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5章:棒を掲げるブルドッグ
第5話
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その翌日のことだった。
全力で走り、力尽きて眠っていた僕らのところへ、意外な人物が訪ねてきた。
「うそ、本当にこの家にいたの? 探しにきたのが私じゃなくて警察だったら、即刻逮捕だよ!」
マンションの玄関先で呆れ顔をしたのは、数カ月ぶりに見る早乙女さんだった。
今日も短めのタイトスカートを、爽やかに着こなしている。
一方、玄関のドアを開けた相楽さんは、大げさに眉をひそめた。
「無茶言うな、まずは任意同行だろ。ってか、なんでお前が……」
早乙女さんが説明する。
「うちの会社が、オリンピックの大口スポンサーだってことは知ってるでしょ? 私もそっちのプロジェクトには顔を出してるの。それで今朝、競技場の落成式のリハーサルに行ってみたら巨大な落書きがあって、どうもその犯人が元カレだっていう……」
早乙女さんは寝起きの相楽さんを睨み、それから後ろにいた僕にも視線を投げかけた。
「分かってると思うけど、2人とも防犯カメラにばっちり映ってるよ?」
あの壁画が相楽天の作品だということはいずれ分かるにしても、主催者側に知り合いがいて即、顔でバレてしまうとは思いもしなかった。
僕と相楽さんは、引きつった顔を見合わせる。
「で、どうすんだ? 俺たちを警察に突き出すのか?」
けんか腰の相楽さんに、早乙女さんが肩をすくめてみせた。
「どうしよっかな?」
「どうしよっか、って……お前な」
「荒川くんはどうしたい?」
「えっ、僕ですか?」
早乙女さんからの突然のパスを受け、僕は慌てて背筋を伸ばす。
「僕は……そうですね、すみません。まずは謝罪をすべきだと思います。あんな大胆不敵な犯行に荷担したわけですから」
「なに今さらお前だけいい子ぶってんだよ!」
相楽さんからブーイングが上がった。
「荒川くんは基本的にまともなのよ。相楽くんと違って」
早乙女さんが、腕組みしたまま口を挟む。
「いや、どう考えても僕らが悪いでしょう。警察に行けと言われれば行きます。ちゃんと罪を償いたいです。けど……」
息をつき視線を落とすと、そこにある相楽さんの右手が目に映る。
爪の間に何色ものペンキが混じり合ってこびりついていた。
こんな時なのに、その手に触れたくなった。
「けど僕は……」
触れたい衝動をこらえ、僕は続ける。
「あの壁を、元通りにしますとは言えません。消したくないんです。相楽さんが自分自身の手で、心を込めて描いたものだから……」
「…………」
早乙女さんの方を見ていた相楽さんが、後ろにいる僕を振り返り、瞳の奥を揺らした。
「そんなたいそうなもんでもないだろ……」
「いえ、僕にとってはすごく特別な意味があります。だから、この世から消したくはない」
見つめ合う僕たちを、早乙女さんは玄関先からじっと見ていた。
「……分かった。持ち帰って考える」
「持ち帰って、って……?」
聞き返すと彼女は、ショートカットの髪を耳にかけながら笑った。
「あれをどうするかは、組織委員会の判断だから。そして私は、そこに口出しできる立場にある」
(早乙女さん……)
踵を返しかけた彼女が、開け放たれたドアの前で振り返った。
「あ……一応言っとくと、相楽くんのためじゃないからね?」
「じゃあなんだよ?」
相楽さんが聞き返す。
「強いて挙げれば、荒川くんの気持ちを汲んでかな? 今は私、相楽くんより荒川くんのファンだから」
早乙女さんは小さく笑うと、ヒールを鳴らして去っていった。
「ミズキのファンってどういう意味だよ……」
相楽さんが、僕を見てぼやく。
「さあ、僕にも分かりません」
ただ、非常階段でのあのキス以来、早乙女さんの心境に変化があったのは確かだろう。
僕たちの関係は少しずつ、時には大きく変化し、気持ちも刻々と変わっていく。
(そういえば相楽さんとのこと、早乙女さんに報告しそびれた? いま僕に言えることは、この人が好きだっていう気持ち、それだけだ……)
胸の中で自分の気持ちを確認しながら、僕は玄関の鍵を閉め直す。
「で、どうします? 主犯の相楽さん」
「ん……?」
「早乙女さんのあの感じだと、僕らをすぐに警察に突き出すってことはなさそうですよ」
相楽さんは伸びをしながら、廊下の奥のリビングへ向かっていく。
「じゃあお沙汰があるまで、久しぶりの我が家でのんびり過ごすか!」
僕もついていくと、彼は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、ソファに座った。
「あれ、これいつの水?」
「さあ、賞味期限は切れてませんけど」
「ペットボトルの水は俺しか飲まないのに、半年家を空けても補充されてるってなんなんだよ……だいたいこんなん何本も、冷やしといたら普通に邪魔だろ」
「あー……それは……」
答えに困り、僕はブラインドの隙間から差し込む光に目を向ける。
「言わせないでくださいよ……」
