。
諦めるという結論を出した私は、平常心を保てるようにと願いながら扉をゆっくりと開いていく。
お盆をもって、嬉しそうにしている母の左半身が次第に見えてくる。
なぜだろう。
彼女の頬には黒いペンでヒゲが二本と、手の甲には猫の肉球のシールが貼られている。
それが私の視界に入った時点で、私は無言で扉をばたんと大きな音を立てて閉めてやった。
「ちょ、ひーちゃん! 何で閉めるの? あっ、これが話に聞く反抗期ってやつなのね! 天国のお父さん! 娘がまた一歩成長をしましたよ!」
「違うから。ただ単に私の平常心が一瞬にして消えるというか、蒸発するようなことをしている自覚を持ってほしいだけ。あとそんなことで、お父さんに報告していたらきりがないと思うよ」
「ひどい! 私はただ可愛くておいしそうなものを貰ったから、見せたかっただけなのに!」
そのためだけに、随分と手の込んだ行動をしてきたものだ。
「あとなんで、そのヒゲと肉球を登場させようと思ったの?」
「え、だってなんか素敵な差し入れだし、特別な雰囲気も出したいなぁと思って」
だっても何も、全く理解できないのだが。
これは埒が明かない。
残念だがここは、私が大人にならなければならない場面のようだ。
――大人相手に使う言葉ではないのだけれど。
扉を開けば、うなだれた母の姿がある。
だが私を見上げるとすぐに、笑みを取り戻していく。
「見て見て! このパンね、猫の形しているんだよ! 可愛いでしょ」
母は床に置いていた盆を持ち上げ、私へと差し出してきた。
確かに猫の顔の形をした食パンが二つ、ちょこんとお皿に載っているのが見える。
「うわぁ、可愛いっ! 何これ凄いね!」
「でしょう~。お友達が贈ってくれたのよ。食べるでしょ?」
「うん! あ、私の勉強もう終わったからリビングで食べようよ。私、テキスト片づけて手を洗ってから行くから……、ってもういないや」
話が途中にもかかわらず、母は嬉しそうにリビングへと戻って行く。
まぁ、これもいつものことだ。
先程の猫の可愛らしさを思い出し、穏やかな気持ちで洗面台に向かう。
それにしても、あんな素敵なパンがあるなんて。
せっかくだから、友達に写真でも送ってあげようかな。
部屋に戻り、スマホを手に取ると母の元へと向かう。
リビングに入れば、母がテーブルの上でお皿に向かい、一心不乱に何かをしている後ろ姿が目に入った。
「あれ、結構これって難しいのねぇ。チョコペンが固まるまでに、顔を描いてあげなきゃ」
あぁ、なるほど。
母はまっさらな食パンに猫の顔を描いて、……ってちょっと待て!!
お母様、お忘れですか?
あなたの美的センスは人よりも一歩、いや「歩」という言葉では足りない。
そう、もはや駆け足レベルにずれているということを。
おそるおそる私は後ろから近づくと、母の様子をそっと覗きこむ。
……うん、『ナニカ』がいるわ。
そもそもが、目と口を描くだけだろうに。
どうしてそんな個性的なものを創り出しちゃうかなぁ。
この『ナニカ』を見たら、いつも無表情でいる行きつけの店の店長ですら、ものすごく驚いた表情を見せてくれそうだ。
あと、なんで一筆書きで描いちゃうんだろうね。
両手でしっかりとチョコペンを握り締め、描いている母の手の甲の肉球がプルプルと震えながら、顔を描き出していく。
「あっ、ひーちゃん! 待っててね。もうすぐ出来るからね!」
こちらが微笑まずにはいられない、眩しい表情を見せたその人、いやその猫は。
実にたどたどしいその手によって描かれた、かなり変な顔をしたそのパンは。
どうしてだろう。
二人で笑いながらかぶりついたパンは。
――なぜだかとっても美味しかった。
自室で勉強をしていた私の耳に、ノックの音と母の声が届く。
弾むような声、とはまさにこのことだろう。
何かいいことでもあったのだろうか?
先程リビングで夕飯を食べていた時には、そんな話はしていなかったのだが。
参考書をぱたんと閉じると、座ったままでぐっと伸びを一回。
勉強の集中が途切れた心に、秋の始まりを告げる鈴虫の優しい音色がじわりとしみ込んでくる。
塾の予習も出来たことだし、今日はそろそろ休憩にしてもいいかな。
ぼんやりとそんな事を考えながら、私は廊下にいる母に声を掛けた。
「ん、大丈夫。入ってきていいよ」
「はーい、と言いたいけれど、差し入れを持ってきたの。だから開けてもらっていいかしら?」
あぁ、だからこんなうきうきとした様子なのか。
母は人懐こい性格もあり、近所の人や知人から色々な物をいただく機会が多い。
ふんわりとした輪郭に、黒目がちなぱっちりとした瞳。
それに加えてのんびりとした雰囲気や、実年齢を感じさせない童顔の笑顔が、『ほっとけない存在』として男女問わずに愛され……。
いや、周囲から見守ってもらっているのだ。
つまりは今日も、何か貰い物があったのだろう。
それが嬉しくて報告に来たといったところか。
椅子から立ち上がり、扉へと向かう私に本能が警告を告げる。
いや、待て。
ならばなぜ、夕食の際にその差し入れの話をしなかった?
