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第1部

11 魔王の守護石 (2)

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(2020.5.25修正)




 天使とは神が世界創生と共に作り出した、世界を構成する重要な原子の一つたる存在だ。
 それ故に不死にして不滅。
 世界が終わる時までこの世と共に在り、たとえ堕天したとしても滅ぼす事は誰にも出来ない。
 一方、後に使役の目的で生み出された『使役の天使』には死がある。彼らは世界を構成する原子ではないからだ。
 これは人間の魔術師達にも広く知られている事実で、宮廷魔術師であるベルクトスカが知らぬはずは無かった。
 もちろん、魔王ブラックファイアが『原初の天使』だと知っていたかは別としてだが。
 だがベルクトスカはまったく頓着しない様子でルイスに指示を出した。
「服の中に見えないように首から提げているはずです。力ある魔術師は見える場所に護符を提げたりしない」
 ルイスはアレクシスの衣服を探った。
「首には二つ、何かぶら提げてますよ? 綺麗な宝石のついた小振りな守護石アミュレットともう一つ──うぁちっ! 何だ?」
 更に小さい、コインのような大きさの金属板に刻まれた不可思議な模様のついた護符。
護符シジルですね。魔力を持たない者が触れる事が出来ないとなると、かなり力の篭ったものですが──」
 ベルクトスカはアレクシスの隣に膝をつき、彼から二つの護符を取り上げた。
「この守護石がきっと魔王の守護石でしょう」
 言いながら、小さな金属片に刻まれた見慣れぬ紋章シジルを見つめ、不審げに眉を顰めた。
「見た事の無い紋章だ──。必要ありませんが、彼に持たせておいては力を与える事になる」
 ベルクトスカは立ち上がるとローブの裾を翻して扉へと向かった。
「彼は牢へ連れて行って下さい。そうそう、天使と悪魔が自分を助けてくれる事を期待しても無駄ですよ? 彼らも拘束しました」
「そいつは……なかなか優秀だ」
 アレクシスが浅く乱れた呼吸で言葉を返した。それまで黙り込んでいた勇者ワーナーがベルクトスカに声をかけた。
「やはり私は反対だ。ベルクトスカ」
 足を止め、振り返ったベルクトスカの表情は硬い。
「彼はダンジョンマスターだ。ダンジョンマスターというのはではなくだ。悪の手先という表現は当たらない。それに、我々が魔王をどうこう出来ると考えない方がいい」
 ベルクトスカの表情が次第に険しくなった。それは、もはや誰のどんな言葉も彼の耳には届かない事を物語っていた。
 ベルクトスカのその様子を改めて見たワーナーは、深い悔恨の色をその顔に刻んだ。
 トリニティはアレクシスを庇うように抱きかかえ、魔術師を見上げた。親友ともが手の届かない者となってしまった事に対する、深い絶望にも似たものをその顔に塗りこめている。
「ウェリス──」
 部屋を退出するベルクトスカの名を掠れた声で呟いたが、彼の耳には届かなかったのか、振り向く事もせず去っていった。
 いや──気付いていたのだとしても、ベルクトスカはもはや彼女に振り向く気さえないのだろう。
 トリニティは胸が潰れるような痛みを感じながら俯いた。ベルクトスカの心は、もはや自分の手の届かないところへいってしまった。
 ワーナーはトリニティの前で膝を折って、そのこうべを深く垂れた。
「……お許しを姫君」
 搾り出すように押しだされたそれは、悲痛だった。
「ワーナー! あたしは、彼に、こんな事なんてして欲しくない──!」
「彼は姫君へ捧げた忠誠のあまり、何も見えなくなってしまったのです。それから彼への──」
 ワーナーは続く言葉を言い澱んで、アレクシスへを目線を向けた。


 至上最年少で宮廷魔術師となった、若くして優秀な宮廷魔術師が生まれて初めて見た、城の外の現実の世界。


 己の才能を自負していたが故に──そんな才能など外の世界では取るに足らないという事実を突きつけられて──それを受け入れられなかったのだろうか。

 たかが無名の傭兵の中に、自分など足元にも及ばない程の魔術師が居て──もっとも、アレクシスのような強力な魔術師が、世の中にゴロゴロいてはたまったものではないから、ベルクトスカが始めて出合った外部の魔術師が彼だったというのは、ベルクトスカにとっては不運としか言いようがなかったが。

