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第4部 アマランタイン

第2章 交錯する道程 3

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 確かに。
 アレクシスに恋人が居たとしてもおかしくはない。彼は十分な年齢だ。もしも彼が普通の生き方をしている青年だったとしたら、当の昔に妻子がいても十分なだけの……。
 トリニティは胸が締め付けられるような思いを感じながら、そう頭の中で呟いた。
 この国での、ごくあたりまえの事実として。二十歳を過ぎていれば妻子がいて当然なのだ。この国では婚姻や子供を持つことには政治的な誓約は伴わない。ただ男女が出会い、睦めばそれでよい。そしてそれを周囲が婚姻だと認めれば、成立するのだ。戸籍の管理やその他政治的な問題は、男女の出会いには関係ないのだった。

 だから……。
 アレクシスにそういう女性が居たことがあったとしても、別におかしなところは何処にもない……。   

 それなのになぜ。

 これほど胸が痛むのだろうか。

「あ。あー」
 ルイスが強張った声で何度も「あー」を連発し始めた。
「演説前のベルダ司祭のようです」
 相変わらず的をはずした天使のツッコミも、やはり精彩を欠いていた。
「や! 姫さん、そんな露骨にしょげた顔をするなって!」
「そうですよ! 貴方がそのように沈んだ顔をされているのを見るのは、私も大変辛いです!」
 ルイスの隣でアブリエルもトリニティを慰めようと試みる。
「そうそう! たとえアレクの昔の恋人とかってのが、マダムの妹だったとしてもだ! あれ?── マダムはイシリなんだよな? 女神に妹なんていたのか? ってことは、その妹とかってのも悪魔だったのか?」
「私達天使には兄弟関係なんてありませんよ? マダム・ペリペは人間として暮らしていたのでしょう? だからその女性は人間だったのでは?」
「あ? ああ、そうか……成る程」
「けれど、私は初耳です。マスター・アレクシスに亡くなった恋人がいたと言う話は……」
「天使様、だからその話は禁句ですって……! あ、姫さん、気にするなよ? どうせもう何年も前に、凄い死に方で死んだらしいんだし──あ!」ルイスは慌てて自分の口を押さえた後、間が悪そうにトリニティに向かって笑って見せた。
「だいたいアレクの野郎も悪い。いや、昔はどうあれ今のあいつは──」
 繕う様に言いかけたルイスの言葉をトリニティは遮った。
「いいの。もういい!」
 その声は思いのほか力強かった。
「──御免なさい。あなた達は悪くない。……だけど……いいの。だけどこれ以上は聞いていたくない……御免なさい。一人にさせて頂戴──」
 ルイスとアブリエルは青白い顔のトリニティを気遣うようにしていたが、やがて謝罪の言葉を呟くように言うと、そっとその場を立ち去った。
 去ってゆく二人の背が俯いた視界の端から消えてゆく。
 トリニティはその場に蹲る様にして膝を抱え込むと、膝に額を擦り付けて顔を隠した。とにかく今はこの無様な自分の顔も激しく動揺する様も誰にも見られたくなかった。
 トリニティは植え込みの下に身を隠すように捩じ込むと、そこにじっとした。しばらく誰にも会いたくないと思った。それが許される身分でないことは十分に承知している。だができることなら、この惨めな自分の姿も惨めな気分の自分も誰にも見られたくない。
 ──そう思うのに。
 トリニティのすぐ傍で動く気配がし、誰かの足元が見えた。
「そんなとこで何してんだ」
 不機嫌なその声は頭の中に不協和音のように響いてきた。
 トリニティが顔を上げると、そこにはいつの間にか黒衣に身を包んだ悪魔ディーバが佇み──こちらを睨むように見下ろしていた。
 すっかり当たり前のように刻まれた眉間に皺のせいで、いつも不機嫌そうに見える。人間に捕縛され、使役されることへの不満からか、元々悪魔とはそのようなものなのか──
    始終怒りを孕んだようなギラつく瞳で、挑みかかるようにこちらを睨みつけている……。それなのに、トリニティはその鋭い眼光を見た途端、不覚にも安心から涙を滲ませてしまった。
 枯れ枝のように小柄なトリニティの姿を見下ろしていた悪魔ディーバは、片方の眉を跳ね上げた。





「あなただけ戻ってきたの?」
 涙が頬をとめどなく伝うのも構わずトリニティは独り言のようにそう言った。
「ああ。俺の案内は城の中までだ。後はあいつが自分でなんとでもするだろう」悪魔はそう答えた後で付け加えた。「また泣いているのか。お前は」
 その声は呆れた口調だ。
「いつも泣いてばかりだな」
 トリニティは僅かばかり苦笑した。自分でもその通りだと思う。いつからこれ程泣き虫になったのだろう。自分でも覚えていなかった。
「そうかも」 
「あの野郎が原因か」
 悪魔は人の心をいとも容易く読んでしまう。心の動揺を読み取られたトリニティは、気恥ずかしさと共に怒りを覚えた。
 悪魔に自分の心を知られた気恥ずかしさと怒り。それから、こんなことで簡単に動揺する自分への気恥ずかしさと怒りだ。
「何でそんな風に思うのか俺には分らんな」
 ディーバはぶっきらぼうに言った。
 悪魔の声はいつも怒りや狂気といったものを孕んでいて、脳裏に響く不思議な旋律は感情のうねりを嵐のように不自然にささくれ立たせる。千々に千切れ、乱れ飛ぶ木の葉のように……あるいは渦を巻いて逆巻く波のように人間の──自身さえ意識した事のない──心の奥底を暴き出し曝け出そうとするかのように。
 ……だがそういう意味で言えば、それら翻弄される負の感情の嵐は、悪魔の声を受け取る人間の持つものであって、悪魔自身のそれではない。
 トリニティは拗ねたように頬を膨らませたが、目は悪魔の姿を見なかった。視線は抱えた膝の向こう側、自分の足先へと固定したままだ。
 悪魔の持つその力によって、意識せぬよう退けられていた彼女の感情が表に表れてきていた事にトリニティは気付かなかった。
 こちらを見下ろす悪魔の瞳が馬鹿にしきったようなものになった。口元が微かに嘲笑うように歪んでいる。
「──そういうのを嫉妬というんだぜ」

 この心の動揺。
 逆巻く薄暗い感情の荒波の正体は。

 トリニティは一層拗ねたように膝を抱え込んだ。そう──この感情は、きっと悪魔の言うとおりのものなのだ。
「……意地悪だわ……」
 トリニティは呟いた。
 そんなもの、突きつけられたくなかった。

 アレクシスを想う事。その切ない胸の痛みと歓び──。そして、その向こうにある別の感情。
「彼に昔、愛していた人がいたって」そして、もしかすると今でも彼の心はその人の元にあるのかも知れなくても。「そんなの、あたしには関係ないもの」
 悪魔が再び笑ったように見えた。今度はからかう様な調子で。
「そうか」
「そうよっ」
 トリニティは悪魔に挑みかかるように顔を上げた。
「だからこれは、焼きもちなんかじゃないわっ! だって、別におかしな事じゃないもの! 彼の年齢を考えれば、ごく当たり前のことで、別に今まで彼が好きになった人が何人いたって、別に不思議な事でもなんでもなくて、それで、どうしてあたしが悲しい気持ちになったり傷ついたりなんか、別にっ……」
 トリニティは言葉を止めた。
「……どうして……っ!」
 言えば言うほど無様になるのだろう。再び溢れ出した涙の粒を、歯を食いしばって拭った。
「別に、構わないじゃないか。ヤキモチくらい焼いたって」
「……こんな時だわっ。不謹慎よ!」
 トリニティは自分の顔をもみくちゃになるように何度も拭った。
「人間の自然な感情だ」
「──あたし達のこの今の状況で……こんな時勢のときに、こんな個人的な感情なんて……こんな、感情なんかに振り回されるなんて……っ」
 そうだ。
 トリニティは口惜しかったのだ。
 それはアレクシスの過去を聞いたことによる同様ももちろんあった。だが同時に、こんな風に簡単に自分の感情の渦に支配されてしまう自分自身への腹立たしさもあったのだった。
「言っちまえばいいだろ。別に。そうすりゃスッキリする」
 ディーバがトリニティに言った。
「奴に惚れてると。自分のものになって欲しいと」
 トリニティの頬にさっと朱がさした。
 ──まさに悪魔的な悪魔のささやき。
「そんな事、出来るわけないじゃない!」
 答えたトリニティの声が思わず荒くなった。
「なんでだ。自分の感情のままに生きればいいのさ」
「そんな事出来るわけないじゃない! このご時勢なのよ? 個人の感情なんかにかまけている暇なんてない。いま、この瞬間にも、どれ程沢山の人が助けを求めているか──」
「大義名分を並び立ててみても、みっともないだけだぜ」
 悪魔の言葉に、トリニティは喉を詰まらせた。
 そうだ。その通りだ。
 それらは自分の気持ちをごまかそうとする為の言い訳に過ぎない。
「──っ!」
 トリニティは自分の拳をきつく握り締めた。食いしばった口に血の味が滲んだ。
「──それに、あたしは彼に自分の気持ちを言うつもりもないわ!」 
 そう。それだけは、間違いなくそのつもりだった。
「ほう」ディーバが興味を惹かれたように下を見下ろした。「──なんでだ?」
「みんなが大変なこの時期に、一人だけ自分の感情にかまけている暇なんてないし、不謹慎だと思うからよ! これはっ、別に大義名分とかじゃなくて、本当にそう考えてる!」
 トリニティが真剣な口調で言うと、悪魔は鼻白んだ。
「ふ……ん。そんなもんかね。……俺には分らん感情だな。だいいち、もったいないじゃないか。人間の命は短い。他人のことを考えるよりもまず先に、心のままに生きればいい」
 いかにも悪魔らしいそのセリフに、トリニティは半ば呆れながらも羨ましくも思った。
「そんなわけにはいかないわ。他の人のことも考えなきゃ」
「なんで」
「何でって……。人間は一人だけで生きているわけじゃないからよ」
「お前らお得意の助け合いの精神か? けど、互いに殺しあうのも人間だろ」
 トリニティは一旦口を噤んだ。
「そういうわけじゃないわ……。だと思う……。あたしは、一般的な常識を言うつもりも、もっともらしい大義名分を並べ立てるつもりもない……。ないけど……たぶん、あたし達が弱いからよ……」
 悪魔が無言で方眉だけを上げた。その様子を見上げながら、トリニティは考えるようにたとたどしく言葉を繋いだ。
「一人じゃ生きられない。だから……多分、誰かを助けもするし、好きにもなる。憎みもするし、殺し合いもする……。あたし──。前はそうだった。自分の気持ちだけを優先させて、心のままに生きようとした。そうして……その挙句の果てに、あたしの事を誰よりも長く、大切にしてくれてきた幼馴染を死なせてしまった……」彼の死は、トリニティの心臓に楔のように打ち込まれていた。
「だから──。もう二度と、そんな自分のことだけを考えるような事をしちゃいけないと思うの。人間はこの世界の中に、たった一人だけで生きているわけじゃないのよ。──他の人だって、感情もあるし都合もあるし、人生があるんだと……その事を、絶対に忘れちゃいけないんだわ」
 トリニティは囁く様な小声で呟いた。ディーバが面白くもなさそうに肩を竦めた。
「そんなもんかね。……で、それがあんたがあの野郎に自分の気持ちを言わない理由になるのか?」
 トリニティは小さく笑って首を振った。
「それは、今はそんな……こんな状況のときに、自分の感情の方を優先させるべきじゃないっていう方の話。それは別」
「別」
「ええ。あたしがアレクに彼への気持ちを伝えるつもりがないって言ったのは別の理由……」
 悪魔に聞かれた訳ではなかったが、トリニティは自分の気持ちを話して聞かせた。
「彼は魔王のダンジョンマスターで、本来は別の使命がある人よ。今はただ、行きがかり上、あたしの事情に付き合ってくれているだけ。これが終わったら、またダンジョンマスターとしての仕事に戻ると言っていたわ」
 以前、アイゼンメルドで過ごした日の夜に、彼女自身にそう告げた。魔王のダンジョンの地下深くでは、魔王に向かってそう約束をした。
「だから、彼は今回の一件が済めば、あたしとは関わりのない人になるのよ──」

『俺は宿業に縛り付けられている』

 アレクシスは自分自身のことを、こう言わなかったか……。
「彼は自分の使命に命を懸けている。だから。あたしのこの一件に手を貸してくれるのが済めば……あたしには……それ以上、彼を引き止める権利なんてない──」

 目の前でゆっくりと流れる細切れの時間。
 ゆっくりと冷たい床に倒れていくアレクシスの姿。

 もう、あんな思いは二度と御免だった。
    自分のことにつき合わせた結果、彼の命を危険に陥れるようなことは──もう、二度と。


 だから。


    それなら。


 このまま自分の気持ちは何も告げずに、彼を本来の役目に向かって送り出す事が、トリニティに出来る唯一の、そして最大の、彼への気持ちの表し方だと思うのだ。

「ありがと」
 俯いていた顔を上げて、トリニティは悪魔に微笑んだ。
「礼を言われるような事など何もしてないが?」
 相変わらず天邪鬼な言い様に、トリニティは思わず零れるような笑みを見せた。たった今礼を言ったときに見せた、無理やりな笑みとは違う、本物の笑みを。
「ううん──してくれたわ。だってあたし、あのまま、あなたと話をせずにみんなのところへ行ってたら、きっととんでもないようなヘマをしたに違いないわ。……あなたと話せた事で気持ちの整理が大分ついたみたい。……もう大丈夫」
 トリニティに向かって時折見せる、毒気の抜かれたような顔で悪魔は見下ろし、肩を竦めた。



 地獄ならもう見た。
 八年にも及ぶ孤独な幽閉生活でも。言語に絶する、城の地下深くの迷宮での彷徨でも。今もトリニティを包む、想像さえしたこともないような運命の激流の渦の中でも。
 だから後はもう、真っ直ぐ──前へ進むだけた。


 いまは、心に残るような事は全て……心の奥底へと蓋をして。
 

(続く)



+-----------------------------+
|        「語バラ(裏)」    
+-----------------------------+

 『本文の続き』


「えへ」
 トリニティはディーバを見上げながら、ニッコリと微笑んだ。
「えへへへ」
「な、なんだよ。気持ち悪いな? 何か悪いもんでも喰ったのか?」
 悪魔のセリフにトリニティは軽く手を振りながら立ち上がった。
「やーねぇ。そんな事ないわよ! ただ……話せて、気分がすっきりしたなぁって」
「ほう。そりゃ、良かったな」
「うん! ありがとね!」
 トリニティが極上の笑みを見せながら悪魔の衣服の裾に縋りつく。幼児が満面の笑みで母親のスカートにしがみつく時のような──まさにあの動作だ。
「ディーバって、人生よろず相談の占いお姉さんみたいね!」
「ぶはっ!」
 悪魔は思わず噴出した。咽たらしく、激しく咳き込む。
「な、な、な……なんだよ、それっ!?」
「えへへ。だって、そうじゃない? なんだか、いっつもあたしの人生相談してもらってるような気がするの……ある意味、アレクよりも優しい。彼って、結構人のこといたぶる様なセリフ、平気で言うし」
「それについちゃ、確かに賛成だが……。だから何なんだ、その『人生よろず相談……』ってのは!?」
「要するに、占いのお姉さんなんだけど……。ほら、以前、『裏』で辻占いのバイトもやってたことだし?」
「いや……だから、お前なぁ」
「うーん、確かに、天使様ならいざ知らず、悪魔のあなたに『お姉さん』は少々無理があったかしら。……美人ではあるけど」
「おい、聞いてるか……?」
「あなたの場合、女顔とは言えないものね」
「もしもーし」
「そういえば、天使や悪魔って性別はないのよねぇ? 両性具有でもなくて……無性? だとすると、胸もぺったんこで……」
「おーい? おいおい……何、やばそうな事言ってんだよ?」
「じゃあ、あっちの方はどうなってるのかしら……。つまり、下の方? いやだ! 18の乙女に何の想像させんのよっ!」
「うぉあっ! ちょっ、痛てっ! 乱暴に叩くなよっ! それより、何の想像してんだよっ? おいおいおい? くぉらっ!!」
「まさかまさか、もしかして──? あらやだ、イヤ、想像させないでよっ、もう!!」
「──聞いてんのかっ!!?」

(完)

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