52 / 68
52「Good smell《良い匂い》」
しおりを挟む新作パンの方向性は定まった。
けれど方向性だけだ。他には何にも決まっていないと言ってもオーバーではない。真実そうだから。
昨日はあれからも鮭フレークとクロワッサンで色々試してみたものの、最初のひと口の衝撃を超えるものは生まれなかった。
今日は仕事終わりにスーパーで色々と物色してみるとしよう。
「店長さん? あの――店長さん!」
「……あ、あぁごめん野々花さん、どうかした?」
「一次発酵入っていいか見てください!」
「うん、分かった。…………捏ね不足も捏ね過ぎもない、うん、ちょうど良いよ」
私の言葉ににっこり笑顔になる野々花さん。手慣れた手つきで手早く丸め直してホイロへと入れる。
「一次発酵を……三十八度、五十分……これで良し!」
すっかりホイロの操作もお手のものだ。
私が成形を済ませたパンも一緒にホイロに入れ、その他のパンの焼き上げも済ませていった。
昼ピークも無事に済み、二人が野々花さん作『会心のロールパン』を携え千地球へと出発したのを見送る最中、野々花さんがカオルさんへ『今日の店長さん、なんだかぼんやりしてるんだよ』なんて口にしてたのを耳にした。
いかんなこんな事じゃ。余計な心配かけちまう。
気を引き締めてカウンターに出たものの、やはり頭の奥底が色々考えてしまう。
新作パンに思いを馳せていた筈が、ぐるぐる回って劣才さんの事を考え始めていた。
喜多の父親であり組織のボス、喜多 劣才。
飄々とした性格ながら凄腕の殺し屋であり、喜多不動産の社長――ん? そういや喜多のやつが今は社長やってんのか。しょっちゅうこっちに来てもらってるが大丈夫なのか。いや、きっと大丈夫じゃないな。
パン焼きは完全に独学だが、殺しの技は劣才さんから教わった。
『ナイフや銃は返り血や硝煙の匂いがパン屋に向かない』なんて言って素手で仕留める技ばかり。変なところに気の回る不思議な人だった。
いっしょに暮らした事はあまりない。
我が子のようにって事は全くなかったが、私の糞みたいな幼少期から救い出してくれた恩人には違いない。
ぼんやりと目を閉じ、死んだ劣才さんに思いを馳せてひっそり黙祷をしていると、からんころんとドアベルが鳴った。
「おっさん、やっぱまた客いねえじゃん」
……はぁ、来るよな、そりゃ。
ぶん殴って出入り禁止にできればどんなに良いか。
コイツがどんなヤロウでも、いま私と彼の関係はただのパン屋とそのお客。そんなこと出来る筈もない。
ってどんな関係でもいきなりぶん殴っちゃこちらが罪に問われちまうな。
「いらっしゃいませ。さっきまでは忙しくしてたんですよ」
「はは、また強がってら」
チャラく笑った美横 熊二が、トレイとトングを手にして棚のパンを物色し、ベーコンエピひとつをトレイに乗せて言いにくそうに言った。
「あ、あ~、あのさ、当てにしてた金が入ってきそうにねえんだよ」
「……はぁ」
内縁の妻の保険金だか遺産だかの件だな。そんなこと私に言ってどうするつもりだ?
