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その瞳の遺したもの

第16話 瞳

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 突然の振動と爆音。地震かと思うほどの揺れが、俺の身体に伝わってきた。
 さらに二度、三度と爆音が続き、銃声が響く。音のすべては上階から聞こえてきている。

「なん、だ?」

 恐る恐る俺は鉄格子へと近づく。だが目の前にある上階への階段からは、なにも見ることができなかった。それでも異常事態だということだけは分かる。
 銃声に絶叫。大勢の人間が生み出す振動が、巨大なものとなって天井を揺らしていた。

 俺は鉄格子のそばに不安な心持ちで立っていたが、すべきことが見つからない。こうしていても仕方ないので、壁際にまた座り込んだ。
 恐らく何者かが侵入、あるいは襲撃してきたのだろう。そうであるなら逃げ出したかったが、ほかの人間たちも俺どころではないだろう。収まるまで待つしかなかった。

 思いのほか、俺の頭は落ち着いていた。死ぬかもしれない。そのことに巨大な恐怖を抱いたが、感情を無視するのは得意だった。
 しばらくすると、少しずつ音が遠ざかっていった。天井の揺れも収まり、戦いは終わったのだと俺は安堵した。

 次の瞬間、牢屋全体に衝撃が走った。先ほどまでとは比べものにならないほどの振動が発生。思わず俺は床に手をついてしまう。
 爆発のような轟音が上階から鳴り響いていた。音が連なるにつれて振動がどんどん増幅していく。

 そしてついに天井が崩落。巨大な瓦礫が落下してきて、俺の身体は衝撃によって吹き飛ばされてしまう。
 壁に激突。全身に激痛が走る。視界が土埃で埋まっていてよく見えないが、どうやら横に派手に吹き飛ばされて、別の壁にぶつかったようだった。

 爆音と振動のすべてが収まっていた。なにが起こったのかさっぱり分からなかったが、瓦礫を登ればなんとか上階に出られそうだった。
 身体を起こそうとしたところで、腹部から激しい痛み。視線を落として自分の腹を見ると、細い鉄パイプのようなものが三本、刺さっていた。

「……うそ、だろ」

 冗談のような言葉が自分の口から勝手に出ていった。状況を認識したせいか、思考を塗りつぶすほどの痛みが俺に襲いかかる。

「あぁああああああああっ!!」

 絶叫。腹部からの激痛。膨れ上がるたびに、俺は耐え切れずに叫び声をあげていた。
 腹部からは夥しい量の出血。だが激痛のあまり、命の危機を感じている余裕さえない。痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
 息がうまくできないほど痛い。視界がぼやけるほど痛い。痛い。とにかく痛い。俺の頭の中はそれだけで埋め尽くされていた。
 絶叫に次ぐ絶叫。俺は喉が枯れるまで叫び続けた。


§§§§


 いったい、どのぐらいの時間が経ったのだろうか。何時間も経ったように思うし、数秒のようにも思えた。
 いつしか、痛みは幾許か引いていた。俺は叫び声をあげずにいられるようになっていた。

 代わりに訪れたのは寒気だった。もしやと思って床を見てみると、血溜まりが広がっていた。妙に冷静な頭が、こんなにも人体には血が入ってるのか、と場違いなことを考えていた。
 小説なんかじゃ登場人物は痛みには耐えていたのだが、どうやらあれは嘘らしい。その代わり、寒くなるというのは本当だったようだ。

 ……俺は、このまま死ぬのか。そう思った瞬間、なんとも言えない気分になった。恐怖でも、喜びでも、怒りでもなかった。
 昔の記憶が脳裏に浮かび上がった。走馬灯が浮かぶというのも本当らしい。
 そこには子供の姿の俺がいた。まだ、自分自身の幸福を疑っていないころの自分だ。それを思い返しながら、俺はまた、どうしてこうなったのだろう、と考えていた。死が目の前に迫る今でさえ、答えが見つからない。

「はっ……もう、いいか」

 自嘲した笑みが俺の口からこぼれ落ちた。もう死ぬのだから、その理由や原因などどうだっていいことだ。
 俺の人生にはなにもなかった。俺という存在にはなにもなかった。ただ、それだけのことだった。

 もう、疲れた。眠ろう。そう思って俺は目を閉じた。
 脳裏には未だに走馬灯が浮かび上がっていた。両親に、妹。きっと俺がいなくなって両親は喜んでいるのだろう。俺が死んで悲しむ人間は、どこにもいない。本当に、俺はなんのために生まれてきたのだろう。

 走馬灯を眺めている俺の脚に、柔らかい感触。死に際にも俺はなにかに邪魔をされるらしい。目を開けてみると、脚のすぐそばに猫が倒れこんでいた。腹部から血を流していて、もう長くなさそうだ。
 猫は背中を俺の脚につけたまま、ぐったりとしていた。

「……はっ……なん、だ……お、まえも、ここ、で……死ぬの、か……」

 俺は、もう口も満足に動かせなくなっていた。途切れ途切れな言葉に合わせて、嘲笑が俺の口元に浮かび上がる。こんなところで惨めに死ぬのだから、この猫も哀れなものだ。
 俺の声に答えるように、猫は顔を持ち上げて、俺を見た。
 猫の丸い瞳には俺の姿が映っていた。俺の目にもきっと、この猫の姿が映っているのだろう。
 そのことに気づいた瞬間──俺は、この世のすべてを許す気になった。

「くっ……ははっ……あははっ……!」

 場違いな笑いがこみ上げてきた。心の底から、俺は笑っていた。途切れ途切れに、笑っていた。

「じゃ、あ……一緒に、死のう、か……」

 俺の言葉に猫は頷くように首を落とした。まだ、猫の瞳は俺のことを見上げていた。俺も、この猫から視線を外そうとはしなかった。
 寒気はどこかに消えていた。正体の分からない感情は安堵に置き換わっていた。そう、俺は安堵していた。この世から去ることに。
 もうこれ以上、苦しまずに済む。これ以上、無価値なことをせずに済む。そのことに、俺は心から安堵していた。

「……そ、うい、えば……むか、し、ねこを……かお、うとし、てたっけ……」

 震える腕を持ち上げて、感覚のない指先で、俺は猫の顎を撫でてやった。かすかに猫が喉を鳴らしたような気がした。
 次第に瞼が重くなっていく。持ち上げた腕が力なく落ちていく。俺は必死になって目を開け続けた。猫から視線を外さないようにした。
 猫がか細い声で一度だけ鳴く。それから目を閉じて、息を吐いた。そして、ついに動かなくなった。
 俺は安心して、眠るように瞼を閉じた。
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