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「倉間酒店、だっけ」
バイト先である沖縄料理屋の前を過ぎ、ひとつめの路地を左に入る。そこは、一瞬ここが新宿であることを忘れてしまうほどにひっそりとした、薄暗い細道が続いている。
深夜で危険が潜んでいるというわけでもないのに、わたしはつい息を潜め、歩くスピードを上げた。
店長がわたしに依頼したのは、清水節の調達だ。
清水節というのは、国内でも人気の高い日本酒の銘柄。すっきりとした味わいの中にも、ほのかなまろやかさを含むその味は、海外でも高い評価を受けているらしい。
とは言っても、わたしは日本酒が苦手なのでその違いはよくわからないんだけど。
しかしこの清水節、あまり流通しておらず、普通の量販店なんかでは買うことができない。うちのお店でも普段は提携している酒屋さんに発注しているのだが、よほど清水節ファンの客がいたのだろうか。珍しく発注が間に合っていないようだった。
「そろそろあるはずなんだけど……」
ときおり、こういうことがある。需要と供給のバランスがうまくいかなくて、人気のお酒の在庫がなくなってしまったら、店の誰かが店の近所の酒屋さんに直接買いに行くのだ。
しかし、わたしがその役割を仰せつかったことは今までになかった。それでもお店から一番近くの酒屋である倉間酒店のなんとなくの場所は、バイト仲間たちから聞いていたから、このあたりで合っているはずだ。
かつては栄えた飲み屋街だったのだろうか。シャッターが閉まって久しい様子の小さな店たちは、ひっそりと時を止めてしまったかのように佇んでいるだけだ。
スナック久美。カラオケバーHISAKO。ジャズ喫茶エリ、立ち飲み屋りさ、エトセトラ。
古めかしい看板は、いつからライトがつけられていないのだろう。それでも目を細めれば、そこにたくさんのドラマがあったのだろうと容易に想像することができた。
きっとこの通りにも、色とりどりのネオンが光り、大人な男女の駆け引きやあれこれが──。
「いやいや、見えないってば」
妄想力。それはわたしが持ちうる能力の中で、一番たくましく、それでいて高い能力だ。普通に生活していても、すぐにいろいろなものが『こうなんじゃないかなぁ』とか『きっとこうだ~!』なんて妄想が独り歩きして、いきすぎると幻覚が見えそうなるのだから恐ろしい。
わたしはぶんぶんと頭を振ると、ゆっくりと再び歩みを進めた。
じっとりと湿った、薄暗い路地。じゃりっと擦れるスニーカーと濡れた地面。昨日降った雨が、この路地にはまだ残っているみたいだ。
そんなとき、少し先にぼんやりとした青白い光が見えた。その手前には、〝酒〟という古びた看板。ボロボロな……、よく言えばレトロなその置き看板は、ところどころ錆びていて塗装の三分の一は剥げてしまっている。
店の前までたどり着くと、でこぼことした凹凸のあるガラスの引き戸が閉められている。ここから光が漏れ出ていたみたいだ。
見上げれば、ガラス戸の上にはこれまた年季の入った看板で〝倉間酒店〟とある。
どうやらここで、間違いはなさそうだ。
どことなく非日常感の漂うその光景に気後れしながらも、わたしはひとつ深呼吸をし、ガラスの引き戸に手をかけた。
「すみません~……」
ガタ、ガタと鈍い音が響く。どうやら立て付けが悪いみたいだ。これじゃお客さんもなかなか入りにくいんじゃないかな。って、おせっかいなんだろうけれども。
ふわんと感じる、お酒の香り。だけどそれは、埃っぽい段ボールの匂いやじめっとした湿気にたちまちかき消されてしまう。実家のリビングくらいのこぢんまりとした店内には、壁沿いに棚があるだけで、一段高くなった中央のスペースには所狭しと瓶ビールが詰まったプラスチックケースや箱に入ったままの一升瓶たちが並べられていた。
その奥は、自宅と繋がっているのだろう。昔ながらの商店といった雰囲気だ。
「あのー、すみませーん……」
店の奥からはテレビの音が聞こえてくるから、どうやら店主はそこにいるのだろう。わたしは先ほどより声を張り上げた。ごそごそと、奥の方で何かが動く気配がしたから、きっとすぐに来るだろう。
それにしても、すごい年季の入った酒屋さんだ。
改めてぐるりと周りを見回してみる。天井にはところどころシミが出ているし、隣の建物と隣接しているため、光を取り入れる役割は果たしたことのないであろうガラス窓は鍵部分がさびついている。
歴史がある、といえば聞こえはいいかもしれないけれど、正直ここは〝ぼろい〟の一言に尽きてしまう。
「なんか用?」
不愛想な声に振り向いたときだった。
わたしの心臓は、確かに一瞬、動くことをやめていた。
奥から出てきたその人が、わたしの〝推し〟、そのものだったのだから──。
◇
ずっとずっと、大好きだった。優しい笑顔も、笑うと片方にだけ小さく窪むやわらかな笑顔も、語り掛けるような話し方も。歌うときの、ちょっとかすれた綺麗な声も。
だからわたしが、そんな彼の声を聞き間違えるはずがない。
ドクンドクンと心臓がおかしなくらいに大きく揺れる。ぶわりと変な汗がこめかみに滲み、ちかちかと目の前が白黒に瞬いた。
──タキくんだ。
ビリビリと電流が走るような感覚をそのままに、目を見開いたままにその人を見てしまう。見つめてしまう、とかじゃない。ただただびっくりして、凝視してしまうっていう感じだ。多分すっごく、失礼な見方だと思う。
だけど仕方ない。こんなの、思考回路がショートしちゃうに決まってるんだから。
やわらかなミルクティーのような色でふわふわと動きがあった髪の毛は、カラーの施されていないぼさぼさの黒髪。目元を覆うように長くのばされた前髪と丸いフレームのメガネに邪魔され、瞳は見ることができない。
それでもすっと通った鼻筋だとか、控えめな口元だとか、左目じりの小さなほくろだとか──そして何よりもその声が、この人がタキくんであると物語っている。
──遭遇してしまった。人生をかけた〝推し〟と。
心臓、呼吸、思考、五感。多分その全ては、瞬間的には止まっていた。だけどそれはほんの一瞬で──そうじゃなきゃ死んじゃう──、わたしは彼の大きなため息で我に返った。
「あのっ、しみしみしみしみ清水節を一本っ……!」
自分が噛みまくっていることにも気づかないほど、わたしの心は大きく動揺していた。
タキくんはわたしを一瞥すると、無言のまま店の右奥へと歩を進める。それから長細い箱を抱えてきた。それはわたしがいつも店で見ている、清水節そのものだ。
「箱は」
「いっ……いるでございますっ!」
「七千八百円」
「い、いちまんえんでっ……!」
タキくんですよね?
本当にファンでした。
タキくんと出会って人生が変わりました。
何度救われたかわかりません。
毎日を本当に楽しく過ごせました。
今もずっと、STAYの曲ばかり聴いています。
あなたと出会えて、幸せでした。
──本当に本当に、だいすきです。
言いたい言葉は星の数よりいっぱいあった。いや、砂浜の砂の数よりいっぱいある。
一年前の解散コンサート。大泣きしながら、わたしはタキくんを見送った。これまで経験してきたどんな失恋よりもつらくって、苦しくて、喪失感がすごくって。
──それでも推しには幸せでいてほしくって。
そうやって手を振った。ありがとう、だいすきって、別れを告げた。
そのタキくんが今、目の前にいる。
彼がSTAYだった頃、わたしは何度もコンサートやイベントに参戦した。ものすごくラッキーなことに、個別握手会──そういうイベントがある。CDに応募券がついている、競争率がものすごいイベントだ──では、タキくんと手を握り合ったこともある。ほんの三秒くらいだけど。
コンサートでは前から三列目に当たったこともあるし、多分あのとき、タキくんはわたしと目が合って手を振ってくれた。
だけどそれは、わたしにとっては忘れられない瞬間で、タキくんにとってはファンのひとりとのやりとりに過ぎない。
そのことに改めて気が付くと、熱を持っていた心にしゅわりと水をかけられたような感覚に包まれた。
「領収証は?」
一万円札を古いレジに入れ、お釣りを用意する彼のことを、じっと見つめる。すると、あれほど暴れていた心臓が、徐々に小鳥のようなトクトクというリズムに落ち着いていった。
今目の前にいるタキくんは、タキくんであって、タキくんじゃない。
わたしの〝推し〟であったタキくんは、もう芸能界を引退して、一般人として暮らしている。
その生活を、ファンであるわたしが脅かすことなんて、絶対にあってはならないのだ。
──たとえ引退したとしても、彼の幸せを願い、守るのがファンの役目。
賢者のように冷静な思考が脳内でまとまると、わたしの背筋はピンと伸びた。暴走して壊れる寸前だった体中の血流だって、今は海の凪ぎのように落ち着いている。