あのおしゃべり大好きな母が、私に言ってこないはずはない。
「えっと、お母さん。……何か、たくらんでないよね」
「ひーちゃん、なにを、いっているの! わたしは、なにもおどろかせようとか、かんがえてないよ!」
うわ、これは何か驚かそうとしてるわ。
話している言葉、全部ひらがなじゃん。
とはいえ、このままにするわけにもいかない。
諦めるという結論を出した私は、平常心を保てるようにと願いながら扉をゆっくりと開いていく。
お盆をもって、嬉しそうにしている母の左半身が次第に見えてくる。
なぜだろう。
彼女の頬には黒いペンでヒゲが二本と、手の甲には猫の肉球のシールが貼られている。
それが私の視界に入った時点で、私は無言で扉をばたんと大きな音を立てて閉めてやった。
「ちょ、ひーちゃん! 何で閉めるの? あっ、これが話に聞く反抗期ってやつなのね! 天国のお父さん! 娘がまた一歩成長をしましたよ!」
「違うから。ただ単に私の平常心が一瞬にして消えるというか、蒸発するようなことをしている自覚を持ってほしいだけ。あとそんなことで、お父さんに報告していたらきりがないと思うよ」
「ひどい! 私はただ可愛くておいしそうなものを貰ったから、見せたかっただけなのに!」
そのためだけに、随分と手の込んだ行動をしてきたものだ。
「あとなんで、そのヒゲと肉球を登場させようと思ったの?」
「え、だってなんか素敵な差し入れだし、特別な雰囲気も出したいなぁと思って」
だっても何も、全く理解できないのだが。
これは埒が明かない。
残念だがここは、私が大人にならなければならない場面のようだ。
――大人相手に使う言葉ではないのだけれど。
扉を開けば、うなだれた母の姿がある。
だが私を見上げるとすぐに、笑みを取り戻していく。
「見て見て! このパンね、猫の形しているんだよ! 可愛いでしょ」
母は床に置いていた盆を持ち上げ、私へと差し出してきた。
確かに猫の顔の形をした食パンが二つ、ちょこんとお皿に載っているのが見える。
「うわぁ、可愛いっ! 何これ凄いね!」
「でしょう~。お友達が贈ってくれたのよ。食べるでしょ?」
「うん! あ、私の勉強もう終わったからリビングで食べようよ。私、テキスト片づけて手を洗ってから行くから……、ってもういないや」
話が途中にもかかわらず、母は嬉しそうにリビングへと戻って行く。
まぁ、これもいつものことだ。
先程の猫の可愛らしさを思い出し、穏やかな気持ちで洗面台に向かう。
それにしても、あんな素敵なパンがあるなんて。
せっかくだから、友達に写真でも送ってあげようかな。
部屋に戻り、スマホを手に取ると母の元へと向かう。
リビングに入れば、母がテーブルの上でお皿に向かい、一心不乱に何かをしている後ろ姿が目に入った。
「あれ、結構これって難しいのねぇ。チョコペンが固まるまでに、顔を描いてあげなきゃ」
あぁ、なるほど。
母はまっさらな食パンに猫の顔を描いて、……ってちょっと待て!!
お母様、お忘れですか?
あなたの美的センスは人よりも一歩、いや「歩」という言葉では足りない。
そう、もはや駆け足レベルにずれているということを。
おそるおそる私は後ろから近づくと、母の様子をそっと覗きこむ。
……うん、『ナニカ』がいるわ。
そもそもが、目と口を描くだけだろうに。
どうしてそんな個性的なものを創り出しちゃうかなぁ。
この『ナニカ』を見たら、いつも無表情でいる行きつけの店の店長ですら、ものすごく驚いた表情を見せてくれそうだ。
あと、なんで一筆書きで描いちゃうんだろうね。
両手でしっかりとチョコペンを握り締め、描いている母の手の甲の肉球がプルプルと震えながら、顔を描き出していく。
「あっ、ひーちゃん! 待っててね。もうすぐ出来るからね!」
こちらが微笑まずにはいられない、眩しい表情を見せたその人、いやその猫は。
実にたどたどしいその手によって描かれた、かなり変な顔をしたそのパンは。
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二人で笑いながらかぶりついたパンは。
――なぜだかとっても美味しかった。
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