物理事変

シュレディンガーのうさぎ

文字の大きさ
上 下
1 / 26

y

しおりを挟む
(あー、眠い……)
そう心の中で呟いて大きくあくびをする。ついでに大きな伸びをしていると、俺の斜め左に向かい合うように席を構えているヤマモトにくすりと笑われた。
中間テストが終わり、教師たちはテストの採点に追われていた。俺もその例に漏れず、各クラスから集められた解答用紙の山に囲まれていた。
(テストって、問題作るのは楽しいけど丸つけるのはだるいんだよな……)
山のように積み上がった解答用紙を見てため息をつく。毎回採点をやり始めるまでが時間がかかって仕方ない。興味があることならコンマ一秒かかることもなく行動に移せるが、反対に嫌なことをするときにはやる気を出すまでに時間がかなりかかるのだ。面倒くさがりやな自分がそういう人間であることは今までの人生経験から百も承知だった。
ちらりと左隣を見れば、化学教師のタカハシが黙々とテストの採点をしていた。何に対しても真面目に取り組む彼らしいと横目で観察する。
ふと視線を感じて顔を上げれば、教頭がこちらを見ているのが見えた。いつもと同じ穏やかで優しそうな顔をしているものの、その瞳は暗にサボるなと言っている。教頭は怒らせるとかなり怖いため、仕方なく俺は赤ペンを手にとり、採点を始めることにした。

一クラス分ほどを丸付け終えて、再び伸びをする。外を見れば、日が落ちてかなり薄暗くなっていた。採点を始める前は大勢いた教師たちの数も大分まばらになっている。
(家に持ち帰って丸つけるか……)
そう思い立ち上がって、物理室に鞄を置いてきたのを思い出す。昇降口から遠くなる方向にわざわざ行きたくはないが、さすがに置いて帰るわけにはいかない。
(仕方ねえな、取りに行くか)
小さく舌打ちをしてから椅子の背もたれにかけられた上着を羽織る。そして職員室を出て物理室に向かった。
物理室は職員室より一つ上の階にある。静かな廊下に響く自分の足音を聞きながら、俺は物理室の鍵を手持無沙汰に右手でくるくると回した。
ふと、薄暗い廊下の真ん中で黒い人影が動いたのが見えた。
(ん?)
不思議に思って目を細める。一体こんな時間に誰がここにいるのだろう。
物理室の近くには化学室や生物室もある。化学教師か生物教師のどちらかがいるのかとも思ったが、どうやら違うようだった。
小走りで近づき目を凝らすと、それが妙な格好をした男であることに気づいた。そいつは黒いマフラーを首元に巻き、頭にヘッドフォンをつけていた。男にしては長い黒い髪の毛を後ろで一つにまとめている。
私服の生徒かとも思ったが、最終下校を既に過ぎた校内に残っているはずもない。
(不審者か?)
そう思い、慎重にそいつに近づくと声をかけた。
「おい、お前誰だ?」
そう不審げに話しかけるとそいつがこちらに振り返った。男の鋭い黒い瞳が俺のことを捉える。
しばらく俺とそいつがにらみ合うようにお違いのことを見つめた。何も言わないそいつに焦れて再び口を開こうとして、そいつが手に持っているものに目が行く。それを見て、俺は思わず目を見開いた。それは、最近教頭に頼み込んで購入した真空放電管だった。



「おい、なんでお前がそれを持ってるんだ?」
物理室は使うとき以外は鍵をかけている。解錠用の鍵は今俺の右手にある。それなのに何故、そいつが物理室内に保管してある真空放電管を持っているのだろう。
「……」
男は相変わらず何も言わず無感情な瞳で俺のことを見つめている。口元がマフラーで隠れているため、目元からしか表情は読み取れないが、その瞳からも何も情報は得られなかった。
俺が再び何かを言う前に、そいつが急に方向転換をし、駆け出した。
「おい、待て!」
俺もそいつを追いかけて走り出す。物理室の横を通った際に扉を引っ張ってみたら、すんなりと開いた。どうやらあの男がピッキングでもして開けたらしい。
私立といえども、うちの高校のお金のまわりはあまりよくない。中々実験器具にお金を割いてもらえないのが現状だ。その中で、生徒たちの理解を深めるためになんとかお金を捻出して買った真空放電管なのだ。盗られて泣き寝入りをするわけにはいかない。
「絶対に取り返してやる!」
俺は男を見失わないように全速力で後を追いかけた。廊下を走ってはいけないなんてルール、今は守ってられない。とにかく、奴を捕まえられるよう追いかけ続けた。幸い高校時代はサッカー部に入っていたため、走るのには慣れている。
とはいえ、最近はめっきりスポーツをしなくなり、大分体力が落ちていたようで次第に息が上がってきた。太ももや喉が痛くなってきたとき、前を走っていた男が近くにあった教室の中に飛び込んだ。
(しめた!)
教室の中に追い込めばこっちのものだ。俺は男のあとに続いて教室に飛び込む。
そいつは特に隠れもせず、俺がここに来るのを待ち構えていたかのように、こちらを向いて立っていた。
「おい、その真空放電管を返してもらうぞ」
そう言って手を伸ばし、そいつに近づく。男は何も言わず俺のことを見つめたまま指を鳴らした。
それに呼応するかのように、突然空間がねじ曲がって、ぽっかりと黒い穴が現れた。思いがけない出来事に思わず動きを止める。
(なんだ、これは?ブラックホールか?)
まるで小さなブラックホールがその場にあって、すべての光を吸い込んでいるかのようにそこだけ真っ暗だった。男は面食らった俺を横目にその穴の中に入っていく。
「おい、待てって!」
そいつを引き止めようと手を伸ばしたが遅かった。男は姿を消し、俺の目の前には黒い穴が開いているだけだ。
(なんなんだ、これは……)
警戒して遠巻きにそれを見ていると、急にその穴が俺を吸い込み始めた。
「うわ!?」
慌てて近くにあった机を掴む。しかし、力は指数関数的に強くなっていき、ついに俺の足が宙に浮いた。
(吸い込まれる!)
机を掴む手が滑り、手が離れ体が空中に浮かぶ。なすすべもなく、俺はその中に吸い込まれてしまった。

