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第3部 天の碧落

第1章 北剣のカルデロン 3

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 馬の手入れを終えたトリニティは、アレクシスに飛びつくようにして服を脱がそうとやっきになった。
「いい──。やめろって! どうせたいした事無いんだから!」
「ダメよ! 大人しくして!」
 抵抗するアレクシスを無理やり押さえ込むようにして怒鳴り声をあげる。
「手当ても何もしてないでしょ! ……これでもあたし、前よりは包帯巻くの上手くなったんだから! せめて傷口を押さえるだけはしなきゃ……」
 最後の言葉が涙声になると、アレクシスは抵抗を止めた。トリニティは着込んでいた自分の衣を一枚脱いで細く裂くと、アレクシスの傷に巻いた。固まった血の痕が錆くさかった。
「前よりはマシだな」
 巻き上がった包帯を検分してアレクシスが言った。
「ホントにあまりひどくないのね。……良かった……」
「まぁ、出掛けにアブリエルがある程度は治してくれたからな」
 確かに。火傷もあったはずだが、目に見える外傷は見当たらなくなっていた。
「オレに『治癒』は殆ど効かないが……それでも、まったく効かないわけじゃない」
「──」
 当たり前のようにアレクシスは言ったが、トリニティはその事実を初めて知って、言葉を失った。
 トリニティ自身は、『呪われた』身であるが故にかどうか知らないが、アブリエルが使う『治癒』の魔法があまり効かなかった。天使が使う『治癒』は人間の司祭が使う『奇跡の御業』とは違うが、人間が使う『治癒』の魔法よりは『奇跡』に近いという。
 そんなことを説明されても、魔術に疎いトリニティには理解できなかった。だが、これだけは分かる。
 魔王のダンジョンマスターであるアレクシスは、神の加護は得られない。彼もまたある意味で言えば──呪われた存在なのだ。
 アレクシスの胸元にそっと額を寄せた。

     そうだ。
 人は誰も皆、こんな風に。それぞれ別の人生を、それぞれの運命の中で生きているのだ。
 呪われた身である自分だけが、辛く、苦しいわけじゃない。
 目に見えても。見えなくても。誰もみな懸命に生きている。……かつてアレクシスが自分に向けて言った言葉の本当の意味が、──今頃になってようやく──トリニティには理解できたような気がした。
「……なんだ。 腹でも空いたのか? しかし今夜は何も食べられないぞ。……何も持たずに出たからな。朝になれば何か口に入れられるものを探してみるが、足跡を消すためにあと二つ三つは町に立ち寄らずに行くから、数日はまともな物は食べられない」
 トリニティは微笑みながら顔をあげた。……そのつもりだが、あまりの疲労に、その笑みは弱々しかった。
「それにいつまでそこに居るつもりだ? ホラ──」
 アレクシスが腕を軽くあげ、誘う仕草を見せた。
「もっと近くに寄れよ」
 アレクシスの突然のセリフに、トリニティは頭が真っ白になった。
「──え?」
 その反応を見たアレクシスが、からかうような笑みを浮かべた。
「だから、しっかり抱きつけって。夜明け前にはもっと冷え込むんだぜ? 互いに温めあわないとな」
「え……えええっ」
 トリニティが頬を染めて戸惑っていると、アレクシスは吹き出した。トリニティの顔色がサッと変わる。
「──! か、からかったのっ?」
 アレクシスは頭に血を昇らせて真っ赤になって怒鳴り声をあげたトリニティの背に腕を回し、軽々と抱えあげて自分の傍に引き寄せた。
「ア……アア、アレクっ?」
「ハハ……お前って、ホント。からかうと面白いよな」言いながら、座り込んでいる馬の腹に背を着けて座り込む。「ま、冗談は置いといて。これは真面目な話だぜ……ただし、馬とも一緒に暖めあうんだがな」
「う、馬──っ?」
「そう」
 アレクシスはトリニティの小柄な体を抱え込むように抱きしめると、自分のマントでくるんだ。トリニティは顔を真っ赤にして足掻いたが、しっかりと抱きとめられて逃れられない。
「暴れるなって」
「だ。だって!」
「あのなぁ。別にお前を取って食おうって訳じゃないんだから……」アレクシスが嘆息した。「お前はもちろん知らないだろうけどな。これからの季節、毎晩これだぜ。……そもそも野宿するにはキツイ季節だ。というより、この季節に野宿はしないな。普通」
「まあ。しっかり抱きついとけよ。凍え死ぬよりはマシだと思え」
「──」
 そんな事を言われても。

 上気した頬が熱くてたまらなかった。

 衣類越しでも、触れ合う部分が熱を伝える。そこが、まるで蕩ける様に熱かった。
 もちろん、今までだって、アレクシスの傍に居た事はある。馬上ではずっとその腕に支えられて、背に彼のぬくもりを感じていた。

