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第2章 仰げ、嘆きのための魂の器
第12話 彼らが知らなくてはならないこと
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「ここがアブサスか、結構でかいな」
旅人の一行が大都市へと訪れていた。三人連れだ。
1人は軽装の鎧に長剣が一振り。外套を纏った典型的な剣士の姿。黒髪の快活な印象を与える男だった。茶色の瞳はこちらの世界では珍しいものだ。
「本当にここにいるの、桜?」
女が尋ねる。こちらも黒髪に茶の瞳。杖に外套、布製の服装と典型的な魔術師の格好だ。
「いる。以前もあの特異な魔力をこの探知機で追跡していたからな」
女の問いに別の女が応える。黒髪を後ろで束ねた和装の剣士。腰には一振りの刀。手には光り輝く小さな水晶を持っていた。
怜司、蒼麻、桜の3人はあの惨劇の一夜を終えて悠司──リヴァイアサンと化したかつての仲間を追いかけていた。
もはや相手は到底、人間と呼べない存在になっている。たとえかつての戦友であったとしても追いかける理由としては不十分だろう。それどころか悠司は彼らにとってそれほど深い仲でもなかった。
だから、彼らは昔の仲間を追いかけていたわけではなかった。
「最近は鳴りを潜めているようだがこれ以上、放置しておくわけにもいくまい」
「わかってるよ……」
女剣士の冷徹な一言に蒼麻が弱々しく答える。
彼らは自分たちが原因で生み出された怪物を対処するために追い続けていた。何故あのようなことになったのかという問いに対する答えは3人とも持っていない。それでもあの場にいた自分たちの何かが要因だったことだけは理解していた。
だが、蒼麻の表情は暗い。彼女の脳裏にはあの一夜の恐ろしい記憶が未だにこびりついていた。目の前で粘土のように千切れる人体。雨のように降り注ぐ血。充満する死の腐臭。その光景の向こう側で嗤う影。
たかが数ヶ月で乗り越えられるような精神を彼女は持っていなかった。蒼麻が元いた世界では人間が目の前で1人死ぬだけでも人生に1度あれば大事件だ。そんな世界が出身だというのに数多の死を1度に叩きつけられた経験は容易に飲み込めるものではない。それは怜司にとっても同じことだった。彼の表情にも影が差す。
その恐怖に立ち向かう理由が義務感だけなのか。それで十分なのか。あの惨劇が繰り返されるかもしれない。今度は自分たちが死ぬかもしれない。そんな恐怖を持ちながらも、それでも2人は桜の提案に乗って悠司を追いかけることを決断した。その真の理由がなんなのかが、2人とも自分でもまだ分かっていなかった。
「桜は怖くないの?」
今度は蒼麻が尋ねる番だった。
「私だって恐ろしくはある。だが多分、お前たちほどではない。荒事には慣れているからな」
桜はいつもどおりの落ち着き払った声で答える。
怜司と蒼麻の2人と違って桜は生粋のこの世界の住民だった。その上、傭兵としてギルドに参加していた女剣士にとって死体が散乱する戦場など日常的なものだ。
だが、しかし。そんな彼女にとってさえあの夜は恐怖を植え付けるものではあった。誰も彼もが無力なままにたった1つの存在によって惨殺される光景は戦場であってさえありえない。一方的な殺戮と蹂躙。それをただ見せつけられるだけ。人を殺すことを何とも思わない傭兵であろうとも思い返すのに苦痛が伴った。
女の秀麗な顔を曇りが覆う。理屈も仔細も不明だがあの怪物を生み出したのは自分だ、と桜は考えていた。悠司は怜司を憎悪していた。それは確かだ。それでも最大の理由は自分自身なのだと。
あの夜に問いかけた言葉を桜は思い浮かべる。お前はどうなのだ、と。あのときに答えようとした存在はリヴァイアサンを自称する怪物などではなく藤原悠司そのものだった。
結局彼女は答えを得られなかった。その答えを知らなくてはならないと桜の心の中の何かが訴えかけていた。
「といっても、現状では勝ち目がない、か」
嘆息が女剣士の口から漏れる。桜は怜司と蒼麻をある程度は戦えるように鍛えたが、一国を容易に崩壊させた存在に3人で挑むのはもはや狂気でしかない。彼らに勝算などなかった。旅の最中に見つかれば良いと思っていたものの、聞こえてくるのは如何に相手が強大な存在であるかという事実だけ。
冷静に考えれば接触などすべきではないと全員が分かっていた。それでもここまで来てしまったのは、まだ対話が可能なのではないかという希望を捨てきれていなかったからだ。
