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チョーク独特のカッカ、という音が大きく響いて、ゆっくりと顔を挙げる。決して寝ていたわけではない、いやごめん嘘、ちょっとウトウトしてしまっていた。
「じゃあ、喫茶店のメニューはこんな感じでいいかな?」
黒板の前に立つ花村さんは綺麗な黒髪を揺らして首を傾げた。クラスのどこからともなく拍手が起こって、私も小さく拍手を重ねる。
文化祭が近づくと、ホームルームの時間はその準備に当てられることになる。今日は喫茶店で出すメニュー決めが行われていた。くじ引きで実行委員になった花村さんは普段からクラスの中心にいるような子で、最初は嫌がっていたものの人望もあるため非常に進みがスムーズだ。なにより声が聞き取りやすくて、そして、真っすぐな黒髪がとても綺麗だ。なーんて思いながらボーッと黒板を眺めている私は中々キモイのかもしれない。まあいい、思っているだけなら問題はない。ちなみに顔も可愛い。はい、黙ります。
「当日、シフトの希望ある人は早めに教えてくださーい。」
その後当日までの作業の分担を少し決めたところで、終了のチャイムが鳴る。ガヤガヤと騒ぎはじめた廊下と共に、ホームルームも幕を閉じた。花村さんはそのまま廊下に出て行くから、少し小走りで後を追う。
「花村さん。」
「あ、高坂さん。どうしたの?」
振り向いた拍子にまた綺麗な黒髪が揺れて、思わず目が奪われた。いわゆる1軍グループに所属する花村さんだが、彼女は基本的に落ち着いていて周りの話を笑顔で聞いているイメージが強い。1軍グループの子は苦手な子が多いが(おい)、彼女の事は苦手ではなかった。
「ごめん、私、文化祭出られなくて。」
「え!そうなんだ。」
「だから当日シフト入れないの、ごめんなさい。」
「そんなそんな。謝るような事じゃないよ。」
「その分事前準備は何でもするから、多めに割り振ってください。」
そう言ってペコリと小さく頭を下げれば、花村さんがフフッと笑う。
「ご丁寧にありがとう。承知しました。」
なんて言っておどけて彼女もペコリとお辞儀をするから、思わず笑ってしまった。
「そっか、でも最後だから、ちょっと残念だね。」
「・・・そうだね。」
「あ、高坂さん、全然残念って思って無さそう。」
「そんなことないよ。」
「冗談冗談。なにか予定あるの?」
「・・・そう、ちょっと家族の予定があって。」
「あ、ごめん。聞く事じゃないよね。全然、気にしないでね。」
ごめんごめん、と眉を下げて謝ってくれるから、大きく首を振った。そのまま彼女は教務室に用があるから、と手をひらりと振って廊下を進んでいった。私も教室へ戻って帰宅の準備をする。
鞄を片手に教室を出て、真っすぐ玄関を出た。今日は金曜日。金曜日は部室には寄らないで直帰すると決まっている。桜の見頃は先週で、もう既に散りかけていた。でも私は散りかけの桜も嫌いじゃない。少し見上げながら、ゆっくりと通学路を歩いた。
ガラガラ、と地学室のドアを開ける。誰もいないだろうと思ったなのに、中には既に珍しく海老名が座っていた。
「なんでいるの?」
「え、第一声それはひどくない?」
「だって私の方が大体早いから。」
「それはそうだ。」
海老名はダラーっと机に体重を預けて、両手でスマホをいじっていた。ゲームでもしているのだろう。そういえば、最近はサッカーゲームにはまってると言っていたな。
「どう、文化祭の準備は。」
「ん!順調順調。なんかさワクワクするよね。」
「え、早くない?あと1か月くらいあるけど。」
「俺イベントごと好きなタイプだから。」
「絶対遠足の前の日とか寝れなかったタイプでしょ。」
「いやいや、寝れなかったんじゃなくて寝るつもりがなかっただけ。」
「変な見栄の張り方すんなアホ。」
机をはさんで海老名の正面のイスに腰かけて、読みかけの本を開く。
「あれ、この前のよくわからんミステリー小説は?」
「読み終わった。」
「面白かった?」
「よく分からんかった。」
「なんだよそれ。」
スマホを両手でいじったまま、海老名はケラケラと笑う。
そのまま海老名はゲームを、私は読書を。少し静かな時間が流れる。
季節は4月下旬。まだ夏は感じないけれど、それでも温かい陽気が続いていた。窓の外には綺麗な夕焼けが広がっていて、差し込む光が少し眩しい。少しだけ開いている窓から風が吹き込んできている。チラリ、と視線を挙げれば、彼の長めの前髪が陽の光に照らされてゆらゆらと揺れていた。
少し、ほんの少し、見つめてしまっていたのだろう。
「ん?なに、何か付いてる?」
「・・・いや、相変わらず鬱陶しい前髪だなって。」
「やめろ急な悪口。」
パッと海老名と目が合ってしまって、逸らすことも出来ずにでも口だけは動いた。ゆっくりと瞬きをして視線を本に戻す。自然に、自然に。彼は大して気にした様子もなく、そういえばさ、と口を開く。
「先輩、鈴あげたい人いないの?」
「鈴?」
「文化祭の。」
「あ、あったねそういえばそんなの。」
文化祭で行われるイベントの1つに、『鈴交換』というものがある。その名の通り、恋人や好きな人と鈴を交換するのだ。男の子が青、女の子がピンクの鈴が事前に配られて、文化祭中に交換すると恋が成就したり、恋人と長続きするのだとか。まあ、ありがちなイベントだ。
「え、なになに?恋バナする?エビナクンハスキナヒトイルノー?」
「・・・話すのやめた。」
「ごめん、うそうそ。」
不貞腐れたように口を尖らす海老名はいつの間にかスマホゲームをやめていて、机に突っ伏して私の事を少し見上げていた。一瞬目が合って、私は本に視線を戻す。
「海老名は?あげたい人いるの?」
私の質問に彼は少しうーん、と唸ってから、そっぽを向いて小さな声で呟く。
「いるよ。」
「声小さ。」
「うるさいなあ。」
「ていうか、耳赤いけど。どんだけピュアなんだよ。」
「もう先輩!シャラップ!!」
「ヘイヘイ。」
どうしたって海老名の事をからかいたくなってしまう私。ついに怒られてしまった、反省反省。だっていつだって彼の反応は真っすぐで面白い。私には無いものを彼はたくさん持っている。
「文化祭で渡せるといいねえ。」
「うーん、どうだろ。」
「大丈夫、渡せるよアンタなら。」
不意に、海老名が静かになったのが分かった。どうしたのかと彼の方を見れば、彼はポカーンと効果音が聞こえてきそうな顔で私を見ていた。
「え、なに?」
「いや、なんでそう、断言してくれるかなあ、と。」
「え、だってアンタいい子だから。」
「・・・先輩、俺の事小学生かなんかだと思ってねえ?」
なんて言いながらも少し嬉しそうに笑うから、なんだか私が照れてしまって慌てて本で口元を隠した。本当に犬みたいだ、しっぽが揺れているのが見えてきそう。・・・うん、ゴールデンレトリバーだ、ゴールデンレトリバー一択。なんて勝手に彼の犬種を決めていれば(?)、不意に海老名が私の顔を覗き込む。
「なんか先輩、顔色悪い?」
「・・・そんなことないよ。」
「ただでさえ白いのに、今日は加えて青っぽい。」
「表現独特過ぎるだろ。」
「体調悪くないならいいんだけど。」
「全然元気だよ。まあ強いて言うなら寝不足ではあるかも。ほら、テストあるでしょ。」
「グッ・・・!」
「そんなダメージ食らう?」
そう、楽しい文化祭の前にはテストがあるのだ。なぜこの時期にあるのかは謎だ。高校の七不思議の一つ。ちなみにいつからこの学校にいるのかも年齢も何もかもが謎に包まれている私の担任の先生も七不思議のひとつだ。少し寝不足気味なのは事実で、ふああ、と欠伸がこぼれた。そんな私を見て、海老名が急に私に右手を伸ばす。
「ね。手、出して。」
なんで、と口に出す前に海老名が私の左手に触れた。そのまま彼は、黒いマジックの先を私の手の甲に当てる。少しくすぐったくて、インクの匂いが鼻について、でも私の視線は彼の横顔から動かなかった。まつげ、長。なんて、そんなことを思っていた。
「せんぱいにも、花丸あげる。」
私の手を放して、海老名がそう言って笑う。左手の甲を見れば、そこには不格好な花丸があった。バランスが悪くて、やたらでかくて、でも大きな大きな花丸。
「・・・どうも。」
