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第1部
12 語られる事も無き叙事詩 (2)
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「奇跡の御業?」
ベルダ司祭と天使アブリエルの声が重なった。そして、第三者の声が。
深く響くバリトンに、その場にいた全員が振り向いた。
僧房の戸口に佇むのは、息を切らせた勇者ワーナーだった。
どこか貴族的な雰囲気を伺わせる優美な風貌は、何かを確信したかのように眉を寄せ、厳しい顔つきでアレクシスを射る様に見つめていた。
「──やはり」
衆目が見つめる中、勇者はゆっくりとした足取りで室内へ入った。まっすぐとアレクシスの元へ歩みを進めた。
「勇者ワーナー?」
「君のだ──必要だろうと思い、持ってきた」
「やはり、とは?」
突き出された掌からこぼれ落ちたのは、アレクシスが首に掛けていた小さな護符だった。
「君の護符……彫られている紋章は『女神イシリ』だね」
アレクシスが片眉をあげた。
女神イシリ。
正式には堕天使イシリといい、元の名はイシュリエルと言った。原初の天使である。
まだ天使であった頃にネリスの建国に携わり、今でもこの国を守護していると言われる伝説の天使で、後に堕天した。
堕天使……つまり悪魔なのだが、ネリスではその偉業を讃えられ、女神と呼ばれる。だが今ではその叙事詩が語られることは少なく、女神の紋章がどんな形をしているかを知る者は、魔術師にさえ居ない。──旧王家断絶とともに失われたのだった。
「なぜあんたがそれを知っている?」
「私はこれでもこの国の勇者だよ? これは旧王家のみが所有を許された護符だ。つまり君は……」
アレクシスは言いかけた勇者の言葉を遮った。
「確かに、かつてこの国の王子がその護符を用いて、魔王を守護石に封じ込めたのは間違いありません。それが代々のダンジョンマスターに伝えられている事もね。ですが、それがあなたの言わんとしている事の証にはならないでしょう」
「なぜ?」
「俺は魔王ブラックファイアのダンジョンマスターですよ? 守護石を封じ続けるには、この護符がどうしても必要です。だからかつて魔王の守護石とともに護符も下賜された。それよりも俺は──あなたの方が、どうかと思いますが……」
「私?」
「ええ」
アレクシスは勇者ワーナーを意味ありげに見つめた。
勇者は皮肉げに唇を歪めて、アレクシスが次の言葉を言い始めるよりも先に口を開いた。
「それより、──これが必要ではないのかね? ベルクトスカが『粉砕の呪文』を唱え終わるのはもうすぐだ」
アレクシスは僅かに肩をすくめ、話題を変えた。
「トリニティに出会いましたか?」
「いや──?」
「……! あの馬鹿!」
アレクシスは顔色を変えると、ワーナーの差し出した護符を掴んで僧房を飛び出した。
「マスター・アレクシス!」
天使アブリエルが翼を広げ、後に続いた。天使が狭い僧房で翼を大きく広げ飛んだというのに、どこにもぶつからず誰にもその行く手を阻まれなかった。
天使の体を構成するものは、人間のそれとは違うというのか、まるで全てをすり抜けたかのようにして、主を追って飛び去った。
「お待ち下さい!」
天使アブリエルは先に飛び出したアレクシスを追った。
「今のは何です? 私に──その──なさった業は、まるで……」
「──奇跡の御業?」
「そう。そうです」
天使アブリエルはうろたえた様に頷いた。
アレクシスが使った業は、あれは魔法ではなかった。彼は魔法の呪文を唱えたわけではなく、古語で祈りを捧げただけだ。
だが通常、癒しの奇跡は神に祝福された僧侶のみが行える業で、魔術師には使えないはずだ。
「違う。あれは癒しの奇跡じゃない。女神イシリと交わした古い契約の力で──代償が必要だ」
「代償、ですか?」
「術者には『血』を。癒しの業を受ける者には『裁き』を」
「裁き? 女神イシリとは、かつての大天使イシュリエルのことでしょう?」
女神と呼ばれる堕天使が、どうして、なにを、裁くのか。
「彼女の意に沿う者か沿わない者かを問い、裁くのさ」
「沿わなければ──?」
「奇跡は起きない」
「その……だとしたら……、あの」
「──どうして自分の傷を癒さないのか?」
アブリエルが頷くと、アレクシスは皮肉そうに笑った。
「自分自身にはつかえない。神の奇跡じゃない以上、残念ながら万能じゃない」
「だから私をお求めになったのですか?」
「いや──どのみちダメだろう」
「え?」
「俺は魔王のダンジョンマスターだぞ? 神の加護は与えられない。以前俺に『治癒』の力を使って、殆ど効き目がなかったのを憶えているか?」
アレクシスに付き従いながら、天使アブリエルは数瞬、言葉を失った。
ダンジョンマスターといっても、アレクシス自身が悪に染まっている訳ではない。第一、魔王に従うのが彼の役目ではなく、封じるのが彼の役目ではなかったか。
それに、ごく短い期間でしかこの魔法使いを知らないとはいえ、アブリエルの知る限り、アレクシスは悪意に満ちた人物ではなかった。
奔放で他人の都合など考えもしない性格ではあるが、天使が堕天した途端憎むと言い切ったベルダ司祭よりは余程に誠実だろう。
