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「ニトロは!?ニトロは今どこにいるのよ?」
トルエンが俺の肩を掴んで揺さぶるように尋ねる。
「え?」
「アイツ、昨日の昼から居場所がわからないのよ!アタシもあちこち探してるんだけど、見つからなくて……。アンタ、ニトロがどこに行ったのか知らないの!?」
話が読めずきょとんとする俺に焦れたようにトルエンが詰め寄る。
「ねえってば!」
「やめなさい」とカドミウムがトルエンを俺から引き離した。
「少し落ち着きなさい、トルエン。見苦しいですよ」
そうたしなめるように言われ、トルエンが顔をしかめたまま苛立ったように息を吐いた。
「ニトロが行方不明になってる……?」
まさか、俺と一緒に歩いていたあのときに誰かに連れ去られたのだろうか。だったら俺に何も言わずに突然いなくなったのも頷ける。しかし、もしそうだったら一体誰に?
俺はトルエンにニトロと出会ったときのことから別れたときのことまでを話した。
話を一通り聞いてトルエンが口を開く。
「ニトロがアンタをシアンタウンに案内しようとした?そんなことするわけないじゃない」
トルエンがそう断言する。「だよねー」と黄リンも頷いた。
「ニトロはアタシよりも人間が嫌いなのよ。『人間に会ったら絶対に殺してやる』とまで言ってるんだから」
「そうなの?」と目を丸くする。まさかそこまで彼が人間のことを憎んでいたとは知らなかった。
「それなら、どうして俺のことをシアンタウンに入れてくれたんだろう?」
不思議に思って首をひねる俺をカドミウムが見た。
「ニトロは、あなたを青酸の森に置き去りにして殺すつもりだったのでしょう」
カドミウムに言われ、俺は目を見開く。
「本当なら、あなたはあそこで死んでいるはずだった。けれど、あなたは持ち前の行動力と冷静な判断力で青酸の森を速やかに脱することが出来た。ニトロにとってはそれが誤算だったのでしょうな」
カドミウムの言葉にトルエンは考え込む。
「じゃあ、アンタを置き去りにした後ニトロはどこに行ったっていうのよ?」
トルエンの言葉に俺もカドミウムも黄リンも考え込んだ。
「……もしかしてさ、ホスゲンに誘拐されちゃったんじゃない?」
黄リンがそう声を潜めて言う。
「誘拐?」
俺が聞き返すと神妙な顔で黄リンが頷いた。
「ホスゲンはそもそも、シアンタウンに人間を入れたくなかったはずだよ。だから、殺すつもりだったとしても人間をシアンタウンに踏み込ませたニトロに怒って、誘拐しちゃった……とか」
黄リンの言葉にトルエンが動揺した。
「そんな……ニトロ……」
そう言って体操座りをしたまま膝を抱く。彼女の瞳には涙が浮かんでいた。
「まだそうと決まったわけではないでしょう」とカドミウムが彼女を慰めるように言った。
「大体、もしそうだとしたら、人間であるあなたに会った瞬間にホスゲンは息の根を止めていることでしょう。彼女があなたを生かしたのは、あなたにわずかに興味があったからです。そんなホスゲンがあなたをシアンタウンに入れたニトロを誘拐するはずがありません」
カドミウムの言葉に黄リンが腕を組み、首をひねった。
「じゃあニトロはどこに行っちゃったんだろ?」
結局答えは出ずに最初の問いに戻ってきてしまって、俺たちは考え込んだ。四人で円を描いて首をひねっているのはかなり異様な光景だったのだろう。
「あ、あの……」
遠慮がちに声をかけられて振り返れば、硫化水素と硫酸が心配そうにこちらを見ていた。
「皆してどうかしたの?とても難しそうな顔をしているけれど」
そう言って頬に手を当て、硫酸が心配そうに言う。
「あ、えっと……」
ニトロが昨日の昼から行方不明になっていることを告げると、二人が驚いた顔をし、その後悲しそうな顔をした。
「そう……ニトロのことは心配だけど、きっと大丈夫よ。あの子は強い子だから」
そう言って硫酸が励ますようにトルエンの頭を撫でた。
「そうだ、皆お腹がすいたでしょう?家に帰ってホットケーキを焼いて食べましょう」
そう重い空気を振り払うように言った硫酸の言葉に黄リンが打って変わって顔を輝かせる。
「わーい!硫酸のホットケーキ!」
「ちょっと、アンタ!変り身早すぎるわよ!」とトルエンが目を三角にして起こる。
「でも、トルエン。お腹がいっぱいになったらいい考えが浮かぶかもしれないよ?」
そう硫化水素に寄り添うように言われ、トルエンは口を尖らせると渋々といったように頷いた。どうやらシアンタウンの住民同士は、皆知り合いで仲がいいらしい。
「それじゃあ決まりね。さあ、帰りましょう」
そう言って歩き出す硫酸の後ろを俺たちは続いた。

辺りが茜色に染まった頃、ホットケーキが焼き上がり、台所に甘い匂いが広がった。六人でダイニングテーブルを囲みホットケーキを味わっていたとき、水銀が家に帰ってきた。いつもより多い人数にかすかに面食らったような顔をする水銀にカドミウムが声をかける。
「青酸様には会えましたかな?」
「ああ」と水銀が頷く。
「明日の朝、会う手筈になった」
「そうですか」とつぶやき、カドミウムが紅茶をすすった。
「水銀、おかえりなさい」
俺を見て水銀が口を開く。
「ああ。……人間。明日、お前には青酸という化学物質に会ってもらう。そいつにお前のことを認めさせれば、他の化学物質はお前に手出しが出来なくなる」
「分かった」と俺が頷いたのを見届けてから水銀がトルエンを見た。
「珍しい客がいるな」
「ふふ、そうでしょう」と硫酸がトルエンの頭を撫でる。撫でられて恥ずかしそうにも嬉しそうにも見えるトルエンが口を開いた。
「水銀、アンタ、ニトロがどこにいるか知らない?」
トルエンの質問に水銀が首を振る。
「知らないな。ニトロに何かあったのか?」
「人間と青酸の森で別れてから行方不明になっちゃったんだって」
黄リンの言葉に水銀が腕を組んで考え込んだ。
「ニトロが行方不明になるとは妙だな。……まあいい。研究所にいるやつにニトロを見たやつがいないかどうか聞いてみてやる」
「ありがと」とトルエンがうなだれながら言った。
どうやらトルエンとニトロはとても仲がいいらしい。それでは確かに、ニトロと連絡が取れない今の状況は非常に気がかりに違いない。
「俺も探すのを手伝おうか?」
そう言うとトルエンが驚いたように顔を上げ、俺を見た。
「仲がいい友人が行方不明なんてすごく心配だよね。ニトロには親切にしてもらった借りがあるから、俺も彼を探すのを手伝うよ」
そう言うとトルエンが信じられないものを見るかのように俺のことを見た。
「アンタ、さっきアタシに殺されかけたのよ?それにニトロにも。それなのに、どうしてそんなに親切にしてくれるの?」
そう言うトルエンに俺は微笑んでみせる。
「俺は君たちのことが好きで、仲良くしたいから。ただ、それだけの理由だよ。それに、大事な人が行方不明になって心配な気持ち、よく分かるから」
そう答えるとトルエンが目を見開いたあと、何かを考え込むように俯いた。そんな彼女を見てから水銀に声をかける。
「ねえ、水銀。何か俺に手伝えることはない?」
そう尋ねると水銀に首を横に振られた。
「お前はとにかくじっとしていてくれ。ニトロのことなら心配しなくていい。あいつが死ぬことは絶対にないからな」
確かにそれはそうかもしれない。そう思って少しほっとしていると
「いえ、絶対にないとは言い切れませんな」とカドミウムが重い口を開いた。
「ニトロが何かしらの影響で別のものに変化した際、彼は"死んだ"ことになります。化学地方での"死"は、その化学物質自体の存在が消えることと同義になります」
カドミウムの言葉を聞いてぞっとした。つまり、もしここにいる水銀が化学反応でも起こして別の化合物に変わってしまったならば、この世から水銀という元素自体が消えてしまうということだろうか。
カドミウムの言葉にトルエンが俯いた。
「まあ、彼の場合還元でもされない限りは無事でしょう。そもそも、ニトロは簡単に誰かにやられるような化学物質ではありませぬ」
「同感だな。むしろ、どこかに隠れて俺たちを心配させて楽しんでる可能性だってある」
カドミウムと水銀の言葉に「まあそうだけど……」とトルエンも頷いた。
ホットケーキを持ってきた硫酸にお礼を言ってから水銀が再び口を開く。
「まあ、とにかく今日は家に帰れ。研究所に寄りがてら送っていってやる」
水銀の言葉に「一人で帰れるわ」とトルエンが首を振った。そして立ち上がる。
「あら、おかわりはいいの?」
硫酸に尋ねられこくりとトルエンが頷いた。
とぼとぼと扉の方に歩いていく彼女を硫化水素が心配そうに見た。俺も、トルエンに声をかけようと口を開く。
「トルエン」
そう声をかけるとゆっくりとトルエンが振り向いた。
「ニトロ、早く見つかるといいね」
「……そうね。ありがとう」
アルカリ湖で会ったときとは比べ物にならないほど元気がなくなってしまったトルエンを見て、胸がひどく締め付けられるのを感じた。

夜になり、電気の消えた部屋でベッドに仰向けになって寝転がる。月明かりでぼんやりと浮かび上がった天井を見つめながら俺は考えた。
(明日になったらまずは青酸様に会いに行って、俺のことを認めてもらって、その後水銀にコイルさんに会うよう勧めてみよう……)
青酸に認められれば俺に手出しをしてくる化学物質はいなくなると水銀やカドミウムは言っていた。それが本当かどうかは分からないけれど、今は信じてみるしかない。
(でも、青酸様を認めさせるって、どうすればいいんだろう……)
俺が、ここにいる化学物質たちのことを大切に思っていることを伝えればいいのだろうか?それともシアンタウンの未来を良くするための政策をこの場で述べろとでも言われるのだろうか?
いろいろな考えが頭の中に浮かんでは消えて行った。そんなことをしているうちに程よい薄暗さと静寂のお陰で睡魔が襲ってきて、俺は気を失うように眠りについた。
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