上 下
36 / 49

36

しおりを挟む
 次の日の早朝、俺は教会を出てサツキさんの家へ向かった。ひっそりと出かけようと思っていたけど、教会の入り口でマイが待っていてくれた。なんとなく言葉はもう必要ない感じがして、黙ったままで俺はマイを抱きしめた。腕の中でマイは眼をつむって、鼻の先を俺の胸に押し付けるようにした。今のこの瞬間が、なんだか人生のハイライトのような感じがする。これまた、すごい死亡フラグっぽいよな……。
 まだ人気の少ないスラムの道を歩いて、俺はサツキさんの家に到着した。サツキさんは朝ごはんを用意して待っていてくれた。目玉焼きとベーコンと、バターがたっぷりと塗られたトースト。それに紅茶をごちそうになった。……美味い。こんな朝食、スラムでは相当金持ちじゃないと食べられない。サツキさんがマフィアのボスだということを、俺はいまさらだけど実感した。

「これがマイさんの書類。タクヤが帰って来なかった場合、マイさんは生涯、一ヶ月に1万円の支払いを受ける。銀行に口座を開設したから、お金はそこに振り込まれる。本人が望むなら無償で学校にも通わせる。まっとうな仕事の斡旋もする。弁護士に作らせたから、一応公的な書類になるわ。これでいいかしら?」
 サツキさんがそう言って書類を俺に見せてくれた。俺は頭を下げて書類を受け取った。
「このスラムで公的な書類なんて、意味が無いかもしれないけどね。でも私を信用して頂戴。こんな仕事をしてるけど、契約を破ったことは一度も無いから」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
 俺はもう一度深々と頭を下げて言った。
 サツキさんが小さくうなずいて、それから机の上に発電所の地図を広げた。
「早速だけどね、地下10階へはエレベーターで直接行けるの。ただしセキュリティが厳重で、生体認証が必要になる。その対策として、エレベーターに乗る前にこのカプセルを飲んでね。これで一時的に、体から外に出る物質をコントロール出来る。息とか、体臭とか。これで生体認証はパスできるはず」
 サツキさんが、ケースに入った青いカプセルを机の上に置いた。
「これだけで大丈夫なんですか? 見た目とか、体重とかは?」
 俺はちょっと驚いて訊いた。
「発電所のセキュリティは今もAIが管理してるけど、大部分はハッキング済みなの。ただ、地下の深い階層に関しては、部分的にセキュリティが生きてる。つまりカメラとか体重計はハッキング済みだから、生体認証さえクリアすればあとは問題無い……はずなんだけどね」
「はず?」
「うん。調べた限りはこれで大丈夫なはず。ただ、地下10階は未知の領域で、ここ100年以上人が中に入っていない。強烈な放射能の影響下で、なぜかAIが故障もせずに融合炉を今も可動させている。だから、なにかイレギュラーなことがあってもおかしくない。この特殊な状況で、AIが考えることを予想するのはすごく難しいのよ」
 サツキさんが困った顔で言った。
「簡単には行かないかもですね……」
 俺は言った。
「ただ、AIは基本的に人命を守ろうとするから、直接の脅威にはならないはず。やっぱり怖いのはゴキブリよね。巨大な変異種と出くわすかどうかが鍵でしょうね」
「自分の運にかけてみます」
 俺は笑って言った。もう、笑って行くしか無い。

 餞別せんべつとして、サツキさんが俺に3万円をくれた。これで装備を整えて、ということだった。とはいえ新たに必要なものは特に無い。今回も紗季さんに物資をたっぷりともらっている。それで食料の心配はないし、物資はゴキブリ対策の餌としても使える。まあ……できれば出会わないのが一番いいんだけれど。
 スラムを出て、八王子方面に向かって俺は歩き始めた。前回と同様、線路沿いの道を行く。一度歩いたことがある道なので、少し安心して進むことが出来る。3時間ほど歩いたところで休憩することにした。柑橘類の木の下に座って、小分けにした物資をリュックから取り出す。それを食べていたら、俺は少しうとうとしてしまった。

 ハッと目が覚めたら周囲をゴキブリに囲まれていた。小さいのから1メートル級まで、全部で10匹以上はいる。物資をリュックから出したまま、俺は眠ってしまったのだ。その匂いにつられて来たんだろう。柑橘類の木があるにも関わらず、ゴキブリ達がこちらへ向かって、ジリジリと距離を詰めて来ている。
 俺は物資を思い切り投げてみた。すると、地面に落ちた物資にゴキブリ達が一斉に群がった。小型のやつは特にスピードが早い。あれから走って逃げるのは難しいだろう。1分もせずに物資は食い尽くされて、再び俺は取り囲まれた。この感じだと、リュックの物資を全部投げたとして、たいして時間は稼げないだろう。……これ、どうすればいいんだ。
 一番大きな1メートルぐらいのゴキブリが、先頭に立って距離を詰めて来ている。それに引っ張られる感じで、他のゴキブリも近づいて来る。俺は何回か物資を投げたけど、もう、小さなゴキブリ以外はあまり反応しなくなった。どうやらみんな、俺とリュックを直接狙い始めたようだ。……やばい、詰んだかも。うっかり寝たせいで、また死ぬのか俺は。それにゴキブリにかじられて死ぬとか、めちゃくちゃ痛くて苦しいんじゃないか? マジかよ……。
 ついにゴキブリが数匹、意を決した感じで俺の目の前に突進してきた。俺は片手に釘打ちマシーンを持ってるけど……数が多すぎる!

 その瞬間、俺の体が宙に浮いた。と思ったら、誰かに抱きかかえられていた。そのまま、俺の体がものすごいスピードで移動をしている。あっという間に、柑橘類の木とゴキブリ達の姿が見えなくなった。
 見上げたらクララさんだった。片手で軽々と俺を抱えて、涼しい顔で疾走している。反対側の手には俺のリュックが握られている。電車の窓から見ているみたいに、目の前の景色がびゅんびゅん流れていく。ぼんやりと、俺は夢を見ているような気分になった。
 10分ぐらい走っただろうか。クララさんが俺を抱えたまま、道沿いの小さなビルに飛び込んた。階段を3段飛ばしぐらいで駆け上って、2階のフロアへ。小さなドアをこじ開けて、小さな事務所みたいな部屋に入った。そして部屋の中央にある古いソファーの上に、俺は優しく降ろされた。ソファーのカビ臭い匂いを鼻で吸い込みながら、俺はまだ呆然としている。
「お怪我は無いですか?」
 クララさんが落ち着いた声で言った。
「……はい」
 気が動転していて、まともに頭が回らない。
「ここは比較的安全です。少し休んでいきましょう」
 そう言って、クララさんが俺の横に腰を下ろした。同時に俺はソファーにぐったりと横になった。死ぬところだったな。
「前に来た時、ゴキブリにまったく出会わなかったんです。今回、いきなりこんな感じになって……まいった」
 俺は横になったままつぶやいた。
「スラムの襲撃以来、ゴキブリ達の活動が活発になっているみたいです。ですが、あれだけの数が日中に出るというのは、非常に珍しい事です」
 クララさんが言った。俺はゆっくりと体を起こした。
「クララさん、俺の為に来てくれたんですか?」
「はい。ですが、そろそろ私も帰らなければならなかったんです。キタムラ医院の仕事が溜まっておりまして、コズエ先生にだいぶ催促をされていました。タクヤさんと一緒に帰るのは、タイミング的にちょうど良かったんです。シスター達に簡単に挨拶をしてきましたが、みなさんをがっかりさせてしまいました」
 クララさんが申し訳なさそうにして言った。俺は姿勢を正す。
「クララさん、本当にありがとうございます。今助けてもらったのもそうだし、一週間以上も無償で働いてもらって。クララさんがいなかったら、今頃どうなってたか想像もつかないです。まあ……俺は確実に死んでたけど」
 情けなくて笑えてきた。自分の無力さを実感してしまった。こんなんで、発電所の地下なんて行けるのかよ。
「私とコズエ先生は、タクヤさんのファンなんです。あなたはとても面白い。私達は、面白そうなことにはコストを惜しみません」
 クララさんが微笑んで、俺の顔をじっと見た。
「面白いですか? 俺が?」
「ええ。放射能に耐性があるというのが、まず規格外です。それと、考え方も面白いですね。あなたは都市部で生まれたわけでもないのに、育ちが良い感じがします。振る舞いに余裕があります。貧しい人とは一風違った、助け合いの心もある。だけど宗教心があるわけでもない。そしてアンドロイドでもない。謎です。非常に興味深いです」
「まあ、俺も自分で謎だと思いますよ。なんで今、ここで、こんなことをしているのか。でも……スラムで周りの人が助けてくれて、その人たちと協力することが、生きがいになってたのかな。一人で飢えてる時より、精神的には凄いラクだったし。そういうのって人間の本質というか、本能的なものなのかも」
 俺はつぶやくようにして言った。
「その人間の共同体意識みたいなものが、今の時代はだいぶ損なわれています。それが文明を衰退させる、大きな要因になっていると私は分析しています。……そうですね、タクヤさんは私に、100年以上前の人間達を思い起こさせます。私を作ってくれた人たち。あのころはみんな、もう少し未来に希望を持っていたんです」
「希望か……。確かに、希望がないと生きる気力が無くなるもんな。だからとにかく、前に進んだほうがいいのかも。……ということでじゃあ、そろそろ行きましょうか?」
 俺はそう言って大きく息を吐いた。クララさんが微笑んで頷いた。ハッキリ言って、俺は今、かなり打ちのめされている。でも落ち込んでいる暇はない。考える前に動くべきだ。

 ビルを出て線路沿いの道に戻った。またゴキブリが出そうだけど、見通しの良い道はここしかないから他に選択肢が無い。実際、国分寺に到着するまで、大小50匹ぐらいのゴキブリに俺たちは遭遇した。
 小さいやつはクララさんが瞬殺する。すばやく空に飛び上がったクララさんが、ゴキブリの上に正確に着地をする。その最初の一撃でひるませて、続いて踏み潰しの連続攻撃が炸裂する。メキメキと金属がきしむような音がして、地面にはぺちゃんこになったゴキブリの死骸が残る。それが作業のように淡々と行われるので、ちょっとゴキブリが気の毒になった。
 一メートル以上のはさすがに踏み潰せないけど、クララさんが重い蹴りを数発くらわせると、だいたいが逃げていった。それでも逃げないやつに関しては、クララさんが動きを止めて、その隙に俺が釘打ちマシーンで釘をめちゃくちゃに打ち込んだ。甲羅がない腹部の方に30発も打ち込むと、ゴキブリは動かなくなった。これも相当残酷な方法だと思うけど、まあ仕方がない。
 そんな感じでゴキブリを虐殺しつつ、俺達は国分寺のキタムラ医院に到着した。もしゴキブリが経験値を落としてくれるなら、俺はこの機会に相当レベルアップしただろう。金とかアイテムも溜まって、ウハウハになってた場面だ。現実的には俺の手元に何も残っていない。そもそもゴキブリが金を持ってるはずがないし、ゴキブリの足を持ち帰って、市場で換金できるとかあるはずもない。転生先がファンタジーだったらなー、とつくづく思う。でもまあ、落ち込んでいた俺の心が、少し上向きになったという効果はあったようだ。大丈夫、まだ戦える。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

悪役令嬢は始祖竜の母となる

葉柚
ファンタジー
にゃんこ大好きな私はいつの間にか乙女ゲームの世界に転生していたようです。 しかも、なんと悪役令嬢として転生してしまったようです。 どうせ転生するのであればモブがよかったです。 この乙女ゲームでは精霊の卵を育てる必要があるんですが・・・。 精霊の卵が孵ったら悪役令嬢役の私は死んでしまうではないですか。 だって、悪役令嬢が育てた卵からは邪竜が孵るんですよ・・・? あれ? そう言えば邪竜が孵ったら、世界の人口が1/3まで減るんでした。 邪竜が生まれてこないようにするにはどうしたらいいんでしょう!?

婚約破棄してたった今処刑した悪役令嬢が前世の幼馴染兼恋人だと気づいてしまった。

風和ふわ
恋愛
タイトル通り。連載の気分転換に執筆しました。 ※なろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ、pixivに投稿しています。

【完結】悪役令嬢に転生したけど、王太子妃にならない方が幸せじゃない?

