推しにも彼にも私にも

音はつき

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「黒沢もう内定決まったの⁉」
「内定っつーか、友達と起業したんだよ」
「ええええええっ⁉」

 あっという間にオープンを迎えた沖縄料理屋二号店。いかんせん、路地を入ったところにあるため、オープン当初から大盛況!というわけにはいかず、わたしは黒沢とふたりでビラ配りをしていた。
 この二号店を出すにあたり、黒沢はじめうちのスタッフたちは、倉間酒店の主があのタキくんであることを知った。ところが浮足立ったのは一部のスタッフのみ、しかも最初だけで、今では倉間酒店のタキさんという立ち位置で受け入れることができている。とてつもないファンでなければ、そういうものなのかもしれない。
 たしかにわたしだって、日本代表のサッカー選手が引退してご近所にいますって言われたら、やはりそわそわするのは最初だけのような気もする。

 それにしても、まさか黒沢が起業をしただなんて。もともと仕事のできそうな男だなと思ってはいたけれど、ここまでとは思ってもみなかった。
 話を聞くと、マネジメントやプロデュース系のなんちゃらかんちゃら。わたしはその辺に疎いので、黒沢の説明の半分も理解できなかったけれど、すごいことだけはわかる。

「それで相談なんだけど。今度仕事でアニメのグッズ作ることになったから、参考までに一花の推しグッズを見せてくんない?」
「うん、いいよ。今度持ってくる」
「あとさぁ……。事務所を構えようかなと思ってるんだけど」
「……まさか」

 みんな、このあたりが好きすぎるんじゃないだろうか。

 今度は黒沢が、あの飲み屋街のひとつを事務所にしたいと言い出したのだ。







 人の縁というのは、すごく不思議なものだと思う。素敵な人の周りには素敵な人が集まって、素敵な縁が繋がっていく。

 昼間はジメッとしていて夜は真っ暗だったあの路地に、今ではぽつぽつと明かりが灯るようになっていた。
 沖縄料理屋二号店に、黒沢の事務所、なんということかジョーさんまでもがプライベートサロンをオープンさせ、囲碁倶楽部や熱帯魚屋さん、ホットサンドのお店などに生まれ変わり始めたのだ。
 それは真っ黒だった画用紙に、きらきらと光るシールをひとつずつ貼り付けていく様を見ているような感覚だった。

 倉間酒店を中心に、光の輪が広がっていくような。

 それと連動するように、タキくんの表情にもぽつぽつと様々な色が淡く現れるようになっていった。

「賃料のこと、本当にいいのか、って黒沢が騒いでましたよ。吉三さん、おまけしてあげてるんじゃないですか?」

 今日のお店には、久しぶりに吉三さんが来ていた。ほうきを持ったわたしが近づくと、掃除しやすいようにひょいと足元を持ち上げる吉三さん。正確な年齢を聞いたことはないけれど、実年齢よりもきっとずっと、心も体も若いのだろう。
  今日の吉三さんの服装は、チェックのシャツにブラウンのジャケットを羽織っている。頭には、同じブラウンのハットをかぶっていてとてもおしゃれだ。
 このあと、デートがあるのだと教えてくれた。

「いいんよいいんよ、金は大事だけど、財産は金だけじゃないからなぁ。ずうっと長いこと、この店がひとりぽっちだったんに、いまじゃこんな賑やかに囲まれて」

 吉三さんは嬉しそうに顔をほころばせ、店内の壁に飾られた写真に目をやった。

 最初は沖縄料理屋二号店がオープンしたとき。次に黒沢の事務所、そしてジョーさんのサロンが完成したとき。
 この通りで生活する人たちは、必ずそのオープン日に倉間酒店へやって来て、店の前でタキくんと写真を撮る。それはいつしか、この路地でお店を持つときには必ず行われる儀式のようになっていた。

 そしてタキくんは、そのときにもらった写真を額に入れて、ひとつずつお店の壁に飾っている。

「この壁に飾るのを提案したのは、一花ちゃんじゃて?」
「せっかくだから飾ったらいいんじゃないですかって言っただけですよ」
「タキが言うとったわ。〝あの子が来てから、色々なことが変わり始めた〟と」
「──え?」

 そのときだった。ガタガタといつもの音をさせて開けられた引き戸から、配達帰りのタキくんが姿を現したのは。

「じーちゃん、来てたんだ」
「ちいとな、デエトまで時間があったからの」

 ふたりのいつも通りのやりとりに背中を向け、わたしは胸元をぎゅっと右手で強く抑える。ドキドキと心臓が高鳴って仕方ない。それは、ときめきとかそういうのではなくて、信じられないことが起きたような、現実がうまく理解の域に入っていかないときに起こる感じのものだ。
 
 タキくんが、わたしが来てから変わり始めたと言ってくれた──?

