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放浪者達のバラード
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1 浮遊衛星アルメストにて
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アルメストに昼夜はないと言った。
したがって、人々は自分の故郷の星の生活にしたがって行動する。
一日が三十時間ある星の住民はそれにそった生活をし、毎日二十時間の睡眠をとる人種は、それですむ仕事を探す。
こういう多民族が暮らす場所には、それなりのルールが存在する。ルールを覚えようとしない奴は死ぬ。それだけだ。
アイル達は七時間を睡眠に、残りを生活にあてて暮らしている。時計の時刻が二十三センテス標準時間になったら眠る。これは故郷の星の時間を基準に、二人で決めた。
ノーマは暗闇の中を駆けていた。
足元さえ見えないというのに、そんなことは構わなかった。
闇の中に足をつきだす恐怖よりも、さらに恐ろしい思いにかられて、彼女は懸命に走っていた。
やがて、ノーマの耳元にサイレン音が届いてきた。
最初に三回。少しの間を置いて、七回。
第一級緊急警報だわ。ノーマはそう思った。
体は疲れ切っていた。休みたい。そう思って、ノーマは息を切らせながら立ち止まった。
「走るんだ!」
彼女のすぐ側で、アイルの声がした。
慌てて見回すが、闇に包まれた中にいるので姿が見えない。
だが、愛しい男の息使いはすぐそばに聞こえた。
「立ち止まったら駄目だ。走り続けろ」
再び恋人の叱責が聞こえて、ノーマはわけも分からず走り出した。
闇の中、あちこちでサーチライトが交錯している。夜風が彼女の頬を撫でつけ、心地良かった。
だがそんな心とは裏腹に、体はオーバーヒート寸前だ。
・・もうどのくらい走り続けているのか覚えていない。
恋人の声にせき立てられながら疾走し、心臓は破裂しそうなほど早い鼓動を打っていた。もう駄目だ。そう思うのは何度目だろう? その度にアイルは彼女の腕を引き、なおも走らせた。
そもそも、いったい何から逃げているのだろう? ノーマはそう考えた。
逃げていることは確かだ。
辺りには緊急警報が鳴り響いているし、サーチライトも何かを懸命に探している。それに、闇夜を包む空気が重く、切迫した雰囲気を彼女に与えていた。
また肉食獣かしら。
ノーマはそう思った。だが、この星に生息するグゥェルカリダと呼ばれる巨大肉食獣が出現した場合は、第八級緊急警報が鳴ることになっている。
じゃあ、何?
荒々しい息をしながら、もつれる足で走り続け、彼女は考えた。
いったい何から逃げるためにあたし達は走っているのかしら。
第一級警報が何のときに鳴らされるのか、どうしても思い出せなかった。
夜露に湿った草叢を通り過ぎると、やがて足元はコンクリートの地面に変わっていた。サーチライトが備えつけられている塔の間を幾つも縫って、二人は走っていった。
ノーマは奇妙なことに気がついた。
自分たちはサーチライトの照らす明かりの間を縫って走っている。これではまるで、逃げているのは自分たちの方みたいではないか。
『逃げている』?
ノーマは自問した。
そう。自分たちは逃げているんだ。最初からそうだった。
だが、何から逃げているのだったろう? それだけがどうにも思い出せなかった。
コンクリートの小路をいくつか抜けると、ばったりと人に出会った。肩に大型のレーザー銃をかついでいる。着ている制服で判別がつく。警備兵だ。
自分たちを見付けた警備兵は一瞬驚き、すぐに恐怖に顔を引きつらせた。口が大きく開き、悲鳴が漏れると思った瞬間、ノーマの隣から人影が踊り出て、男の頭を掴むと強く地面に叩きつけた。
鈍い音がして、つぶれたオレンジみたいに血と脳が飛び散った。
「アイル! なんて事するの!」
ノーマは初めて声を出した。悲哀のこもった悲鳴だった。
返り血を浴びたアイルが振り向いた。苦しげな瞳がノーマを見つめる。
「いまさら、どうやったって引き返せないよ。ノーマ」
闇よりも深い声だった。どうやったらこんな悲しい声がだせるのかと思うほどだった。そう思うと、ノーマの胸は潰れそうに痛んだ。
そうだ。引き返す道なんてないのだ。
ノーマは黙り込んだ。
その場にうずくまった彼女を、アイルの血だらけの手が立ち上がらせた。
「前に進まなければ。走って走って、逃げ続けるんだ。でないと・・」
言葉が途中で途切れ、驚いたノーマは顔を上げて恋人を見た。
突然あたりが暗くなり完全な闇に閉ざされた。
彼女の目の前にいるのは恋人ではなかった。セリアが、氷のような冷たい瞳でノーマを見ていた。
「でないと・・」セリアが恋人の言葉の続きを言った。
「命が幾つあっても足りない事になる」
それはアイルの言葉だった。・・いや、昼間セリアが言った言葉でもある。
ノーマの頭にこの言葉が響いた。
闇の中でセリアがゆっくりと手を上げて、ノーマの前で開いて見せた。
真っ赤だった。
ノーマは悲鳴をあげた。
「どうしたんだ。ノーマ?」
アイルが体を揺さぶるのと、ノーマが彼女自身の声で目を覚ますのとが同時だった。
「ひどくうなされていたよ」
アイルはベッドの脇の電灯のスイッチを入れ、心配そうに彼女を覗き込んだ。
ノーマは息を切らせながら起きあがり、したたり落ちる額の汗をぬぐった。いつの間にか、体中に汗をかいていた。
彼女は両手で顔を覆い、呼吸が整うまでじっとしていた。その間アイルがやさしく彼女の背中を撫でてくれた。
「大丈夫かい?」
その声は心からノーマを心配していた。
「・・ええ・・・」
ノーマは途切れ途切れに返事を返した。
「いったいどうしたんだ? ずいぶんひどく唸されていたけど」
「・・」
ノーマは恋人の顔を見上げた。
確かにアイルだ。血だらけの手をしたセリアではない。
「夢を・・・嫌な夢を見たのよ」
ノーマは掠れた声で言った。
「昼間、あんなものを見たからかしら」
ノーマが何のことを言っているのか、アイルにも分かった。昼間セリアが三人の人間をいとも簡単に殺した時のことを言っているのだ。
「どんな夢?」
アイルは優しく尋ねた。
こんなときは、悪夢を心の内に閉じこめておくより、誰かに話したほうがずっと安心できるものだ。
ノーマは無言でアイルの顔を見上げた。
肩が激しく上下している。汗に濡れた顔が、少し悲しそうに陰った。
ノーマは静かに首を振って言った。
「昼間見たのと同じものよ」
本当は違う。
夢の中でノーマは目の前の恋人と一緒に何かから逃げていた。
だが、それはなぜかアイルには言ってはいけない事のような気がした。
アイルを心配させてしまうだろうと言う事はもちろんだが、それ以外にもよく分からない理由があるようで、話すことをためらわれた。
底知れぬ不安が、彼女の胸をじわじわと絞めつけた。
まるで少しずつ崖に向かって追いつめられる、狩りの獲物のようだと彼女は思った。
暗い闇が、足元の地面を崩していき、自分たちを逃げ場の無い方に向かって追いつめていく。・・そんな不安だった。
あたし達は逃げるようにして故郷を出てきた。そしてこの町で、幸せになるはずだった。だが本当は、少しずつ自分たちを追いつめて行っているのではないだろうか。
そう遠くない将来、今の裕福ではないが幸せな、ささやかな生活が失われてしまって、二度と手に入らなくなるのではないか。
そんな思いがノーマの脳裏をよぎった。
いつかどうにも進めなくなって、この町に住む大半の者に待ち受けている惨めな死が、自分たちの頭上にも、降ってくるのではないか。
悪夢はそんな予感ではなかったか。