一応言っておくと、推しを持つ人間の思考・感情というものは、非常にめまぐるしく変化する。ものの数秒で、すさまじい種類のものが体中に入っては変わり、大忙しなのだ。
何よりも、彼がいまもこうして健やかに生きていてくれることが、ありがたい。それがわかっただけで、もう充分だ。想いを伝えたいというのは、わたしのエゴでしかない。
推しさま。今日も生きていてくれて、ありがとうございます。その姿を見せてくれて、ありがとうございます。
「株式会社ファイブツリーで領収証をいただけますと幸いでございます」
心の中で手を合わせたつもりが、そのまま表にも出ていたらしい。胸の前で両手を合わせるわたしを一瞥したタキくんは、たいして怪訝そうな様子もなく手書きの領収証にペンを走らせている。
この領収証、店長にお願いして写真だけ撮らせてもらおう。こっそり、自分の観賞用にするだけだから。タキくんの手書きの文字、お守りにするだけだから。
「ん」
ずい、と出されたのは角ばった文字で書かれた領収証と、ビニールの袋に入れられた清水節。手が当たらないように気を付けてそれを受け取る。
だって握手会でもないのに、そんな偶然を装って手が触れたりしたら大問題じゃないか。
それでもこの領収証も、お釣りも、ビニール袋の取っ手も、タキくんが一度触れたものだと思うと指先は震えてしまう。心は賢者を保っているのに、どういうことか。
「ありがとうございました!」
震えを握りこむようにして、わたしはあえて大きな声でお礼を言って頭を下げる。しかし顔を上げたときには、タキくんはもうこちらに背を向けていて、奥の部屋へと向かうところだった。
「あっ、あのっ──!」
ぴたりと足を止めたタキくんは、こちらを振り向く。そのときに少しだけ前髪が揺れて、彼の綺麗な薄茶色の瞳がこちらを射抜いた。
「今日も明日も、幸せに過ごしてくださいっ!」
もう一度ぺこりと頭を下げたわたしは、くるりと体の向きを変えると建付けの悪いガラスドアを抜け、倉間酒店をあとにした。
誰もいない古びた飲み屋街にネオンが輝いているように見えたのは、わたしの心がいろんな色を放っていたからだったのだろう。
バイト先である沖縄料理屋の前を過ぎ、ひとつめの路地を左に入る。そこは、一瞬ここが新宿であることを忘れてしまうほどにひっそりとした、薄暗い細道が続いている。
深夜で危険が潜んでいるというわけでもないのに、わたしはつい息を潜め、歩くスピードを上げた。
店長がわたしに依頼したのは、清水節の調達だ。
清水節というのは、国内でも人気の高い日本酒の銘柄。すっきりとした味わいの中にも、ほのかなまろやかさを含むその味は、海外でも高い評価を受けているらしい。
とは言っても、わたしは日本酒が苦手なのでその違いはよくわからないんだけど。
しかしこの清水節、あまり流通しておらず、普通の量販店なんかでは買うことができない。うちのお店でも普段は提携している酒屋さんに発注しているのだが、よほど清水節ファンの客がいたのだろうか。珍しく発注が間に合っていないようだった。
「そろそろあるはずなんだけど……」
ときおり、こういうことがある。需要と供給のバランスがうまくいかなくて、人気のお酒の在庫がなくなってしまったら、店の誰かが店の近所の酒屋さんに直接買いに行くのだ。
しかし、わたしがその役割を仰せつかったことは今までになかった。それでもお店から一番近くの酒屋である倉間酒店のなんとなくの場所は、バイト仲間たちから聞いていたから、このあたりで合っているはずだ。
かつては栄えた飲み屋街だったのだろうか。シャッターが閉まって久しい様子の小さな店たちは、ひっそりと時を止めてしまったかのように佇んでいるだけだ。
スナック久美。カラオケバーHISAKO。ジャズ喫茶エリ、立ち飲み屋りさ、エトセトラ。
古めかしい看板は、いつからライトがつけられていないのだろう。それでも目を細めれば、そこにたくさんのドラマがあったのだろうと容易に想像することができた。
きっとこの通りにも、色とりどりのネオンが光り、大人な男女の駆け引きやあれこれが──。
「いやいや、見えないってば」
妄想力。それはわたしが持ちうる能力の中で、一番たくましく、それでいて高い能力だ。普通に生活していても、すぐにいろいろなものが『こうなんじゃないかなぁ』とか『きっとこうだ~!』なんて妄想が独り歩きして、いきすぎると幻覚が見えそうなるのだから恐ろしい。