 そんなんじゃない。ここが変わり始めたのは、タキくんがやって来てからだ。黒沢も店長も、何年も前からこの場所は本当にさびれてしまっていたと。タキくんがお店で働くようになってから次々と、よい変化が起こっているのだ。
 
 そんなことを考えているうちに、お店の電話がプルルルルと着信を知らせる。電話に出るのは、わたしの役目だ。
 急いでレジのそばへ走り、受話器を上げる。

「もしもし、倉間酒店ですっ!」
『あのー、わたくしPTPテレビの住田というものです。秘伝の酒を多く扱っているお店として口コミが広がっている倉間酒店さまを、番組で取材させていただきたいのですが』

 どくんと心臓がひとつ高鳴る。PTPテレビと言えば、超人気番組を多数持つテレビ局だ。もしもテレビでお店が紹介されれば、きっとお客さんはたくさん増えるだろう。
 しかし、タキくんがここの店主だとわかれば、それ以上に多くのファンたちが押し掛けるのは容易に想像ができた。

 わたしが黙りこくったことを変に思ったのだろう。タキくんがすっとわたしの手から受話器を取った。

「もしもし、お電話変わりました。店主の倉間です。……はい、…………、……はい。わかりました、少し検討させてください。……はい。では三日後のお電話でお返事をさせていただきます。はい、失礼します」

 思わずぎゅっと、自分のエプロンを掴んでしまう。
 受話器を置いたタキくんは、ひとつ息を吐くとこちらを振り向いた。

「……取材、断らないんですか?」

 本当ならば、その場で断ってもおかしくない状況だ。取材が来てタキくんがテレビに映ることになれば、このあたりは大騒ぎになってしまう。
 タキくんは、ちょっと困ったように笑う。それから、下ろした受話器の背を指でそっとなぞった。

「今、電話してきた住田さんってさ。何度か一緒に仕事したことがあって」

 タキくんの話によると、電話をかけてきたのはアシスタントディレクターである住田さん。以前、STAYがよく出演していた音楽番組を担当していた住田さんにはとても世話になったのだとタキくんは話す。

「ADさんって本当に大変な仕事で。なにもかもをやるんだよ、本当になにもかも。住田さん、もともと情報番組やりたいって言ってたんだ。異動できて新天地でがんばってるんだと思ったら、取材引き受けたい気持ちが出ちゃって……」

 タキくんは優しい。以前吉三さんが言っていた通り、タキくんは本当に優しい人だ。いや、優しすぎるくらいかもしれない。
 きっと彼自身も、騒ぎを避けるためには取材など受けない方がいいとわかってはいるのだろう。それでもタキくんの中の優しさが、本当にそれでいいのか?と自問しているのかもしれない。

「客が増えるのは、この路地で商売をしてる人らにとっちゃいいことやろがなぁ。でも目的がタキになっとったら、それは反ってみんなの迷惑になるんぞ」

 それまで黙っていた吉三さんが、そう言って緑茶をすする。

 吉三さんの言う通りだ。今、この路地にはいい風が吹いている。いい具合にゆったりしていて、だけどいい具合に人の交流があって。
 今はみんなで、そんな空間を作り上げている最中だ。そのかけがえのない場所を、タキくんの独断によって壊されていいはずはない。
 それでもやっぱり、タキくんの想いも大事にしたいと思ってしまう。

「……店主は映さないっていう約束で引き受けるのはどうですか?」

 番組やコーナーの趣旨は詳しく聞いていないからわからないけれど、タキくんが映らなければいいのではないだろうか。お店の雰囲気や商品をピックアップしている番組は、テレビでよく目にする。

「テレビの集客効果ってすごいですけど、そこまで持続はしないんですよ。ここは酒店なので、お酒目当てのお客さんが集中するような感じになると思うんですよね。念のためしばらくの間タキくんには、キャップで顔を隠してもらった方がいいかもしれないですけど……」

 こう見えてわたしは大学で、経済・経営学を学んでいる。マーケティングの講義で得た知識を出しながら話してみると、タキくんは目をちょっとだけ大きくして、それから大きく頷いてみせた。

「そっか。俺がタキだって、わからなければいいんだ」

 自分の出したアイデアにタキくんが頷いてくれたことが嬉しくて振り向けば、吉三さんも目を閉じたまま頷いている。こういうとき、わたしもこのお店の一員に、微力ながらもなれているのかもしれないと思うことができる。
 自分にも何かができるという実感を、わたしは体で感じることができるのだ。


 こうして、倉間酒店は取材を受けることになった。店主がタキくんであるということは、住田さんにだけは彼がきちんと伝えた。彼の計らいで、他のスタッフには口外しないということになったらしい。
 取材当日も、スタッフさんとのやりとりはわたしが主にやり、タキくんは奥からそっと見守っているという形にしようと決めた。
 路地のみんなにそのことを話したところ、やいのやいのと大盛り上がり。璃々ちゃんは一番のおしゃれをして一日限定看板娘をやると名乗り出てくれ、他のみんなもサクラとして店を賑わせると手を上げてくれた。

 すべては順調に進んでいるはずだった。取材当日にやって来たテレビクルーたちはみな気さくでいい人たちばかりで、約束通りタキくんは最初に挨拶をしただけで、そのあとはずっと奥に引っ込んでいた。
 カメラがおさめたのは店内の様子と、接客するわたしや璃々ちゃん、お客さんたちという日常の風景。それから秘酒のアップをいくつか。

 そうして無事に撮影は終わった。一週間後の夕方のニュース番組内、五分ほどの短いコーナー。倉間酒店は電波にのって各家庭のテレビに映ったのだ。

 ──そしてその翌朝。

 倉間酒店へ向かい路地を曲がったわたしは、すぐに異変に気付いた。
 午前十時前、この路地はいつもひっそりとしている。それなのにそこに、そわそわとした独特の高揚感が渦巻いていた。

 赤、ピンク、黄色に薄紫。色とりどりの服を身に着けた女性たち。彼女たちは大きな声は出さないものの、その場で背伸びをしたり右往左往してみたりと、落ち着かない様子でところせましと一か所を中心に密集している。

 ──それは、閉ざされた倉間酒店のガラス戸の前だった。




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