不安に胸が締めつけられるような苦しみを感じるノーマの心に、ふいに言葉が浮び上がった。
でも、それでもいい。この人と一緒にいられるのなら。どんな未来が待ち受けていても、後悔なんてしない。既にそれだけのことを、自分たちはしてきたのだ。それだけの犠牲を払って・・。
ノーマは顔を上げた。今なぜ、そんな言葉が浮かんできたのか。
どこにもおかしいところはない。もちろん、私は恋人と人生を供にするのだと誓ったのだ。だが・・。
何かが、心にひっかかった。
何かを、自分は見落としている。それもひどく重要なことを。
心の底で、何かがちりちりと警告を発した。それ以上、このことを考えてはいけない。警告はそう言っていた。でないと、大切なものを失ってしまうかも知れない。
自分の中に、感知できない部分がある。エンドレスの不安はまた、彼女をさいなみ始めた。
ノーマはもう一度恋人の顔を見上げた。ただもう夢中で、アイルの唇に自分の唇を重ね合わせた。
何とかして、この不安をぬぐい去ってしまいたかった。
「どうしたんだい? ノーマ」
アイルはそう言いながら、ノーマを抱き寄せると、彼女を安心させるようにキスを返した。
しばらく恋人の愛撫に身をまかせていたノーマがぽつりと口を開いた。
「ねえ、アイル・・・」
「なんだい?」
アイルは隣の息づかいに向かって声をかけた。
「あのね・・・」
ノーマの声が震えた。言葉を言い出せず、躊躇していた。
「あのね。あたし、あなたの子供が欲しいわ」
突然の言葉に、アイルはなんと言葉を返して良いのか迷った。
「あなたの子供が欲しいわ」
もう一度、言葉が繰り返された。
アイルはノーマの顔を凝視した。
「いま急に思ったことじゃないのよ。前から、一度あなたに話してみたいと思っていたことなの。だってあたしたち、いつかは結婚するつもりだし、アイルだってそうだって言ってくれてたじゃない。・・・どうしたの? あなたは欲しくないの?」
ノーマの声に、悲しみが宿った。
「もちろん、欲しい・・・」
アイルは言葉を詰まらせながら答えを返した。
「だけど、まだだ。今は駄目だ・・」
「どうして?」
ノーマの声の語尾が強まった。
「欲しいなら、どうして駄目なの? ・・生活のこと心配してるの? だったら大丈夫よ。そりゃ、ちょっと苦しいときもあるけど、この町に来てもう三年だもの。何とかやっていけるようになったじゃない。最初のうちは生活が安定してなくて、あたしも無理だと思ってたけど・・・」
「駄目だ!」
アイルの声は、はっきりと否定した。
ノーマの顔が悲しみで歪んだ。
「・・・あたしのこと、嫌いになったの?」
涙が頬をつたって落ちた。
「違う! そうじゃない!」
「だって・・」
アイルは激しく首を振って、涙ぐむノーマを強く抱きしめた。
「そうじゃないんだ。誤解したなら、謝るよ。・・・俺だって、君の事を愛してる。君に子供を産んで欲しい。家族を作って、幸せに暮らしたい。だけど・・」
アイルは言い淀んで、言葉を切った。
「だけど?」
「・・この町じゃ、駄目だ」
ノーマが顔をあげた。
「どういうこと?」
「この町では駄目だ」
アイルは首を振って、言葉を続けた。
「俺達は今、賞金稼ぎなんて危険の多い仕事をしてる。いつ命を落としてもおかしくないような仕事だ。子供が出来たら、俺はきっと家庭を大切にする子煩悩な親になるよ。
・・子供や、母親になるお前のことが今以上に大切なる。そうしたらきっと、子供達のためにもノーマには危険な仕事をして欲しくなくなるだろう。
自分だけで仕事をするようになって、だけど家族の為に今よりずっと一生懸命仕事をするだろうな。それで仕事がつらいときには家族のことを考えたりしてさ・・」
アイルはノーマの目を覗き込んだ。瞳がひどく優しい。それだけで彼が恋人のことをどれほど大切にしているかが伺い知れた。
「それでいつか、仕事中に失敗して命を落としそうだ。・・・俺ならきっと、やりそうなことだよな。そうするとあとに残す君達が心配で、いてもたってもいられない」
「そんな・・・そんなこと・・」
アイルは微笑んで、ノーマの涙をぬぐった。
「だから、家族を作るのはもう少し待って欲しいんだ。ここであと何年か仕事をして金を貯めて、どこか田舎の・・・のどかな星へ行こう。それから家族を作るんだ。きっと幸せな家庭を作って見せるから」
アイルの言葉を聞いて、ノーマは弱々しく微笑んだ。