「お前こそ言わせんなよ、ミズキ」
相楽さんから強引に腕を引き寄せられ、ソファの隣に座らされた。
全力で走り、力尽きて眠っていた僕らのところへ、意外な人物が訪ねてきた。
「うそ、本当にこの家にいたの? 探しにきたのが私じゃなくて警察だったら、即刻逮捕だよ!」
マンションの玄関先で呆れ顔をしたのは、数カ月ぶりに見る早乙女さんだった。
今日も短めのタイトスカートを、爽やかに着こなしている。
一方、玄関のドアを開けた相楽さんは、大げさに眉をひそめた。
「無茶言うな、まずは任意同行だろ。ってか、なんでお前が……」
早乙女さんが説明する。
「うちの会社が、オリンピックの大口スポンサーだってことは知ってるでしょ? 私もそっちのプロジェクトには顔を出してるの。それで今朝、競技場の落成式のリハーサルに行ってみたら巨大な落書きがあって、どうもその犯人が元カレだっていう……」
早乙女さんは寝起きの相楽さんを睨み、それから後ろにいた僕にも視線を投げかけた。
「分かってると思うけど、2人とも防犯カメラにばっちり映ってるよ?」
あの壁画が相楽天の作品だということはいずれ分かるにしても、主催者側に知り合いがいて即、顔でバレてしまうとは思いもしなかった。
僕と相楽さんは、引きつった顔を見合わせる。
「で、どうすんだ? 俺たちを警察に突き出すのか?」
けんか腰の相楽さんに、早乙女さんが肩をすくめてみせた。
「どうしよっかな?」
「どうしよっか、って……お前な」
「荒川くんはどうしたい?」
「えっ、僕ですか?」
早乙女さんからの突然のパスを受け、僕は慌てて背筋を伸ばす。
「僕は……そうですね、すみません。まずは謝罪をすべきだと思います。あんな大胆不敵な犯行に荷担したわけですから」
「なに今さらお前だけいい子ぶってんだよ!」
相楽さんからブーイングが上がった。
「荒川くんは基本的にまともなのよ。相楽くんと違って」
早乙女さんが、腕組みしたまま口を挟む。
「いや、どう考えても僕らが悪いでしょう。警察に行けと言われれば行きます。ちゃんと罪を償いたいです。けど……」
息をつき視線を落とすと、そこにある相楽さんの右手が目に映る。
爪の間に何色ものペンキが混じり合ってこびりついていた。
こんな時なのに、その手に触れたくなった。
「けど僕は……」
触れたい衝動をこらえ、僕は続ける。
「あの壁を、元通りにしますとは言えません。消したくないんです。相楽さんが自分自身の手で、心を込めて描いたものだから……」
「…………」
早乙女さんの方を見ていた相楽さんが、後ろにいる僕を振り返り、瞳の奥を揺らした。
「そんなたいそうなもんでもないだろ……」
「いえ、僕にとってはすごく特別な意味があります。だから、この世から消したくはない」
見つめ合う僕たちを、早乙女さんは玄関先からじっと見ていた。
「……分かった。持ち帰って考える」
「持ち帰って、って……?」
聞き返すと彼女は、ショートカットの髪を耳にかけながら笑った。
「あれをどうするかは、組織委員会の判断だから。そして私は、そこに口出しできる立場にある」
(早乙女さん……)
踵を返しかけた彼女が、開け放たれたドアの前で振り返った。
「あ……一応言っとくと、相楽くんのためじゃないからね?」
「じゃあなんだよ?」
相楽さんが聞き返す。
「強いて挙げれば、荒川くんの気持ちを汲んでかな? 今は私、相楽くんより荒川くんのファンだから」
早乙女さんは小さく笑うと、ヒールを鳴らして去っていった。
「ミズキのファンってどういう意味だよ……」
相楽さんが、僕を見てぼやく。
「さあ、僕にも分かりません」
ただ、非常階段でのあのキス以来、早乙女さんの心境に変化があったのは確かだろう。
僕たちの関係は少しずつ、時には大きく変化し、気持ちも刻々と変わっていく。
(そういえば相楽さんとのこと、早乙女さんに報告しそびれた? いま僕に言えることは、この人が好きだっていう気持ち、それだけだ……)
胸の中で自分の気持ちを確認しながら、僕は玄関の鍵を閉め直す。
「で、どうします? 主犯の相楽さん」
「ん……?」
「早乙女さんのあの感じだと、僕らをすぐに警察に突き出すってことはなさそうですよ」
相楽さんは伸びをしながら、廊下の奥のリビングへ向かっていく。
「じゃあお沙汰があるまで、久しぶりの我が家でのんびり過ごすか!」
僕もついていくと、彼は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、ソファに座った。
「あれ、これいつの水?」
「さあ、賞味期限は切れてませんけど」
「ペットボトルの水は俺しか飲まないのに、半年家を空けても補充されてるってなんなんだよ……だいたいこんなん何本も、冷やしといたら普通に邪魔だろ」
「あー……それは……」
答えに困り、僕はブラインドの隙間から差し込む光に目を向ける。
「言わせないでくださいよ……」
「お前こそ言わせんなよ、ミズキ」
相楽さんから強引に腕を引き寄せられ、ソファの隣に座らされた。
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