人々が蔑み触れることさえ厭う『呪われた王女』に躊躇いもなく触れ、命を掛けて守ってやれる者などそうは居ないことくらい、アブリエルにだって分かっている。
それなのに、神の加護が与えられないとはどういうことか。
「そんな──。あなたは決して悪人などではありません。それなのに、魔王のダンジョンマスターだというだけで、神の加護が与えられないとはどういうことでしょう! 私だったら絶対にそんなことは──」
天使はその理不尽さに憤ったように首を横に振った。
そしてしばし黙り込んだ後、おもむろに両手を大きく広げ、後ろからしっかりとアレクシスを抱きしめた。
思わず振り返ったアレクシスの動きにあわせてアブリエルの手がゆっくりと落ちた。
ずるり、と力なく床に落ちた天使アブリエルを、アレクシスは驚いて見下ろした。
「おまえ──」
ぐったりとした様子で弱々しく笑うアブリエルを、アレクシスは憮然として睨み付けた。
「自分の生命を削ったのか」
アレクシスの背の傷は癒えていた。
自らの生命力を他者に与えるのは魔法ではない。魔法的な生物だからできるというのでもない。腹痛を訴える幼子に、母が掌を腹にあててやると痛みが和らぐ。人間にさえ使えるその力と根源は同じだ。
相手を想い、心を重ね、命を繋ぐ。
「──馬鹿な奴だ」
呆れたように吐き捨てたアレクシスの言葉には、戸惑いも、照れ臭さも、多分に含まれていた。
一方、アブリエルは床に倒れこんだまま、弱々しい笑みをアレクシスに向けた。
「どうぞお行き下さい。我が主よ」
*
「お願い止めて! ベルクトスカ! 魔王の守護石を破壊しようだなんて、それがどういうことになるか分からないのっ?」
トリニティが召喚部屋にルイスとともに飛び込んだ時、既に長い長い呪文は終わりに近づいていた。
通常、強大な呪文をアレクシスのように短時間で唱える事は出来ない。魔法の呪文とは全てが微妙なバランスで成り立っている。世界を構成する元素を組み替えるためには、繊細な手順を踏むことが必要だ。
とはいえ『粉砕の呪文』はかなり短い呪文で、魔力を封じ込めた物体を魔力ごと破壊してしまう時に使われる。物体に封じ込めた魔力がやっかいな──主に悪魔を封じ込めた──場合、中の悪魔ごと破壊してしまう、短いが有効で、無慈悲な呪文だった。
ベルクトスカは王女が室内に入ってきた事は気づいたようだったが、振り向いてはくれなかった。
トリニティには分かるはずもなかったが、意識を分散させる……すなわち、行使中の魔法以外のものへ向ける事は、微妙なバランスで成り立つ魔法に重大な影響を与えることになった。意識をトリニティへ向け振り返った途端──ベルクトスカは四散するだろう。
術が成功するかしないかは、術者と破壊しようとする対象物に閉じ込められている魔力の強さにかかっていた。
術者が勝てば対象物は秘められた魔力ごと粉砕され、負ければ術者が死ぬ。術者は呪文を唱えながら、封じられた魔力──すなわち悪魔──と戦わなければならなかった。
魔法円から発する青白い光の渦が激しく逆巻き、室内のあらゆるものが巻き上げられていた。
大きな魔法円の中に置かれた小さな守護石の中に封じられた巨大な魔力が、今にも守護石を破って外に出ようと膨れ上がり、室内の空気は異様に重く息苦しかった。
小振りな魔法円に閉じ込められた悪魔ディーバは両手で頭を覆い、糸を引くような長い長い苦鳴の叫びをあげていた。
人間の魔力だけでは魔王を封じた守護石を粉砕出来ないので、術者よりもまず先に、悪魔の魔力を使って術を行使したのだ。悪魔にはいい迷惑だが、術者の容量以上の魔力が必要な時にはしばしばとられる手法だった。
ベルクトスカはふらつきながらも、歯を食いしばって呪文を唱え続けていた。
一度始めた呪文は、最後まで唱えなければならない。途中で止める事は自らの死を意味する。
魔法に失敗すれば死。万が一成功したとしても、魔王相手に『粉砕の呪文』を使おうというのだ。無事に済むはずもない。どの道──彼は引き返すことが出来ないところまで来ていた。
魔王の破壊。
それは魔術師としての存在をかけて挑んだ戦いだ。後にはひけない。──いや、それだけではあるまい。
ベルクトスカはアレクシスに会ってしまった。
才能に恵まれ、将来を嘱望され、おそらく宮廷魔術師の中でも最強の力を持つ彼が、足元にも及ばないような強大な魔法使いに。
──屈辱を感じないはずがない。
彼はこの旅で何一つ王女の護衛を勤め上げる事が出来なかった。危険を伴ったこの旅で、彼は何の役にも立てなかった。ベルクトスカがこの旅でトリニティにしてやれた事は、彼女の乗る馬の手綱を引くことだけだ。
だからこそ、この無謀とも思える術に挑戦したのではないだろうか。
魔法円の中心で魔力を濁流の如く放出していた守護石が激しく揺れた。
悪魔ディーバの叫喚が一層大きくなり、悪魔の身体が弾け始めた。
「ああああああああっ!」
守護石から放出される魔力の中心が青白く歪んだ。その中心に何か、影のようなものが揺らいで現れた。
黒い影のようなものが広々と黒い翼を広げ蠢き、立ち上がるかのような動きを見せた。
──あれが、魔王?
