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夜みたいな人
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黒い着流しを身に纏った青年だった。涼やかな印象を与える切れ目の長い二重と、まっすぐに伸びた鼻筋。歩く度にさらさらと揺れる、濡れ羽色の髪。息を呑むような美形とは、まさにこのことだ。
──夜みたいな人だ。霞は彼を一目見て、そう思った。月や星がなく、虫の音色さえも聞こえない、静かな夜の世界からやって来たかのような……
「紹介しよう、息子の蓮だ。今年で二十二歳となる」
蔵之介の声に、霞ははっと我に返ったように肩を小さく跳ねた。……が、青年がこちらをじっと見詰めていることに気付いて、「ひっ」と小さく悲鳴を上げる。
「蓮。そちらにいるのがお前の許嫁となる、霞お嬢様だ」
「……霞?」
耳に心地よい低音で名前を呼ばれ、思考が止まる。
「父上、私の許嫁は雅という方ではなかったのですか?」
「妹の身代わりとして、うちに嫁ぐそうだ。ちなみにその隣にいるのが雅お嬢様。姉上の世話役としてついてきたらしい」
「身代わり、ですか」
端正な顔立ちに、一瞬翳りが差した。
「今少し話をしていたのだけどね、気立てのよくて礼儀正しいお嬢さんだよ。不満かい?」
「いえ、そのようなことはありません」
蓮は即答して、霞の正面に立った。
「鬼灯蓮と申します。こうしてお会いできて、とても嬉しく思います。至らぬ点も多々あるかと思いますが、何卒よろしくお願いいたします」
「…………」
「何をしておるか。挨拶じゃ挨拶」
はっ! ちょっと意識が飛んでた……!
雅にちょんちょんと脇をつつかれ、霞はようやく再起動を果たした。しかしその顔はぐつぐつと鍋で茹だる蛸のように赤い。
とどのつまり、この美しい顔立ちの許嫁に一目惚れしてしまっていた。
「と、東條霞と申します! ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします!」
「妹の雅じゃ。まあ姉共々、世話になるぞ」
直角九十度のお辞儀をする姉と、軽く会釈をする妹。
蓮は少し間を置いて、「はい」とだけ答えた。しかし次の発言に、雅は眉を寄せた。
「では父上。仕事が立て込んでおりますので、私はそろそろ」
「ああ、急に呼び出してすまなかったな。戻っていいぞ」
蔵之介がそう言うと、蓮は部屋に入った時より速い歩調で退室した。執務室には四人と、気まずい空気だけが残される。
「……あのように素っ気ないところがある息子だが、どうか許してやってくれないか」
蔵之介が重い口を開く。
「あれが許嫁への態度かのぅ。まったく、本人の申告通り至らぬ点ばっかじゃな。のぅ、姉上」
「うん。すごくかっこよかった……」
「こっちはこっちで、人の話を全然聞いとらんな」
雅が何かを言っている気がするが、今の霞にはよく聞こえなかった。
だって、あの絶世の美青年が自分の許嫁なのだ。まるでドラマのような展開に、霞の思考回路はオーバーヒートを起こしていた。
「夕食の時間までごゆっくりなさっていてください」と、黒田に案内された部屋の中央でぼんやりと立ち尽くしていた。板張りの一室にはテーブルやベッドなどの家具の他、段ボール箱が積み上げられている。中身は実家から運び出した荷物だという。
「姉上、片付けがさっぱり終わらん! 手伝って……うおっ」
隣の部屋からやって来た雅は、数歩ほど後ずさった。西日の差す部屋の中、大量の段ボールに囲まれながら膝を抱える姉の姿は、若干ホラーだった。
「ど、どうしたんじゃ。もうホームシックにでもなったのか?」
「あのね、雅。よく聞いて」
「お、おう。何じゃ」
「どうしよう……私ね、蓮様のことが好きになっちゃったの!」
鬼族なのに、元々雅が許嫁になるはずだったのに! 霞は意を決して、胸の内を明かした。しかし雅の反応は至って淡泊で、「ほーん」と気の抜けた相槌を打つだけだった。
「え……びっくりしないの!?」
「いや、あの美形ぶりでは無理もないからのぅ」
「それじゃあ、まさか雅も蓮様を……!」
「言っとくが、あれは私の好みではないぞ。顔はよいが、筋肉が足りん。男はやはり筋肉じゃ!」
姉妹同士で女の闘いが勃発。と思いきや、自分の二の腕を叩いて豪語する妹に、霞はほっと胸を撫で下ろす。しかし、新たな悩みが霞を襲う。
「だけど私なんかじゃ、蓮様に釣り合わないよ……さっきも私には全然興味を持ってなかったみたいだし」
「そうじゃな。今回の縁談は、あの当主が勝手に決めたこと。息子に拒否権はないように見える」
私たちと同じで、あの人も望まぬ結婚を強いられている。その無情さに、霞は悲しくなった。
蓮に同情する気持ちもある。けれどそれと同時に、一人で勝手に舞い上がっている自分が恥ずかしくなってくる。
「まあ、それならばあの男に振り向いてもらえるまで、頑張るまでじゃ」
萎びた野菜のように意気消沈している姉の傍らにしゃがみ込むと、雅はそう言った。
「……振り向いてもらえるかなぁ?」
「そんなもん、やってみないと分からん。私からは何とも言えぬのぅ」
「そんな……!」
急に見放されたような気分になり、霞は落胆してしまった。しかしそれに構わず、雅は言葉を続ける。
「何もせず、指をくわえて見ているよりかはマシじゃ。惚れた男をゲットしたければ、ひたすらアタックあるのみよ」
「う、うん……?」
「よいか、姉上。ああいう根暗そうな男は、案外押されるのに弱いんじゃ。ガンガン行ってこい」
雅に思い切り背中を叩かれ、霞は「あいたっ!」と声を上げた。だが妹の激励で、少しだけ元気が出た気がする。
そうだ。まだ出会ったばかりなのに、失恋したと落ち込んでいる場合じゃない。うだうだ考えるよりも、行動あるのみ!
「雅……私、頑張るね!」
「その意気じゃ。……だがあの男に夢中になるのはよいが、油断はせぬことだ。いつどこで、誰が見張っているか分からぬぞ」
雅が懐からおもむろに何かを取り出す。折り紙で作った手裏剣だ。そしてそれを、天井に向かって投げつける。
手裏剣がカッと音を立てて天井にぶつかったと同時に、「チュッ!」とネズミのような鳴き声が聞こえた。
──夜みたいな人だ。霞は彼を一目見て、そう思った。月や星がなく、虫の音色さえも聞こえない、静かな夜の世界からやって来たかのような……
「紹介しよう、息子の蓮だ。今年で二十二歳となる」
蔵之介の声に、霞ははっと我に返ったように肩を小さく跳ねた。……が、青年がこちらをじっと見詰めていることに気付いて、「ひっ」と小さく悲鳴を上げる。
「蓮。そちらにいるのがお前の許嫁となる、霞お嬢様だ」
「……霞?」
耳に心地よい低音で名前を呼ばれ、思考が止まる。
「父上、私の許嫁は雅という方ではなかったのですか?」
「妹の身代わりとして、うちに嫁ぐそうだ。ちなみにその隣にいるのが雅お嬢様。姉上の世話役としてついてきたらしい」
「身代わり、ですか」
端正な顔立ちに、一瞬翳りが差した。
「今少し話をしていたのだけどね、気立てのよくて礼儀正しいお嬢さんだよ。不満かい?」
「いえ、そのようなことはありません」
蓮は即答して、霞の正面に立った。
「鬼灯蓮と申します。こうしてお会いできて、とても嬉しく思います。至らぬ点も多々あるかと思いますが、何卒よろしくお願いいたします」
「…………」
「何をしておるか。挨拶じゃ挨拶」
はっ! ちょっと意識が飛んでた……!