快活に歩む人々と反対に、3人の表情は重苦しかった。
「……あれは」
怜司の視線が動く。大通りから細い路地に入る箇所に少女が立っていた。ぼろぼろの布切れしか着ていない孤児だった。
怜司は驚きながらも少女に近寄った。
「あ……お恵みをください」
少女は両手を器のようにして差し出す。翡翠色の瞳が怜司を見上げていた。
「孤児、なのか……」
「本当にいるんだね……」
怜司と蒼麻の表情に憐憫と悲哀。
彼らが元いた世界にも貧困による孤児は存在していた。だが直接目にする機会などなかった。彼らはその存在を知ってこそいたものの、ただ知っているだけだった。そこに何の実感もなく、ただ無色の知識として蓄えられていただけだった。
怜司が何かを差し出そうとするのを桜が止めに入る。
「どうして?」
「孤児など無数にいる。1人に与えれば全員が殺到してやってくるぞ」
仲間の冷酷な判断に怜司が反論をしようと口を開き、閉じた。感情的には受け入れがたい事実だったが桜の言うことは正しかった。恵みを貰える口実のある人間がいれば、生き残るのに必死な彼らは容赦しないだろう。
怜司と蒼麻が口を引き結ぶ。その理屈を当然のこととして飲み込むには2人はあまりに弱かった。
「……ごめんな」
青年の手が少女の頭に触れて優しく撫でる。翡翠色の瞳が伏せられる。汚れきった髪の感触を怜司は悲嘆と共に感じ取っていた。
「これが、この世界の現実なんだね」
蒼麻が悲しげに呟く。ギルドにいた頃、自分たちが如何に恵まれた状況にいたかを彼女は痛感していた。
「……この世界の、か」
「もしかして……」
怜司の声に蒼麻が続く。2人は同じ考えに至っていた。自分たちの知らない世界の存在。それは本当にこの世界だけのことなのだろうか。孤児という残酷な現実を自分たちは元の世界でさえ知らなかった。絶望的な悲劇は他にもあるだろう。それを知っている者がいたのではないか。
「……悠司か」
桜が違う経路でもって同じ結論にたどり着く。元の世界の情報がなくとも、悠司が何か自分たちの知らない悲劇の当事者であるという考えに桜も思い至っていた。
「助けてあげられなくてごめん。でも、ありがとう」
蒼麻が少女にお礼を言う。意味が分からなくて少女は首を傾げていた。
知らなくてはならないことが判明した。3人は少女に別れを告げて走り出した。
旅人の一行が大都市へと訪れていた。三人連れだ。
1人は軽装の鎧に長剣が一振り。外套を纏った典型的な剣士の姿。黒髪の快活な印象を与える男だった。茶色の瞳はこちらの世界では珍しいものだ。
「本当にここにいるの、桜?」
女が尋ねる。こちらも黒髪に茶の瞳。杖に外套、布製の服装と典型的な魔術師の格好だ。
「いる。以前もあの特異な魔力をこの探知機で追跡していたからな」
女の問いに別の女が応える。黒髪を後ろで束ねた和装の剣士。腰には一振りの刀。手には光り輝く小さな水晶を持っていた。
怜司、蒼麻、桜の3人はあの惨劇の一夜を終えて悠司──リヴァイアサンと化したかつての仲間を追いかけていた。
もはや相手は到底、人間と呼べない存在になっている。たとえかつての戦友であったとしても追いかける理由としては不十分だろう。それどころか悠司は彼らにとってそれほど深い仲でもなかった。
だから、彼らは昔の仲間を追いかけていたわけではなかった。
「最近は鳴りを潜めているようだがこれ以上、放置しておくわけにもいくまい」
「わかってるよ……」
女剣士の冷徹な一言に蒼麻が弱々しく答える。
彼らは自分たちが原因で生み出された怪物を対処するために追い続けていた。何故あのようなことになったのかという問いに対する答えは3人とも持っていない。それでもあの場にいた自分たちの何かが要因だったことだけは理解していた。
だが、蒼麻の表情は暗い。彼女の脳裏にはあの一夜の恐ろしい記憶が未だにこびりついていた。目の前で粘土のように千切れる人体。雨のように降り注ぐ血。充満する死の腐臭。その光景の向こう側で嗤う影。
たかが数ヶ月で乗り越えられるような精神を彼女は持っていなかった。蒼麻が元いた世界では人間が目の前で1人死ぬだけでも人生に1度あれば大事件だ。そんな世界が出身だというのに数多の死を1度に叩きつけられた経験は容易に飲み込めるものではない。それは怜司にとっても同じことだった。彼の表情にも影が差す。