トリニティは目を凝らした。
「やばいですよ、姫君! 逃げた方がいい!」
ルイスはトリニティの肩に手をあてて引っ張ったが、トリニティは魔法の奔流の中心に目を向けたまま、釘付けになっていた。
凝らした視線の先に、ゆらりと動く影。
あの中心にあるモノは何? 蠢くアレは何? あれが──魔王?
それが、こちらを向いた──ように見えた。
「──がふっ!」
トリニティは体を二つに折り曲げた。
言語に絶する、とはまさにこのこと。
魔法の渦の中心で揺らぐ『何か』がこちらを見、王女と視線が合った。
この世の憎悪の全て。
この世の邪悪の全て。
この世の全ての闇よりも昏い闇。
虚無というモノがもしも目に見える形で、それを誰かが目にしたことがあるなら、まさにその『目』こそがそうだと言うだろう。
生きているものが絶対に目にすべきではないモノ──。
絶望というにはあまりにも深い。憎悪してもなお埋め尽くせぬ深い哀しみ。その奥の闇。
膝を折り、失神しそうになりながらも、トリニティは歯を食いしばって立ち上がった。そして、ただただ幼馴染みを止めたいが為に、気力を振り絞って前へ駆け出した。
──魔法円へ向かって。
「──王女っ!」
その時初めて、魔術師ベルクトスカは呪文を止め王女を振り返った。
そして今しも魔法円へ飛び込もうとしているトリニティに向かって、真っ青な顔で両手を広げて飛び出した。──魔法円の外へ。
王女の目の前で、魔術師の身体が一瞬にして弾け飛び、真っ赤な飛沫がトリニティに降り注いだ。
呆然となった王女トリニティは一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
自らの体を朱に染め上げた肉片が何かを認識したトリニティは、狂気めいた悲鳴をあげた。
「バカ野郎っ! 何やってる!」
部屋に飛び込んできたアレクシスが、トリニティに駆け寄った。狂ったように悲鳴を上げ続ける少女の体は全身が朱に染まっている。そして、居るはずの宮廷魔術師はどこにもいない。
「立て! 逃げるんだ!」
叫んだが、トリニティの耳には届かない。激しく肩を揺さぶられても、大きく見開かれたトリニティの瞳は何も映さなかった。
「ウェリスが──! ああああああっ!」
「魔術師殿がミンチになったんだ!」
ルイスが手短に言った。
「自分から飛び出したのか……!」
アレクシスは厳しい目でトリニティを見下ろした。そしてやおら──。
「目を覚ませ!」
アレクシスはトリニティの頬を打った。乱暴にその体を抱え上げルイスに手渡す。
「ここを出ろ! 早く逃げるんだ!」
「喜んで!」
ルイスはトリニティの枯れ木のように軽い体を受け取り、しっかりと抱えあげた。
「お前は?」
「俺は奴をもう一度封印する」
「出来るのか──?」
アレクシスを見るルイスの顔が不安そうに歪んだ。
こんな時。いつも、誰よりも先に仲間を裏切り逃げ出すことで生き残ってきた男が、まだここに留まっている。いつもなら誰の手も握らない筈のルイスの腕には、しっかりとトリニティが抱きかかえられている。それを見たアレクシスが不敵に笑った。
「俺が今までに一度でも、こんな状況で失敗したことがあったか?」
「──」
ルイスが苦笑した。「グッドラック!」その言葉だけを言い捨てると、次の瞬間、トリニティの体を抱えあげたルイスが、蒼白な顔で……だが鬼気迫る表情で王女を抱きかかえ部屋を飛び出した。
アレクシスは振り返って魔法円の中心を見据えた。
「あんたの相手は俺だ!」
青白く耀く魔法の奔流は、それ自体が生きた炎の塊のようだった。アレクシスの肺腑が焦げるように痛んだが、それに歯を食いしばって耐えた。
「俺はダンジョンマスターだ。魔王ブラックファイアを封じるのが使命。ここで膝をついて、その目的が果たせなければ、今まで何のために生きてきたことになる──?」
すべては目の前のこいつを封じ、血塗られた宿業を終わらせるためではなかったか。
アレクシスの運命は残酷で無慈悲な宿業に縛られている。
大事な人間が増えれば増えるほど、その宿業は彼らを喰い潰すだろう。──地獄に落ちるよりも辛い、残酷な方法で。
魔術師ベルクトスカ。
彼とはこの旅で殆ど深く係わりは持たなかったはずだ。だが彼の人生が狂ったのは、間違いなくアレクシスと出会ったためだ。
天使アブリエルも悪魔ディーバも同様だ。少なくともアレクシスと出会わなければ、今回のような目に遭わずに済んだはずだった。
歴代のダンジョンマスターはみな短命で、凄絶な生涯を送る。
魔王の放つ負の力が、それを持つ者の人生を歪めるからだ。そしてそれは、彼らに係わった者達の人生をも歪める。
関わった者は否応なしに運命に引きずられる──。勇者ワーナーの言葉がアレクシスの胸を突き刺さした。
──では、彼女は?