わたしはぶんぶんと頭を振ると、ゆっくりと再び歩みを進めた。
じっとりと湿った、薄暗い路地。じゃりっと擦れるスニーカーと濡れた地面。昨日降った雨が、この路地にはまだ残っているみたいだ。
そんなとき、少し先にぼんやりとした青白い光が見えた。その手前には、〝酒〟という古びた看板。ボロボロな……、よく言えばレトロなその置き看板は、ところどころ錆びていて塗装の三分の一は剥げてしまっている。
店の前までたどり着くと、でこぼことした凹凸のあるガラスの引き戸が閉められている。ここから光が漏れ出ていたみたいだ。
見上げれば、ガラス戸の上にはこれまた年季の入った看板で〝倉間酒店〟とある。
どうやらここで、間違いはなさそうだ。
どことなく非日常感の漂うその光景に気後れしながらも、わたしはひとつ深呼吸をし、ガラスの引き戸に手をかけた。
「すみません~……」
ガタ、ガタと鈍い音が響く。どうやら立て付けが悪いみたいだ。これじゃお客さんもなかなか入りにくいんじゃないかな。って、おせっかいなんだろうけれども。
ふわんと感じる、お酒の香り。だけどそれは、埃っぽい段ボールの匂いやじめっとした湿気にたちまちかき消されてしまう。実家のリビングくらいのこぢんまりとした店内には、壁沿いに棚があるだけで、一段高くなった中央のスペースには所狭しと瓶ビールが詰まったプラスチックケースや箱に入ったままの一升瓶たちが並べられていた。
その奥は、自宅と繋がっているのだろう。昔ながらの商店といった雰囲気だ。
「あのー、すみませーん……」
店の奥からはテレビの音が聞こえてくるから、どうやら店主はそこにいるのだろう。わたしは先ほどより声を張り上げた。ごそごそと、奥の方で何かが動く気配がしたから、きっとすぐに来るだろう。
それにしても、すごい年季の入った酒屋さんだ。
改めてぐるりと周りを見回してみる。天井にはところどころシミが出ているし、隣の建物と隣接しているため、光を取り入れる役割は果たしたことのないであろうガラス窓は鍵部分がさびついている。
歴史がある、といえば聞こえはいいかもしれないけれど、正直ここは〝ぼろい〟の一言に尽きてしまう。
「なんか用?」
不愛想な声に振り向いたときだった。
わたしの心臓は、確かに一瞬、動くことをやめていた。
奥から出てきたその人が、わたしの〝推し〟、そのものだったのだから──。
◇
ずっとずっと、大好きだった。優しい笑顔も、笑うと片方にだけ小さく窪むやわらかな笑顔も、語り掛けるような話し方も。歌うときの、ちょっとかすれた綺麗な声も。
だからわたしが、そんな彼の声を聞き間違えるはずがない。
ドクンドクンと心臓がおかしなくらいに大きく揺れる。ぶわりと変な汗がこめかみに滲み、ちかちかと目の前が白黒に瞬いた。
──タキくんだ。
ビリビリと電流が走るような感覚をそのままに、目を見開いたままにその人を見てしまう。見つめてしまう、とかじゃない。ただただびっくりして、凝視してしまうっていう感じだ。多分すっごく、失礼な見方だと思う。
だけど仕方ない。こんなの、思考回路がショートしちゃうに決まってるんだから。
やわらかなミルクティーのような色でふわふわと動きがあった髪の毛は、カラーの施されていないぼさぼさの黒髪。目元を覆うように長くのばされた前髪と丸いフレームのメガネに邪魔され、瞳は見ることができない。
それでもすっと通った鼻筋だとか、控えめな口元だとか、左目じりの小さなほくろだとか──そして何よりもその声が、この人がタキくんであると物語っている。
──遭遇してしまった。人生をかけた〝推し〟と。
心臓、呼吸、思考、五感。多分その全ては、瞬間的には止まっていた。だけどそれはほんの一瞬で──そうじゃなきゃ死んじゃう──、わたしは彼の大きなため息で我に返った。
「あのっ、しみしみしみしみ清水節を一本っ……!」
自分が噛みまくっていることにも気づかないほど、わたしの心は大きく動揺していた。
タキくんはわたしを一瞥すると、無言のまま店の右奥へと歩を進める。それから長細い箱を抱えてきた。それはわたしがいつも店で見ている、清水節そのものだ。
「箱は」
「いっ……いるでございますっ!」
「七千八百円」
「い、いちまんえんでっ……!」
タキくんですよね?