彼女がが今も感じている不安はいっこうに小さくならなかったが、それでもアイルの優しさに触れた彼女は、恋人のために微笑んで見せた。
アイルの言いたいことはノーマにも理解できた。
自分たちが望んでいる「幸せな」家庭を作るためには、この町は似合わないと言っているのだ。ここは、そんな平穏な生活が出来る場所ではないのだと。
だが、それでも・・。
ノーマは心の中で、静かに首を振った。
この町で、ノーマが望むようなささやかな生活を手にいれることは不可能なのだろうか。嘘でも、方便でもいい。ノーマにも、いまはまだ子供を産むことが無理なのは分かっていた。けれど、無理と分かっていてもいいから、言ってみたかったのだ。アイルに、頷いて欲しかったのだ。
頷いて貰って、自分の不安をぬぐって欲しかった。
自分たちには、未来が待っているのだと言って欲しかった。
そうすれば、悪夢のことなど忘れることが出来るような気がした。
「もう寝ましょう。明日からまた賞金首を追い回す生活が始めるんだから」
ノーマは疼くような痛みを胸に抱えながらもそう言った。
再び悪夢を見ないように。忙しくて厳しい現実に目を向けることで、悪夢のことを忘れることが出来るようにと願いながら。
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「立ち止まったら駄目だ。走り続けろ」
再び恋人の叱責が聞こえて、ノーマはわけも分からず走り出した。
闇の中、あちこちでサーチライトが交錯している。夜風が彼女の頬を撫でつけ、心地良かった。
だがそんな心とは裏腹に、体はオーバーヒート寸前だ。
・・もうどのくらい走り続けているのか覚えていない。
恋人の声にせき立てられながら疾走し、心臓は破裂しそうなほど早い鼓動を打っていた。もう駄目だ。そう思うのは何度目だろう? その度にアイルは彼女の腕を引き、なおも走らせた。
そもそも、いったい何から逃げているのだろう? ノーマはそう考えた。
逃げていることは確かだ。
辺りには緊急警報が鳴り響いているし、サーチライトも何かを懸命に探している。それに、闇夜を包む空気が重く、切迫した雰囲気を彼女に与えていた。
また肉食獣かしら。
ノーマはそう思った。だが、この星に生息するグゥェルカリダと呼ばれる巨大肉食獣が出現した場合は、第八級緊急警報が鳴ることになっている。
じゃあ、何?
荒々しい息をしながら、もつれる足で走り続け、彼女は考えた。
いったい何から逃げるためにあたし達は走っているのかしら。
第一級警報が何のときに鳴らされるのか、どうしても思い出せなかった。
夜露に湿った草叢を通り過ぎると、やがて足元はコンクリートの地面に変わっていた。サーチライトが備えつけられている塔の間を幾つも縫って、二人は走っていった。
ノーマは奇妙なことに気がついた。
自分たちはサーチライトの照らす明かりの間を縫って走っている。これではまるで、逃げているのは自分たちの方みたいではないか。
『逃げている』?
ノーマは自問した。
そう。自分たちは逃げているんだ。最初からそうだった。
だが、何から逃げているのだったろう? それだけがどうにも思い出せなかった。
コンクリートの小路をいくつか抜けると、ばったりと人に出会った。肩に大型のレーザー銃をかついでいる。着ている制服で判別がつく。警備兵だ。
自分たちを見付けた警備兵は一瞬驚き、すぐに恐怖に顔を引きつらせた。口が大きく開き、悲鳴が漏れると思った瞬間、ノーマの隣から人影が踊り出て、男の頭を掴むと強く地面に叩きつけた。
鈍い音がして、つぶれたオレンジみたいに血と脳が飛び散った。
「アイル! なんて事するの!」
ノーマは初めて声を出した。悲哀のこもった悲鳴だった。
返り血を浴びたアイルが振り向いた。苦しげな瞳がノーマを見つめる。
「いまさら、どうやったって引き返せないよ。ノーマ」
闇よりも深い声だった。どうやったらこんな悲しい声がだせるのかと思うほどだった。そう思うと、ノーマの胸は潰れそうに痛んだ。
そうだ。引き返す道なんてないのだ。
ノーマは黙り込んだ。
その場にうずくまった彼女を、アイルの血だらけの手が立ち上がらせた。
「前に進まなければ。走って走って、逃げ続けるんだ。でないと・・」
言葉が途中で途切れ、驚いたノーマは顔を上げて恋人を見た。
突然あたりが暗くなり完全な闇に閉ざされた。