雅にちょんちょんと脇をつつかれ、霞はようやく再起動を果たした。しかしその顔はぐつぐつと鍋で茹だる蛸のように赤い。
とどのつまり、この美しい顔立ちの許嫁に一目惚れしてしまっていた。
「と、東條霞と申します! ふつつか者ですが、よろしくお願いいたします!」
「妹の雅じゃ。まあ姉共々、世話になるぞ」
直角九十度のお辞儀をする姉と、軽く会釈をする妹。
蓮は少し間を置いて、「はい」とだけ答えた。しかし次の発言に、雅は眉を寄せた。
「では父上。仕事が立て込んでおりますので、私はそろそろ」
「ああ、急に呼び出してすまなかったな。戻っていいぞ」
蔵之介がそう言うと、蓮は部屋に入った時より速い歩調で退室した。執務室には四人と、気まずい空気だけが残される。
「……あのように素っ気ないところがある息子だが、どうか許してやってくれないか」
蔵之介が重い口を開く。
「あれが許嫁への態度かのぅ。まったく、本人の申告通り至らぬ点ばっかじゃな。のぅ、姉上」
「うん。すごくかっこよかった……」
「こっちはこっちで、人の話を全然聞いとらんな」
雅が何かを言っている気がするが、今の霞にはよく聞こえなかった。
だって、あの絶世の美青年が自分の許嫁なのだ。まるでドラマのような展開に、霞の思考回路はオーバーヒートを起こしていた。
「夕食の時間までごゆっくりなさっていてください」と、黒田に案内された部屋の中央でぼんやりと立ち尽くしていた。板張りの一室にはテーブルやベッドなどの家具の他、段ボール箱が積み上げられている。中身は実家から運び出した荷物だという。
「姉上、片付けがさっぱり終わらん! 手伝って……うおっ」
隣の部屋からやって来た雅は、数歩ほど後ずさった。西日の差す部屋の中、大量の段ボールに囲まれながら膝を抱える姉の姿は、若干ホラーだった。
「ど、どうしたんじゃ。もうホームシックにでもなったのか?」
「あのね、雅。よく聞いて」
「お、おう。何じゃ」
「どうしよう……私ね、蓮様のことが好きになっちゃったの!」
鬼族なのに、元々雅が許嫁になるはずだったのに! 霞は意を決して、胸の内を明かした。しかし雅の反応は至って淡泊で、「ほーん」と気の抜けた相槌を打つだけだった。
「え……びっくりしないの!?」
「いや、あの美形ぶりでは無理もないからのぅ」
「それじゃあ、まさか雅も蓮様を……!」
「言っとくが、あれは私の好みではないぞ。顔はよいが、筋肉が足りん。男はやはり筋肉じゃ!」
姉妹同士で女の闘いが勃発。と思いきや、自分の二の腕を叩いて豪語する妹に、霞はほっと胸を撫で下ろす。しかし、新たな悩みが霞を襲う。
「だけど私なんかじゃ、蓮様に釣り合わないよ……さっきも私には全然興味を持ってなかったみたいだし」
「そうじゃな。今回の縁談は、あの当主が勝手に決めたこと。息子に拒否権はないように見える」
私たちと同じで、あの人も望まぬ結婚を強いられている。その無情さに、霞は悲しくなった。
蓮に同情する気持ちもある。けれどそれと同時に、一人で勝手に舞い上がっている自分が恥ずかしくなってくる。
「まあ、それならばあの男に振り向いてもらえるまで、頑張るまでじゃ」
萎びた野菜のように意気消沈している姉の傍らにしゃがみ込むと、雅はそう言った。
「……振り向いてもらえるかなぁ?」
「そんなもん、やってみないと分からん。私からは何とも言えぬのぅ」
「そんな……!」
急に見放されたような気分になり、霞は落胆してしまった。しかしそれに構わず、雅は言葉を続ける。
「何もせず、指をくわえて見ているよりかはマシじゃ。惚れた男をゲットしたければ、ひたすらアタックあるのみよ」
「う、うん……?」
「よいか、姉上。ああいう根暗そうな男は、案外押されるのに弱いんじゃ。ガンガン行ってこい」
雅に思い切り背中を叩かれ、霞は「あいたっ!」と声を上げた。だが妹の激励で、少しだけ元気が出た気がする。
そうだ。まだ出会ったばかりなのに、失恋したと落ち込んでいる場合じゃない。うだうだ考えるよりも、行動あるのみ!
「雅……私、頑張るね!」
「その意気じゃ。……だがあの男に夢中になるのはよいが、油断はせぬことだ。いつどこで、誰が見張っているか分からぬぞ」
雅が懐からおもむろに何かを取り出す。折り紙で作った手裏剣だ。そしてそれを、天井に向かって投げつける。
手裏剣がカッと音を立てて天井にぶつかったと同時に、「チュッ!」とネズミのような鳴き声が聞こえた。
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