37 / 58
3章:ハワイアン・ジントニック
第6話
しおりを挟む
「何もしなくていいです。けど、そのおでこはなんとかしましょう」
ハンカチを濡らしてきて、傷口を拭く。
彼は仰向けになり、されるがままになっていた。
ベッドサイトの明かりで確認すると、血が汗でにじんでいただけで、傷そのものは思っていたより小さい。
「これなら、絆創膏でもいけるかな?」
荷物に入っていた絆創膏を出し、2つ並べて貼り付けた。
「なんか、子供みたい」
クスッと笑って絆創膏を撫でると、相楽さんは納得いかない顔で僕を睨んだ。
「突き飛ばしたのはミズキだからな?」
「それは分かってます」
「でもいいか。猫は助かったし、傷ひとつで済んだんだから……」
「でも……あの車がもうちょっと速かったら、相楽さん死んでましたよ。遠くの国の猫のために命を捨てるのは、なんていうか……らしくない気がします」
珍しく見せた無私の行為を、僕も否定する気はない。
けれどキャラが違うだろう、とツッコミたくなった。
そんなことでこの人に、命を捨ててほしくなくて……。
「そうか?」
横になったままの相楽さんが、考え込む僕を真下から見つめてくる。
少し潤んだその瞳に誘われるように、僕は仰向けに寝ている彼の顔の脇へ、腕を突いた。
気だるい空気の中、意味もなく彼に触れたくなる。
その衝動は我慢したけれど、代わりに唇から本音がこぼれ落ちた。
「だいたいあなたは、生き急ぎすぎです。寝ないで働いて遊んで。いくら体力に自信があっても、そのうち倒れます」
そんなの、僕は嫌だ――そう続けようとしたのに、相楽さんの声が先に空気を震わせる。
「それは分かってる」
(分かってる――?)
「分かってるのにやってるんですか」
思わぬ彼の言葉に、つい強めの口調で問い返した。
「どうして……」
真下から僕を見つめていた相楽さんの視線が、すうっと横へ逸れていった。
「怖い」
「え……?」
「じっとしているのが怖いんだ……」
息を吐き出すだけの声で言われる。
「何も残せないまま、死ぬのが怖い」
「だから働いて遊んで、お酒を飲むんですか?」
僕には理解できない。
けれどそういうことなんだろう。
「臆病なだけかもしれない」
彼が片腕を、自分の顔の上に持ってくる。
それで表情が読み取れなくなってしまった。
仕方なく視線を外し、窓の外へ目を向ける。
天才ゆえの焦燥感、そんな感じのものがこの人にはあるのかもしれない。
僕は天才ではないけれど、進学も就職も人より遅れていたせいで、かなりの焦燥感と、それに比例した諦めをもって生きてきた。
諦めがなければ、きっと焦燥感は募る一方だ。
良くも悪くも実力と自信のある相楽さんは、焦燥感を諦めという形で消化することができないんだろう。
そうだとして、その焦燥感の原因はどこにあるのか。
それが単なる漠然としたものではない気がして……。
僕は生活感のない薄紫色の壁に視線をさまよわせた。
*
ハワイ2日目はダイヤモンドヘッドに登り、午後はサンセットクルーズへ。
そして3日目。
現地の美術館、博物館を巡り、宿泊先のコンドミニアムにやってきた。
結局あれから、相楽さんと込み入った話はできていない。
ツアー中も元気な相楽さんと後ろからついていくだけの僕とでは、精神的にも物理的にも距離ができていた。
コンドミニアムの広々としたリビングで今、相楽さんはサッカー中継に興じている。
家なら彼の座るソファの隣は空いているのに、そこは事務所の仲間で埋まっていた。
僕は後ろのカウンターキッチンで飲み物を飲みながら、彼らの姿を遠巻きに見る。
大型テレビの中でサッカー選手がシュートを決め、リビングがテレビの向こうのサッカー場と一体化した。
歓声を上げる相楽さんの後ろ姿に目が行く。
両腕を上げ喜びを体全体で示しているけれど、その内面には何が隠されているのか。
何も残せずに死ぬのが怖い――そう言っていた2日前の彼が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
早口にまくし立てる中継の音声を聞きながら、落ち着かない気分になる。
(他の部屋に行こう)
僕は飲みかけのグラスを手に、みんなのいるリビングをあとにした。
誰もいない寝室に入り、床に並んでいる荷物から自分のバッグを探し出す。
今夜は同じコンドミニアム内にあるいくつかの寝室を使って寝ることになっていて、部屋割りは特に決まっていなかった。
それより明日には帰国便に乗ることを思うと、帰ってからの仕事のことが気になり始める。