彼女の目の前にいるのは恋人ではなかった。セリアが、氷のような冷たい瞳でノーマを見ていた。
「でないと・・」セリアが恋人の言葉の続きを言った。
「命が幾つあっても足りない事になる」
それはアイルの言葉だった。・・いや、昼間セリアが言った言葉でもある。
ノーマの頭にこの言葉が響いた。
闇の中でセリアがゆっくりと手を上げて、ノーマの前で開いて見せた。
真っ赤だった。
ノーマは悲鳴をあげた。
「どうしたんだ。ノーマ?」
アイルが体を揺さぶるのと、ノーマが彼女自身の声で目を覚ますのとが同時だった。
「ひどくうなされていたよ」
アイルはベッドの脇の電灯のスイッチを入れ、心配そうに彼女を覗き込んだ。
ノーマは息を切らせながら起きあがり、したたり落ちる額の汗をぬぐった。いつの間にか、体中に汗をかいていた。
彼女は両手で顔を覆い、呼吸が整うまでじっとしていた。その間アイルがやさしく彼女の背中を撫でてくれた。
「大丈夫かい?」
その声は心からノーマを心配していた。
「・・ええ・・・」
ノーマは途切れ途切れに返事を返した。
「いったいどうしたんだ? ずいぶんひどく唸されていたけど」
「・・」
ノーマは恋人の顔を見上げた。
確かにアイルだ。血だらけの手をしたセリアではない。
「夢を・・・嫌な夢を見たのよ」
ノーマは掠れた声で言った。
「昼間、あんなものを見たからかしら」
ノーマが何のことを言っているのか、アイルにも分かった。昼間セリアが三人の人間をいとも簡単に殺した時のことを言っているのだ。
「どんな夢?」
アイルは優しく尋ねた。
こんなときは、悪夢を心の内に閉じこめておくより、誰かに話したほうがずっと安心できるものだ。
ノーマは無言でアイルの顔を見上げた。
肩が激しく上下している。汗に濡れた顔が、少し悲しそうに陰った。
ノーマは静かに首を振って言った。
「昼間見たのと同じものよ」
本当は違う。
夢の中でノーマは目の前の恋人と一緒に何かから逃げていた。
だが、それはなぜかアイルには言ってはいけない事のような気がした。
アイルを心配させてしまうだろうと言う事はもちろんだが、それ以外にもよく分からない理由があるようで、話すことをためらわれた。
底知れぬ不安が、彼女の胸をじわじわと絞めつけた。
まるで少しずつ崖に向かって追いつめられる、狩りの獲物のようだと彼女は思った。
暗い闇が、足元の地面を崩していき、自分たちを逃げ場の無い方に向かって追いつめていく。・・そんな不安だった。
あたし達は逃げるようにして故郷を出てきた。そしてこの町で、幸せになるはずだった。だが本当は、少しずつ自分たちを追いつめて行っているのではないだろうか。
そう遠くない将来、今の裕福ではないが幸せな、ささやかな生活が失われてしまって、二度と手に入らなくなるのではないか。
そんな思いがノーマの脳裏をよぎった。
いつかどうにも進めなくなって、この町に住む大半の者に待ち受けている惨めな死が、自分たちの頭上にも、降ってくるのではないか。
悪夢はそんな予感ではなかったか。
不安に胸が締めつけられるような苦しみを感じるノーマの心に、ふいに言葉が浮び上がった。
でも、それでもいい。この人と一緒にいられるのなら。どんな未来が待ち受けていても、後悔なんてしない。既にそれだけのことを、自分たちはしてきたのだ。それだけの犠牲を払って・・。
ノーマは顔を上げた。今なぜ、そんな言葉が浮かんできたのか。
どこにもおかしいところはない。もちろん、私は恋人と人生を供にするのだと誓ったのだ。だが・・。
何かが、心にひっかかった。
何かを、自分は見落としている。それもひどく重要なことを。
心の底で、何かがちりちりと警告を発した。それ以上、このことを考えてはいけない。警告はそう言っていた。でないと、大切なものを失ってしまうかも知れない。
自分の中に、感知できない部分がある。エンドレスの不安はまた、彼女をさいなみ始めた。
ノーマはもう一度恋人の顔を見上げた。ただもう夢中で、アイルの唇に自分の唇を重ね合わせた。
何とかして、この不安をぬぐい去ってしまいたかった。
「どうしたんだい? ノーマ」
アイルはそう言いながら、ノーマを抱き寄せると、彼女を安心させるようにキスを返した。
しばらく恋人の愛撫に身をまかせていたノーマがぽつりと口を開いた。
「ねえ、アイル・・・」
「なんだい?」
アイルは隣の息づかいに向かって声をかけた。
「あのね・・・」
ノーマの声が震えた。言葉を言い出せず、躊躇していた。
「あのね。あたし、あなたの子供が欲しいわ」
突然の言葉に、アイルはなんと言葉を返して良いのか迷った。
「あなたの子供が欲しいわ」
もう一度、言葉が繰り返された。
アイルはノーマの顔を凝視した。
「いま急に思ったことじゃないのよ。前から、一度あなたに話してみたいと思っていたことなの。だってあたしたち、いつかは結婚するつもりだし、アイルだってそうだって言ってくれてたじゃない。・・・どうしたの? あなたは欲しくないの?」
ノーマの声に、悲しみが宿った。
「もちろん、欲しい・・・」
アイルは言葉を詰まらせながら答えを返した。
「だけど、まだだ。今は駄目だ・・」
「どうして?」
ノーマの声の語尾が強まった。
「欲しいなら、どうして駄目なの? ・・生活のこと心配してるの? だったら大丈夫よ。そりゃ、ちょっと苦しいときもあるけど、この町に来てもう三年だもの。何とかやっていけるようになったじゃない。最初のうちは生活が安定してなくて、あたしも無理だと思ってたけど・・・」
「駄目だ!」
アイルの声は、はっきりと否定した。
ノーマの顔が悲しみで歪んだ。
「・・・あたしのこと、嫌いになったの?」
涙が頬をつたって落ちた。
「違う! そうじゃない!」
「だって・・」
アイルは激しく首を振って、涙ぐむノーマを強く抱きしめた。
「そうじゃないんだ。誤解したなら、謝るよ。・・・俺だって、君の事を愛してる。君に子供を産んで欲しい。家族を作って、幸せに暮らしたい。だけど・・」
アイルは言い淀んで、言葉を切った。
「だけど?」
「・・この町じゃ、駄目だ」
ノーマが顔をあげた。
「どういうこと?」
「この町では駄目だ」
アイルは首を振って、言葉を続けた。
「俺達は今、賞金稼ぎなんて危険の多い仕事をしてる。いつ命を落としてもおかしくないような仕事だ。子供が出来たら、俺はきっと家庭を大切にする子煩悩な親になるよ。
・・子供や、母親になるお前のことが今以上に大切なる。そうしたらきっと、子供達のためにもノーマには危険な仕事をして欲しくなくなるだろう。
自分だけで仕事をするようになって、だけど家族の為に今よりずっと一生懸命仕事をするだろうな。それで仕事がつらいときには家族のことを考えたりしてさ・・」
アイルはノーマの目を覗き込んだ。瞳がひどく優しい。それだけで彼が恋人のことをどれほど大切にしているかが伺い知れた。
「それでいつか、仕事中に失敗して命を落としそうだ。・・・俺ならきっと、やりそうなことだよな。そうするとあとに残す君達が心配で、いてもたってもいられない」
「そんな・・・そんなこと・・」
アイルは微笑んで、ノーマの涙をぬぐった。
「だから、家族を作るのはもう少し待って欲しいんだ。ここであと何年か仕事をして金を貯めて、どこか田舎の・・・のどかな星へ行こう。それから家族を作るんだ。きっと幸せな家庭を作って見せるから」
アイルの言葉を聞いて、ノーマは弱々しく微笑んだ。
彼女がが今も感じている不安はいっこうに小さくならなかったが、それでもアイルの優しさに触れた彼女は、恋人のために微笑んで見せた。
アイルの言いたいことはノーマにも理解できた。
自分たちが望んでいる「幸せな」家庭を作るためには、この町は似合わないと言っているのだ。ここは、そんな平穏な生活が出来る場所ではないのだと。
だが、それでも・・。
ノーマは心の中で、静かに首を振った。
この町で、ノーマが望むようなささやかな生活を手にいれることは不可能なのだろうか。嘘でも、方便でもいい。ノーマにも、いまはまだ子供を産むことが無理なのは分かっていた。けれど、無理と分かっていてもいいから、言ってみたかったのだ。アイルに、頷いて欲しかったのだ。
頷いて貰って、自分の不安をぬぐって欲しかった。
自分たちには、未来が待っているのだと言って欲しかった。
そうすれば、悪夢のことなど忘れることが出来るような気がした。
「もう寝ましょう。明日からまた賞金首を追い回す生活が始めるんだから」
ノーマは疼くような痛みを胸に抱えながらもそう言った。
再び悪夢を見ないように。忙しくて厳しい現実に目を向けることで、悪夢のことを忘れることが出来るようにと願いながら。
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