「嬉しい?」
「コイツ、油性ペンで書きやがったなと。」
「ごめんなさい。」
「ウソウソ、ありがとう。」
思わず笑ってしまったわたしに、海老名は少し驚いたように目を開いた。
「珍しい、笑った。」
「いや珍しくはないだろ。」
「珍しいよ。そうやってフフッて笑うの。」
「フフッてなんだよ。」
海老名にツッコミながらも、手の甲の花丸を何度も見つめてしまった。小さい頃、学校の先生が書いてくれる花丸が好きだった。その先生はテストの点数に関係なく、花丸を付けてくれた。小さな事だけど、私はそれがとても嬉しくて、先生の赤ペンの跡を何度も指でなぞった。
「私、花丸好きなんだよね。嬉しいじゃん何か。」
「嬉しいね。確かに。」
「だからさ、皆にもあげたい。生きてるだけで偉いよ凄いよ、満点花丸だよって。」
「・・・先輩って、意外と愛にあふれてるよね。」
「それは褒めてんの?馬鹿にしてる?」
「褒めてる褒めてる。」
窓の外は気づけばもう暗くなり始めていた。読みかけの本や机の上に広げてしまった物を片付けていれば、海老名が私のスケジュール帳を指さす。
「それいつも持ち歩いてるよね。」
「私、スケジュール管理は手帳派なの。」
「へえ、スマホの方が楽じゃない?」
「楽かも。でも、なんか、好きなんだよね。」
へえ、と相槌を打ちながら彼が私のスケジュール帳に手を伸ばすから、「ちょちょちょ!!」と出したことの無い間抜けな声を出してしまって、彼も慌てて手を引っ込めた。
「えっえっえ、ごめん。そんなに嫌だった?」
「ごめんごめん、嫌とかじゃないんだけど。」
慌ててスケジュール帳を鞄に突っ込む。俺に触られたくなかった・・・?なんて海老名が本気で悲しそうな顔をしていたから慌てて謝った。違う違う、そんなわけではないんだけれど。
「ごめん。でもね、アンタにだけは見られたくない。」
そう言えば彼が更に眉毛をヘの字に下げたから、また慌てて謝る。違うんだって、違くないけど違うんだ。でもうまく説明出来るはずもなくて結局理解してもらうのを諦めた。帰りにコンビニで高めのアイスを奢ってあげて、海老名の眉毛はやっと元の位置に戻った。
「じゃあ、喫茶店のメニューはこんな感じでいいかな?」
黒板の前に立つ花村さんは綺麗な黒髪を揺らして首を傾げた。クラスのどこからともなく拍手が起こって、私も小さく拍手を重ねる。
文化祭が近づくと、ホームルームの時間はその準備に当てられることになる。今日は喫茶店で出すメニュー決めが行われていた。くじ引きで実行委員になった花村さんは普段からクラスの中心にいるような子で、最初は嫌がっていたものの人望もあるため非常に進みがスムーズだ。なにより声が聞き取りやすくて、そして、真っすぐな黒髪がとても綺麗だ。なーんて思いながらボーッと黒板を眺めている私は中々キモイのかもしれない。まあいい、思っているだけなら問題はない。ちなみに顔も可愛い。はい、黙ります。
「当日、シフトの希望ある人は早めに教えてくださーい。」
その後当日までの作業の分担を少し決めたところで、終了のチャイムが鳴る。ガヤガヤと騒ぎはじめた廊下と共に、ホームルームも幕を閉じた。花村さんはそのまま廊下に出て行くから、少し小走りで後を追う。
「花村さん。」
「あ、高坂さん。どうしたの?」
振り向いた拍子にまた綺麗な黒髪が揺れて、思わず目が奪われた。いわゆる1軍グループに所属する花村さんだが、彼女は基本的に落ち着いていて周りの話を笑顔で聞いているイメージが強い。1軍グループの子は苦手な子が多いが(おい)、彼女の事は苦手ではなかった。
「ごめん、私、文化祭出られなくて。」
「え!そうなんだ。」
「だから当日シフト入れないの、ごめんなさい。」
「そんなそんな。謝るような事じゃないよ。」
「その分事前準備は何でもするから、多めに割り振ってください。」
そう言ってペコリと小さく頭を下げれば、花村さんがフフッと笑う。
「ご丁寧にありがとう。承知しました。」
なんて言っておどけて彼女もペコリとお辞儀をするから、思わず笑ってしまった。
「そっか、でも最後だから、ちょっと残念だね。」