王女トリニティ。
悪い癖が出たな、とルイスは言った。
ルイスの言葉を追い払おうとするかのようにアレクシスは首を振った。
「俺は自分に与えられた宿業から逃げ出す気はない。命に懸けて、必ず目的を達成してみせる。それが──彼の血の中に流れる、祖先たちへの唯一の報いだからだ。ダンジョンマスターは俺で最後だ。──絶対に!」
そのとき。
中心で揺らめく魔王の姿が正面を向いた。
視線が合った──。
そう感じたのはアレクシスの気のせいだろうか。奔流の中、目を凝らしたアレクシスは、魔法の渦の中心に佇む魔王の姿が一層はっきりと形作られるのを見た。
魔術による統制を失った魔王の守護石から、魔力が一気に迸った。
建物が軋む。巨大な竜巻にでもあおられたかのようだ。天上から、壁面から、煉瓦が落ちていく。ここが倒壊するのも時間の問題だった。
アレクシスは目前の魔王のことだけに全神経を集中した。
魔王クラスの悪魔に、人間が使う子供の遊戯のような魔法は通じない。使えるのは唯一つ。
三百年前に魔王を封じた聖句。旧王家に伝えられたという、かつての大天使イシュリエルが悪魔を調伏する時に使ったとされるその言葉。
「お前は自ら望んで封じられたんだろ? だったら、大人しくもう一度眠っちまえ!」
アレクシスは女神イシリの紋章を刻んだ護符を掲げ、その言葉を唱えた。
建物全体が揺れ、空気が裂けんばかりに鳴動した。
かつてアレクシスが悪魔ディーバを貴石に閉じ込めた時の何十倍もの巨大な力が、一気に守護石に吸い込まれた。
部屋中のものもそれに巻き込まれた。
崩れた天上の瓦礫が渦巻きながら木の葉のように宙を舞った。
幾片もの大小の瓦礫が逆巻き、落ち、アレクシスを叩きつける。
防御の魔法を使おうとしたものの、竜巻のただ中のようなこの状況で、立っていることさえ出来ない。瓦礫の一つがアレクシスの頭部を打った。
衝撃と、意識の暗転──。
消え行く意識の中。守護石に吸い込まれていく魔王の手が、アレクシスの方へ伸ばされたように見えたのは、気のせいだったろうか。
「アレク! アレクが!」
ルイスに抱えられて廊下に出たトリニティが正気に戻った。ルイスの腕の中で必死に暴れて、部屋へ戻ろうと足掻いた。
「うわっ。王女、動かないで!」
「アレク! アレクが! ウェリスが──!」
声も嗄れんばかりに叫んで、トリニティは泣きじゃくった。
「死んじゃう! ウェリスのように──死んでしまうわ!」
「あいつなら、大丈夫ですって!」
叫ぶように言いながらも、ルイスは暴れるトリニティをけして離さず、走る速度も緩めなかった。
「あいつは魔王のダンジョンマスターでしょ? 奴が魔王を封じられなくて、誰がそれをするんです?」
「だけど……だけど──」
「あいつを信じてやれよ!」
「信じる──?」
金のために、彼を裏切って、彼に切りつけたのは一体誰だったか。それをたった一時間も経たないほど前にしてのけたのは誰だったか。
その言葉を──それを、他ならぬルイスが言うのか。
ルイスが自嘲めいた笑みを浮かべた。
「俺がこんな事を言うのはおかしい?」
「──」トリニティは力なくかぶりを振った。「ううん……そんなことないわ」
生きていくために裏切りを友としても、それは決して彼が心から望んで選んだ生き方ではないのだ。自らの意思に忠実に、奔放に生きるアレクシスから目が離せないと……そう言ったルイスの心の中も、アレクシス同様に熱い。
「いい──彼を信じる。彼は死んだりしないと信じるわ」
ルイスがニッと笑った。
「じゃ、行きますか!」
ルイスが疾走の速度をさらに速めた時、建物全体が揺れ、空気が裂けんばかりに鳴動した。
「な、なんだ」
建物が一斉に崩壊を始める。崩落した天上の大きな塊が二人の上に落ちてきた。トリニティが悲鳴をあげた。
何かが二人の上を覆い、瓦礫を粉砕した。その巨大な体躯は──。ルイスが驚きに目を見張った。
「ギグ?」
「ご無事で、王女!」
現れたのは勇者ワーナー。硬質の甲殻で覆われた巨大なモンスター、ギグ・ザ・グラッドに労いの声を掛けるのをみて、ルイスは呆れ顔になった。
「じゃ、そのギグは勇者様の召喚獣? こりゃまたなんて無骨で──実用的な」
安堵もつかの間、建物は次々に崩壊していく。もはや走って建物の外へ逃げる事は出来ないだろう。勇者ワーナーが張り詰めた声で叫んだ。
「ギグの下へ潜り込んで!」
ルイスはトリニティを抱えたままその言葉に従った。硬さで勇を競うこのモンスターが、耐え切れることを願って。
「奇跡の御業?」
ベルダ司祭と天使アブリエルの声が重なった。そして、第三者の声が。
深く響くバリトンに、その場にいた全員が振り向いた。
僧房の戸口に佇むのは、息を切らせた勇者ワーナーだった。
どこか貴族的な雰囲気を伺わせる優美な風貌は、何かを確信したかのように眉を寄せ、厳しい顔つきでアレクシスを射る様に見つめていた。
「──やはり」
衆目が見つめる中、勇者はゆっくりとした足取りで室内へ入った。まっすぐとアレクシスの元へ歩みを進めた。
「勇者ワーナー?」
「君のだ──必要だろうと思い、持ってきた」
「やはり、とは?」
突き出された掌からこぼれ落ちたのは、アレクシスが首に掛けていた小さな護符だった。
「君の護符……彫られている紋章は『女神イシリ』だね」
アレクシスが片眉をあげた。
女神イシリ。
正式には堕天使イシリといい、元の名はイシュリエルと言った。原初の天使である。
まだ天使であった頃にネリスの建国に携わり、今でもこの国を守護していると言われる伝説の天使で、後に堕天した。
堕天使……つまり悪魔なのだが、ネリスではその偉業を讃えられ、女神と呼ばれる。だが今ではその叙事詩が語られることは少なく、女神の紋章がどんな形をしているかを知る者は、魔術師にさえ居ない。──旧王家断絶とともに失われたのだった。
「なぜあんたがそれを知っている?」
「私はこれでもこの国の勇者だよ? これは旧王家のみが所有を許された護符だ。つまり君は……」
アレクシスは言いかけた勇者の言葉を遮った。
「確かに、かつてこの国の王子がその護符を用いて、魔王を守護石に封じ込めたのは間違いありません。それが代々のダンジョンマスターに伝えられている事もね。ですが、それがあなたの言わんとしている事の証にはならないでしょう」
「なぜ?」
「俺は魔王ブラックファイアのダンジョンマスターですよ? 守護石を封じ続けるには、この護符がどうしても必要です。だからかつて魔王の守護石とともに護符も下賜された。それよりも俺は──あなたの方が、どうかと思いますが……」
「私?」
「ええ」
アレクシスは勇者ワーナーを意味ありげに見つめた。
勇者は皮肉げに唇を歪めて、アレクシスが次の言葉を言い始めるよりも先に口を開いた。
「それより、──これが必要ではないのかね? ベルクトスカが『粉砕の呪文』を唱え終わるのはもうすぐだ」
アレクシスは僅かに肩をすくめ、話題を変えた。
「トリニティに出会いましたか?」
「いや──?」
「……! あの馬鹿!」
アレクシスは顔色を変えると、ワーナーの差し出した護符を掴んで僧房を飛び出した。
「マスター・アレクシス!」
天使アブリエルが翼を広げ、後に続いた。天使が狭い僧房で翼を大きく広げ飛んだというのに、どこにもぶつからず誰にもその行く手を阻まれなかった。
天使の体を構成するものは、人間のそれとは違うというのか、まるで全てをすり抜けたかのようにして、主を追って飛び去った。
「お待ち下さい!」
天使アブリエルは先に飛び出したアレクシスを追った。
「今のは何です? 私に──その──なさった業は、まるで……」
「──奇跡の御業?」
「そう。そうです」
天使アブリエルはうろたえた様に頷いた。
アレクシスが使った業は、あれは魔法ではなかった。彼は魔法の呪文を唱えたわけではなく、古語で祈りを捧げただけだ。
だが通常、癒しの奇跡は神に祝福された僧侶のみが行える業で、魔術師には使えないはずだ。
「違う。あれは癒しの奇跡じゃない。女神イシリと交わした古い契約の力で──代償が必要だ」
「代償、ですか?」
「術者には『血』を。癒しの業を受ける者には『裁き』を」
「裁き? 女神イシリとは、かつての大天使イシュリエルのことでしょう?」
女神と呼ばれる堕天使が、どうして、なにを、裁くのか。
「彼女の意に沿う者か沿わない者かを問い、裁くのさ」
「沿わなければ──?」
「奇跡は起きない」
「その……だとしたら……、あの」
「──どうして自分の傷を癒さないのか?」
アブリエルが頷くと、アレクシスは皮肉そうに笑った。
「自分自身にはつかえない。神の奇跡じゃない以上、残念ながら万能じゃない」
「だから私をお求めになったのですか?」
「いや──どのみちダメだろう」
「え?」
「俺は魔王のダンジョンマスターだぞ? 神の加護は与えられない。以前俺に『治癒』の力を使って、殆ど効き目がなかったのを憶えているか?」
アレクシスに付き従いながら、天使アブリエルは数瞬、言葉を失った。
ダンジョンマスターといっても、アレクシス自身が悪に染まっている訳ではない。第一、魔王に従うのが彼の役目ではなく、封じるのが彼の役目ではなかったか。
それに、ごく短い期間でしかこの魔法使いを知らないとはいえ、アブリエルの知る限り、アレクシスは悪意に満ちた人物ではなかった。
奔放で他人の都合など考えもしない性格ではあるが、天使が堕天した途端憎むと言い切ったベルダ司祭よりは余程に誠実だろう。
人々が蔑み触れることさえ厭う『呪われた王女』に躊躇いもなく触れ、命を掛けて守ってやれる者などそうは居ないことくらい、アブリエルにだって分かっている。
それなのに、神の加護が与えられないとはどういうことか。
「そんな──。あなたは決して悪人などではありません。それなのに、魔王のダンジョンマスターだというだけで、神の加護が与えられないとはどういうことでしょう! 私だったら絶対にそんなことは──」
天使はその理不尽さに憤ったように首を横に振った。
そしてしばし黙り込んだ後、おもむろに両手を大きく広げ、後ろからしっかりとアレクシスを抱きしめた。
思わず振り返ったアレクシスの動きにあわせてアブリエルの手がゆっくりと落ちた。
ずるり、と力なく床に落ちた天使アブリエルを、アレクシスは驚いて見下ろした。
「おまえ──」
ぐったりとした様子で弱々しく笑うアブリエルを、アレクシスは憮然として睨み付けた。
「自分の生命を削ったのか」
アレクシスの背の傷は癒えていた。
自らの生命力を他者に与えるのは魔法ではない。魔法的な生物だからできるというのでもない。腹痛を訴える幼子に、母が掌を腹にあててやると痛みが和らぐ。人間にさえ使えるその力と根源は同じだ。
相手を想い、心を重ね、命を繋ぐ。
「──馬鹿な奴だ」
呆れたように吐き捨てたアレクシスの言葉には、戸惑いも、照れ臭さも、多分に含まれていた。
一方、アブリエルは床に倒れこんだまま、弱々しい笑みをアレクシスに向けた。
「どうぞお行き下さい。我が主よ」
*
「お願い止めて! ベルクトスカ! 魔王の守護石を破壊しようだなんて、それがどういうことになるか分からないのっ?」
トリニティが召喚部屋にルイスとともに飛び込んだ時、既に長い長い呪文は終わりに近づいていた。
通常、強大な呪文をアレクシスのように短時間で唱える事は出来ない。魔法の呪文とは全てが微妙なバランスで成り立っている。世界を構成する元素を組み替えるためには、繊細な手順を踏むことが必要だ。
とはいえ『粉砕の呪文』はかなり短い呪文で、魔力を封じ込めた物体を魔力ごと破壊してしまう時に使われる。物体に封じ込めた魔力がやっかいな──主に悪魔を封じ込めた──場合、中の悪魔ごと破壊してしまう、短いが有効で、無慈悲な呪文だった。
ベルクトスカは王女が室内に入ってきた事は気づいたようだったが、振り向いてはくれなかった。
トリニティには分かるはずもなかったが、意識を分散させる……すなわち、行使中の魔法以外のものへ向ける事は、微妙なバランスで成り立つ魔法に重大な影響を与えることになった。意識をトリニティへ向け振り返った途端──ベルクトスカは四散するだろう。
術が成功するかしないかは、術者と破壊しようとする対象物に閉じ込められている魔力の強さにかかっていた。
術者が勝てば対象物は秘められた魔力ごと粉砕され、負ければ術者が死ぬ。術者は呪文を唱えながら、封じられた魔力──すなわち悪魔──と戦わなければならなかった。
魔法円から発する青白い光の渦が激しく逆巻き、室内のあらゆるものが巻き上げられていた。
大きな魔法円の中に置かれた小さな守護石の中に封じられた巨大な魔力が、今にも守護石を破って外に出ようと膨れ上がり、室内の空気は異様に重く息苦しかった。
小振りな魔法円に閉じ込められた悪魔ディーバは両手で頭を覆い、糸を引くような長い長い苦鳴の叫びをあげていた。
人間の魔力だけでは魔王を封じた守護石を粉砕出来ないので、術者よりもまず先に、悪魔の魔力を使って術を行使したのだ。悪魔にはいい迷惑だが、術者の容量以上の魔力が必要な時にはしばしばとられる手法だった。
ベルクトスカはふらつきながらも、歯を食いしばって呪文を唱え続けていた。
一度始めた呪文は、最後まで唱えなければならない。途中で止める事は自らの死を意味する。
魔法に失敗すれば死。万が一成功したとしても、魔王相手に『粉砕の呪文』を使おうというのだ。無事に済むはずもない。どの道──彼は引き返すことが出来ないところまで来ていた。
魔王の破壊。
それは魔術師としての存在をかけて挑んだ戦いだ。後にはひけない。──いや、それだけではあるまい。
ベルクトスカはアレクシスに会ってしまった。
才能に恵まれ、将来を嘱望され、おそらく宮廷魔術師の中でも最強の力を持つ彼が、足元にも及ばないような強大な魔法使いに。
──屈辱を感じないはずがない。
彼はこの旅で何一つ王女の護衛を勤め上げる事が出来なかった。危険を伴ったこの旅で、彼は何の役にも立てなかった。ベルクトスカがこの旅でトリニティにしてやれた事は、彼女の乗る馬の手綱を引くことだけだ。
だからこそ、この無謀とも思える術に挑戦したのではないだろうか。
魔法円の中心で魔力を濁流の如く放出していた守護石が激しく揺れた。
悪魔ディーバの叫喚が一層大きくなり、悪魔の身体が弾け始めた。
「ああああああああっ!」
守護石から放出される魔力の中心が青白く歪んだ。その中心に何か、影のようなものが揺らいで現れた。
黒い影のようなものが広々と黒い翼を広げ蠢き、立ち上がるかのような動きを見せた。
──あれが、魔王?
トリニティは目を凝らした。
「やばいですよ、姫君! 逃げた方がいい!」
ルイスはトリニティの肩に手をあてて引っ張ったが、トリニティは魔法の奔流の中心に目を向けたまま、釘付けになっていた。
凝らした視線の先に、ゆらりと動く影。
あの中心にあるモノは何? 蠢くアレは何? あれが──魔王?
それが、こちらを向いた──ように見えた。
「──がふっ!」
トリニティは体を二つに折り曲げた。
言語に絶する、とはまさにこのこと。
魔法の渦の中心で揺らぐ『何か』がこちらを見、王女と視線が合った。
この世の憎悪の全て。
この世の邪悪の全て。
この世の全ての闇よりも昏い闇。
虚無というモノがもしも目に見える形で、それを誰かが目にしたことがあるなら、まさにその『目』こそがそうだと言うだろう。
生きているものが絶対に目にすべきではないモノ──。
絶望というにはあまりにも深い。憎悪してもなお埋め尽くせぬ深い哀しみ。その奥の闇。
膝を折り、失神しそうになりながらも、トリニティは歯を食いしばって立ち上がった。そして、ただただ幼馴染みを止めたいが為に、気力を振り絞って前へ駆け出した。
──魔法円へ向かって。
「──王女っ!」
その時初めて、魔術師ベルクトスカは呪文を止め王女を振り返った。
そして今しも魔法円へ飛び込もうとしているトリニティに向かって、真っ青な顔で両手を広げて飛び出した。──魔法円の外へ。
王女の目の前で、魔術師の身体が一瞬にして弾け飛び、真っ赤な飛沫がトリニティに降り注いだ。
呆然となった王女トリニティは一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
自らの体を朱に染め上げた肉片が何かを認識したトリニティは、狂気めいた悲鳴をあげた。
「バカ野郎っ! 何やってる!」
部屋に飛び込んできたアレクシスが、トリニティに駆け寄った。狂ったように悲鳴を上げ続ける少女の体は全身が朱に染まっている。そして、居るはずの宮廷魔術師はどこにもいない。
「立て! 逃げるんだ!」
叫んだが、トリニティの耳には届かない。激しく肩を揺さぶられても、大きく見開かれたトリニティの瞳は何も映さなかった。
「ウェリスが──! ああああああっ!」
「魔術師殿がミンチになったんだ!」
ルイスが手短に言った。
「自分から飛び出したのか……!」
アレクシスは厳しい目でトリニティを見下ろした。そしてやおら──。
「目を覚ませ!」
アレクシスはトリニティの頬を打った。乱暴にその体を抱え上げルイスに手渡す。
「ここを出ろ! 早く逃げるんだ!」
「喜んで!」
ルイスはトリニティの枯れ木のように軽い体を受け取り、しっかりと抱えあげた。
「お前は?」
「俺は奴をもう一度封印する」
「出来るのか──?」
アレクシスを見るルイスの顔が不安そうに歪んだ。
こんな時。いつも、誰よりも先に仲間を裏切り逃げ出すことで生き残ってきた男が、まだここに留まっている。いつもなら誰の手も握らない筈のルイスの腕には、しっかりとトリニティが抱きかかえられている。それを見たアレクシスが不敵に笑った。
「俺が今までに一度でも、こんな状況で失敗したことがあったか?」
「──」
ルイスが苦笑した。「グッドラック!」その言葉だけを言い捨てると、次の瞬間、トリニティの体を抱えあげたルイスが、蒼白な顔で……だが鬼気迫る表情で王女を抱きかかえ部屋を飛び出した。
アレクシスは振り返って魔法円の中心を見据えた。
「あんたの相手は俺だ!」
青白く耀く魔法の奔流は、それ自体が生きた炎の塊のようだった。アレクシスの肺腑が焦げるように痛んだが、それに歯を食いしばって耐えた。
「俺はダンジョンマスターだ。魔王ブラックファイアを封じるのが使命。ここで膝をついて、その目的が果たせなければ、今まで何のために生きてきたことになる──?」
すべては目の前のこいつを封じ、血塗られた宿業を終わらせるためではなかったか。
アレクシスの運命は残酷で無慈悲な宿業に縛られている。
大事な人間が増えれば増えるほど、その宿業は彼らを喰い潰すだろう。──地獄に落ちるよりも辛い、残酷な方法で。
魔術師ベルクトスカ。
彼とはこの旅で殆ど深く係わりは持たなかったはずだ。だが彼の人生が狂ったのは、間違いなくアレクシスと出会ったためだ。
天使アブリエルも悪魔ディーバも同様だ。少なくともアレクシスと出会わなければ、今回のような目に遭わずに済んだはずだった。
歴代のダンジョンマスターはみな短命で、凄絶な生涯を送る。
魔王の放つ負の力が、それを持つ者の人生を歪めるからだ。そしてそれは、彼らに係わった者達の人生をも歪める。
関わった者は否応なしに運命に引きずられる──。勇者ワーナーの言葉がアレクシスの胸を突き刺さした。
──では、彼女は?
王女トリニティ。
悪い癖が出たな、とルイスは言った。
ルイスの言葉を追い払おうとするかのようにアレクシスは首を振った。
「俺は自分に与えられた宿業から逃げ出す気はない。命に懸けて、必ず目的を達成してみせる。それが──彼の血の中に流れる、祖先たちへの唯一の報いだからだ。ダンジョンマスターは俺で最後だ。──絶対に!」
そのとき。
中心で揺らめく魔王の姿が正面を向いた。
視線が合った──。
そう感じたのはアレクシスの気のせいだろうか。奔流の中、目を凝らしたアレクシスは、魔法の渦の中心に佇む魔王の姿が一層はっきりと形作られるのを見た。
魔術による統制を失った魔王の守護石から、魔力が一気に迸った。
建物が軋む。巨大な竜巻にでもあおられたかのようだ。天上から、壁面から、煉瓦が落ちていく。ここが倒壊するのも時間の問題だった。
アレクシスは目前の魔王のことだけに全神経を集中した。
魔王クラスの悪魔に、人間が使う子供の遊戯のような魔法は通じない。使えるのは唯一つ。
三百年前に魔王を封じた聖句。旧王家に伝えられたという、かつての大天使イシュリエルが悪魔を調伏する時に使ったとされるその言葉。
「お前は自ら望んで封じられたんだろ? だったら、大人しくもう一度眠っちまえ!」
アレクシスは女神イシリの紋章を刻んだ護符を掲げ、その言葉を唱えた。
建物全体が揺れ、空気が裂けんばかりに鳴動した。
かつてアレクシスが悪魔ディーバを貴石に閉じ込めた時の何十倍もの巨大な力が、一気に守護石に吸い込まれた。
部屋中のものもそれに巻き込まれた。
崩れた天上の瓦礫が渦巻きながら木の葉のように宙を舞った。
幾片もの大小の瓦礫が逆巻き、落ち、アレクシスを叩きつける。
防御の魔法を使おうとしたものの、竜巻のただ中のようなこの状況で、立っていることさえ出来ない。瓦礫の一つがアレクシスの頭部を打った。
衝撃と、意識の暗転──。
消え行く意識の中。守護石に吸い込まれていく魔王の手が、アレクシスの方へ伸ばされたように見えたのは、気のせいだったろうか。
「アレク! アレクが!」
ルイスに抱えられて廊下に出たトリニティが正気に戻った。ルイスの腕の中で必死に暴れて、部屋へ戻ろうと足掻いた。
「うわっ。王女、動かないで!」
「アレク! アレクが! ウェリスが──!」
声も嗄れんばかりに叫んで、トリニティは泣きじゃくった。
「死んじゃう! ウェリスのように──死んでしまうわ!」
「あいつなら、大丈夫ですって!」
叫ぶように言いながらも、ルイスは暴れるトリニティをけして離さず、走る速度も緩めなかった。
「あいつは魔王のダンジョンマスターでしょ? 奴が魔王を封じられなくて、誰がそれをするんです?」
「だけど……だけど──」
「あいつを信じてやれよ!」
「信じる──?」
金のために、彼を裏切って、彼に切りつけたのは一体誰だったか。それをたった一時間も経たないほど前にしてのけたのは誰だったか。
その言葉を──それを、他ならぬルイスが言うのか。
ルイスが自嘲めいた笑みを浮かべた。
「俺がこんな事を言うのはおかしい?」
「──」トリニティは力なくかぶりを振った。「ううん……そんなことないわ」
生きていくために裏切りを友としても、それは決して彼が心から望んで選んだ生き方ではないのだ。自らの意思に忠実に、奔放に生きるアレクシスから目が離せないと……そう言ったルイスの心の中も、アレクシス同様に熱い。
「いい──彼を信じる。彼は死んだりしないと信じるわ」
ルイスがニッと笑った。
「じゃ、行きますか!」
ルイスが疾走の速度をさらに速めた時、建物全体が揺れ、空気が裂けんばかりに鳴動した。
「な、なんだ」
建物が一斉に崩壊を始める。崩落した天上の大きな塊が二人の上に落ちてきた。トリニティが悲鳴をあげた。
何かが二人の上を覆い、瓦礫を粉砕した。その巨大な体躯は──。ルイスが驚きに目を見張った。
「ギグ?」
「ご無事で、王女!」
現れたのは勇者ワーナー。硬質の甲殻で覆われた巨大なモンスター、ギグ・ザ・グラッドに労いの声を掛けるのをみて、ルイスは呆れ顔になった。
「じゃ、そのギグは勇者様の召喚獣? こりゃまたなんて無骨で──実用的な」
安堵もつかの間、建物は次々に崩壊していく。もはや走って建物の外へ逃げる事は出来ないだろう。勇者ワーナーが張り詰めた声で叫んだ。
「ギグの下へ潜り込んで!」
ルイスはトリニティを抱えたままその言葉に従った。硬さで勇を競うこのモンスターが、耐え切れることを願って。
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