 だが。

 互いの息遣いが。
 重なり合うかのように──こんなにも、近い。
 それを思うと、トリニティの頭の中が真っ白になった。

 どうしたらいいのか分からなくて、アレクシスの腕の中で固まったようにじっとしていると──。 
「何で温くないんだ?」
「……え……」
「おかしいな」アレクシスが不思議そうな声で言った。「普通、ガキはもっと体温が高いはずなんだが。さぞかし温いだろうと期待してたんだがな」


「──! 馬鹿っ!」
 
 間髪いれず、声を張り上げた。
 頬をめいっぱい膨らませた。
 乙女心が傷ついて、思わず涙が零れたが、おかげで緊張は解けた。

(続く)



+-----------------------------+
|        「語バラ(裏)」    
+-----------------------------+

(思い切って回想:あのシーンNG)



 階段をのぼりきって屋上に出ると、薄い月明かりの下に人影が一つあった。
「アレク……?」
 息を切らせながら声を掛けると、目指す人物の声で返答があった。
「トリニティ? なんだ? こんなところまで」
 立ったままじっと町の外に目を向けていたアレクシスが振り返った。
 雲がかかった月はあたりを薄く照らしていたが、相手の細かな表情まで窺えるほどの明るさは無い。
 ただ声が。
 いつもの、低く冷徹な雰囲気を持った調子ではなく、穏やかなものに変わったのが分かった。

 地面から虫たちの声がしていた。

 正門の上は風が吹いていた。思いのほか冷たいその風にトリニティは驚いた。季節はもう、そんな時期まで来ていたのだ。

 ──一晩中ここに立っているのだとルイスは言った。
「ごめんなさい。あたし……何も知らなくて」
 俯いて言うトリニティを見下ろし、アレクシスは僅かに口元を綻ばせた。
「そんな事を言いにここまで?」
 トリニティは慌てて首を振った。
「──昼間セリスと何話してたのっ!」
 存外大きな声に、トリニティは激しく自己嫌悪した。頭を抱えてその場に座り込む。こんな事を言う気じゃなかった。──本当だ。
 昼間二人が一緒に居るところを見たからといっても、全然、まったく、気になどしていない……はずだ。
「あたしったら、あたしったら……!」
 自分の気持ちとは裏腹に勝手に喋りだす口を両手で押さえ込んだ。気恥ずかしさのあまり顔が上げられない。
「そうだ。妹の事を言いにきたわけじゃなかったのよ。あたし──これをあなたに見てもらいたかったの」
 トリニティはあたりが薄暗いことに感謝しながら、腕輪を取り出してアレクシスに渡した。
「これは?」
 問うアレクシスに、トリニティは口を開きながら背を向けた。
「ええっとね……」
「──! トリニティ?」
 いきなり背を向けられたアレクシスは眉を顰め、不審げに王女の名を呼んだ。
「これを見つけたのは、あの城の地下で……」
 トリニティは背を向けたまま、アレクシスに後ろ向きににじり寄った。
「トッ、トリニティ?」
 さも当たり前のようにトリニティは、慌てた様子を見せるアレクシスの膝の上にすっぽりと座り込んだ。
 トリニティが上を向いて、アレクシスに顔を向けた。
「──なぁに、アレク?」
「な、何ってお前……」
 アレクシスは額に片手を当て、ほとほと困り果てたように言った。
「そこ──演技が違う」

「……」

「……」

「……」

「……」

「──!」

「キャ!」
 トリニティは慌てて立ち上がった。飛び跳ねるように、といった方がいいだろうか。
 アレクシスは腹に手をあて、地面に額をつけるほど体を折り曲げて笑っている。声だけは押し殺そうと必死だが、努力は無駄に終わっているといっていい。
「──そんなに笑うこと無いじゃない!」
 トリニティは顔を真っ赤にして声を張り上げた。
「け、けど。お前……それ……」
 アレクシスは笑いなら声を絞り出した。すぐ後ろで、NGの声が上がり、周囲がざわめき始めた。
「まるっきり、三歳児位の反応だぜ? 本を読んでもらうために親の膝に座ろうと、後ろ向きににじり寄ってくる子供の……。もしかしてお前、まだそれやってるのか?」
 いつまでも笑うのをやめようとしないアレクシスに、トリニティは拳を振り上げた。
「違うわよっ!」
 スタッフ全員の笑い声の中、トリニティは振り上げた腕を、さらに振り回した。
「だから違うってばっ! ──もうっ、笑わないでよ、みんな!」

 もちろん、トリニティの抗議の声など誰も信じていない。
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