気がつけば、俺は先程までいた校舎の中ではなくどこか知らない場所に立っていた。あちこちを見回すが地面が露出した道以外には森と茂みしかない。辺りには俺以外誰もいないようで、風で葉が揺れる音の他には何も聞こえてこなかった。
(なんだ、ここは……)
何が起こったか分からずぼうっとしていると、とさっと何かが下に落ちた音がした。音がした方に振り返れば、先程の男が着地をしたような姿勢で座り込んでいた。そして、俺を見ながら立ち上がる。
俺に見せつけるように真空放電管をくるくると余裕げに回す男に苛立ちが増す。
(なめやがって……)
俺が追いかけようとしたのを察したように、そいつがこちらに背を向けて走り出した。
(あのこそ泥!)
俺は心の中で悪態をつくとそいつを追ってまた走り出した。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

A happy drive day!

シュレディンガーのうさぎ
キャラ文芸
事故発生件数の多い都道府県、愛知県。 そこでは『車なんでも相談所』を営む関朝陽、警察本部の交通捜査課で働く凪愛昼、自動車学校に勤務する要叶夜が暮らしていた。 また、朝陽と愛昼は『車の声が聞こえる』という少し変わった能力を持ち、車と会話することが出来る。 人間の荒い運転に嫌気がさした一部の車が良からぬことを企むなか、三人はそれぞれの立場から心に傷を負った車達と関わり合いながら『人間と車にとってよりよい社会』を模索していく。 *この話は一部の県名や地名、建造物の名前等を除き、全てフィクションです。登場する人物や交通事故等は架空のものであり、実在のものとは関係ありません。

家出したとある辺境夫人の話

あゆみノワ@書籍『完全別居の契約婚〜』
恋愛
『突然ではございますが、私はあなたと離縁し、このお屋敷を去ることにいたしました』 これは、一通の置き手紙からはじまった一組の心通わぬ夫婦のお語。 ※ちゃんとハッピーエンドです。ただし、主人公にとっては。 ※他サイトでも掲載します。

公主の嫁入り

マチバリ
キャラ文芸
 宗国の公主である雪花は、後宮の最奥にある月花宮で息をひそめて生きていた。母の身分が低かったことを理由に他の妃たちから冷遇されていたからだ。  17歳になったある日、皇帝となった兄の命により龍の血を継ぐという道士の元へ降嫁する事が決まる。政略結婚の道具として役に立ちたいと願いつつも怯えていた雪花だったが、顔を合わせた道士の焔蓮は優しい人で……ぎこちなくも心を通わせ、夫婦となっていく二人の物語。  中華習作かつ色々ふんわりなファンタジー設定です。

だってお義姉様が

砂月ちゃん
恋愛
『だってお義姉様が…… 』『いつもお屋敷でお義姉様にいじめられているの!』と言って、高位貴族令息達に助けを求めて来た可憐な伯爵令嬢。 ところが正義感あふれる彼らが、その意地悪な義姉に会いに行ってみると…… 他サイトでも掲載中。

後宮の棘

香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。 ☆完結しました☆ スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。 第13回ファンタジー大賞特別賞受賞! ありがとうございました!!

髪を切った俺が芸能界デビューした結果がコチラです。

昼寝部
キャラ文芸
 妹の策略で『読者モデル』の表紙を飾った主人公が、昔諦めた夢を叶えるため、髪を切って芸能界で頑張るお話。

側妃契約は満了しました。

夢草 蝶
恋愛
 婚約者である王太子から、別の女性を正妃にするから、側妃となって自分達の仕事をしろ。  そのような申し出を受け入れてから、五年の時が経ちました。

羅刹の花嫁 〜帝都、鬼神討伐異聞〜

長月京子
キャラ文芸
自分と目をあわせると、何か良くないことがおきる。 幼い頃からの不吉な体験で、葛葉はそんな不安を抱えていた。 時は明治。 異形が跋扈する帝都。 洋館では晴れやかな婚約披露が開かれていた。 侯爵令嬢と婚約するはずの可畏(かい)は、招待客である葛葉を見つけると、なぜかこう宣言する。 「私の花嫁は彼女だ」と。 幼い頃からの不吉な体験ともつながる、葛葉のもつ特別な異能。 その力を欲して、可畏(かい)は葛葉を仮初の花嫁として事件に同行させる。 文明開化により、華やかに変化した帝都。 頻出する異形がもたらす、怪事件のたどり着く先には? 人と妖、異能と異形、怪異と思惑が錯綜する和風ファンタジー。 (※絵を描くのも好きなので表紙も自作しております) 第7回ホラー・ミステリー小説大賞で奨励賞をいただきました。 ありがとうございました!

処理中です...