みちこ
ファンタジー
12歳の時に前世の記憶を思い出し、自分が悪役令嬢なのに気が付いた主人公。 ずっと王太子に片思いしていて、将来は王太子妃になることしか頭になかった主人公だけど、前世の記憶を思い出したことで、王太子の何が良かったのか疑問に思うようになる 色々としがらみがある王太子妃になるより、このまま公爵家の娘として暮らす方が幸せだと気が付く

貧民街の元娼婦に育てられた孤児は前世の記憶が蘇り底辺から成り上がり世界の救世主になる。

黒ハット
ファンタジー
【完結しました】捨て子だった主人公は、元貴族の側室で騙せれて娼婦だった女性に拾われて最下層階級の貧民街で育てられるが、13歳の時に崖から川に突き落とされて意識が無くなり。気が付くと前世の日本で物理学の研究生だった記憶が蘇り、周りの人たちの善意で底辺から抜け出し成り上がって世界の救世主と呼ばれる様になる。 この作品は小説書き始めた初期の作品で内容と書き方をリメイクして再投稿を始めました。感想、応援よろしくお願いいたします。

【12/29にて公開終了】愛するつもりなぞないんでしょうから

真朱
恋愛
この国の姫は公爵令息と婚約していたが、隣国との和睦のため、一転して隣国の王子の許へ嫁ぐことになった。余計ないざこざを防ぐべく、姫の元婚約者の公爵令息は王命でさくっと婚姻させられることになり、その相手として白羽の矢が立ったのは辺境伯家の二女・ディアナだった。「可憐な姫の後が、脳筋な辺境伯んとこの娘って、公爵令息かわいそうに…。これはあれでしょ?『お前を愛するつもりはない!』ってやつでしょ?」  期待も遠慮も捨ててる新妻ディアナと、好青年の仮面をひっ剥がされていく旦那様ラキルスの、『明日はどっちだ』な夫婦のお話。    ※なんちゃって異世界です。なんでもあり、ご都合主義をご容赦ください。  ※新婚夫婦のお話ですが色っぽさゼロです。Rは物騒な方です。  ※ざまあのお話ではありません。軽い読み物とご理解いただけると幸いです。 ※コミカライズにより12/29にて公開を終了させていただきます。

【完結】私だけが知らない

綾雅(要らない悪役令嬢1/7発売)
ファンタジー
目が覚めたら何も覚えていなかった。父と兄を名乗る二人は泣きながら謝る。痩せ細った体、痣が残る肌、誰もが過保護に私を気遣う。けれど、誰もが何が起きたのかを語らなかった。 優しい家族、ぬるま湯のような生活、穏やかに過ぎていく日常……その陰で、人々は己の犯した罪を隠しつつ微笑む。私を守るため、そう言いながら真実から遠ざけた。 やがて、すべてを知った私は――ひとつの決断をする。 記憶喪失から始まる物語。冤罪で殺されかけた私は蘇り、陥れようとした者は断罪される。優しい嘘に隠された真実が徐々に明らかになっていく。 【同時掲載】 小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2023/12/20……小説家になろう 日間、ファンタジー 27位 2023/12/19……番外編完結 2023/12/11……本編完結(番外編、12/12) 2023/08/27……エブリスタ ファンタジートレンド 1位 2023/08/26……カテゴリー変更「恋愛」⇒「ファンタジー」 2023/08/25……アルファポリス HOT女性向け 13位 2023/08/22……小説家になろう 異世界恋愛、日間 22位 2023/08/21……カクヨム 恋愛週間 17位 2023/08/16……カクヨム 恋愛日間 12位 2023/08/14……連載開始

毒を盛られて生死を彷徨い前世の記憶を取り戻しました。小説の悪役令嬢などやってられません。

克全
ファンタジー
公爵令嬢エマは、アバコーン王国の王太子チャーリーの婚約者だった。だがステュワート教団の孤児院で性技を仕込まれたイザベラに籠絡されていた。王太子達に無実の罪をなすりつけられエマは、修道院に送られた。王太子達は執拗で、本来なら侯爵一族とは認められない妾腹の叔父を操り、父親と母嫌を殺させ公爵家を乗っ取ってしまった。母の父親であるブラウン侯爵が最後まで護ろうとしてくれるも、王国とステュワート教団が協力し、イザベラが直接新種の空気感染する毒薬まで使った事で、毒殺されそうになった。だがこれをきっかけに、異世界で暴漢に腹を刺された女性、美咲の魂が憑依同居する事になった。その女性の話しでは、自分の住んでいる世界の話が、異世界では小説になって多くの人が知っているという。エマと美咲は協力して王国と教団に復讐する事にした。

美少女に転生して料理して生きてくことになりました。

ゆーぞー
ファンタジー
田中真理子32歳、独身、失業中。 飲めないお酒を飲んでぶったおれた。 気がついたらマリアンヌという12歳の美少女になっていた。 その世界は加護を受けた人間しか料理をすることができない世界だった

処理中です...