1 / 11
第1話 俺と先輩にしか見えないもの
しおりを挟む
「君はクオリアというものを知っているかな?」
「いや、知らないです」
通学バスの中。隣に座る先輩はいつもどおりの調子で話し始めた。
「例えば私が赤いリンゴを見たとしよう。私はそれを赤色だと認識する。どんな赤かは言えないがとにかく赤だ」
「はい」
「そこでそのリンゴを君に見せたとしよう。君には何色に見える?」
「そりゃあ、赤色では?」
「問題はそこなのだよ」
得意げな顔で先輩が人差し指を立てる。
「その赤が私の見ている赤と同じだと、どうしていえる?」
§§§§
俺たちは通学バスから降りてさっきの会話を続けていた。
「同じ物質を見ているんだから同じように見えると思うんですが」
思いついた一番簡単な反論を俺は述べてみた。先輩は楽しそうに、立てた人差し指をくるくると回している。
「確かに物質的には同じものだとも。しかしそれは本当に同じに見えるとイコールなのかな?」
「例えば光の波長はどうです? 同じ波長の光を見ているんだから、それは同じように見えるんじゃないですかね」
「もっともらしい推論だ。多くの人はそう考えるだろうね」
反論の前置きを先輩はしていた。「しかし私はそうは思わない」と先輩が続ける。
「たとえ波長が同じだろうと視神経やニューロンの働きが同じだろうと、私と君が全く同じものを見ているという証拠にはならないのだよ」
「じゃあ逆に何をもって同じものを見ているとするんですか?」
俺の質問に先輩はにやりと笑った。
「答えは簡単さ。そんなものは定義できない。それがクオリアだ。私と君は自分だけのクオリアを見ているのさ」
§§§§
放課後、俺は部室に向かった。科学部と名付けられているが幽霊部員を集めて成り立たせている実態のない部活だ。実際に集まるのは俺と先輩だけだった。
部室に入ると先輩が先にいた。椅子に座りパソコンに向かって何かを調べている。いつものことだった。
「先輩、今朝の話ですけど」
俺は椅子に座りながら先輩に声をかける。先輩が椅子を回して俺の方を向く。
「じゃあ人類は皆、同じものを見ている気でいて見ていない。実はばらばらの世界に住んでるってことですか?」
俺の質問に先輩が満足そうな満面の笑みを浮かべる。
「そのとおり。だからこの宇宙に私という存在はたった1人、どころの騒ぎじゃない。そもそもこの宇宙には私しかいないのさ!」
俺が至った結論に先輩は心の底から嬉しそうにしていた。
「やっぱり君と話すのは楽しいなあ。他の学生はちっとも相手にならない」
相手にならないどころか、俺は先輩が他の人と話しているのを見たことさえない。けど、見ていない間、あるいは俺と会う前に何度か試して手応えがなかったのだろう。
俺と先輩はいつもこうして何かしらの議論を交わしていた。大体は先輩が持ち込んだ概念の話をして俺が相槌を打ったり疑問を投げかけたりして先輩が答える。そんな感じだった。
先輩は喜んでいるようだったが、俺はまた1つ新たな疑問が生じた。
「でも、先輩の話を信じるなら先輩の宇宙に俺はいないんじゃないですか?」
「いやいや、そうじゃないんだよ」
先輩は俺の問いを即座に否定した。そして立ち上がって俺の前に来て俺の顔をじっと覗き込む。先輩の瞳の中に俺が映り込む。
「君という真なる実体は私の宇宙にはいないかもしれない。でも私から見た君というクオリアは存在する。そして君というクオリアは私にとって最高の存在だということさ!」
常識からかけ離れた語彙と言い回し。でもそれが俺を褒めているということはすぐに理解できた。だから俺も返事をしなければならない。
「俺にとっての先輩も最高のクオリアですよ」
俺の言葉はクオリアの意味からすれば間違った使い方だと、言ってから気がついた。でも先輩はまた満面の笑みを浮かべていた。
これが俺と先輩の日常だった。
きっかけは入学したときに科学部なるものがあると聞いて見学に行ったことだった。
そのときに部室にいたのも先輩1人だった。部室に入ったときの光景は今でも覚えてる。美しく長い黒髪に綺麗な横顔。華奢な身体の造形。とんでもない美人がいるとそのときに俺は思った。さっき知った言い回しを使えば俺にとって先輩というクオリアは美人に該当するものだった。
先輩は俺が来るなり「入部希望者かい!?」と興奮した様子で言った。そして矢継ぎ早にあれは知ってるかい、これは知ってるかい、と質問を連投してきた。知っていることは打ち返し、知らないことは受け止めてから疑問に変換して投げ返したりした。そのやり取りが驚くほど楽しくって、科学部が幽霊部活であることなんて気にもせずに俺は入部することに決めたのだった。
それ以来、俺と先輩はバス停で待ち合わせをして話し合い、放課後には部室、さらに帰り道でも2人であれこれ議論するようになったのだった。
俺にも先輩にも友達はいなかったが何も不足はなかった。お互いがいれば他は何もいらなかった。
もちろん先輩は学年が上だ。1つ上だから先輩が卒業してしまえば俺は高校生活を1年間は1人で過ごすことになる。そのことだけはとても恐ろしかったけど、考えないようにしていた。きっと進学だとか就活だとかで忙しくなるだろうという楽観視もあった。
とにかく今が楽しければそれでいいって感じだ。
そんな俺たちにも嫌なことぐらいはある。定期テストの存在だ。テスト期間の前の週あたりになると憂鬱な気分になる。
今週がそうだった。放課後に部室に行くと先輩がノートの上に突っ伏していた。
「いや、知らないです」
通学バスの中。隣に座る先輩はいつもどおりの調子で話し始めた。
「例えば私が赤いリンゴを見たとしよう。私はそれを赤色だと認識する。どんな赤かは言えないがとにかく赤だ」
「はい」
「そこでそのリンゴを君に見せたとしよう。君には何色に見える?」
「そりゃあ、赤色では?」
「問題はそこなのだよ」
得意げな顔で先輩が人差し指を立てる。
「その赤が私の見ている赤と同じだと、どうしていえる?」
§§§§
俺たちは通学バスから降りてさっきの会話を続けていた。
「同じ物質を見ているんだから同じように見えると思うんですが」
思いついた一番簡単な反論を俺は述べてみた。先輩は楽しそうに、立てた人差し指をくるくると回している。
「確かに物質的には同じものだとも。しかしそれは本当に同じに見えるとイコールなのかな?」
「例えば光の波長はどうです? 同じ波長の光を見ているんだから、それは同じように見えるんじゃないですかね」
「もっともらしい推論だ。多くの人はそう考えるだろうね」
反論の前置きを先輩はしていた。「しかし私はそうは思わない」と先輩が続ける。
「たとえ波長が同じだろうと視神経やニューロンの働きが同じだろうと、私と君が全く同じものを見ているという証拠にはならないのだよ」
「じゃあ逆に何をもって同じものを見ているとするんですか?」
俺の質問に先輩はにやりと笑った。
「答えは簡単さ。そんなものは定義できない。それがクオリアだ。私と君は自分だけのクオリアを見ているのさ」
§§§§
放課後、俺は部室に向かった。科学部と名付けられているが幽霊部員を集めて成り立たせている実態のない部活だ。実際に集まるのは俺と先輩だけだった。
部室に入ると先輩が先にいた。椅子に座りパソコンに向かって何かを調べている。いつものことだった。
「先輩、今朝の話ですけど」
俺は椅子に座りながら先輩に声をかける。先輩が椅子を回して俺の方を向く。
「じゃあ人類は皆、同じものを見ている気でいて見ていない。実はばらばらの世界に住んでるってことですか?」
俺の質問に先輩が満足そうな満面の笑みを浮かべる。
「そのとおり。だからこの宇宙に私という存在はたった1人、どころの騒ぎじゃない。そもそもこの宇宙には私しかいないのさ!」
俺が至った結論に先輩は心の底から嬉しそうにしていた。
「やっぱり君と話すのは楽しいなあ。他の学生はちっとも相手にならない」
相手にならないどころか、俺は先輩が他の人と話しているのを見たことさえない。けど、見ていない間、あるいは俺と会う前に何度か試して手応えがなかったのだろう。
俺と先輩はいつもこうして何かしらの議論を交わしていた。大体は先輩が持ち込んだ概念の話をして俺が相槌を打ったり疑問を投げかけたりして先輩が答える。そんな感じだった。
先輩は喜んでいるようだったが、俺はまた1つ新たな疑問が生じた。
「でも、先輩の話を信じるなら先輩の宇宙に俺はいないんじゃないですか?」
「いやいや、そうじゃないんだよ」
先輩は俺の問いを即座に否定した。そして立ち上がって俺の前に来て俺の顔をじっと覗き込む。先輩の瞳の中に俺が映り込む。
「君という真なる実体は私の宇宙にはいないかもしれない。でも私から見た君というクオリアは存在する。そして君というクオリアは私にとって最高の存在だということさ!」
常識からかけ離れた語彙と言い回し。でもそれが俺を褒めているということはすぐに理解できた。だから俺も返事をしなければならない。
「俺にとっての先輩も最高のクオリアですよ」
俺の言葉はクオリアの意味からすれば間違った使い方だと、言ってから気がついた。でも先輩はまた満面の笑みを浮かべていた。
これが俺と先輩の日常だった。
きっかけは入学したときに科学部なるものがあると聞いて見学に行ったことだった。
そのときに部室にいたのも先輩1人だった。部室に入ったときの光景は今でも覚えてる。美しく長い黒髪に綺麗な横顔。華奢な身体の造形。とんでもない美人がいるとそのときに俺は思った。さっき知った言い回しを使えば俺にとって先輩というクオリアは美人に該当するものだった。
先輩は俺が来るなり「入部希望者かい!?」と興奮した様子で言った。そして矢継ぎ早にあれは知ってるかい、これは知ってるかい、と質問を連投してきた。知っていることは打ち返し、知らないことは受け止めてから疑問に変換して投げ返したりした。そのやり取りが驚くほど楽しくって、科学部が幽霊部活であることなんて気にもせずに俺は入部することに決めたのだった。
それ以来、俺と先輩はバス停で待ち合わせをして話し合い、放課後には部室、さらに帰り道でも2人であれこれ議論するようになったのだった。
俺にも先輩にも友達はいなかったが何も不足はなかった。お互いがいれば他は何もいらなかった。
もちろん先輩は学年が上だ。1つ上だから先輩が卒業してしまえば俺は高校生活を1年間は1人で過ごすことになる。そのことだけはとても恐ろしかったけど、考えないようにしていた。きっと進学だとか就活だとかで忙しくなるだろうという楽観視もあった。
とにかく今が楽しければそれでいいって感じだ。
そんな俺たちにも嫌なことぐらいはある。定期テストの存在だ。テスト期間の前の週あたりになると憂鬱な気分になる。
今週がそうだった。放課後に部室に行くと先輩がノートの上に突っ伏していた。
0
お気に入りに追加
11
あなたにおすすめの小説
小さなことから〜露出〜えみ〜
サイコロ
恋愛
私の露出…
毎日更新していこうと思います
よろしくおねがいします
感想等お待ちしております
取り入れて欲しい内容なども
書いてくださいね
よりみなさんにお近く
考えやすく
今日の授業は保健体育
にのみや朱乃
恋愛
(性的描写あり)
僕は家庭教師として、高校三年生のユキの家に行った。
その日はちょうどユキ以外には誰もいなかった。
ユキは勉強したくない、科目を変えようと言う。ユキが提案した科目とは。
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる