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彼の世界
第5話 彼の世界
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食堂に入ると先に席についている両親がいた。軽く会釈をして俺も席につく。二人は俺を一瞥すると何も言わず視線を逸らした。両親からすれば俺は見るのも嫌なのだろう。俺もそうなのだからお互い様だ。
すぐに食事の用意がされて食べ始めることとなったが、ここからが厄介だ。両親は当たり前だったがテーブルマナーにうるさい。そのことを俺は知ってはいたが、月に一度あるかないかのこのときのために普段からマナーを保持しておく、という努力はできなかった。
些細なミスでも父が睨むように俺を見て、見下すように鼻を鳴らす。怒鳴られたり文句を言われたりということは、もう何年も前からされなくなった。だとしても俺には恐怖でしかなかった。今も手が軽く震えて冷や汗が出てくる。緊張のせいで味など分からない。
なるべく機械的に速やかに、目立たないように動作を続ける。まるで拷問されているような気分だ。一体自分がなんの作業をしているのか、だんだん分からなくなってくる。心臓の音が煩いぐらいに大きい。親の視線を感じるだけでナイフを突きつけられるような気分になる。
ふと気がつくと両親は食べ終わっていた。一方で自分はまだ半分以上残っていた。
父が使用人になにかを話すと、二人揃って席を立った。これでやっとこの拷問から抜け出せる。そう思っていたところで、俺の後ろで父が立ち止まった。
「──食事もまともに取れない無能め」
小声でそう言うと何事もなかったように両親は食堂からいなくなった。これが、何ヶ月かぶりに聞いた父の言葉だった。
反論などなかった。全くもって父の言うとおりで、俺はこの家において無能以外の何物でもない。両親の反応や言葉は完全に正しい。どこも間違っちゃいない。間違っているとしたら俺だ。
だというのに、そんなことは分かりきっているというのに──突き刺されたかのように胸に痛みが走った。何かが胸の奥で広がっていき、圧迫されるように苦しくなる。抑えようとしても抑えきれずに破裂した。その瞬間、俺は嗚咽を漏らして泣き始めていた。自分がどうして泣いているのかが俺には分からなかった。
数分ほど経ってから食事を再開した。とっくに味を感じられなくなっていたし両親もいなくなったのでマナーを無視して口に放り込んだ。とにかく早く部屋に戻りたかった。
そうして今までの倍の速さで食べ終わって、俺は部屋に戻った。
洗面台の前に立って鏡で自分の顔を確認する。いつも以上に酷い顔だ。冷静になった頭が何故こんなことで泣くのだと責め立ててくる。そんなこと、俺が知るかよ。
顔を眺めていてもいいことはないので寝台の方に戻る。助けを求めるように、俺は本棚に隠してある本の一冊を手に取っていた。本の内容はよくあるもので、取り柄のない男がある日、急に違う世界で目が覚めてそこから色んな人間と出会い、冒険をして、なにかしらの成功を収めるという話だ。
読んだところでなんの知恵もつかないが、この現実味のなさを俺は気に入っていた。
今読んでいるところもちょうど、主人公である若い男が同じような若い女となにかハプニングを起こしては、その途中や結果で身体が密着するだのなんだのと、現実ではあり得ない展開が起こっている。俺もこういう状況には無意味に憧れる。
本に書かれた情景が脳裏に浮かび上がる。この世界では絶対にあり得ない幸運と成功が起こる世界を想像すれば、まるで自分がその中にいるかのように錯覚できる。その間は、ここではないどこかに居ることができるのだ。いい気分だった。
本を読み、そうしているうちに時間が過ぎ去ってくれる。眠気が来たところで俺は本を仕舞って寝台に入った。その頃にはもう、今日あった嫌なことを忘れたような気になれた。
本を読んでその世界に没頭している間だけ俺は救われた。いや、正確には、救われるような気分が味わえた。このなにもない現実から少しの間でも逃げることが、俺にとっては救いだった。本の世界には父も母も妹も、そして俺自身さえもいない。あるのは都合のいいものだけ。本当に、あり得ない世界だ。
分かっているからこそ、俺はその世界に浸るしかなかった。
寝台に入ってしばらくして。眠気が十分に広がってきて夢と現を行き来し始めたぼんやりした頭で、ふと考える。もしも俺が異世界に行けたら、どうなるのだろうか。
異世界に行く、なんてことはいつも考えている。ちょっとした憧れだ。だが果たして俺のような無能が行ったところで同じように成功できるのだろうか。話に登場する人物は現実にはあり得ないほどの幸運を持っているか、あるいは人に好かれるような性格をしている。俺は違う。
だからきっと仮にそうなったとしても俺ではなにもできずに終わるのだろう。当然の話だ。当然の話ではあったが、そのことを考えると少しだけ悲しくなった。俺が幸福を得る方法は、きっとどこにもないのだろう。その資格がないがために。
そのことを理解したところで、俺は眠りに落ちた。