本当にファンでした。
タキくんと出会って人生が変わりました。
何度救われたかわかりません。
毎日を本当に楽しく過ごせました。
今もずっと、STAYの曲ばかり聴いています。
あなたと出会えて、幸せでした。
──本当に本当に、だいすきです。
言いたい言葉は星の数よりいっぱいあった。いや、砂浜の砂の数よりいっぱいある。
一年前の解散コンサート。大泣きしながら、わたしはタキくんを見送った。これまで経験してきたどんな失恋よりもつらくって、苦しくて、喪失感がすごくって。
──それでも推しには幸せでいてほしくって。
そうやって手を振った。ありがとう、だいすきって、別れを告げた。
そのタキくんが今、目の前にいる。
彼がSTAYだった頃、わたしは何度もコンサートやイベントに参戦した。ものすごくラッキーなことに、個別握手会──そういうイベントがある。CDに応募券がついている、競争率がものすごいイベントだ──では、タキくんと手を握り合ったこともある。ほんの三秒くらいだけど。
コンサートでは前から三列目に当たったこともあるし、多分あのとき、タキくんはわたしと目が合って手を振ってくれた。
だけどそれは、わたしにとっては忘れられない瞬間で、タキくんにとってはファンのひとりとのやりとりに過ぎない。
そのことに改めて気が付くと、熱を持っていた心にしゅわりと水をかけられたような感覚に包まれた。
「領収証は?」
一万円札を古いレジに入れ、お釣りを用意する彼のことを、じっと見つめる。すると、あれほど暴れていた心臓が、徐々に小鳥のようなトクトクというリズムに落ち着いていった。
今目の前にいるタキくんは、タキくんであって、タキくんじゃない。
わたしの〝推し〟であったタキくんは、もう芸能界を引退して、一般人として暮らしている。
その生活を、ファンであるわたしが脅かすことなんて、絶対にあってはならないのだ。
──たとえ引退したとしても、彼の幸せを願い、守るのがファンの役目。
賢者のように冷静な思考が脳内でまとまると、わたしの背筋はピンと伸びた。暴走して壊れる寸前だった体中の血流だって、今は海の凪ぎのように落ち着いている。
一応言っておくと、推しを持つ人間の思考・感情というものは、非常にめまぐるしく変化する。ものの数秒で、すさまじい種類のものが体中に入っては変わり、大忙しなのだ。
何よりも、彼がいまもこうして健やかに生きていてくれることが、ありがたい。それがわかっただけで、もう充分だ。想いを伝えたいというのは、わたしのエゴでしかない。
推しさま。今日も生きていてくれて、ありがとうございます。その姿を見せてくれて、ありがとうございます。
「株式会社ファイブツリーで領収証をいただけますと幸いでございます」
心の中で手を合わせたつもりが、そのまま表にも出ていたらしい。胸の前で両手を合わせるわたしを一瞥したタキくんは、たいして怪訝そうな様子もなく手書きの領収証にペンを走らせている。
この領収証、店長にお願いして写真だけ撮らせてもらおう。こっそり、自分の観賞用にするだけだから。タキくんの手書きの文字、お守りにするだけだから。
「ん」
ずい、と出されたのは角ばった文字で書かれた領収証と、ビニールの袋に入れられた清水節。手が当たらないように気を付けてそれを受け取る。
だって握手会でもないのに、そんな偶然を装って手が触れたりしたら大問題じゃないか。
それでもこの領収証も、お釣りも、ビニール袋の取っ手も、タキくんが一度触れたものだと思うと指先は震えてしまう。心は賢者を保っているのに、どういうことか。
「ありがとうございました!」
震えを握りこむようにして、わたしはあえて大きな声でお礼を言って頭を下げる。しかし顔を上げたときには、タキくんはもうこちらに背を向けていて、奥の部屋へと向かうところだった。
「あっ、あのっ──!」
ぴたりと足を止めたタキくんは、こちらを振り向く。そのときに少しだけ前髪が揺れて、彼の綺麗な薄茶色の瞳がこちらを射抜いた。
「今日も明日も、幸せに過ごしてくださいっ!」
もう一度ぺこりと頭を下げたわたしは、くるりと体の向きを変えると建付けの悪いガラスドアを抜け、倉間酒店をあとにした。
誰もいない古びた飲み屋街にネオンが輝いているように見えたのは、わたしの心がいろんな色を放っていたからだったのだろう。
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