サイテー上司とデザイナーだった僕の半年

谷村にじゅうえん

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4章:本と個展とオリンピック

第6話

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付き合ってた彼女にも言わなかったなんて、この人は本当に強がりだ。
でも、僕には分かってしまった。

「それは……あなたが僕にいつも左手で触れるからです。ペンやお箸は右手なのに。それって、右手の感覚に自信を持てないからじゃないですか?」
「…………。なるほどな」

相楽さんがまた視線を下げ、細く長いため息をつく。
そして彼の右手が、ぎこちない動きで僕の手を握り返した。

「そうだよ、大切な相手に触れるのに、感覚の鈍い手なんか使えねえよ。ミズキには、優しく触れたい……」

彼の左手が伸びてきて、僕の頬を滑らかになぞる。
器用な指先がゆっくりと頬を下り、唇をそっと押さえた。
慈しむようなその手の動きに、胸をぎゅっと鷲づかみにされる。

「言えばいいじゃないですか、みんなに、誤解だって……。弱みを見せたくない、そういう理由ですか?」

そう聞くと、相楽さんの唇が悲しげな弧を描いた。

「ミズキみたいな可愛いやつに惚れられる、カッコいい相楽サンでいたかったんだよ」
「……っ。相楽さんはカッコいいです。どんなふうに、僕に触れても……」
「……ありがとな」

彼は擦り切れそうな笑顔で微笑み、静かに自室へと消えていった。



それから数日。
僕は、あれ以来開かない相楽さんの部屋のドアを見つめていた。

僕が彼の心の傷に、無遠慮に触れてしまったせいもあると思う。
それに何より信頼していた橘さんの裏切りは、きっと耐えがたいものだったはずだ。

(相楽さん、ちゃんと生きてるのかな?)

彼と僕とで生活時間がずれているのか、食事や用足しのタイミングで顔を合わせることもない。
初めは傷心の彼をそっとしておくべきかとも思っていたけれど、そろそろ精神状態や体のことが心配になってきた。

「相楽さん……?」

開き方を忘れてしまったかのようなドアを、恐る恐る叩いてみる。
僕はシャワーを浴びてきた帰りで、髪を拭きながらしばらくドアの前に立っていた。
中からの反応はない。
落胆が疲労となって、体に重くのしかかってきた。
仕方ないからもう寝よう、そんな思いで踵を返そうとした時……。

空間を隔てた向こうで気配が動き、目の前のドアがゆっくりと開いた。

「ミズキ……」

スエット姿の相楽さんが、ドア枠へ気だるげに寄りかかる。

「寝てました? すみません……」
「いや、そろそろ起きようと思ってたから」

そう言いながらも、彼のまぶたは重そうだった。

「いま何時?」
「え……と、夜の9時すぎです」
「……そうか」

相楽さんは寝癖のついた髪を掻き上げた。

「大丈夫ですか? ちゃんと食べてます?」

顔を覗き込むようにして聞くと、彼は僕の肩に腕を乗せくる。
その瞬間、少し疲れたような肌の匂いがして、僕の胸をきゅっと締めつけた。

「ちょっと前に食った気がするけど、いつだったか」
「それ、ちょっと前じゃないでしょう。僕、何か作ります」

キッチンへ向かおうとすると、離すまいと腕を引き寄せられる。

「それよりミズキ、こっち来い」

ドキッとしているうちに、両腕が背中に回ってきた。
彼の重さと気だるげな体温を、真正面から受け止める。

「普段はエラそうなくせに、弱ってる時は甘え上手ですよね……」

呆れたように言うと、彼は息だけで笑った。

「弱ってる時くらい甘えさせろよ」

僕は胸が疼くのを感じながら、彼の背中を強めに抱きしめ返した。



部屋に入り、相楽さんは愛用のMACの前に座る。

「そうなるとは思ってたけど、やっぱ作品集と個展の話はなくなった」
「加勢井先生がそう言ったんですか?」
「いや。見捨てる時は自分から言ってこねーよ。出版の件で動きがないから問い合わせたら、じいさんの部下がメールを寄越してきた」

相楽さんはそのメールを開き、大きな画面に映してみせる。

「『時期を見てまた』って言ってるけど、やんわりとした断り文句だな。向こうさんも俺に関わりたくないとみえる」
「じゃあ、オリンピックの話は……」

恐る恐る聞くと、相楽さんの視線が画面から僕に移動した。

「そんなの、ナシに決まってんだろ。じいさんのお気に入りから俺以外の誰かを立てるか、もしくは個人のデザイナーなんか信用できねえってことになって、でかい企業……つまり電報堂辺りが持っていくんだろうな」

そしてため息のあと続ける。

「三木さんの、嬉しそうな顔が目に浮かぶ」

僕はあの人のそういう顔を見たことがないけれど、考えるとやっぱり嫌な気分になった。
そこで、相楽さんの声のトーンが少し柔らかくなる。

「それでさ、ミズキ。考えたんだが、お前は加勢井先生のところへ行け」
「……?」

意図がつかめずに、僕は見つめてくる彼の表情を探った。
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