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番外編
サーモンと卵とルッコラのガレット
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※ソンミン視点です!※
その人のことを本当に好きだったのかどうか、実は自分でもよく分からない。
会うたび笑顔で話しかけられ、単純な僕は勝手にその気になってしまったみたいだ。
彼女は、留学生である僕の面倒を見てくれるチューターだった。
日本に来て間もない僕にとって、あの人だけが頼りで失いたくなくて。フリーだって聞いた瞬間、思わず好きだと言ってしまった。
まさか彼女があんな顔をするなんて……。
外国人に想いを寄せられて心外だったのか。それとも僕個人に問題があったのか。
分からない。
思えばあの瞬間まで、僕は彼女の笑顔しか知らなかった。
*
会いたくない。会って冷たくされたら。いつもと同じ笑顔を向けられたって、平気ではいられないと思った。
下手したら感情が爆発して、泣くか怒るかしてしまいそうだ。
学校へ行きたくない。
そう思ったら足が前へ進まなくなって、僕は駅前のカフェの隅っこの席に座っていた。
小さくて古くてぱっとしない、さびれたカフェだ。
客の気配がない、ただそれだけの理由で僕はそこに入ったんだと思う。
音楽すらない、何もない店だった。
そんな中、エプロン姿の青年が、店の奥でジュウジュウと何か焼いていた。
微かに甘い香りが漂ってくる。
「お腹空いてませんか?」
コンロの火をのぞき込みながら、彼は言った。
何にいたしましょう、とかじゃないのか。そういう言い方もあるなら、僕の日本語の勉強が足らないのかもしれない。
僕が答えずにいると、彼は長めの前髪を耳にかけ、こっちを向いた。
「学生さん?」
目が合ってにこっと微笑む。
焼いたものをプレートに移し、それを運んでくる彼から後光が射していた。
やめてくれ。そんなふうに微笑まれたら僕はすぐ勘違いしてしまうんだ。
それなのに彼はカウンター越しに目の前まで来てしまう。
「ちゃんと食べてる? なんだか顔色が悪く見える」
僕が年下だと思ったのか、彼の敬語が取れていた。いや、これは泣いている子どもに対する態度だ。
僕は泣いてなんかいないのに。
いい匂いのする湯気が顔にかかった。
「これ……」
僕がテーブルの上に目を落とすと彼は言う。
「そば粉のガレット。アレルギーじゃなかったら絶対美味しいよ」
ガレット……。クレープみたいな生地の上に、卵とサーモンとルッコラが乗っていた。
微かに甘くて香ばしい匂いはそば粉なのか。生地に砂糖かハチミツが入っているのかもしれない。
具材の三色が、何かのデザイン画みたいにきれいだった。
手が勝手に添えられたフォークへ伸びる。
でも、食べていいのかな? たぶんこれはこの人のお昼だったに違いない。
プレートから顔を上げると、彼はとろけるような笑顔で僕を眺めていた。
甘くてむずがゆい感情が胸の中にわき起こる。
「食べちゃっていいんですか? 注文してないからお金払いませんよ?」
すると明るい笑い声が返ってきた。
「もちろん君へのプレゼントだよ」
初対面なのに、なんなのか。彼の笑顔が……まとう空気の全部が、僕好みで困る。
「こんなことしてたらあなた、商売にならないでしょう」
「そうかな?」
「僕は見ての通りの貧乏学生ですから、一度やさしくしたからって、そのあとせっせとこの店にお金落としたりしませんからね」
「大丈夫。そんなこと期待してないよ」
彼は笑いながら言ってから、少し考えるような顔をしてまた口を開いた。
「でも、ちゃんと食べてくれることは期待してる」
「なんで……」
「僕が、食べてるところ見たいから」
ヘンな人だ。顔は微笑んでいるけれど、目は真剣だった。
僕はその視線に押されてフォークをつかむ。
「……いただきます……」
口の中で言って、フォークで切り取った欠片を口に含んだ。
ほんのり甘くてやわらかい。味はなんというか、はっきりしない感じだった。でもずっと口に含んでいたい気がする。
これって美味しいのかな?