僕はノートPCを出し、仕事のメールを確認することにした。
ハンカチを濡らしてきて、傷口を拭く。
彼は仰向けになり、されるがままになっていた。
ベッドサイトの明かりで確認すると、血が汗でにじんでいただけで、傷そのものは思っていたより小さい。
「これなら、絆創膏でもいけるかな?」
荷物に入っていた絆創膏を出し、2つ並べて貼り付けた。
「なんか、子供みたい」
クスッと笑って絆創膏を撫でると、相楽さんは納得いかない顔で僕を睨んだ。
「突き飛ばしたのはミズキだからな?」
「それは分かってます」
「でもいいか。猫は助かったし、傷ひとつで済んだんだから……」
「でも……あの車がもうちょっと速かったら、相楽さん死んでましたよ。遠くの国の猫のために命を捨てるのは、なんていうか……らしくない気がします」
珍しく見せた無私の行為を、僕も否定する気はない。
けれどキャラが違うだろう、とツッコミたくなった。
そんなことでこの人に、命を捨ててほしくなくて……。
「そうか?」
横になったままの相楽さんが、考え込む僕を真下から見つめてくる。
少し潤んだその瞳に誘われるように、僕は仰向けに寝ている彼の顔の脇へ、腕を突いた。
気だるい空気の中、意味もなく彼に触れたくなる。
その衝動は我慢したけれど、代わりに唇から本音がこぼれ落ちた。
「だいたいあなたは、生き急ぎすぎです。寝ないで働いて遊んで。いくら体力に自信があっても、そのうち倒れます」
そんなの、僕は嫌だ――そう続けようとしたのに、相楽さんの声が先に空気を震わせる。
「それは分かってる」
(分かってる――?)
「分かってるのにやってるんですか」
思わぬ彼の言葉に、つい強めの口調で問い返した。
「どうして……」
真下から僕を見つめていた相楽さんの視線が、すうっと横へ逸れていった。
「怖い」
「え……?」
「じっとしているのが怖いんだ……」
息を吐き出すだけの声で言われる。
「何も残せないまま、死ぬのが怖い」
「だから働いて遊んで、お酒を飲むんですか?」
僕には理解できない。
けれどそういうことなんだろう。
「臆病なだけかもしれない」
彼が片腕を、自分の顔の上に持ってくる。
それで表情が読み取れなくなってしまった。
仕方なく視線を外し、窓の外へ目を向ける。
天才ゆえの焦燥感、そんな感じのものがこの人にはあるのかもしれない。
僕は天才ではないけれど、進学も就職も人より遅れていたせいで、かなりの焦燥感と、それに比例した諦めをもって生きてきた。
諦めがなければ、きっと焦燥感は募る一方だ。
良くも悪くも実力と自信のある相楽さんは、焦燥感を諦めという形で消化することができないんだろう。
そうだとして、その焦燥感の原因はどこにあるのか。
それが単なる漠然としたものではない気がして……。
僕は生活感のない薄紫色の壁に視線をさまよわせた。
*
ハワイ2日目はダイヤモンドヘッドに登り、午後はサンセットクルーズへ。
そして3日目。
現地の美術館、博物館を巡り、宿泊先のコンドミニアムにやってきた。
結局あれから、相楽さんと込み入った話はできていない。
ツアー中も元気な相楽さんと後ろからついていくだけの僕とでは、精神的にも物理的にも距離ができていた。
コンドミニアムの広々としたリビングで今、相楽さんはサッカー中継に興じている。
家なら彼の座るソファの隣は空いているのに、そこは事務所の仲間で埋まっていた。
僕は後ろのカウンターキッチンで飲み物を飲みながら、彼らの姿を遠巻きに見る。
大型テレビの中でサッカー選手がシュートを決め、リビングがテレビの向こうのサッカー場と一体化した。
歓声を上げる相楽さんの後ろ姿に目が行く。
両腕を上げ喜びを体全体で示しているけれど、その内面には何が隠されているのか。
何も残せずに死ぬのが怖い――そう言っていた2日前の彼が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
早口にまくし立てる中継の音声を聞きながら、落ち着かない気分になる。
(他の部屋に行こう)
僕は飲みかけのグラスを手に、みんなのいるリビングをあとにした。
誰もいない寝室に入り、床に並んでいる荷物から自分のバッグを探し出す。
今夜は同じコンドミニアム内にあるいくつかの寝室を使って寝ることになっていて、部屋割りは特に決まっていなかった。
それより明日には帰国便に乗ることを思うと、帰ってからの仕事のことが気になり始める。
僕はノートPCを出し、仕事のメールを確認することにした。
0
お気に入りに追加
39
あなたにおすすめの小説