「・・・そうだね。」
「あ、高坂さん、全然残念って思って無さそう。」
「そんなことないよ。」
「冗談冗談。なにか予定あるの?」
「・・・そう、ちょっと家族の予定があって。」
「あ、ごめん。聞く事じゃないよね。全然、気にしないでね。」
ごめんごめん、と眉を下げて謝ってくれるから、大きく首を振った。そのまま彼女は教務室に用があるから、と手をひらりと振って廊下を進んでいった。私も教室へ戻って帰宅の準備をする。
鞄を片手に教室を出て、真っすぐ玄関を出た。今日は金曜日。金曜日は部室には寄らないで直帰すると決まっている。桜の見頃は先週で、もう既に散りかけていた。でも私は散りかけの桜も嫌いじゃない。少し見上げながら、ゆっくりと通学路を歩いた。
ガラガラ、と地学室のドアを開ける。誰もいないだろうと思ったなのに、中には既に珍しく海老名が座っていた。
「なんでいるの?」
「え、第一声それはひどくない?」
「だって私の方が大体早いから。」
「それはそうだ。」
海老名はダラーっと机に体重を預けて、両手でスマホをいじっていた。ゲームでもしているのだろう。そういえば、最近はサッカーゲームにはまってると言っていたな。
「どう、文化祭の準備は。」
「ん!順調順調。なんかさワクワクするよね。」
「え、早くない?あと1か月くらいあるけど。」
「俺イベントごと好きなタイプだから。」
「絶対遠足の前の日とか寝れなかったタイプでしょ。」
「いやいや、寝れなかったんじゃなくて寝るつもりがなかっただけ。」
「変な見栄の張り方すんなアホ。」
机をはさんで海老名の正面のイスに腰かけて、読みかけの本を開く。
「あれ、この前のよくわからんミステリー小説は?」
「読み終わった。」
「面白かった?」
「よく分からんかった。」
「なんだよそれ。」
スマホを両手でいじったまま、海老名はケラケラと笑う。
そのまま海老名はゲームを、私は読書を。少し静かな時間が流れる。
季節は4月下旬。まだ夏は感じないけれど、それでも温かい陽気が続いていた。窓の外には綺麗な夕焼けが広がっていて、差し込む光が少し眩しい。少しだけ開いている窓から風が吹き込んできている。チラリ、と視線を挙げれば、彼の長めの前髪が陽の光に照らされてゆらゆらと揺れていた。
少し、ほんの少し、見つめてしまっていたのだろう。
「ん?なに、何か付いてる?」
「・・・いや、相変わらず鬱陶しい前髪だなって。」
「やめろ急な悪口。」
パッと海老名と目が合ってしまって、逸らすことも出来ずにでも口だけは動いた。ゆっくりと瞬きをして視線を本に戻す。自然に、自然に。彼は大して気にした様子もなく、そういえばさ、と口を開く。
「先輩、鈴あげたい人いないの?」
「鈴?」
「文化祭の。」
「あ、あったねそういえばそんなの。」
文化祭で行われるイベントの1つに、『鈴交換』というものがある。その名の通り、恋人や好きな人と鈴を交換するのだ。男の子が青、女の子がピンクの鈴が事前に配られて、文化祭中に交換すると恋が成就したり、恋人と長続きするのだとか。まあ、ありがちなイベントだ。
「え、なになに?恋バナする?エビナクンハスキナヒトイルノー?」
「・・・話すのやめた。」
「ごめん、うそうそ。」
不貞腐れたように口を尖らす海老名はいつの間にかスマホゲームをやめていて、机に突っ伏して私の事を少し見上げていた。一瞬目が合って、私は本に視線を戻す。
「海老名は?あげたい人いるの?」
私の質問に彼は少しうーん、と唸ってから、そっぽを向いて小さな声で呟く。
「いるよ。」
「声小さ。」
「うるさいなあ。」
「ていうか、耳赤いけど。どんだけピュアなんだよ。」
「もう先輩!シャラップ!!」
「ヘイヘイ。」
どうしたって海老名の事をからかいたくなってしまう私。ついに怒られてしまった、反省反省。だっていつだって彼の反応は真っすぐで面白い。私には無いものを彼はたくさん持っている。
「文化祭で渡せるといいねえ。」
「うーん、どうだろ。」
「大丈夫、渡せるよアンタなら。」
不意に、海老名が静かになったのが分かった。どうしたのかと彼の方を見れば、彼はポカーンと効果音が聞こえてきそうな顔で私を見ていた。
「え、なに?」
「いや、なんでそう、断言してくれるかなあ、と。」
「え、だってアンタいい子だから。」
「・・・先輩、俺の事小学生かなんかだと思ってねえ?」
なんて言いながらも少し嬉しそうに笑うから、なんだか私が照れてしまって慌てて本で口元を隠した。本当に犬みたいだ、しっぽが揺れているのが見えてきそう。・・・うん、ゴールデンレトリバーだ、ゴールデンレトリバー一択。なんて勝手に彼の犬種を決めていれば(?)、不意に海老名が私の顔を覗き込む。
「なんか先輩、顔色悪い?」
「・・・そんなことないよ。」
「ただでさえ白いのに、今日は加えて青っぽい。」
「表現独特過ぎるだろ。」
「体調悪くないならいいんだけど。」
「全然元気だよ。まあ強いて言うなら寝不足ではあるかも。ほら、テストあるでしょ。」
「グッ・・・!」
「そんなダメージ食らう?」
そう、楽しい文化祭の前にはテストがあるのだ。なぜこの時期にあるのかは謎だ。高校の七不思議の一つ。ちなみにいつからこの学校にいるのかも年齢も何もかもが謎に包まれている私の担任の先生も七不思議のひとつだ。少し寝不足気味なのは事実で、ふああ、と欠伸がこぼれた。そんな私を見て、海老名が急に私に右手を伸ばす。
「ね。手、出して。」
なんで、と口に出す前に海老名が私の左手に触れた。そのまま彼は、黒いマジックの先を私の手の甲に当てる。少しくすぐったくて、インクの匂いが鼻について、でも私の視線は彼の横顔から動かなかった。まつげ、長。なんて、そんなことを思っていた。
「せんぱいにも、花丸あげる。」
私の手を放して、海老名がそう言って笑う。左手の甲を見れば、そこには不格好な花丸があった。バランスが悪くて、やたらでかくて、でも大きな大きな花丸。
「・・・どうも。」
「嬉しい?」
「コイツ、油性ペンで書きやがったなと。」
「ごめんなさい。」
「ウソウソ、ありがとう。」
思わず笑ってしまったわたしに、海老名は少し驚いたように目を開いた。
「珍しい、笑った。」
「いや珍しくはないだろ。」
「珍しいよ。そうやってフフッて笑うの。」
「フフッてなんだよ。」
海老名にツッコミながらも、手の甲の花丸を何度も見つめてしまった。小さい頃、学校の先生が書いてくれる花丸が好きだった。その先生はテストの点数に関係なく、花丸を付けてくれた。小さな事だけど、私はそれがとても嬉しくて、先生の赤ペンの跡を何度も指でなぞった。
「私、花丸好きなんだよね。嬉しいじゃん何か。」
「嬉しいね。確かに。」
「だからさ、皆にもあげたい。生きてるだけで偉いよ凄いよ、満点花丸だよって。」
「・・・先輩って、意外と愛にあふれてるよね。」
「それは褒めてんの?馬鹿にしてる?」
「褒めてる褒めてる。」
窓の外は気づけばもう暗くなり始めていた。読みかけの本や机の上に広げてしまった物を片付けていれば、海老名が私のスケジュール帳を指さす。
「それいつも持ち歩いてるよね。」
「私、スケジュール管理は手帳派なの。」
「へえ、スマホの方が楽じゃない?」
「楽かも。でも、なんか、好きなんだよね。」
へえ、と相槌を打ちながら彼が私のスケジュール帳に手を伸ばすから、「ちょちょちょ!!」と出したことの無い間抜けな声を出してしまって、彼も慌てて手を引っ込めた。
「えっえっえ、ごめん。そんなに嫌だった?」
「ごめんごめん、嫌とかじゃないんだけど。」
慌ててスケジュール帳を鞄に突っ込む。俺に触られたくなかった・・・?なんて海老名が本気で悲しそうな顔をしていたから慌てて謝った。違う違う、そんなわけではないんだけれど。
「ごめん。でもね、アンタにだけは見られたくない。」
そう言えば彼が更に眉毛をヘの字に下げたから、また慌てて謝る。違うんだって、違くないけど違うんだ。でもうまく説明出来るはずもなくて結局理解してもらうのを諦めた。帰りにコンビニで高めのアイスを奢ってあげて、海老名の眉毛はやっと元の位置に戻った。
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