今度は大きめに切り取って口に運んだ。
やっぱりこれといって主張のない味だ。言ってしまえば家庭の味。他にガレットの店があったとして、そことの差別化は難しいはずだ。
でも……。
涙がぽろりと皿のふちに落ちる。
僕はきっとこの味が好きだ。
そしてこの人が……。
涙をぬぐい、サーモンとルッコラを卵の黄身にひたして食べた。
薄めの味付けだからか素材の味を強く感じられる。
「あの、お兄さん、好きな人はいますか?」
僕のグラスに水を注ぎ足しに来た彼が、笑って顔を上げた。
「好きな人か、どうかなあ」
その答えはズルい。
「君は?」
「えっ?」
日本語の質問をふたつも投げ返された。
「僕は……、います! つい昨日失恋してしまいましたが、今また好きな人ができました」
お兄さんはぽかんと口を開けて僕を見つめたあと、ぷっと噴き出して笑った。
「ゴメン、笑って。それ聞いて僕も君が好きになったよ」
告白して笑われたのは初めてだ。でもうれしい。
この人の笑顔が好きだ。
付き合ってください、そう言いたいところを思い留まる。
「この店、なんていう名前ですか?」
「『珈琲ガレット調布店』っていうんだけど……」
お兄さんがカウンターの上にあったショップカードを差し出してくる。
「よかったらまた来てね」
僕は黙ってうなずいた。
よかった、大丈夫だ。今日も学校に行けそうだ。
立身出世のために無理して海外留学までして、学校に行かないなんてことはできない。
失恋がなんだ。僕には明るい未来がある。
「ガレット美味しかったです。ごちそうさまでした」
ガレットと同じ色をしたショップカードは、お守り代わりに胸のポケットにしまった。
<了>
―――
この番外編は「ルクイユのおいしいごはんBL」というTwitter企画のために書きました。
素敵な作品がたくさん上がっていますので、ハッシュタグ(#ルクイユのおいしいごはんBL )をのぞいてみてください。
その人のことを本当に好きだったのかどうか、実は自分でもよく分からない。
会うたび笑顔で話しかけられ、単純な僕は勝手にその気になってしまったみたいだ。
彼女は、留学生である僕の面倒を見てくれるチューターだった。
日本に来て間もない僕にとって、あの人だけが頼りで失いたくなくて。フリーだって聞いた瞬間、思わず好きだと言ってしまった。
まさか彼女があんな顔をするなんて……。
外国人に想いを寄せられて心外だったのか。それとも僕個人に問題があったのか。
分からない。
思えばあの瞬間まで、僕は彼女の笑顔しか知らなかった。
*
会いたくない。会って冷たくされたら。いつもと同じ笑顔を向けられたって、平気ではいられないと思った。
下手したら感情が爆発して、泣くか怒るかしてしまいそうだ。
学校へ行きたくない。
そう思ったら足が前へ進まなくなって、僕は駅前のカフェの隅っこの席に座っていた。
小さくて古くてぱっとしない、さびれたカフェだ。
客の気配がない、ただそれだけの理由で僕はそこに入ったんだと思う。
音楽すらない、何もない店だった。
そんな中、エプロン姿の青年が、店の奥でジュウジュウと何か焼いていた。
微かに甘い香りが漂ってくる。
「お腹空いてませんか?」
コンロの火をのぞき込みながら、彼は言った。
何にいたしましょう、とかじゃないのか。そういう言い方もあるなら、僕の日本語の勉強が足らないのかもしれない。
僕が答えずにいると、彼は長めの前髪を耳にかけ、こっちを向いた。
「学生さん?」
目が合ってにこっと微笑む。
焼いたものをプレートに移し、それを運んでくる彼から後光が射していた。
やめてくれ。そんなふうに微笑まれたら僕はすぐ勘違いしてしまうんだ。
それなのに彼はカウンター越しに目の前まで来てしまう。
「ちゃんと食べてる? なんだか顔色が悪く見える」
僕が年下だと思ったのか、彼の敬語が取れていた。いや、これは泣いている子どもに対する態度だ。
僕は泣いてなんかいないのに。
いい匂いのする湯気が顔にかかった。
「これ……」
僕がテーブルの上に目を落とすと彼は言う。
「そば粉のガレット。アレルギーじゃなかったら絶対美味しいよ」
ガレット……。クレープみたいな生地の上に、卵とサーモンとルッコラが乗っていた。
微かに甘くて香ばしい匂いはそば粉なのか。生地に砂糖かハチミツが入っているのかもしれない。
具材の三色が、何かのデザイン画みたいにきれいだった。
手が勝手に添えられたフォークへ伸びる。
でも、食べていいのかな? たぶんこれはこの人のお昼だったに違いない。
プレートから顔を上げると、彼はとろけるような笑顔で僕を眺めていた。
甘くてむずがゆい感情が胸の中にわき起こる。
「食べちゃっていいんですか? 注文してないからお金払いませんよ?」
すると明るい笑い声が返ってきた。
「もちろん君へのプレゼントだよ」
初対面なのに、なんなのか。彼の笑顔が……まとう空気の全部が、僕好みで困る。
「こんなことしてたらあなた、商売にならないでしょう」
「そうかな?」
「僕は見ての通りの貧乏学生ですから、一度やさしくしたからって、そのあとせっせとこの店にお金落としたりしませんからね」
「大丈夫。そんなこと期待してないよ」
彼は笑いながら言ってから、少し考えるような顔をしてまた口を開いた。
「でも、ちゃんと食べてくれることは期待してる」
「なんで……」
「僕が、食べてるところ見たいから」
ヘンな人だ。顔は微笑んでいるけれど、目は真剣だった。
僕はその視線に押されてフォークをつかむ。
「……いただきます……」
口の中で言って、フォークで切り取った欠片を口に含んだ。
ほんのり甘くてやわらかい。味はなんというか、はっきりしない感じだった。でもずっと口に含んでいたい気がする。
これって美味しいのかな?
今度は大きめに切り取って口に運んだ。
やっぱりこれといって主張のない味だ。言ってしまえば家庭の味。他にガレットの店があったとして、そことの差別化は難しいはずだ。
でも……。
涙がぽろりと皿のふちに落ちる。
僕はきっとこの味が好きだ。
そしてこの人が……。
涙をぬぐい、サーモンとルッコラを卵の黄身にひたして食べた。
薄めの味付けだからか素材の味を強く感じられる。
「あの、お兄さん、好きな人はいますか?」
僕のグラスに水を注ぎ足しに来た彼が、笑って顔を上げた。
「好きな人か、どうかなあ」
その答えはズルい。
「君は?」
「えっ?」
日本語の質問をふたつも投げ返された。
「僕は……、います! つい昨日失恋してしまいましたが、今また好きな人ができました」
お兄さんはぽかんと口を開けて僕を見つめたあと、ぷっと噴き出して笑った。
「ゴメン、笑って。それ聞いて僕も君が好きになったよ」
告白して笑われたのは初めてだ。でもうれしい。
この人の笑顔が好きだ。
付き合ってください、そう言いたいところを思い留まる。
「この店、なんていう名前ですか?」
「『珈琲ガレット調布店』っていうんだけど……」
お兄さんがカウンターの上にあったショップカードを差し出してくる。
「よかったらまた来てね」
僕は黙ってうなずいた。
よかった、大丈夫だ。今日も学校に行けそうだ。
立身出世のために無理して海外留学までして、学校に行かないなんてことはできない。
失恋がなんだ。僕には明るい未来がある。
「ガレット美味しかったです。ごちそうさまでした」
ガレットと同じ色をしたショップカードは、お守り代わりに胸のポケットにしまった。
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