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第3章 迷い、暗闇を歩む者たちよ

第31話 優しい人

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「……もしかしたら、私も同じなのかもしれません」
「同じ?」

 彼女の言葉に俺は首を傾げた。

「私も何かができるような身体ではありません。それでも生かしてくれたこの世界に、恩を返したいのかもしれません」

 生かされたから、恩を返す。確かに同じなのかもしれない。俺を生かしてくれたのは彼らだ。動くだけの死体だった俺に命を吹き込んでくれたのは彼らだった。

「それならまあ……納得いくかな。世界に対してって部分だけは、相容れないが」
「私の言う世界とあなたの言う世界は別物ですから。私にとっての世界はこの教会で、恩を返したいのはここに来る人々。あなたにとっての世界は世の中の全てで、あなたが恩を返したいのはあなたの内側に住む彼ら。私はここに来る人々を救い、あなたは彼ら、そして彼らと同じ境遇にある人々を救う」
「そうか、そういう認識なのか。だから、俺たちが世界を壊そうとしていても止めないんだな」
「ええ。目指しているものは同じようなものですから。きっとあなたたちなら、この教会に来る信者たちも救ってくれると思います」

 話を一通り終えて、俺たちは思う。このシスターは本当に聖女のような部分を持っている。普段、表に出ている性格に嘘はない。皮肉屋だし口も悪い。
 だが、本物の慈愛を持っているのも確かだ。そうでなければ、ここまで他人のために尽くせるはずがない。

 彼女の手がまた俺たちの頬に触れる。暖かな熱を感じながら、最後に聞きたいことが思い浮かんだ。

「なんで、俺たちにそこまでするんだ?」

 同じ質問を以前にもした。それでももう一度聞きたくなった。
 教会に来る人々への彼女の慈愛は本物だ。それはずっと見てきたから分かる。だが、どうしてそれを俺たちにまで向けているのだろうか。俺たちもこのシスターにとって救うべき対象なのかもしれないが、それ以上の何かを感じる。
 そもそも俺たちは愛されなかった存在だ。今更、愛情を受けてもそれを信じることができない。

「同じ答えを言っても、納得できないのでしょうね」
「ああ。だからこれは……そうだな、無意味な質問だ」
「あらゆる答えに納得がいかないだろうからといって、質問そのものが無意味となるわけではありません。少なくとも私は、今でもあなたたちが不安に思っている、ということを知ることができました。それだけでも十分に意味のあることです」

 シスターは俺たちの気持ちを、不安を否定せずに目を伏せる。言葉を選んでいるように見えた。

「今言ったことを実践するならば、同じ答えを繰り返すこともまた、無意味ではないのでしょうね」
「……そう、かもしれないな」
「私はあなたたちを癒したいのです。特に──を」

 なんとなく、予想はしていたから驚きはしなかった。ただ余計に、信じられない気持ちになった。

「どうしてだ。どうしてこんな人間に拘るんだ。俺は力づくで世界を壊そうとしている罪人だぞ」

 罪の意識があるわけではない。だが客観的に見たときに罪人だという自覚がないほど、俺はまだ狂っちゃいなかった。

「でもそれには理由があるでしょう?」
「ただの欲望だ」
「欲望であっても理由よ。人を害したいのが欲望なら、人を助けたいのも欲望。どちらも同じことよ」

 同じだと彼女は言ったが、結果があまりに違いすぎる。俺には同じだとは到底、思えなかった。

「俺の欲望は人を害したい欲望だ。誰かが認められるようなものじゃない」
「──いいえ。それは違うわ」

 俺の言葉を、目の前の女ははっきりと否定した。

「あなたが言ったことよ。って。あなたは誰かを傷つけたいんじゃない。あなたは人を助けたいのよ。たとえそれが見ず知らずの誰かであったとしても。あなたの中にいる彼ら。路地裏にいる可哀想な人たち。死なせてしまった子供。あなたはその人たちの誰も彼もを救おうとしてる。人を害する欲望などではないわ」
「だが話したはずだ。俺たちは不満の発散のために人を殺す、と」
「それは彼らの欲望であってあなたの欲望ではないわ。少なくとも、私にはそう見える。あなたは彼らの欲望を叶えようとしているだけよ」

 優しげな笑みを向けられているのに、俺の心は乱れていた。
 心の中の何かが、彼女の主張を受け入れようとしなかった。

「俺が……そんな立派な人間に見えるのか、お前は」
「ええ。初めて会ったときから、ずっとそう。あなたは優しい人よ。だからお願い。あなたは優しいって、私にだけは言わせて。そうでないと」
「そうでないと?」
「この世界で誰も、あなたの優しさを知らないままだわ。そんなの、悲しすぎるもの」

 その声には、悲哀と祈りが込められていた。どうかこれだけは許してほしい──そんな願いが込められているように聞こえた。
 こいつは、俺をひとりにしたくないのだと、ようやく理解できた。
 黄金色の瞳は、今でも俺だけを見ている。

 ──ああ、綺麗だ。素直に、そう思えた。

「……分かった、俺の負けだ。今でも受け入れ難いが、お前のその言葉だけは否定しないようにするよ。それにしても、こういうときはまるで本物の天使みたいだな」
「純粋で綺麗な心、という意味?」
「ああ。聖女やその類に見える」
「ふふ。それも間違いよ。私だって欲望で動いているもの」
「俺を助けたいという欲望か?」

 一瞬だけ彼女の言葉が止まる。吐息を一度だけついてから、俺を見据えて彼女は言った。

「いいえ──あなたのことが好きっていう欲望よ」
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