「二回目の来店サービス――って訳にいかねえ?」
メニューを指差しそんな事を言ってのけた。
よっぽど金がないらしいな。そんな高いもんじゃないってのに。
「今回きりですよ」
今度はない。というかもう来るなクソヤローが。
私の美味くもないコーヒーを淹れ、エピの代金を貰って言う。
「悪いんですがイートインを使うなら手早く食べてもらって良いですか?」
「へっ、分かってるって。忙しくなるってんだろ?」
早く食え。早く食って出てけ。ほれ、早く、むしゃむしゃって食え。
「こないだ知り合い探してるって俺言ったじゃん?」
クソどうでもいい。早く食って帰れ。
「あいつさ、知らない間に死んでんだってよ。一人カラオケ真っ最中ん時だって。笑っちまうぜ」
カラオケデブは普通に変死扱いとして警察は上げている。喜多が確認済みだ。
仮にその内容を一般人が覗けたとしても殺されたとは思わない筈だが、それを覗いたのが『そういう』者であれば定かではない。
この美横 熊二がどうかは…………
くそ。黙って食ってりゃ良いものを余計な話をしやがるから――私の願いも虚しくドアベルが鳴る……
「ただいまもど――」
「カオルさん! ちょっと二人でおつかい行って来て下さい!」
開きかけた扉を制し、中から顔だけ出してそう言った。むちゃくちゃ挙動不審だがそんなこと気にしてる場合じゃない。
「おつかい? なに買って来たら良いんです?」
「あ、えーっと、その、あ、鮭買ってきてもらえません? スーパーで」
「ごっそさん。やっぱおっさんのエピ旨えわ――ってなにごそごそやってんの。邪魔」
どんっ、と背を押され、たたらを踏んで店の外へ出ちまって――
「あ」「きゃ」
――しまった、カオルさんの胸に抱き着いてしまった。
良い、匂いが、する。
なんて言ってる場合じゃない。やばい。
0
お気に入りに追加
31
あなたにおすすめの小説
黒龍の神嫁は溺愛から逃げられない
めがねあざらし
BL
「神嫁は……お前です」
村の神嫁選びで神託が告げたのは、美しい娘ではなく青年・長(なが)だった。
戸惑いながらも黒龍の神・橡(つるばみ)に嫁ぐことになった長は、神域で不思議な日々を過ごしていく。
穏やかな橡との生活に次第に心を許し始める長だったが、ある日を境に彼の姿が消えてしまう――。
夢の中で響く声と、失われた記憶が導く、神と人の恋の物語。
極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~
恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」
そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。
私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。
葵は私のことを本当はどう思ってるの?
私は葵のことをどう思ってるの?
意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。
こうなったら確かめなくちゃ!
葵の気持ちも、自分の気持ちも!
だけど甘い誘惑が多すぎて――
ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではPixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?
すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。
「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」
家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。
「私は母親じゃない・・・!」
そう言って家を飛び出した。
夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
イケメン彼氏は年上消防士!鍛え上げられた体は、夜の体力まで別物!?
すずなり。
恋愛
私が働く食堂にやってくる消防士さんたち。
翔馬「俺、チャーハン。」
宏斗「俺もー。」
航平「俺、から揚げつけてー。」
優弥「俺はスープ付き。」
みんなガタイがよく、男前。
ひなた「はーいっ。ちょっと待ってくださいねーっ。」
慌ただしい昼時を過ぎると、私の仕事は終わる。
終わった後、私は行かなきゃいけないところがある。
ひなた「すみませーん、子供のお迎えにきましたー。」
保育園に迎えに行かなきゃいけない子、『太陽』。
私は子供と一緒に・・・暮らしてる。
ーーーーーーーーーーーーーーーー
翔馬「おいおい嘘だろ?」
宏斗「子供・・・いたんだ・・。」
航平「いくつん時の子だよ・・・・。」
優弥「マジか・・・。」
消防署で開かれたお祭りに連れて行った太陽。
太陽の存在を知った一人の消防士さんが・・・私に言った。
「俺は太陽がいてもいい。・・・太陽の『パパ』になる。」
「俺はひなたが好きだ。・・・絶対振り向かせるから覚悟しとけよ?」
※お話に出てくる内容は、全て想像の世界です。現実世界とは何ら関係ありません。
※感想やコメントは受け付けることができません。
メンタルが薄氷なもので・・・すみません。
言葉も足りませんが読んでいただけたら幸いです。
楽しんでいただけたら嬉しく思います。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる