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スイ
〈14〉
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バイクはなにも言わなかった。しかし、その体から気力や感情などのすべてが抜け落ちて流れ出ていくのを感じ取れた。一瞬、辺りの時間が止まったかのように感じられた。
男がうつむいた。そしてやるせなく首を振った。
バイクは現実を受け入れようとする気持ちとそれを拒否する気持ちの間で揺れ動いているようだった。全てを理解し叫びが溢れてくる時をいまかいまかと待つのは苦痛なことだった。
バイクは少したってからさめざめと泣き出した。何か言うことも、泣き叫ぶこともなかった。彼女は静かに涙をこぼしていた。感情を爆発させることなく嘆くのを見るのは、男が言ったように非常に心苦しいものだった。
男は顔を歪めてその様子を眺めていた。彼には愛昼以上にバイクの気持ちが痛いほど分かるのだろう。
愛昼はバイクの前に静かにしゃがみこんだ。そして彼女の顔を覗きこむ。
「お願い。昨日、何があったかを話して欲しいの」
愛昼が懇願するように言った。
「あなたの運転手さんはもう証言することができないわ。このままだとあなた達は悪者にされてしまうかもしれない。私はあなた達を助けたいの」
バイクがはっとして顔をあげた。愛昼は涙に濡れたその顔をじっと見つめる。
「お願い、真実を教えて」
少しだけ傾いた太陽が、駐車場の中まで光を落とした。
「……昨日、私たちはいつものように家を出て職場に向かっていました。いつもの道、いつもの風景……。違っていたのは、いつもよりも私の速度が速かったことです」
バイクは鼻をすすりながら続ける。
「しばらく走ったあるとき、突然後ろの車がパッシングをしてきました。雅人さんが体を強ばらせたのが分かりました。私はよく分からなかったのですが、何か嫌な予感がして、それで……」
愛昼は顔をしかめる。
「パッシングは何回も続きました。それが終わったかと思うと今度は速度をあげて私達に近づいてきました。雅人さんは後ろの車から逃げるように左折や右折を繰り返しましたが、後ろの車は離れることなくずっとついてきました」
あおり運転。愛昼はそう心の中で呟いた。
「雅人さんが尋常でないほど焦っているのが私には分かりました。彼はいつもとは違うひきつった顔をしていました。私は何がなんだか分かりませんでしたが、とにかく後ろの車の挙動は不快で恐怖を感じました」
しゃくりあげながら先を続ける。
「その後もパッシングは続きました。他にはクラクションもです。……色々なことを言われました。内容はよく思い出せませんが、とにかく怖くて暴力的な言葉でした。私は恐怖でがたがた震えていたけれど、止まるわけにはいかないと必死に自分を奮い立たせていました。雅人さんがいつもより強くグリップを握っているのが分かりました」
「それがどれくらい続いたか私には分かりません。突然後ろに強い衝撃を感じて、私は前に突き飛ばされました。固い道路に投げ出されて、気づいたときには目の前に雅人さんが倒れていました」
バイクが小さく震えたのが分かった。
「私は何度も名前を呼びましたが、雅人さんに私の声が聞こえるはずがありませんでした。伸ばす手があるわけもなく、私はただ見ていることしか出来ませんでした。雅人さんは、あんなに苦しんでいたのに……。……ごめんなさい、雅人さん。助けてあげられなくて、ごめんなさい……」
震える声でバイクは呟いた。「ごめんなさい」。それの繰り返しだった。
愛昼は目の奥から込み上げてくる熱いものを押さえ、口を開いた。
「ありがとう。辛いことを思い出させて、ごめんなさい」
そう言ってバイクを思い切り抱き締めた。端からみたら妙な光景であったが、愛昼は人目も気にせずぎゅっとバイクを抱き締めていた。
バイクはまだしくしく泣いていたが、次第にその声は小さくなり、いつしか寝息に変わっていた。
男がうつむいた。そしてやるせなく首を振った。
バイクは現実を受け入れようとする気持ちとそれを拒否する気持ちの間で揺れ動いているようだった。全てを理解し叫びが溢れてくる時をいまかいまかと待つのは苦痛なことだった。
バイクは少したってからさめざめと泣き出した。何か言うことも、泣き叫ぶこともなかった。彼女は静かに涙をこぼしていた。感情を爆発させることなく嘆くのを見るのは、男が言ったように非常に心苦しいものだった。
男は顔を歪めてその様子を眺めていた。彼には愛昼以上にバイクの気持ちが痛いほど分かるのだろう。
愛昼はバイクの前に静かにしゃがみこんだ。そして彼女の顔を覗きこむ。
「お願い。昨日、何があったかを話して欲しいの」
愛昼が懇願するように言った。
「あなたの運転手さんはもう証言することができないわ。このままだとあなた達は悪者にされてしまうかもしれない。私はあなた達を助けたいの」
バイクがはっとして顔をあげた。愛昼は涙に濡れたその顔をじっと見つめる。
「お願い、真実を教えて」
少しだけ傾いた太陽が、駐車場の中まで光を落とした。
「……昨日、私たちはいつものように家を出て職場に向かっていました。いつもの道、いつもの風景……。違っていたのは、いつもよりも私の速度が速かったことです」
バイクは鼻をすすりながら続ける。
「しばらく走ったあるとき、突然後ろの車がパッシングをしてきました。雅人さんが体を強ばらせたのが分かりました。私はよく分からなかったのですが、何か嫌な予感がして、それで……」
愛昼は顔をしかめる。
「パッシングは何回も続きました。それが終わったかと思うと今度は速度をあげて私達に近づいてきました。雅人さんは後ろの車から逃げるように左折や右折を繰り返しましたが、後ろの車は離れることなくずっとついてきました」
あおり運転。愛昼はそう心の中で呟いた。
「雅人さんが尋常でないほど焦っているのが私には分かりました。彼はいつもとは違うひきつった顔をしていました。私は何がなんだか分かりませんでしたが、とにかく後ろの車の挙動は不快で恐怖を感じました」
しゃくりあげながら先を続ける。
「その後もパッシングは続きました。他にはクラクションもです。……色々なことを言われました。内容はよく思い出せませんが、とにかく怖くて暴力的な言葉でした。私は恐怖でがたがた震えていたけれど、止まるわけにはいかないと必死に自分を奮い立たせていました。雅人さんがいつもより強くグリップを握っているのが分かりました」
「それがどれくらい続いたか私には分かりません。突然後ろに強い衝撃を感じて、私は前に突き飛ばされました。固い道路に投げ出されて、気づいたときには目の前に雅人さんが倒れていました」
バイクが小さく震えたのが分かった。
「私は何度も名前を呼びましたが、雅人さんに私の声が聞こえるはずがありませんでした。伸ばす手があるわけもなく、私はただ見ていることしか出来ませんでした。雅人さんは、あんなに苦しんでいたのに……。……ごめんなさい、雅人さん。助けてあげられなくて、ごめんなさい……」
震える声でバイクは呟いた。「ごめんなさい」。それの繰り返しだった。
愛昼は目の奥から込み上げてくる熱いものを押さえ、口を開いた。
「ありがとう。辛いことを思い出させて、ごめんなさい」
そう言ってバイクを思い切り抱き締めた。端からみたら妙な光景であったが、愛昼は人目も気にせずぎゅっとバイクを抱き締めていた。
バイクはまだしくしく泣いていたが、次第にその声は小さくなり、いつしか寝息に変わっていた。
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