 出会っていたのが別の、ごく普通の魔術師であったなら、彼のプライドはここまで粉砕されなかったはずだ──。
 ……もっとも、魔法さえ使えぬルイスと比べてさえ役に立たなかったのだから、ベルクトスカの心情はいかばかりだったか。

 だが。

 ベルクトスカが受けた絶望も、憎しみも、すべてアレクシスへ向けられている事は事実だった。

 それが王女の呪いを解きたいというベルクトスカの願いという形として発露したのだとしても。



「ワーナー! あたし、こんなつもりでここまで来たんじゃないわ! 誰かを犠牲にしてまで呪いを解きたかったわけじゃない! だって、アレクは──あたしを慰めて、生きる勇気を与えようとしてくれた。あたしを絶望の淵にではなく、光の中へ出て行ける道だってあるんだと教えてくれようとしたのに! それだけなのに! お願い! ウェリスを止めて! 勇者ワーナー! お願いよ!」
 トリニティは必死になって縋るように訴えた。勇者は困り果てたような複雑な表情で王女を見下ろした。
「止めさせた方がいい」
 掠れた声の主は、アレクシスだ。
「魔王は殺せない。だからこそ、奴は自分自身を守護石に封じるしかなかったんだ。守護石を破壊できても、魔王は死なない。それどころか、死にたがってる悪魔を目覚めさせる事になる」
「──死にたがっている? どういう事だ?」
 アレクシスは痛みに顔を歪め、言葉を続けた。
「歴史は後から作るもの。語られる叙事詩が真実とは限らない。無理やり目覚めさせられた魔王が怒りに燃えて、今度こそ世界を燃やし尽くそうと考えない保証はどこにも無いぞ」
 その言葉を聞きワーナーは頷いた。
「止められるか分かないが、できるだけの事をしよう」






 ルイスは部屋を出て行く勇者を腰に手を当ててのんびり見送って、やおら残った二人に目をやった。
「じゃ──、アレクを牢に閉じ込めとくか!」
「ルイス! あんた──本当に信じられない人ね!」
 トリニティが罵ると、ルイスは弱ったように肩を竦めた。
「ま、命令なもんでね。これも仕事なんで、悪く思わないで下さい、姫君」
「ルイス──お前、いくら金を上積みされた?」
 アレクシスに問われ、ルイスはややバツが悪そうに言い澱んだ。
「一万」
「俺も安く買われたもんだ──」
「悪いね」
「いや……どうせ無駄足だ。労力をかけた割には、金にはならんさ」
「へへ……逃げるってか? そりゃ、まぁ……俺はお前を捕まえて守護石を奪え、とは命じられただけで、逃がすなとか殺せとかは命じられちゃいないが……」
 果たして、アレクシスに逃げられても報酬をきちんと払ってくれるかどうかは定かではない。いや……こういう場合、それは期待できないのではないか。
 ルイスは頭の中で幾つかの事を天秤にかけながら考えて、長い吐息と共に首を振った。
「やだね──これだから……。お前と付き合うと、いつもろくなことがない」
 トリニティはカッとなって怒鳴った。
「ルイス、あんた、ホントに呆れ果てた男ね──!」
 王女に心底蔑まれたように怒鳴りつけられ、ルイスはいささか傷ついた様子で肩を竦めた。
 取り出したロープでアレクシスの両手首とベッドの支柱とを合わせ、しっかりと縛り付ける。
「軽蔑するなら軽蔑すればいい──神殿に牢なんてないから、ここに縛っとくぜ? 事が済んだら、お前は邪悪なダンジョンマスターとして裁くんだとさ」
「全員、蘇った魔王に殺されなきゃ、の話だろう?」
「…………」
 ルイスは更に幾つかの事を頭の中の天秤にかけるため黙り込んだ。
 そしてやおら──。
「剣に塗っておいた毒は一時間もすれば抜けてくるはずだぜ。どうせお前は呪文も動作もなしに魔法を使えるんだから、猿轡は不用だろ?」
 アレクシスが愉快そうに喉の奥で笑った。
「うるさい!」
 やや顔を赤らめながら、ルイスは立ち上がり王女に声を掛けた。
「部屋の扉には鍵を掛けますが、どうされますか?」
「──あたしはここに残るわ!」
 トリニティが感情に任せて怒鳴ると、ルイスは首を竦めて部屋を出た。すぐに外から錠の落ちる音が聞こる。
 トリニティは忌々しげに吐き捨てた。
「信じられない! なんて恥知らずな人なのっ」
「──ルイスの事か?」
「そうよ!」
 アレクシスの息は相変わらず荒い。そんな彼を気遣うようにトリニティはその頬に掌を当てた。
「許してやれ。奴は根っからの傭兵だ」
「──金の亡者だわ! 一万ルーナであんたを売ったのよ!」
 吐き捨てるように言って、トリニティはベッドのシーツを裂いて、アレクシスの体に捲き始めた。
「傭兵ってのは、そういうもんだ」
「だけど、あんた達、仲間なんでしょう?」
「違う。──奴もそう言ってただろ。……俺もそう思っている」
「そんな──」
 涙を目に一杯溜めて歯を食いしばっているトリニティに、アレクシスは諭すように言った。
「俺達傭兵は雇い主次第だ。たとえ親しい仲間でも、別々の雇い主に雇われて、互いに戦い、殺しあわないといけない立場になる事もある。そんな時、仲間だからそいつは殺せないという言い訳が通用すると思うか?」
「──」
 トリニティは無言で唇を噛んだ。返す言葉もないとはまさにこの事だ。
「そういうもんだと割り切らなきゃ、この仕事は勤まらない。ま……俺は黒魔法使いだから、助けたい奴は助けるし、戦いたくない奴とは戦わないけどな」
 止血のつもりで包帯代わりにシーツを巻いたが、トリニティは巻き上がったものを見て、泣き出したい気持ちになった。