その恐怖に立ち向かう理由が義務感だけなのか。それで十分なのか。あの惨劇が繰り返されるかもしれない。今度は自分たちが死ぬかもしれない。そんな恐怖を持ちながらも、それでも2人は桜の提案に乗って悠司を追いかけることを決断した。その真の理由がなんなのかが、2人とも自分でもまだ分かっていなかった。
「桜は怖くないの?」
今度は蒼麻が尋ねる番だった。
「私だって恐ろしくはある。だが多分、お前たちほどではない。荒事には慣れているからな」
桜はいつもどおりの落ち着き払った声で答える。
怜司と蒼麻の2人と違って桜は生粋のこの世界の住民だった。その上、傭兵としてギルドに参加していた女剣士にとって死体が散乱する戦場など日常的なものだ。
だが、しかし。そんな彼女にとってさえあの夜は恐怖を植え付けるものではあった。誰も彼もが無力なままにたった1つの存在によって惨殺される光景は戦場であってさえありえない。一方的な殺戮と蹂躙。それをただ見せつけられるだけ。人を殺すことを何とも思わない傭兵であろうとも思い返すのに苦痛が伴った。
女の秀麗な顔を曇りが覆う。理屈も仔細も不明だがあの怪物を生み出したのは自分だ、と桜は考えていた。悠司は怜司を憎悪していた。それは確かだ。それでも最大の理由は自分自身なのだと。
あの夜に問いかけた言葉を桜は思い浮かべる。お前はどうなのだ、と。あのときに答えようとした存在はリヴァイアサンを自称する怪物などではなく藤原悠司そのものだった。
結局彼女は答えを得られなかった。その答えを知らなくてはならないと桜の心の中の何かが訴えかけていた。
「といっても、現状では勝ち目がない、か」
嘆息が女剣士の口から漏れる。桜は怜司と蒼麻をある程度は戦えるように鍛えたが、一国を容易に崩壊させた存在に3人で挑むのはもはや狂気でしかない。彼らに勝算などなかった。旅の最中に見つかれば良いと思っていたものの、聞こえてくるのは如何に相手が強大な存在であるかという事実だけ。
冷静に考えれば接触などすべきではないと全員が分かっていた。それでもここまで来てしまったのは、まだ対話が可能なのではないかという希望を捨てきれていなかったからだ。
快活に歩む人々と反対に、3人の表情は重苦しかった。
「……あれは」
怜司の視線が動く。大通りから細い路地に入る箇所に少女が立っていた。ぼろぼろの布切れしか着ていない孤児だった。
怜司は驚きながらも少女に近寄った。
「あ……お恵みをください」
少女は両手を器のようにして差し出す。翡翠色の瞳が怜司を見上げていた。
「孤児、なのか……」
「本当にいるんだね……」
怜司と蒼麻の表情に憐憫と悲哀。
彼らが元いた世界にも貧困による孤児は存在していた。だが直接目にする機会などなかった。彼らはその存在を知ってこそいたものの、ただ知っているだけだった。そこに何の実感もなく、ただ無色の知識として蓄えられていただけだった。
怜司が何かを差し出そうとするのを桜が止めに入る。
「どうして?」
「孤児など無数にいる。1人に与えれば全員が殺到してやってくるぞ」
仲間の冷酷な判断に怜司が反論をしようと口を開き、閉じた。感情的には受け入れがたい事実だったが桜の言うことは正しかった。恵みを貰える口実のある人間がいれば、生き残るのに必死な彼らは容赦しないだろう。
怜司と蒼麻が口を引き結ぶ。その理屈を当然のこととして飲み込むには2人はあまりに弱かった。
「……ごめんな」
青年の手が少女の頭に触れて優しく撫でる。翡翠色の瞳が伏せられる。汚れきった髪の感触を怜司は悲嘆と共に感じ取っていた。
「これが、この世界の現実なんだね」
蒼麻が悲しげに呟く。ギルドにいた頃、自分たちが如何に恵まれた状況にいたかを彼女は痛感していた。
「……この世界の、か」
「もしかして……」
怜司の声に蒼麻が続く。2人は同じ考えに至っていた。自分たちの知らない世界の存在。それは本当にこの世界だけのことなのだろうか。孤児という残酷な現実を自分たちは元の世界でさえ知らなかった。絶望的な悲劇は他にもあるだろう。それを知っている者がいたのではないか。
「……悠司か」
桜が違う経路でもって同じ結論にたどり着く。元の世界の情報がなくとも、悠司が何か自分たちの知らない悲劇の当事者であるという考えに桜も思い至っていた。
「助けてあげられなくてごめん。でも、ありがとう」
蒼麻が少女にお礼を言う。意味が分からなくて少女は首を傾げていた。
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