これが俺の一日で、俺の世界だった。多少の変化はあれど大部分で違いはない。毎日学校という義務をこなし、無為に時間を浪費して、現実逃避をひたすらに続ける。無能らしい毎日だった。
そう──“だった”のだ。
すぐに食事の用意がされて食べ始めることとなったが、ここからが厄介だ。両親は当たり前だったがテーブルマナーにうるさい。そのことを俺は知ってはいたが、月に一度あるかないかのこのときのために普段からマナーを保持しておく、という努力はできなかった。
些細なミスでも父が睨むように俺を見て、見下すように鼻を鳴らす。怒鳴られたり文句を言われたりということは、もう何年も前からされなくなった。だとしても俺には恐怖でしかなかった。今も手が軽く震えて冷や汗が出てくる。緊張のせいで味など分からない。
なるべく機械的に速やかに、目立たないように動作を続ける。まるで拷問されているような気分だ。一体自分がなんの作業をしているのか、だんだん分からなくなってくる。心臓の音が煩いぐらいに大きい。親の視線を感じるだけでナイフを突きつけられるような気分になる。
ふと気がつくと両親は食べ終わっていた。一方で自分はまだ半分以上残っていた。
父が使用人になにかを話すと、二人揃って席を立った。これでやっとこの拷問から抜け出せる。そう思っていたところで、俺の後ろで父が立ち止まった。
「──食事もまともに取れない無能め」
小声でそう言うと何事もなかったように両親は食堂からいなくなった。これが、何ヶ月かぶりに聞いた父の言葉だった。
反論などなかった。全くもって父の言うとおりで、俺はこの家において無能以外の何物でもない。両親の反応や言葉は完全に正しい。どこも間違っちゃいない。間違っているとしたら俺だ。
だというのに、そんなことは分かりきっているというのに──突き刺されたかのように胸に痛みが走った。何かが胸の奥で広がっていき、圧迫されるように苦しくなる。抑えようとしても抑えきれずに破裂した。その瞬間、俺は嗚咽を漏らして泣き始めていた。自分がどうして泣いているのかが俺には分からなかった。
数分ほど経ってから食事を再開した。とっくに味を感じられなくなっていたし両親もいなくなったのでマナーを無視して口に放り込んだ。とにかく早く部屋に戻りたかった。
そうして今までの倍の速さで食べ終わって、俺は部屋に戻った。
洗面台の前に立って鏡で自分の顔を確認する。いつも以上に酷い顔だ。冷静になった頭が何故こんなことで泣くのだと責め立ててくる。そんなこと、俺が知るかよ。
顔を眺めていてもいいことはないので寝台の方に戻る。助けを求めるように、俺は本棚に隠してある本の一冊を手に取っていた。本の内容はよくあるもので、取り柄のない男がある日、急に違う世界で目が覚めてそこから色んな人間と出会い、冒険をして、なにかしらの成功を収めるという話だ。
読んだところでなんの知恵もつかないが、この現実味のなさを俺は気に入っていた。
今読んでいるところもちょうど、主人公である若い男が同じような若い女となにかハプニングを起こしては、その途中や結果で身体が密着するだのなんだのと、現実ではあり得ない展開が起こっている。俺もこういう状況には無意味に憧れる。
本に書かれた情景が脳裏に浮かび上がる。この世界では絶対にあり得ない幸運と成功が起こる世界を想像すれば、まるで自分がその中にいるかのように錯覚できる。その間は、ここではないどこかに居ることができるのだ。いい気分だった。
本を読み、そうしているうちに時間が過ぎ去ってくれる。眠気が来たところで俺は本を仕舞って寝台に入った。その頃にはもう、今日あった嫌なことを忘れたような気になれた。
本を読んでその世界に没頭している間だけ俺は救われた。いや、正確には、救われるような気分が味わえた。このなにもない現実から少しの間でも逃げることが、俺にとっては救いだった。本の世界には父も母も妹も、そして俺自身さえもいない。あるのは都合のいいものだけ。本当に、あり得ない世界だ。
分かっているからこそ、俺はその世界に浸るしかなかった。
寝台に入ってしばらくして。眠気が十分に広がってきて夢と現を行き来し始めたぼんやりした頭で、ふと考える。もしも俺が異世界に行けたら、どうなるのだろうか。
異世界に行く、なんてことはいつも考えている。ちょっとした憧れだ。だが果たして俺のような無能が行ったところで同じように成功できるのだろうか。話に登場する人物は現実にはあり得ないほどの幸運を持っているか、あるいは人に好かれるような性格をしている。俺は違う。
だからきっと仮にそうなったとしても俺ではなにもできずに終わるのだろう。当然の話だ。当然の話ではあったが、そのことを考えると少しだけ悲しくなった。俺が幸福を得る方法は、きっとどこにもないのだろう。その資格がないがために。
そのことを理解したところで、俺は眠りに落ちた。
これが俺の一日で、俺の世界だった。多少の変化はあれど大部分で違いはない。毎日学校という義務をこなし、無為に時間を浪費して、現実逃避をひたすらに続ける。無能らしい毎日だった。
そう──“だった”のだ。
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