化け猫姉妹の身代わり婚

硝子町玻璃

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久しぶりの登校

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 霞が登校したのは、約一ヶ月ぶりとなる。久しぶりに教室に入ると、友人たちが駆け寄ってきた。担任からは、病気で休んでいると説明されていたらしい。心配そうに霞の体調を尋ねてくる。

(ごめんね、みんな)

 真実を打ち明けられないのが、もどかしい。
 それから程なくして校内に予鈴が鳴り渡り、霞は席についた。窓際の座席なので、ここからだと校庭がよく見渡せる。一限目から体育の授業のクラスが集まっていた。やがて本鈴が鳴った。
 ……あれは雅だろうか。校庭から逃亡を図り、体育教師に追いかけられていた。その追跡を振り切って、軽い身のこなしで木の上へ登っていく。そして木の前に仁王立ちする体育教師。
 これまでも幾度となく見た光景に、霞はクスリと笑った。
 引き戸が開いて、教師が霞たちの教室に入ってきた。雅と体育教師の攻防戦を眺めている場合ではない。霞は急いで教科書やノートを用意した。

(休んでる間も、ちゃんと勉強しておいてよかった……!)

 ようやく迎えた昼休み。ペンケースを机の中にしまいながら、霞は安堵の溜め息をついた。
 当然のことだが、この一ヶ月で授業がかなり進んでいた。あらかじめ予習していなかったら、ちんぷんかんぷんだっただろう。
 久しぶりの授業で気が張っていたせいで、お腹がぺこぺこだ。いそいそと鞄から弁当箱を取り出そうとする。そのタイミングで、担任が教室にやって来た。

「東條さん、ちょっと」

 手招きしながら呼ばれ、霞は担任へと歩み寄った。

「何ですか、先生?」
「今迎えの車が来るから、すぐに帰りなさい。当主のご子息に何かあったそうだ」
「え……っ!?」

 担任の言葉に、霞の表情が凍り付く。まさか雅だけではなく、蓮までもが。背筋に冷たいものが走り、心臓がバクバクと早鐘を打つ。

「急いで門の前に行きなさい」
「わ、分かりました!」

 空腹なんて一瞬で吹き飛んでしまった。霞は鞄を抱えて、勢いよく教室を飛び出した。
 足がもつれそうになりながら、階段を駆け下りる。息切れを起こしながら、靴を履き替えて校舎を出る。

「雅……?」

 妹も知らせを受けていると思ったが、正門にその姿はなかった。
 電話をかけようと鞄からスマホを取り出す。その時、黒塗りの外車が霞の横に停まった。

「霞様!」

 助手席の窓を開け、黒田が霞を呼んだ。

「黒田さん! 蓮様は……っ」
「話は後です。早くお乗りください」

 切羽詰まったような声で促され、慌ただしく後部座席に乗り込む。直後、車が急発進して、霞は運転席のシートにしがみついた。
 異変に気付いたのは、すぐのことだった。

「あの……屋敷に戻っているのですよね?」

 先ほどから見慣れぬ道がずっと続いている。言いようのない不安に駆られて霞が尋ねると、黒田が後ろを振り向いて言った。

神城朧・・・様。あなたがあの屋敷に帰ることは、もうありません」

 オボロ。その名前を呼ばれ、霞ははっと目を見開く。

「手荒な真似はしたくありません。どうか大人しくなさってください」

 前方に向き直りながら、黒田は冷ややかな声で告げた。



 どれほど時間が経っただろうか。市街地を抜けて山道を走り続けていると、二階建ての建物が見えてきた。そこで車はようやく止まった。

「さあ、降りてください」

 霞に拒否権はなかった。先に降りた黒田に腕を掴まれ、強引に車外へ引きずり出される。

「……ここはどこなのですか?」
「政嗣様が所有する別荘でございます」
「…………」

 政嗣の名を聞いても、霞は動揺しなかった。その代わり、怒りと失望の眼差しを黒田に向ける。

「どうして、あなたが……」
「政嗣様のご意向です。ご容赦ください」

 すげない言葉を返されて、霞は唇を噛み締めた。
 黒田と運転手の男に両脇を挟まれ、別荘の中に入る。屋内には、黒い背広を着た男たちが待ち構えていた。食事会や誕生日パーティーで見かけた顔もあるが、その中に政嗣の姿はなかった。

「政嗣様は?」

 黒田が仲間の一人に確認する。

「先ほど帰国したとご連絡があった。今夜にでもこちらに到着されるとのことだ」
「そうか。では、それまで暫しお休みください」
「……っ!」

 再び腕を掴まれ、無理矢理引っ張られる。これ以上言いなりになるのが嫌で、その手を振りほどこうと抵抗する。

「朧様」

 そう呼ばれた直後、パンッと乾いた音がした。黒田に平手打ちされた右頬に、焼けるような痛みが襲う。

「大人しくするようにと言ったはずです。……私どもは、あなたが抵抗するなら死なない程度に痛めつけても構わないと言いつかっているのです」
「ぁ……」

 口調こそ丁寧だが、情を一切感じない冷酷な言葉だった。
 霞は殴られた頬を押さえながら体を震わせた。怖い、怖い。今まで味わったことのない恐怖が全身を支配する。抵抗する意思を削がれ、呆然と立ち尽くす。

「分かってくだされば結構。それでは、お部屋へご案内いたします」
「は、い……」

 黒田たちに連れて行かれたのは、二階の一室だった。白いベッドがぽつんと置かれているだけの殺風景な空間だ。

「早く入れ!」
「きゃっ!」

 黒田の仲間に突き飛ばされ、霞は室内の床へ倒れ込んだ。上体を起こすと、目の前に何かを放り込まれた。コンビニのビニール袋だった。中に入っていた食料やペットボトル飲料が床に散らばる。

「お腹が空きましたら、そちらを召し上がってください。ああ、お手洗いは部屋の奥にありますので」

 事務的な口調で言うと、ドアを閉めた。

「ま、待って……っ!」

 霞はよろめきながら起き上がり、ドアへと駆け寄った。だが外側から施錠されているのか、びくともしない。それにスマホも、車の中で黒田に没収されている。

「……どうしよう」

 そう呟きながら、霞は床にへたり込んだ。
 これからどうなってしまうのだろうか。恐怖と焦りが頭の中を埋め尽くし、次第に視界がじわりと滲み始める。
 雅や蓮、鬼灯家の人々が脳裏に浮かぶ。そして、「あなたがあの屋敷に帰ることは、もうありません」という黒田の言葉も。

(みんなのところに帰りたい……)

 ぎゅっと瞼を閉じると、頬に涙が伝うのが分かった。何かに縋り付きたくて、肩に提げていた鞄を強く抱き締める。

「グェッ」
「えっ!?」

 鞄から潰れた蛙のような声が聞こえ、霞は驚いて体を離した。恐る恐るファスナーを開けて、中を覗き込もうとすると、

「チューッ!」

 一匹の子ネズミがピョコッと飛び出してきた。
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