サイテー上司とデザイナーだった僕の半年

谷村にじゅうえん

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5章:棒を掲げるブルドッグ

第3話

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そして――。
僕が意を決して飛び込んだ先は、落成式を2日後に控えた新国立競技場だった。
急ピッチで進められていた工事もすでに済み、夜中の競技場はシンと静まりかえっている。

建物はビル街と大通り、そして公園にも面しているのだが、今の静けさはまるで宇宙に漂う巨大飛行船にでも迷い込んだみたいだ。

そこへ僕は駐車場から侵入し、ビニールのかかったままの案内板を手がかりに、廊下を進んでいる。
警備員にでも行きあえば止められてしまうはずだけれども、今のところ誰の姿も見ていなかった。
とはいえ総工費1,500億円をも費やした競技場に、セキュリティが張られていないわけがなく。
僕がここまで来られたのも、ひとつの奇跡みたいなものだった。

(とりえず、捕まる前に相楽さんに会いたい……)

1歩進むたびにエンカウント率が上がるゲームのダンジョンのように、緊迫感が高まる。

無機質な壁に囲まれた傷ひとつない廊下を歩き、突然、広い空間に出た。
途中で見た案内板によると、こっちが正面玄関のはずだ。
階段を回り込んでゆき、インフォメーションブースの前へ出る。
正面に、ガラス張りのエントランスが見えた。
ガラスの向こうは真っ暗で、人の気配もない。
その闇の先には門や、警備の詰め所があるはずだが、ここからは暗くて何も見えなかった。

それより……。
背中に背負う空気の向こう側から、ひどい圧迫感を感じる。
後ろに誰かいる。
けれど、振り向くのが怖い。
音だけでもとらえようと、耳に意識が集中する。
かすかに衣擦れのような音が聞こえた気がした。

(どうしよう……)

なんだか泣きたい気分になりながら、僕はゆっくり、ゆっくりと振り返る。
そこにいるのが警備員か何かなら、すでに声をかけられているはずだ。
そして、僕は息を呑んだ。

エントランス正面奥の高い壁に、色が刻まれている。
目を覆いたくなるような眩しい色彩。
神殿の奥に光差し込む場所を見つけた、そんな錯覚にとらわれた。

「これ……」

半ば呼吸も忘れ、僕はその壁へ近づいていく。
思った通り、それは壁画だった。
明るい喜びにあふれた、聖火の絵。
そしてその聖火を取り囲む、たくさんの笑顔。
よく見ると沖縄のゴーヤ、九州の河童、大阪のブルドッグもいた。
みんなここにたどり着いたんだ。
僕の口元にも、自然と笑みが浮かぶ。

そしてその壁画の脇に、横に長い工事用の足場が残っていた。
いや、工事のあとで改めて組み上げられたのかもしれない。

高いその足場の上に、ひとつの人影があった。
壁画を見上げる伸びやかな背中。
左手にペンキのバケツ、右手にハケを持っている。

(あ――)

その姿を見た途端、走りだしたい衝動に駆られた。

「相楽さん……!」
「おお!」

こちらを振り向いたその顔は、ペンキに汚れていた。
衝動のまま駆けていって、僕は足場の上に向かって声を張る。

「何やってるんですか、こんなところで!」
「見れば分かんだろ!」

他に誰もいないエントランスロビーに、ドキッとするほど声が響いた。
確かに、壁画を描いていることは見れば分かる。

けど僕は、そんなことを聞きたいんじゃない。
いったい今までどうしていたのか。
今まで何を考えてきて、今現在も何を考えているのか。
本当に僕には分からないことだらけだ。
相楽さんのことをきちんと理解できたことは、今までだって一度もない気はするけれど。

「あなたっていう人は、本当に!」

2本の足が止まっていられずに、足場に続くはしごを昇り始めた。
僕の体重ではしごは揺れ、不吉な金属音をたてる。
それでも自分を止められずに、僕は相楽さんのところまで一気に駆けのぼる。
すると彼の方から手を差し伸べ、僕を上まで引き上げてくれた。

不安定な足場の上で、ぎゅうっと強く抱きしめられる。
鼻をつくペンキの香りと、その奥に相楽さんの匂いがした。
それだけで胸がいっぱいになる。

「ミズキだ」

ペンキに汚れた顔で、グリグリと頬ずりされる。

「めちゃめちゃ会いたかった!」
「勝手に出ていったくせに、何言ってるんですか!」
「会いたかったんだよ。旅の空で、お前のことばかり考えた」
「ならなんで連絡のひとつも寄越さないんです」
「それは、ミズキのこと驚かせたくて?」
「はあっ!?」

抱きしめてくる相楽さんを突き放し、その顔を見た。
笑い顔の眉根がぎゅっと寄っている。
今にも大笑いしそうな、それでいて泣きだしそうにも見えるその顔に、胸が詰まった。
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