 あまりにも不器用だ。

 トリニティは情けなさのあまり涙をこぼした。
「──ごめんなさい……」
 俯き、歯を食いしばりながらも、トリニティはアレクシスの両手を縛るロープを解こうと格闘を始めた。
 零れ落ちた涙がアレクシスの頬に落ちた。
「ごめんなさい……。なんの役にも立てなくて」
 涙を拭って、トリニティは作業を続けた。
 アレクシスが身を起こそうと体を動かしたが、毒が効いていて思う様に動かない。
「──くそ。まだダメか」
 忌々しげに呟きながら、懸命にロープと格闘しているトリニティを見た。


 ルイスは言わなかったか? ──悪い癖が出たな、と。


「ああ、まったくその通りだぜ!」
 アレクシスは口の中で悪態をついた。
 何事かとトリニティが顔を向けると、アレクシスが体を捩って背を示した。
「ベルトの背中側にナイフがある」
 言われて、トリニティはアレクシスの腰のベルトの後ろを慌てて探った。鞘から抜いた小振りなナイフを不器用に使ってロープを切った。
「おいおい……手まで切るなよ?」
 アレクシスは憎まれ口を叩きながら、自由になった腕を支えに身を起こそうとしたが、やはり無理のようだ。
 ルイスの言葉通りなら、もう1時間程度。素直に毒が抜けるのを待つしかないようだった。
 アレクシスは忌々しげな吐息と共に、隣の王女へ話し掛けてきた。
「気にするな」
 素っ気無いその言葉に、トリニティは喉を詰まらせた。
「とにかく、あんたは気にしすぎだ。もっと気楽にやれ。何もかも自分の責任だと思う必要なんてない」
「……気にするなって言われても、無理よ。頑張ってるつもりでも、いつも、何も上手くいかなくて。無様で……。誰の役にも立てない」
 トリニティの目にさらに涙が溜まった。
「自分の事を無様だなんて言うもんじゃない」
 傷の痛みから、アレクシスの息遣いは荒い。
「確かにあんたは少々考えなしだが、足掻くように生きるあんたの生き方を、俺は無様だとは思わない。自分を憐れだと言って何もしないだけの人間より、泣きながらでも無様でも、形振り構わず懸命に行動する人間の方が俺は好きだぜ。──あんたはまさにそういうタイプだな」
 トリニティは泣きそうになった。
 いや──泣いていた。
 歯を食いしばって、声も上げずに涙をこぼした。
 ベッドの脇に縋るアレクシスの肩に頭を寄せて、涙だけを流した。
 生まれた時より世継ぎの王女として生きてきて、誰かに縋る事などただの一度も許されなかった彼女が、生まれて初めて、泣くために人に縋った。
 しばしの間、アレクシスはじっとトリニティに肩を貸してくれた。そしてやおら──。

「ところで。あんたの名前、変わってるよな」

「──は?」
 あまりにも唐突なそのセリフに、トリニティは面食らった。
「『トリニティ』とは、またヤケに神々しい名だ」
「あ、あんたねぇ……。この状況でいきなり何を──」
 トリニティは呆れながら長々と嘆息した。
 まったく理解できない。
 呆れすぎて、涙も何もひっこんでしまった。
「違うわ──神学用語そっちからとった名前じゃないの。……なんでも父が昔聞いた、古い叙事詩の中に出てきた古代都市の名前なんですって。とても栄えた都市らしくて、父は世継ぎであるあたしが生まれた時に、この国をその叙事詩の都市のように繁栄させる者となって欲しいという願いを込めて、この名をつけたのよ」
「へぇ?」
「──」
 そう言いながら、トリニティは本当に突然。
 まったく不意に何かにぶつかったかのように衝撃を受け、口を開けたまま言葉を失った。
「……どうした?」
「──そうか。あたしったら、どうしてこんな簡単な事に気づかなかったのかしら。呪われた王女だからって……最初から、生まれてきたことさえ望まれなかったわけじゃないのよね」
 トリニティの言葉を聞き、アレクシスは口元をほ綻ばせた。
「──やる気が出てきたか?」
「え──?」トリニティは打たれたようにアレクシスを凝視した。「じゃ、もしかして──」
「何のことだ?」
 はぐらかす様に知らぬ振りを見せるアレクシスに、トリニティは感謝で胸を一杯にして笑んだ。
「『ネリスの呪われた姫』の烙印を押されて以来、あたしには居場所が無かった。過去も、未来も、自分の全てを否定され、存在そのものを最愛の父からも否定されて。胸が押しつぶされそうだった。絶望と悲しみで、心臓が止まりそうだったわ」

 だから自分を護るため、周囲に見えない針の鎧を纏い、誰彼構わず当り散らした。
 ──そうでもしないと、自分自身に押しつぶされそうだった。絶望と悲しみで心臓が止まりそうだったから。

 トリニティは泣いていたが、その表情は晴れ渡る空のように爽快だった。
「自分が世界から嫌われている存在……必要の無い存在なのだという事実を認めるよりも先に──自分から先に世界を憎みでもしないと、心が耐えられなかったの」

 でも忘れていた。
 自分は確かに、望まれて生まれきた存在なのだという事を。
 未来を託され、父王の希望を託された存在としてこの名を与えられたという事を。
 確かにトリニティは今、呪われた王女として父王にも見放された存在かもしれない。

「でも、だからと言って、それが自分で自分を見放していい理由にはならないのよね? それが世界の全てにはならないのよね? 確かにあたしは、後二年しか生きられないかもしれない。だけどあなたは言ったわね。『それで充分じゃないか』って」
「──ああ」
 相槌を打ちながらも、アレクシスはトリニティの笑顔を眩しそうに目を細めて見つめた。

 自分は確かに愛されて生まれてきたのだから、それさえ忘れないで心の中に持っていられるのなら、それを糧に、残りの年数を精一杯生きていく事だって出来るはずだ。
 なによりトリニティ自身、後悔はしたくないとこの町まで来たのではなかったか。

「その通りだわ。何もせずにしなかったことを悔やむより、足掻くだけ足掻いて、それでも足りなかった事を後悔する方が余程ましだわ」

 トリニティの脳裏に、いつも穏やかに笑っていた幼馴染の顔が脳裏に浮かんだ。──重なり合うように、何かを思い詰め、破滅へと向かって直走りに走り出した、目だけが異様な輝きを放っているウェリスの思い詰めた顔が。

「あたし、ウェリスを止めてくる! あたしの為に彼が道を踏みはずそうとしているなら、それを全力で止めて見せなければ、彼の真の友人とは言えないものね!」
 力強く頷いたトリニティに、もうアレクシスと会ったばかりの頃のような、澱のように固まった怒りの感情は消えていた。
 まるで生まれ変わったかのような力強さが溢れてきて、彼女自身不思議に思うほどだ。
 トリニティはアレクシスに思い切り抱きついた。
「──イテ!」
 小さな紙の様に軽い体に抱きつかれても、さして衝撃を受けたわけでもないはずだが、アレクシスは不必要に大げさにそう言って、いたずらっぽく笑った。
 トリニティは憑き物でも落ちたみたいに鮮やかに微笑んで、表情を綻ばせた。
「ありがとう! アレク!!」
「──つくづく素直な女だな、あんた」
 トリニティは自分がいま何をしたのか、不意に気付いて、頬を染め慌てて立ち上がった。
「ウェリスを止めにいかなくちゃ──」
 こうなると、アレクシスと共に部屋に残ったのが悔やまれた。
 いや──彼の言葉で今までの自分をようやく吹っ切れたのだから、ここに居た事にももちろん意味はあるのだが……。
 トリニティが途方に暮れていると、アレクシスがふらつきながらも──何とか立ち上がり──先程トリニティに貸したナイフを手に、扉へ向かった。
「……あと一時間くらいは麻痺したままじゃなかったの?」
 呆れながらも思わず突っ込みを入れるトリニティにアレクシスは振り返った。不器用に巻いた急ごしらえの包帯は滴り落ちそうな程血を含んでいる。
 あの状態で、この男はなぜ立ち上がって歩いたりできるのか。
「魔法でも使ったの?」
「いや──」
 答えるアレクシスの顔は失血のため青い。動けるのはきっと、この男の強い精神力の賜物なのだろう。
「じゃ……体は完全に癒えたの? もう、魔法は使えるの? ずっと気になってたのよ。……でも言い出せなくて……。だけどあなたは自分の体調の事は一言も言おうとしないし……」
 アレクシスはトリニティの失態を庇って、瀕死の重傷を負ったのだ。気にならないはずが無かった。
 だが、彼は一言も自分の体調の事を口にしなかったし、態度にも出さなかったから、聞くに聞けなかった。
「まぁ、本当は死ぬはずだった位の傷を、秘薬で無理やり治したんだからな」
 普通は、一ヶ月程度は体力回復の為に床に就いたほうが良かった。
 国が丸ごと買えるほどの値段であの薬を売りつける時には、そう買い手に用法を伝える。守れなければ命の補償はしない、と。
 死ぬ程の怪我を治す秘薬なのだから、使う体力も並ではない。『傷は治ったが体は死んだ』という事にならないよう、幾つもの魔法を掛け合わせて辛うじてバランスをとってある……そんな代物だ。
 普通、あの秘薬の買い手は裕福な国の王族クラスだ。数ヶ月でもゆっくりと寝て体力の回復が待てる身分の持ち主だった。
 だがアレクシスは違う。秘薬を使った後、無理に体を動かし続けたのがたたって、ろくな魔法も使えない。しかも、背中の傷だ。
 アレクシスは唇を皮肉そうに結び、小さく肩を竦めた。ナイフの切っ先をドアの枠にゆっくりと差込む。
 ──渾身の力と、スピード。
 そして絶妙のタイミングでナイフを振り下ろす。
 固い金属音が響いた。
 トリニティがその妙技に息を呑んだ。
 閂の戒めを失った扉が力なく開き、扉の前に立っていた人影が現れた。
 身体が麻痺しているとはどう見ても思えないスピードで、アレクシスは握ったナイフを持ち替えて、切っ先を人影の喉元にぴたりとつける。
 その鮮やかさは、魔法使いというよりもむしろ、その衣服の色に合わせて暗殺者と言った方が余程に相応しい。
「……まさか本気で殺しやしないだろ?」
 緊張した声で冗談めかしたのは、ナイフを突きつけられたルイスだ。
 差し出された形のまま静止している右手に握られているのは、間違えようもない。アレクシスの剣だ。アレクシスは突き付けたナイフを下ろし、さも当たり前のようにそれを受け取った。
 トリニティが後ろで金魚のように口をぱくつかせていると、面白そうにルイスとアレクシスが見やった。
「あ、あんた達……」
 わななきながら、トリニティは声を絞り出した。
「ルイス、あんた。ついさっき、アレクは仲間じゃないとか言って……。アレクだって、傭兵はそれくらい割り切らなきゃとか、何とか──」
 驚きのあまり、まともな言葉にならない。
「あんた達、最初から──それじゃ、あたしが馬鹿みたいじゃない」
 ニヤリ、と意地悪くルイスが笑みを返した。こんな笑い方も、上品な彼の容姿に意外と映えた。
「別に俺は、アレクを『捕まえろ』とは命じられたが、『助けるな』とか『逃がすな』とかは言われてないぜ? それにこいつが『仲間』だなんて本気で思ってもいない」
「当然だな」
 お互いに言いあっては相槌を打ち合っている二人の男を見比べながら、トリニティは脱力とも怒りともつかぬものを味わっていた。
「め、眩暈が……」

 こ、こいつら……。

 どうやらこの二人にはついていけそうもない。トリニティは激しい眩暈を感じながら、よろめくように廊下へ出た。
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