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外伝

無題 2

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    ──蹲り、両手で顔を覆い、絞り出すようにして嗚咽を漏らし続けていた王女のすぐ近くに、足音が響いた。かたりと重い金属の音がして、抜き身の剣が足元に置かれた。
「いつからそのような泣き方をするようになられたのでしょうか?    ──幼かった頃には、違ったはずですが……」
    勇者ワーナーの声だった。
    顔を覆った両手をのろのろと広げると、床に置かれた剣の切っ先が見えた。血濡れたそれにギョッとして顔を上げると、勇者が片膝をついて、セリス王女を見下ろしていた。
「もう──そんなにも嘆かれる必要はありません。声を殺して泣かれる必要もありません。昔のように……声を出して泣かれてください。……貴方の声を聞き咎める者など、此処には……もう、誰も居りません」
「──」
    セリス王女は、勇者のその言葉の不自然さに戸惑った。その戸惑いを感じ取ったのだろう。或いは、床の剣に固定された視線を見ただけかもしれないが、勇者は苦笑し、こう告げた。
「ええ……この修道院には、もう、誰もいません」
    おかしな事を言う、とセリス王女は思った。だが、王女の視線を受け、勇者は深く頷いた。
「はい。誰も。……皆、私が始末してまいりましたから」
    何という事も無いように、勇者はさらりとそう王女に告げた。
「……そんなっ。勇者様っ!」
    セリス王女は慌てて体を浮かせた。自分の為に、勇者が罪を犯したのだと思った。そんな。そんな事を。
「お気になさらず。気に病まれないでください……。どうせ、貴方は今日を最後に、この修道院を出て行くのです。彼等の始末は、王命なのです」
「……?    それは、どういう……?」
    うろたえるセリス王女に、勇者ワーナーは言葉を続けた。
「私は今日、貴方を迎えに参ったのです。……王が、貴方を王都へ連れ帰るよう、お命じになられました。貴方は赦されたのです」

    勇者ワーナーの言葉が、セリス王女の耳にゆるゆると届いた。染み渡るようにゆっくりと、理解が追いついていく。
「……わ……わたくし……」
「──おめでとうございます」
    勇者ワーナーは言祝ぎの言葉を口にした。
「だからもう、我慢などせず、声を上げてお泣きになっても良いのです」
    勇者の言葉にようやく実感が伴ってきたセリス王女の眦に、熱い粒が湧きあがって来た。
「どうぞ」勇者ワーナーが立ち上がり、その両手をセリス王女の為に広げた。「泣くための場所が必要ならば、此処をお使いください」
    言葉が終わるのを待たずに、セリス王女はその胸に飛び込んだ。
    

 
 
     まるで幼な子だった頃のように、勇者の腕の中で泣きじゃくったセリス王女の感情の昂りが収まるのを待ってから、勇者ワーナーが告げた。
「そろそろ行きましょう。──身の周りのものをお持ちになられてください。此処で待っておきますから」
    セリス王女は両手を勇者の胸元に当てたまま、体だけを起こした。
「持って行けるような私物などありませんわ」
    此処へ来るときに、一切の私物の持ち込みは許されなかったのだ。
「それでも、着替えくらいは必要でしょう。ここから王都までは、大変な距離があります」
    勇者のその言葉に、セリス王女は「ああ」と納得する。彼女も年頃の娘だった。長い期間想いを寄せる男の側で身綺麗にしておきたいと思うのは当然だった。
    セリス王女が立ち上がろうとすると、勇者がもう一言付け加えた。
「トリニティ王女もご息災でいらっしゃいます」
「──お姉様……?」
「はい」
    その名前は、久し振りに聞く名前だった。
「ご息災です……。よもや、8年間も、あの牢獄で生き延びようとは、誰も思ってもいなかったでしょう。……信じられない程の、意思の力です」
    セリス王女の2歳年上の姉は、彼女が修道院へ入れられて2年後に『呪われた』者として、幽閉されたと聞いている。王女の辛い生活の中で、同じように不遇を味わった姉の存在は、慰めであり、救いであり、支えでもあった。──互いに離れてはいても、同志とも思う相手だった。
「貴方はいずれ血脈を継ぐ為に生かしておかなければなりませんでしたが、トリニティ王女は違います。……死ねばそこまで。いえ……死を望まれた王族として、呪われた王族が幽閉される専用の牢獄へ監禁されました。──未だ嘗て一年以上を生き延びたものはいない、酷い場所です」
「牢獄……」
「ええ。幽閉、という名のね」
「一年以上を生き延びた者は居ない……」
    初耳だった。そもそも、此処は外界から閉ざされている上に──外の情報は他の修道女達にはそれなりにもたらされたが──自分には閉ざされていた。
「拷問の一種に、同じやり方があります。それ程の性急さはありませんが、より緩慢に死はもたらされます。──呪いによって死ぬよりも先に、栄養失調か発狂か病かによって死がもたらされる方が先でしょう。トリニティ王女が命を失わなかったのは、幼い子供の姿だった事が幸いしたのかもしれませんね……。その分──早くに死ねなかっただけに──苦痛は長引いたでしょうが」
    淡々と告げる勇者の声音には、何の感情の色も伺えなかった。セリス王女はそろりと勇者の顔を見上げたが、声と同様に、そこには何の感情も見当たらなかった。
「8年経って、ついにトリニティ王女はご自分でご自分を救う事になさいました──新たな『奇跡の御手』に奇跡を願いに、幽閉された部屋を脱走されたのです」
「脱走……ですか?    たったお一人で、どうやって……?」
「もちろん、外から手引きした者がおります。ウェリス・ベルクトスカ──ご存知でしょうか?」
「確か……お姉様の遊び相手に選ばれた……?」
「はい。そうです。彼が新たな『奇跡の御手』の情報を得て、トリニティ王女に勧めたのです。脱走には……私も手を貸しました」
    セリス王女は驚きに目を見開いた。王に忠誠を誓う勇者が、王の意思に反し、処罰を受けることが明らかに分かっているような事に手を貸すなんて。
    そんなセリス王女の考えを察して、勇者ワーナーは小さく笑った。
「……もちろん、王は事前にご存知でした。ベルクトスカは処罰を受ける事を覚悟の上での強行でしたが──私が彼には告げずに王に了承を頂いたのです」
    セリス王女はさらに驚いた。たとえそうだとしても、少しでも王の不況を買えば、やはり処罰は免れない。勇者が何故それ程の危険を犯したのか……。セリス王女の胸の奥が、小さく、鈍い痛みを訴えた。
「私がそのような事をしたのが不思議ですか?」勇者ワーナーはそう言うと、彼特有の貴族めいた優雅な笑みを口元にのせた。「私は、忠義の為に命をかける者や、己の未来を切り開く為に、己自身の努力を惜しまない者の事を、嫌いではありませんよ。……寧ろ好ましく思います。彼等に貸せる力を私が持つなら──貸そうと思ったのです」
    セリス王女がまだ王城で過ごして居た頃、その微笑は多くの女性の心を引きつけたものだった。
「残念ながら──トリニティ王女に奇跡は訪れませんでしたが」
    もちろん、今だってそうだろう。
    だが──。
「──そう……ですの……」
    だが──。
「……荷物を取りに行ってまいりますわ」
    セリス王女はのろのろとそう答えると、ゆるかやな笑みを唇にのせた。身を起こし、自室へと向かう為に歩き出す。

    上手く笑えていただろうか、と自問する。
    勇者に違和感を持たれなかっただろうかと。

    途中、廊下で何人かの修道女の遺体を横切り、自室で手早く荷物をまとめた。わずか一組の服は、すぐに小さな包みにまとまり、セリス王女はそれを胸元に抱えると院長室を目指した。
    居住棟の部屋の扉がいくつか開き、中を覗くと同じように無造作に切り捨てられた修道女達がいた。元々大きな修道院ではなく、人数も10人程度しかいなかったが……人気がない……どうやら本当に、此処にはもう生きている者は自分たちしかいないようだった。

    セリス王女は歩きながら先程の勇者の笑みを思い出していた。表情は確かに優美に微笑んでいるのに、瞳は同じ色を含まない。
    己の感情を隠し、裏に隠された物を読み取らせない。貴族達が渉外の時に見せる特有の笑みだ。その笑みの中でも、セリス王女が知る限り、勇者のそれは完璧だった。

    だが──。

    セリス王女は、この、閉ざされた修道院の中で10年の歳月を生きてきたのだ。
    人の表情。
    その言葉。
    表面上のそれではなく、その裏に隠された、見えない真実。
    けっして見せない真意。
    ──人の心の動き。
    表情や視線。そして声音。……それらにほんの僅か現れる小さな兆し。
    此処で生き抜く為に身につけた、それらを見抜く力。
    だが、人心を掌握し、己の望む方向に操るには──それだけでは足りなかった。
    本人さえも意識しない、深い無意識の底に埋もれる──本当の、望み。
     それらを本人よりも先に知り、望むものを与え、誘導する。……そこまでの事が出来なければ──此処で生き抜く事などできはしない。セリス王女にとっての此処での10年間は、それに注力する事だったと言って過言ではない。
    王族ではなく、罪人として。何の力も、知識も、教育さえも与えられなかった少女が此処で身につけた唯一の、彼女自身の力。

    それが──見逃さなかった。

「──何て感情的な──」
    セリス王女が院長室の開け放たれた扉から、中を覗き込んだ感想だった。
    他の者達は廊下を気軽に散策しながら、とでも言うように、淡々とした様子で切り捨てられていたのに、此処だけは様子が違っていた。
   室内に飛び散った凄惨な血飛沫とあちこち逃げ惑ったように散逸する品々。そして、何度も切りつけられた果てに息絶えた院長の死体。
    それは、逃げ惑ったのを追いかけて何度も殺した、と言うよりも寧ろ。
    セリス王女は先程別れてきた勇者の姿を脳裏に思い浮かべた。衣服もたいして乱れてはおらず、返り血で然程汚れてもいなかった──。
    室内の凄惨な状況と見比べても、おかしな事ではあった。
    つまり──一度で殺さないよう切りつけて、わざと逃げまどわせたのだ。院長を長く苦しませる為だろうか。勇者の──感情の発露が、此処だけには伺えた。
    冷静に捉え、冷静に分析する──長い期間王女を苛んだ──院長に、その程度の感想しか抱かなかった。
    セリス王女は胸元に抱えた包みを一度握り直すと、軽く息をついた。

    
    それが──見逃さなかった。

    あの時。勇者が姉王女について語る時。城から脱走してまで──そしてそれに手を貸してまで──願った奇跡が叶わなかったと告げた時。
    セリス王女は見逃さなかった。
    正確に言えば、気づいた、だろうか。
    確かに表情にも、声音にも、何も現れなかった。完璧だった。
    だが、しかし。普通、あのような場面なら、相手に自分の慈悲深さや情の深さをアピールする為に、そのように見える感情を乗せるものだ。自分ならばそうする。その方が、その場でも、後々でも、どのようにでも持ち回せる状況を作り出せる──。それをあえてしなかったのは何故か。
    何故、真意を伺わせない笑みで、感情を隠さなければならなかったのか──。その笑みの奥にあるものは何なのか──。
    気付いてしまった。
    長い間、憧れ、想いを向けてきた相手だからこそ。
    その言葉の向こうにある──。

    冷淡さを。
    嘲りを。
    侮蔑を。
    ……憎しみを。

    そう──憎しみを。

    そうだ……セリス王女はかつて、一度だけその表情がありありと浮かんだ勇者の姿を目にした事があった。
    幼かったあの日、茂みの影に隠れて、姉王女をその表情で見下ろしていたのだった──。

    セリス王女の頰に、一筋の涙が零れ落ちた。

     ……。
    だとしたら……。

    ああ、と。セリス王女は心の中で呟いた。
    唇を小さく噛み締め、踵を返す。そっと、院長室を後にした。そっと呟く。今度は声に出して。
「それでも──。わたくしにとって、彼だけが唯一のものなのです」
    10年間という、王女が生きた時間。
    幼い少女だった王女が、女性になるまでの時間。
    誰も顧みる事のなかった一人の少女の、生の軌跡を、彼だけがずっと見続けてきた。セリス王女にとって、彼女の世界の唯一だった。


「……だとしたら、わたくしは……わたくしが、する事は、たった一つです──」
    勇者は言った。『己自身の努力を惜しまない者の事を、嫌いではありません』と。
    ならば自分は。自分自身のために、そうしよう。……それがどのような結果をもたらすかはわからないが──姉王女のように、賭けに負けるだけかもしれないとしても──他の誰でもない、自分自身のために、そうしよう。

「わたくしは、『傾国』になる」

    もう後ろは振り返らない。
    過去の全てに決別するのだ。
    自分は何のためにこれから先を生きるかを決めた。

    例えそれが……どれほどの累々たる死体の山を築くことになるのだとしても、必ずやり遂げてみせる。彼のために。


    勇者ワーナー。
    わたくしは、あなたの、その憎しみの先にあるものを、手にしたいのです。



(終)
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