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2章:紫色のチェ・ゲバラTシャツ
第14話
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(早乙女さん!?)
しかも相楽さんのスマホには、社名と苗字ではなく姓名のフルネームで登録されている。
「ミズキ……」
「……っ! 危うく流されるところでした。こんなんじゃもう、誤魔化されませんから!」
上に乗っている彼を押しのけ、僕はそのまま部屋を飛び出した。
*
マンションの前の通りへ出て、暗い街灯の下で息を整える。
夜9時の街には、息苦しくなるような湿った空気が満ちていた。
雨でも降るのかもしれない。
(頭の中、ぐちゃぐちゃだ……)
何が嘘で、何が本当なのか分からない。
僕がこんな場所にいること自体、現実ではない気がした。
ここは大きな通りから1本奥まった通りで、この時間、人通りは少ない。
路肩に寄せた配送トラックの運転席で、ドライバーが気だるげにスマホを見ていた。
そこに立ち尽くしているわけにもいかず、僕はどこへともなく歩きだす。
それから自分が、財布もスマホも持っていないことに気づいた。
あの部屋に戻らないわけにはいかないけれど、今は相楽さんと顔を合わせたくない。
心地よかったキスを思い出し、胸がズキンと痛んだ。
あんなことをされても僕は、相楽さんとなら嫌じゃないと思った。
むしろ嬉しかったのかもしれない。
触れられる喜びを、体は素直に感じていた。
……でも、違った。
スマホの画面を見て、舌打ちする彼の顔がフラッシュバックする。
僕とのことは嘘を誤魔化すための戯れにすぎなかった。
ゲイでもない相楽さんが、本気で僕を好きになるはずがない。
目的はともかく彼は早乙女さんと繋がっていて、それを知ってしまった僕をなんとか黙らせようとしただけだ。
――キスに深い意味なんかない。
そういえば相楽さん自身が、あのキスの前に言っていた。
「わーッ! なんなんだよ!」
誰もいない暗い通りで、ひとり叫ぶ。
相楽さんにとって意味なんかなくても、あんなキスをされたら心を持っていかれる。
布越しに触られた胸の先が、ヒリヒリと痛い。
僕はあの人みたいに経験豊富じゃない。
アヒルの子が初めて見た動くものを親だと思って追いかけていくみたいに、僕はあの人への幻想を、どこまでも追いかけてしまう気がした。
そんな時……。
「荒川くん?」
不意に名前を呼ばれて振り向くと、通り沿いにある小さなカフェバーの軒先で、久保田さんがたばこを吸っていた。
「……久保田さん?」
「何やってんの?」
「何って……」
とてつもなく、説明に困る状況である。
「散歩、かな……」
「あれ、家近かったっけ?」
「んー、まあ……」
曖昧に笑って誤魔化すしかなかった。
もう帰ったはずの人間がこんな夜中に事務所の周りを手ぶらで歩いていたら、誰だって変に思うに決まってる。
僕が事務所の裏にある相楽さんのマンションに置いてもらっていることは、相楽さんと親しい橘さんくらいしか知らないはずだった。
とりあえず、話を逸らすことにする。
「久保田さんこそ、こんなところで何してるんですか?」
「みんなで飲んでるんだよ。荒川くんは直帰しちゃったから誘えなかったけど」
そう言って彼は、店の中を指さす。
ガラス戸の向こうへ目を向けると、事務所の若手数人でテーブルを囲んでいるようだった。
「荒川くんも飲んでけば?」
「あー、でも今、金欠なんだよね……」
財布がないとは言えなくて、そんなふうに誤魔化す。
「大丈夫、今日は橘さんから飲み代預かってるから」
久保田さんは自慢げに、顔のそばかすをひと撫でした。
「外でたばこ吸ってたら、荒川くんが通りかかって」
そんな久保田さんの説明に、テーブルにいたみんなが驚いた顔をする。
「おー、荒川くんだ! 珍しい」
「荒川は飲み会とか、苦手なのかと思ってた」
そもそも飲みに誘われたのが始めてだ。
こういう場で僕がレアキャラなのは間違いない。
「なんか、お邪魔しちゃってすみません……」
「邪魔なわけないだろー。それより何飲む?」
「えーと……じゃあ、レモンサワー」
注文を終えたところで、テーブルを囲んでいたひとりが遠慮がちに聞いてきた。
「荒川くんは、相楽さんのことどう思ってるの?」
「え……?」
「鞄持ちみたいに、いろんなとこ散々連れ回されてるからさ」
その言葉に、否定的なニュアンスを感じ取る。
反応に困る僕を見て、久保田さんが横から打ち明けた。
「俺らの飲みの時って、だいたい相楽さんの悪口大会だからさ」
(なるほど、そういうことか……)
「大丈夫ですよ、告げ口とかしませんから」
そう言うと、みんなの顔に明らかな安堵の色が浮かんだ。
しかも相楽さんのスマホには、社名と苗字ではなく姓名のフルネームで登録されている。
「ミズキ……」
「……っ! 危うく流されるところでした。こんなんじゃもう、誤魔化されませんから!」
上に乗っている彼を押しのけ、僕はそのまま部屋を飛び出した。
*
マンションの前の通りへ出て、暗い街灯の下で息を整える。
夜9時の街には、息苦しくなるような湿った空気が満ちていた。
雨でも降るのかもしれない。
(頭の中、ぐちゃぐちゃだ……)
何が嘘で、何が本当なのか分からない。
僕がこんな場所にいること自体、現実ではない気がした。
ここは大きな通りから1本奥まった通りで、この時間、人通りは少ない。
路肩に寄せた配送トラックの運転席で、ドライバーが気だるげにスマホを見ていた。
そこに立ち尽くしているわけにもいかず、僕はどこへともなく歩きだす。
それから自分が、財布もスマホも持っていないことに気づいた。
あの部屋に戻らないわけにはいかないけれど、今は相楽さんと顔を合わせたくない。
心地よかったキスを思い出し、胸がズキンと痛んだ。
あんなことをされても僕は、相楽さんとなら嫌じゃないと思った。
むしろ嬉しかったのかもしれない。
触れられる喜びを、体は素直に感じていた。
……でも、違った。
スマホの画面を見て、舌打ちする彼の顔がフラッシュバックする。
僕とのことは嘘を誤魔化すための戯れにすぎなかった。
ゲイでもない相楽さんが、本気で僕を好きになるはずがない。
目的はともかく彼は早乙女さんと繋がっていて、それを知ってしまった僕をなんとか黙らせようとしただけだ。
――キスに深い意味なんかない。
そういえば相楽さん自身が、あのキスの前に言っていた。
「わーッ! なんなんだよ!」
誰もいない暗い通りで、ひとり叫ぶ。
相楽さんにとって意味なんかなくても、あんなキスをされたら心を持っていかれる。
布越しに触られた胸の先が、ヒリヒリと痛い。
僕はあの人みたいに経験豊富じゃない。
アヒルの子が初めて見た動くものを親だと思って追いかけていくみたいに、僕はあの人への幻想を、どこまでも追いかけてしまう気がした。
そんな時……。
「荒川くん?」
不意に名前を呼ばれて振り向くと、通り沿いにある小さなカフェバーの軒先で、久保田さんがたばこを吸っていた。
「……久保田さん?」
「何やってんの?」
「何って……」
とてつもなく、説明に困る状況である。
「散歩、かな……」
「あれ、家近かったっけ?」
「んー、まあ……」
曖昧に笑って誤魔化すしかなかった。
もう帰ったはずの人間がこんな夜中に事務所の周りを手ぶらで歩いていたら、誰だって変に思うに決まってる。
僕が事務所の裏にある相楽さんのマンションに置いてもらっていることは、相楽さんと親しい橘さんくらいしか知らないはずだった。
とりあえず、話を逸らすことにする。
「久保田さんこそ、こんなところで何してるんですか?」
「みんなで飲んでるんだよ。荒川くんは直帰しちゃったから誘えなかったけど」
そう言って彼は、店の中を指さす。
ガラス戸の向こうへ目を向けると、事務所の若手数人でテーブルを囲んでいるようだった。
「荒川くんも飲んでけば?」
「あー、でも今、金欠なんだよね……」
財布がないとは言えなくて、そんなふうに誤魔化す。
「大丈夫、今日は橘さんから飲み代預かってるから」
久保田さんは自慢げに、顔のそばかすをひと撫でした。
「外でたばこ吸ってたら、荒川くんが通りかかって」
そんな久保田さんの説明に、テーブルにいたみんなが驚いた顔をする。
「おー、荒川くんだ! 珍しい」
「荒川は飲み会とか、苦手なのかと思ってた」
そもそも飲みに誘われたのが始めてだ。
こういう場で僕がレアキャラなのは間違いない。
「なんか、お邪魔しちゃってすみません……」
「邪魔なわけないだろー。それより何飲む?」
「えーと……じゃあ、レモンサワー」
注文を終えたところで、テーブルを囲んでいたひとりが遠慮がちに聞いてきた。
「荒川くんは、相楽さんのことどう思ってるの?」
「え……?」
「鞄持ちみたいに、いろんなとこ散々連れ回されてるからさ」
その言葉に、否定的なニュアンスを感じ取る。
反応に困る僕を見て、久保田さんが横から打ち明けた。
「俺らの飲みの時って、だいたい相楽さんの悪口大会だからさ」
(なるほど、そういうことか……)
「大丈夫ですよ、告げ口とかしませんから」
そう言うと、みんなの顔に明らかな安堵の色が浮かんだ。
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