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。
切なくて、恋しくて〜zielstrebige Liebe〜
水無瀬 蒼
BL
カフェオーナーである松倉湊斗(まつくらみなと)は高校生の頃から1人の人をずっと思い続けている。その相手は横家大輝(よこやだいき)で、大輝は大学を中退してドイツへサッカー留学をしていた。その後湊斗は一度も会っていないし、連絡もない。それでも、引退を決めたら迎えに来るという言葉を信じてずっと待っている。
そんなある誕生日、お店の常連であるファッションデザイナーの吉澤優馬(よしざわゆうま)に告白されーー
-------------------------------
松倉湊斗(まつくらみなと) 27歳
カフェ・ルーシェのオーナー
横家大輝(よこやだいき) 27歳
サッカー選手
吉澤優馬(よしざわゆうま) 31歳
ファッションデザイナー
-------------------------------
2024.12.21~

初心者オメガは執着アルファの腕のなか
深嶋
BL
自分がベータであることを信じて疑わずに生きてきた圭人は、見知らぬアルファに声をかけられたことがきっかけとなり、二次性の再検査をすることに。その結果、自身が本当はオメガであったと知り、愕然とする。
オメガだと判明したことで否応なく変化していく日常に圭人は戸惑い、悩み、葛藤する日々。そんな圭人の前に、「運命の番」を自称するアルファの男が再び現れて……。
オメガとして未成熟な大学生の圭人と、圭人を番にしたい社会人アルファの男が、ゆっくりと愛を深めていきます。
穏やかさに滲む執着愛。望まぬ幸運に恵まれた主人公が、悩みながらも運命の出会いに向き合っていくお話です。本編、攻め編ともに完結済。

鬼上司と秘密の同居
なの
BL
恋人に裏切られ弱っていた会社員の小沢 海斗(おざわ かいと)25歳
幼馴染の悠人に助けられ馴染みのBARへ…
そのまま酔い潰れて目が覚めたら鬼上司と呼ばれている浅井 透(あさい とおる)32歳の部屋にいた…
いったい?…どうして?…こうなった?
「お前は俺のそばに居ろ。黙って愛されてればいい」
スパダリ、イケメン鬼上司×裏切られた傷心海斗は幸せを掴むことができるのか…
性描写には※を付けております。
貢がせて、ハニー!
わこ
BL
隣の部屋のサラリーマンがしょっちゅう貢ぎにやって来る。
隣人のストレートな求愛活動に困惑する男子学生の話。
社会人×大学生の日常系年の差ラブコメ。
※現時点で小説の公開対象範囲は全年齢となっております。しばらくはこのまま指定なしで更新を続ける予定ですが、アルファポリスさんのガイドラインに合わせて今後変更する場合があります。(2020.11.8)
■2024.03.09 2月2日にわざわざサイトの方へ誤変換のお知らせをくださった方、どうもありがとうございました。瀬名さんの名前が僧侶みたいになっていたのに全く気付いていなかったので助かりました!
■2024.03.09 195話/196話のタイトルを変更しました。
■2020.10.25 25話目「帰り道」追加(差し込み)しました。話の流れに変更はありません。

王道学園の冷徹生徒会長、裏の顔がバレて総受けルート突入しちゃいました!え?逃げ場無しですか?
名無しのナナ氏
BL
王道学園に入学して1ヶ月でトップに君臨した冷徹生徒会長、有栖川 誠(ありすがわ まこと)。常に冷静で無表情、そして無言の誠を生徒達からは尊敬の眼差しで見られていた。
そんな彼のもう1つの姿は… どの企業にも属さないにも関わらず、VTuber界で人気を博した個人VTuber〈〈 アイリス 〉〉!? 本性は寂しがり屋の泣き虫。色々あって周りから誤解されまくってしまった結果アイリスとして素を出していた。そんなある日、生徒会の仕事を1人で黙々とやっている内に疲れてしまい__________
※
・非王道気味
・固定カプ予定は無い
・悲しい過去🐜のたまにシリアス
・話の流れが遅い

モテる兄貴を持つと……(三人称改訂版)
夏目碧央
BL
兄、海斗(かいと)と同じ高校に入学した城崎岳斗(きのさきやまと)は、兄がモテるがゆえに様々な苦難に遭う。だが、カッコよくて優しい兄を実は自慢に思っている。兄は弟が大好きで、少々過保護気味。
ある日、岳斗は両親の血液型と自分の血液型がおかしい事に気づく。海斗は「覚えてないのか?」と驚いた様子。岳斗は何を忘れているのか?一体どんな秘密が?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる