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第2部 神の愛娘
第3章 奇跡を起こす条件 6
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「ルイス」
「姫君、あんた何やってんだ。こんな時間まで」
夜。
誰もいない中庭を、水桶を抱えて歩くトリニティに出会ったルイスが声をかけてきた。「あんたの方こそ」
訝しげに言うトリニティの声が、やはり険しくなった。
ルイスときたら、町の復旧作業に精を出す人々の手伝いをするでもなく、居たかと思えばふらりと居なくなる。そんな生活を繰り返していたからだ。
ルイスはなぜか腰に剣を佩いていた。
立ち止まると腰に手を当て、呆れ顔でポーズをとった。
「まさか、まだ連中の世話をしてやってるのかい?」
トリニティはサッと頬を染めたが、今までとは違い卑屈な感じではなく誇らしげな顔だった。
「ええ。後もう少しだけ、やっておきたくて」
「そりゃ、嬉しいのは分かりますがね。姫君って無理がきかない体でしょ。もう少し自分の事を考えなきゃ」
あなたのように自分の事ばっかり考えてるよりはいいわよ──思わず言い返しそうになった言葉をトリニティはあわてて飲み込んだ。
そんな嫌味を言うようになっては、人間おしまいだ。
「──あなたは?」
先の言葉は飲み込んだが、トリニティは軽い嫌味のつもりでそう言った。
「俺? 俺は──」
だがルイスにはうまく通じなかったようだ。思いのほか真面目な調子で、ルイスは答えた。
「哨戒中。あともう一週廻ったら、俺も寝るさ」
「哨戒──?」
「ん? ああ、まぁね」
声は悪びれた様子もなく、何か含むところもない。本当にその通りなのだろう。
「アレクの居場所なら知ってるぜ?」
気を利かせたルイスが、かがみ込む様にしてトリニティに柔和な笑みを向けた。
「ここへきてから、──日中ほとんどあいつと会って話をすることなんて無いもんな」
「べ、別にあたしは……」
トリニティは声を詰まらせた。どうして誰も彼も、あたしとアレクをそういう目で見ようとするのだろう。
トリニティの気持ちをよそに、ルイスは訳知り顔で何度も頷いた。
「いいって。いいって。──アレクなら、正門の上だ。晩はいつも一晩中そこにいるはずだからな」
「正門?」
しかも、一晩中?
「じゃ、もしかして──」
トリニティは愚鈍ではない。
いくらなんでも、そこまで聞いて何も分からぬほど愚かではなかった。
だから、自分のあまりの至らなさに穴があったら入りたい気持ちになった。
「いつも日中フラフラしてたのは、町を見回ってくれてたから?」
ルイスが照れ臭そうに笑った。
「……柄じゃないよな」
トリニティは慌てて首を振った。
「ううん。そんなことない。ごめんなさい! あたし……」
言いかけた言葉を、ルイスは片手で制した。
「さ、行ってこいよ」言いながら水桶を取り上げる。「じゃないと、あのお姫様にアレクの野郎を取られちまうぜ」
トリニティはどきりとした。
「セリスのこと?」
「日中な。二人ともいい雰囲気だったぜ。……アレクはなぜかやたら女にモテる。そりゃ男っぷりはいいが、眼つきは悪いし気の聞いた台詞は言えないし。年中渋い顔ばかりしてるのにな。さ、行けって」
ルイスに急かされて、トリニティはもう一度礼と謝罪の言葉を告げて正門を目指した。
階段をのぼりきって屋上に出ると、薄い月明かりの下に人影が一つあった。
「アレク……?」
息を切らせながら声を掛けると、目指す人物の声で返答があった。
「トリニティ? なんだ? こんなところまで」
立ったままじっと町の外に目を向けていたアレクシスが振り返った。
雲がかかった月は辺りを薄く照らしていたが、相手の細かな表情まで窺えるほどの明るさは無い。
ただ声が。
いつもの、低く冷徹な雰囲気を持った調子ではなく、穏やかなものに変わったのが分かった。
地面から虫たちの声がしていた。
正門の上は風が吹いていた。思いのほか冷たいその風にトリニティは驚いた。季節はもう、そんな時期まで来ていたのだ。
──一晩中ここに立っているのだとルイスは言った。
トリニティは何も知らない、思い至ることも出来ない、自分のその愚かさに嫌気がさした。自分の知らないところで、アレクシスやルイスは大変な役目を果たしていたのだ。それなのに自分ときたら。
自分の事しか考えていないのは、他でもない自分自身の方だ。
「ごめんなさい。あたし……何も知らなくて」
俯いて言うトリニティを見下ろし、アレクシスは僅かに口元を綻ばせた。
「そんな事を言いにここまで?」
トリニティは慌てて首を振った。
「ううん……違うの! あたし、城の地下から助けてもらったお礼を、まだちゃんと言ってなかったと思うから!」
「──聞いた様に思うが」
「それだけじゃなくて!」トリニティは更に大きく首を振った。振りすぎて、頭に血が昇ってクラクラした。……だがそれは別に首を振りすぎたわけではなくて、きっと別の理由からだ。
自分に残された時間の短さや、自分の置かれた立場を考えれば、アレクシスにはもう二度と会う事は無いだろうと思っていた。
だがアレクシスと別れて以降、思い出すのはこの男の事ばかりだった。
もう一度会いたかった。
会いたくて。会いたくて。
理由は特に無い。──そう思う。皆が言うように、自分がこの男の事を好きだからとかそう言うのではないと。
ただ──無性にもう一度会いたかった。自分の世界を変えた男に。
昼間、奇跡の御業で助かった男がトリニティに向けて言った言葉は、トリニティにとってはそのままアレクシスに当てはまった。
呪われた厭わしい我が身。触れる者もなく、話しかける者もない。ただ城の奥深くに幽閉されて、人々の記憶から忘れ去られたように放って置かれ。誰に顧みられるでもなく、地上から命が消え去る日を望まれるだけの日々──。
そんな生きる死者のようだったトリニティの日々を根こそぎ変えたのがアレクシスだ。
アレクシスはきっと違うと言うだろう。それはあんた自身が決めて、あんた自身で歩んだ道だ、とでも。
だがトリニティにしてみれば、やはり、自分に再び『命』を吹き込んでこの世界の中に連れ戻したのはアレクシスだと思うのだ。
まるで心も魂も、運命さえも。すべてがこの男に攫われてしまった様だと感じる。
だから──。
「あなたにもう一度会えたらいいなと思ってた。……たぶん会えないだろうと思ってたから。……だから嬉しかった……本当よ。上手く言えないけど……」
声が尻すぼみに小さくなっていく。声に出して言うつもりもなかったはずのその言葉は、自然に口をついて出た。だが──トリニティは自分がどんなセリフを言ったのか自覚して、ピッタリと口を閉ざした。
沈黙が落ちた。
トリニティは顔から火が出そうな程赤くなった。
「ち、違うの! 今のは違うの!」
アレクシスが吹き出した。トリニティの頬が更に熱くなった。
「違うの! 本当よ! こんな事を言いにきたんじゃなくってっ」
「じゃあ、なんだ?」
アレクシスが面白そうに応じた。
「──昼間セリスと何話してたのっ!」
存外大きな声に、トリニティは激しく自己嫌悪した。頭を抱えてその場に座り込む。こんな事を言う気じゃなかった。──本当だ。
昼間二人が一緒に居るところを見たからといっても、全然、まったく、気になどしていない……はずだ。
「あたしったら、あたしったら……!」
自分の気持ちとは裏腹に勝手に喋りだす口を両手で押さえ込んだ。気恥ずかしさのあまり顔が上げられない。
座り込んだままのトリニティの傍にアレクシスがやってきて、同じように屈み込んだ。
火照った顔をあげたトリニティは、アレクシスの顔を正面から間近に見てしまった。……笑っている。
「──アレク!」
恥ずかしさのあまり失神しそうだと思うトリニティとは反対に、腹を押さえて笑うアレクシスの声は愉快そうだ。
「や! いや、悪い! お前ときたら相変わらず、見ていてホント面白い……」
「失礼ねっ!」
「……お前達姉妹って、何かあるのか? お前の方はあいつを毛嫌いしているように見えたし、あいつの方もお前に対して何かありそうだった」
アレクシスにそう言われて、トリニティは言葉を詰まらせた。やがて。
「そんなことない……と、思う。少なくともあたしは。そりゃ、妹に素直になれないのは確かだけど。でも、二人っきりの、実の姉妹ですもの。大切に思わないわけが無い。……ただ……心配なの……」
「心配?」
トリニティは頷いた。
「あの子が居ることが」
あなたの傍に。
心の中にぽっかりと浮かんだその言葉を、トリニティは無理やり飲み込んだ。
「……どういう意味だ?」
「十年前のワークス候の反乱を憶えてる?」
「ああ。──ネリスの有力な貴族の候が王に対して反乱を起こしたんだったな。確か彼は処刑されたはずだが……それが何か」
アレクシスは手を差し出して、トリニティを立ち上がらせた。
「あの子の結婚相手だったの」
驚きに目を見開いて、アレクシスは無言でトリニティを見つめ返した。
「結婚したのは六歳だったわ」
王女には珍しいことではない。政治的な事情で、十歳以下で結婚する事もままあることだ。
「候が王に対して挙兵したのは、結婚して半年もしないうちだったわ。処刑される日に候は言ったの。反乱を勧めたのは妻のセリスだと。……信じられる? 六歳の子供が、家に帰りたさに言った無邪気な言葉が、立場も良識もある大人を動かしてしまったのよ!」
トリニティはアレクシスの手を握り返して立ち上がった。
「父や大臣たちは妹を『傾国』だと判じたの。六歳でそれならば、大人になった時、いかばかりになっているだろうかと──」語尾に批判めいたものがこもった。「妹は世間から隔絶するために修道院に入れられたわ。それ以来、妹とはつい最近になるまで一度も会ってない。……そのうちあたしも幽閉されたから」
「傾国──」
「『傾国』だと言われたあの子を、お父様はどうして呼び戻したのかしら。あたしがこんな事になってから、いつかあの子が嫡子となるのは分かっていたことだけど。でも、それは満足のいく結婚相手か見つかってからのことだと、お父様は言っていたのに」
トリニティは薄い帳を張ったように心もとない月を見上げた。
「あの子にはここから出て行って欲しい。『傾国』だからとか言うんじゃなくて、このままここに居れば、あの子もあたしのように、お父様に処分される事になるかもしれないと思うから……。あたしの事にあの子を巻き込むわけにはいかないと思うから」
だから妹に対して、自然と語気が荒くなった。自分の傍にいるべきではないと思うから、こんなことはするものではないと理性では分かっているのに……気がつけば妹に疎むように辛く当たる自分がいる。
月が滲む。いや。滲むのは月ではなくて──トリニティは目頭を擦った。
「そうだ。妹の事を言いにきたわけじゃなかったのよ。あたし──これをあなたに見てもらいたかったの」
トリニティはあたりが薄暗いことに感謝しながら、腕輪を取り出してアレクシスに渡した。
「これは?」
問うアレクシスに、トリニティは答えた。これを見つけたときの事を。
城の地下、天然のドンジョンの中で。それを見つけたのは偶然だったのだろうか。
唯一見えたその光に導かれて近づいた。光は単なる明り取りの小さな隙間からのもので、そこから外に出る事は叶わないとすぐに判明した。その光の下で、トリニティは壁に繋がれたまま朽ちた一人の遺体を見つけた。
トリニティが触れると骨は崩れて、腕輪が落ちた。まるで、一緒に外へ連れ出して行って欲しいというかのように……。
「その遺体が身につけていたものだったの。衣類も朽ちていたから、どれ程年月が経った物かは分からなかったんだけど、あのドンジョンは昔、政敵を屠るだけが目的ではなくて、幽閉する為にも使われていたんだと分かったの。だから……あたし、どこかに必ずドンジョンへの出入り口があるんだと思って、一生懸命探したのよ」
トリニティは腕輪を月明かりの下に掲げ、アレクシスにもよく見えるようにした。
「たぶん身分の高い人だと思う。ほら……見て、内側に文字が彫ってあるでしょ。文字が古すぎてあたしには分からないけど、魔術師は古い文字をよく使うわよね?」
「そうだな……かなり古い文字だ……」アレクシスは腕輪を受け取ると、薄明かりの中で文字に視線を走らせた。
眉を寄せる。
「どうしたの?」
トリニティは厳しい顔つきで黙りこんだアレクシスを見上げた。アレクシスが口を開き文字を読み上げた。
「『ネリスの王へ。盟約の証として』」
トリニティは弾かれたように顔を上げ、アレクシスと互いの顔を見つめあった。息が詰まるほどの衝撃を受けながら声を絞り出した。
「それって、もしかして──」
この腕輪。
これは──かつて王家滅亡と共に失われたとされていた、『王権の証』?
だとしたら。これをつけた人物がドンジョンに閉じ込められていたという事は……。トリニティの足が立っていられないほど震えた。
「もしかしてあの人は……王様だったの……? だとしたら、魔王が王家を滅ぼしたというのは嘘なの?」
心臓が早鐘のように鼓動を打った。
「滅ぼしたのは、当時の執政なの? ……あたしたちの祖先の?」
トリニティは愕然としながら、震えるように首を横に振った。自分達の祖先は、本当にそんな恐ろしい事をしたというのだろうか? では今の自分たち執政王家の血筋は、すべて呪われたものだと? では──。
あまりの事にトリニティは立っていられなくなった。腰が萎えるようにその場にへたり込みそうになるのをアレクシスが受け止めてくれた。
「じゃあ、あたしにかけられた呪いって、魔王の呪いじゃなくて女神イシリのものだったって言うの……?」
トリニティはアレクシスの胸の中に顔をうずめた。自分にかけられた呪いについての噂が幾つもある事は、トリニティも知っていた。
主だった噂は二つ。
自分を封じた王家に対する魔王ブラックファイアの呪い。──王家を滅ぼし、現在のネリスの王である執政王家をも呪う。
もう一つは女神イシリの怒り。滅んだ王家の代わりに政治を執り行う執政王家への怒りの制裁。──これは主に、国の維持もままならぬ現王への政治批判を多分に含むものだ。
トリニティは前者だと思っていた。
執政王家に生まれた者として、女神イシリの怒りだといわれるのは、それはあまりにも辛いと思うからだった。
父王をはじめ、歴代の執政王が国の維持の為に傾けた情熱のすべてを否定されるのは、あまりにも酷い。
「魔王の呪いの方が本当だと、ずっとそう思ってた。……それは違っていたの……?」
「まあ、あいつがこの国の王を呪おうなんていうのは、確かに、あまり考えられないが……」
トリニティを抱きとめたまま、アレクシスが答えた。それはトリニティに向かって言った言葉というよりは、独白といった方がよいほど小さな声だった。
トリニティが弾かれたように顔をあげた。
「──待ってっ! アレク、あなた何か知ってるのっ? そりゃ、あなたは魔王のダンジョンマスターだもの、事情を何も知らないっていうはずはないわよね!」
「あ、いや──」
アレクシスが口元を押さえ、あさっての方を向いた。トリニティは胸元を掴んで詰め寄った。
「ねえ、教えて頂戴っ! あたしに、本当の事を!」
アレクシスの顔が歪ませ、トリニティを見ることなく無言で俯いた。
結局、自分はこの男の事を何も知る事は出来ないのか。……たとえそれが自分に関係することでも。そう思い、トリニティの胸がひどく痛んだ。
だが──。
「そうか。そうだな」
アレクシスは思案顔で呟きながら、まっすぐにトリニティを見つめた。
「あんたがこれから先どんな道を進むことになろうとも、まず先に考えなきゃいけない事は、自分にかけられた呪いの正体が何なのかを知ることだ」
トリニティは懸命に顔を上げ、アレクシスの顔を覗きこんだ。印象的な青い瞳が、射抜くようにトリニティを見つめる。トリニティはそこに、何か固い決意と言ってもいいような輝きを見つけた。
「ダンジョンに残された古い記録を探せば、それを知る手がかりが見つかるかもしれない。もしかしたら、あんたの呪いが解けるかも知れない」
驚きを隠さないトリニティに向かって、アレクシスが小さく、唇の端だけで笑った。
「俺はダンジョンマスターだ。あんたの人生に付き合ってはやれないが、あんたが今後に向けて目鼻をつけるまでくらいなら付き合ってやってもいい。──少なくとも冬までは」
「冬?」
トリニティに向かってアレクシスが頷く。
「稼げなくなる冬には故郷に返って、地下に篭る」
冬の間、ダンジョンの建設に力を割くのだ。
「そのときに調べてみよう」
「本当に?」トリニティは目を輝かせた。「本当に調べてみてくれるの?」胸躍る、とはこのことだろうと思った。
自らの呪いについての手がかりが得られるかも知れないという期待ももちろんだが、それだけではない。きっと、自分の元には留まらず、係わることさえないのだと思っていたアレクシスが、これからも自分と係わってくれると、そう言ったのだ。
トリニティが喜びで胸を満たし、感謝の言葉を口にしようとしたその時。
アレクシスが厳しい表情で町の郊外──闇に向かって目を向けた。
「何──」
言いかけたトリニティの耳に、何かが聞こえた。
風に乗って微かに聞こえるそれは、人の声ではなかったか。
アレクシスの見つめるその先が、完全な闇ではないことに気付いた。
すり鉢状の盆地の中に作られたこの町は、三百六十度丘に囲まれている。その丘の向こうが、かすかに明るく見えた。声は……そちらから聞こえてくるようだった。
「何……、これは……悲鳴?」
トリニティが虫の声に混じって聞こえてくるその声に耳を澄ます。声は騒然とした雰囲気を醸し出し、多くの声が重なっているようだった。
「惨い事を──」
アレクシスにはそれが何なのか分かっているのか、厳しい表情で丘の向こうを見つめながら声を絞り出した。
使者たちは翌朝現れた。
まさに血臭とともに──。使者には勇者ワーナー。それは国王が派遣した兵士たちの一団だった。
(第3章完 第4章へ続く)
「姫君、あんた何やってんだ。こんな時間まで」
夜。
誰もいない中庭を、水桶を抱えて歩くトリニティに出会ったルイスが声をかけてきた。「あんたの方こそ」
訝しげに言うトリニティの声が、やはり険しくなった。
ルイスときたら、町の復旧作業に精を出す人々の手伝いをするでもなく、居たかと思えばふらりと居なくなる。そんな生活を繰り返していたからだ。
ルイスはなぜか腰に剣を佩いていた。
立ち止まると腰に手を当て、呆れ顔でポーズをとった。
「まさか、まだ連中の世話をしてやってるのかい?」
トリニティはサッと頬を染めたが、今までとは違い卑屈な感じではなく誇らしげな顔だった。
「ええ。後もう少しだけ、やっておきたくて」
「そりゃ、嬉しいのは分かりますがね。姫君って無理がきかない体でしょ。もう少し自分の事を考えなきゃ」
あなたのように自分の事ばっかり考えてるよりはいいわよ──思わず言い返しそうになった言葉をトリニティはあわてて飲み込んだ。
そんな嫌味を言うようになっては、人間おしまいだ。
「──あなたは?」
先の言葉は飲み込んだが、トリニティは軽い嫌味のつもりでそう言った。
「俺? 俺は──」
だがルイスにはうまく通じなかったようだ。思いのほか真面目な調子で、ルイスは答えた。
「哨戒中。あともう一週廻ったら、俺も寝るさ」
「哨戒──?」
「ん? ああ、まぁね」
声は悪びれた様子もなく、何か含むところもない。本当にその通りなのだろう。
「アレクの居場所なら知ってるぜ?」
気を利かせたルイスが、かがみ込む様にしてトリニティに柔和な笑みを向けた。
「ここへきてから、──日中ほとんどあいつと会って話をすることなんて無いもんな」
「べ、別にあたしは……」
トリニティは声を詰まらせた。どうして誰も彼も、あたしとアレクをそういう目で見ようとするのだろう。
トリニティの気持ちをよそに、ルイスは訳知り顔で何度も頷いた。
「いいって。いいって。──アレクなら、正門の上だ。晩はいつも一晩中そこにいるはずだからな」
「正門?」
しかも、一晩中?
「じゃ、もしかして──」
トリニティは愚鈍ではない。
いくらなんでも、そこまで聞いて何も分からぬほど愚かではなかった。
だから、自分のあまりの至らなさに穴があったら入りたい気持ちになった。
「いつも日中フラフラしてたのは、町を見回ってくれてたから?」
ルイスが照れ臭そうに笑った。
「……柄じゃないよな」
トリニティは慌てて首を振った。
「ううん。そんなことない。ごめんなさい! あたし……」
言いかけた言葉を、ルイスは片手で制した。
「さ、行ってこいよ」言いながら水桶を取り上げる。「じゃないと、あのお姫様にアレクの野郎を取られちまうぜ」
トリニティはどきりとした。
「セリスのこと?」
「日中な。二人ともいい雰囲気だったぜ。……アレクはなぜかやたら女にモテる。そりゃ男っぷりはいいが、眼つきは悪いし気の聞いた台詞は言えないし。年中渋い顔ばかりしてるのにな。さ、行けって」
ルイスに急かされて、トリニティはもう一度礼と謝罪の言葉を告げて正門を目指した。
階段をのぼりきって屋上に出ると、薄い月明かりの下に人影が一つあった。
「アレク……?」
息を切らせながら声を掛けると、目指す人物の声で返答があった。
「トリニティ? なんだ? こんなところまで」
立ったままじっと町の外に目を向けていたアレクシスが振り返った。
雲がかかった月は辺りを薄く照らしていたが、相手の細かな表情まで窺えるほどの明るさは無い。
ただ声が。
いつもの、低く冷徹な雰囲気を持った調子ではなく、穏やかなものに変わったのが分かった。
地面から虫たちの声がしていた。
正門の上は風が吹いていた。思いのほか冷たいその風にトリニティは驚いた。季節はもう、そんな時期まで来ていたのだ。
──一晩中ここに立っているのだとルイスは言った。
トリニティは何も知らない、思い至ることも出来ない、自分のその愚かさに嫌気がさした。自分の知らないところで、アレクシスやルイスは大変な役目を果たしていたのだ。それなのに自分ときたら。
自分の事しか考えていないのは、他でもない自分自身の方だ。
「ごめんなさい。あたし……何も知らなくて」
俯いて言うトリニティを見下ろし、アレクシスは僅かに口元を綻ばせた。
「そんな事を言いにここまで?」
トリニティは慌てて首を振った。
「ううん……違うの! あたし、城の地下から助けてもらったお礼を、まだちゃんと言ってなかったと思うから!」
「──聞いた様に思うが」
「それだけじゃなくて!」トリニティは更に大きく首を振った。振りすぎて、頭に血が昇ってクラクラした。……だがそれは別に首を振りすぎたわけではなくて、きっと別の理由からだ。
自分に残された時間の短さや、自分の置かれた立場を考えれば、アレクシスにはもう二度と会う事は無いだろうと思っていた。
だがアレクシスと別れて以降、思い出すのはこの男の事ばかりだった。
もう一度会いたかった。
会いたくて。会いたくて。
理由は特に無い。──そう思う。皆が言うように、自分がこの男の事を好きだからとかそう言うのではないと。
ただ──無性にもう一度会いたかった。自分の世界を変えた男に。
昼間、奇跡の御業で助かった男がトリニティに向けて言った言葉は、トリニティにとってはそのままアレクシスに当てはまった。
呪われた厭わしい我が身。触れる者もなく、話しかける者もない。ただ城の奥深くに幽閉されて、人々の記憶から忘れ去られたように放って置かれ。誰に顧みられるでもなく、地上から命が消え去る日を望まれるだけの日々──。
そんな生きる死者のようだったトリニティの日々を根こそぎ変えたのがアレクシスだ。
アレクシスはきっと違うと言うだろう。それはあんた自身が決めて、あんた自身で歩んだ道だ、とでも。
だがトリニティにしてみれば、やはり、自分に再び『命』を吹き込んでこの世界の中に連れ戻したのはアレクシスだと思うのだ。
まるで心も魂も、運命さえも。すべてがこの男に攫われてしまった様だと感じる。
だから──。
「あなたにもう一度会えたらいいなと思ってた。……たぶん会えないだろうと思ってたから。……だから嬉しかった……本当よ。上手く言えないけど……」
声が尻すぼみに小さくなっていく。声に出して言うつもりもなかったはずのその言葉は、自然に口をついて出た。だが──トリニティは自分がどんなセリフを言ったのか自覚して、ピッタリと口を閉ざした。
沈黙が落ちた。
トリニティは顔から火が出そうな程赤くなった。
「ち、違うの! 今のは違うの!」
アレクシスが吹き出した。トリニティの頬が更に熱くなった。
「違うの! 本当よ! こんな事を言いにきたんじゃなくってっ」
「じゃあ、なんだ?」
アレクシスが面白そうに応じた。
「──昼間セリスと何話してたのっ!」
存外大きな声に、トリニティは激しく自己嫌悪した。頭を抱えてその場に座り込む。こんな事を言う気じゃなかった。──本当だ。
昼間二人が一緒に居るところを見たからといっても、全然、まったく、気になどしていない……はずだ。
「あたしったら、あたしったら……!」
自分の気持ちとは裏腹に勝手に喋りだす口を両手で押さえ込んだ。気恥ずかしさのあまり顔が上げられない。
座り込んだままのトリニティの傍にアレクシスがやってきて、同じように屈み込んだ。
火照った顔をあげたトリニティは、アレクシスの顔を正面から間近に見てしまった。……笑っている。
「──アレク!」
恥ずかしさのあまり失神しそうだと思うトリニティとは反対に、腹を押さえて笑うアレクシスの声は愉快そうだ。
「や! いや、悪い! お前ときたら相変わらず、見ていてホント面白い……」
「失礼ねっ!」
「……お前達姉妹って、何かあるのか? お前の方はあいつを毛嫌いしているように見えたし、あいつの方もお前に対して何かありそうだった」
アレクシスにそう言われて、トリニティは言葉を詰まらせた。やがて。
「そんなことない……と、思う。少なくともあたしは。そりゃ、妹に素直になれないのは確かだけど。でも、二人っきりの、実の姉妹ですもの。大切に思わないわけが無い。……ただ……心配なの……」
「心配?」
トリニティは頷いた。
「あの子が居ることが」
あなたの傍に。
心の中にぽっかりと浮かんだその言葉を、トリニティは無理やり飲み込んだ。
「……どういう意味だ?」
「十年前のワークス候の反乱を憶えてる?」
「ああ。──ネリスの有力な貴族の候が王に対して反乱を起こしたんだったな。確か彼は処刑されたはずだが……それが何か」
アレクシスは手を差し出して、トリニティを立ち上がらせた。
「あの子の結婚相手だったの」
驚きに目を見開いて、アレクシスは無言でトリニティを見つめ返した。
「結婚したのは六歳だったわ」
王女には珍しいことではない。政治的な事情で、十歳以下で結婚する事もままあることだ。
「候が王に対して挙兵したのは、結婚して半年もしないうちだったわ。処刑される日に候は言ったの。反乱を勧めたのは妻のセリスだと。……信じられる? 六歳の子供が、家に帰りたさに言った無邪気な言葉が、立場も良識もある大人を動かしてしまったのよ!」
トリニティはアレクシスの手を握り返して立ち上がった。
「父や大臣たちは妹を『傾国』だと判じたの。六歳でそれならば、大人になった時、いかばかりになっているだろうかと──」語尾に批判めいたものがこもった。「妹は世間から隔絶するために修道院に入れられたわ。それ以来、妹とはつい最近になるまで一度も会ってない。……そのうちあたしも幽閉されたから」
「傾国──」
「『傾国』だと言われたあの子を、お父様はどうして呼び戻したのかしら。あたしがこんな事になってから、いつかあの子が嫡子となるのは分かっていたことだけど。でも、それは満足のいく結婚相手か見つかってからのことだと、お父様は言っていたのに」
トリニティは薄い帳を張ったように心もとない月を見上げた。
「あの子にはここから出て行って欲しい。『傾国』だからとか言うんじゃなくて、このままここに居れば、あの子もあたしのように、お父様に処分される事になるかもしれないと思うから……。あたしの事にあの子を巻き込むわけにはいかないと思うから」
だから妹に対して、自然と語気が荒くなった。自分の傍にいるべきではないと思うから、こんなことはするものではないと理性では分かっているのに……気がつけば妹に疎むように辛く当たる自分がいる。
月が滲む。いや。滲むのは月ではなくて──トリニティは目頭を擦った。
「そうだ。妹の事を言いにきたわけじゃなかったのよ。あたし──これをあなたに見てもらいたかったの」
トリニティはあたりが薄暗いことに感謝しながら、腕輪を取り出してアレクシスに渡した。
「これは?」
問うアレクシスに、トリニティは答えた。これを見つけたときの事を。
城の地下、天然のドンジョンの中で。それを見つけたのは偶然だったのだろうか。
唯一見えたその光に導かれて近づいた。光は単なる明り取りの小さな隙間からのもので、そこから外に出る事は叶わないとすぐに判明した。その光の下で、トリニティは壁に繋がれたまま朽ちた一人の遺体を見つけた。
トリニティが触れると骨は崩れて、腕輪が落ちた。まるで、一緒に外へ連れ出して行って欲しいというかのように……。
「その遺体が身につけていたものだったの。衣類も朽ちていたから、どれ程年月が経った物かは分からなかったんだけど、あのドンジョンは昔、政敵を屠るだけが目的ではなくて、幽閉する為にも使われていたんだと分かったの。だから……あたし、どこかに必ずドンジョンへの出入り口があるんだと思って、一生懸命探したのよ」
トリニティは腕輪を月明かりの下に掲げ、アレクシスにもよく見えるようにした。
「たぶん身分の高い人だと思う。ほら……見て、内側に文字が彫ってあるでしょ。文字が古すぎてあたしには分からないけど、魔術師は古い文字をよく使うわよね?」
「そうだな……かなり古い文字だ……」アレクシスは腕輪を受け取ると、薄明かりの中で文字に視線を走らせた。
眉を寄せる。
「どうしたの?」
トリニティは厳しい顔つきで黙りこんだアレクシスを見上げた。アレクシスが口を開き文字を読み上げた。
「『ネリスの王へ。盟約の証として』」
トリニティは弾かれたように顔を上げ、アレクシスと互いの顔を見つめあった。息が詰まるほどの衝撃を受けながら声を絞り出した。
「それって、もしかして──」
この腕輪。
これは──かつて王家滅亡と共に失われたとされていた、『王権の証』?
だとしたら。これをつけた人物がドンジョンに閉じ込められていたという事は……。トリニティの足が立っていられないほど震えた。
「もしかしてあの人は……王様だったの……? だとしたら、魔王が王家を滅ぼしたというのは嘘なの?」
心臓が早鐘のように鼓動を打った。
「滅ぼしたのは、当時の執政なの? ……あたしたちの祖先の?」
トリニティは愕然としながら、震えるように首を横に振った。自分達の祖先は、本当にそんな恐ろしい事をしたというのだろうか? では今の自分たち執政王家の血筋は、すべて呪われたものだと? では──。
あまりの事にトリニティは立っていられなくなった。腰が萎えるようにその場にへたり込みそうになるのをアレクシスが受け止めてくれた。
「じゃあ、あたしにかけられた呪いって、魔王の呪いじゃなくて女神イシリのものだったって言うの……?」
トリニティはアレクシスの胸の中に顔をうずめた。自分にかけられた呪いについての噂が幾つもある事は、トリニティも知っていた。
主だった噂は二つ。
自分を封じた王家に対する魔王ブラックファイアの呪い。──王家を滅ぼし、現在のネリスの王である執政王家をも呪う。
もう一つは女神イシリの怒り。滅んだ王家の代わりに政治を執り行う執政王家への怒りの制裁。──これは主に、国の維持もままならぬ現王への政治批判を多分に含むものだ。
トリニティは前者だと思っていた。
執政王家に生まれた者として、女神イシリの怒りだといわれるのは、それはあまりにも辛いと思うからだった。
父王をはじめ、歴代の執政王が国の維持の為に傾けた情熱のすべてを否定されるのは、あまりにも酷い。
「魔王の呪いの方が本当だと、ずっとそう思ってた。……それは違っていたの……?」
「まあ、あいつがこの国の王を呪おうなんていうのは、確かに、あまり考えられないが……」
トリニティを抱きとめたまま、アレクシスが答えた。それはトリニティに向かって言った言葉というよりは、独白といった方がよいほど小さな声だった。
トリニティが弾かれたように顔をあげた。
「──待ってっ! アレク、あなた何か知ってるのっ? そりゃ、あなたは魔王のダンジョンマスターだもの、事情を何も知らないっていうはずはないわよね!」
「あ、いや──」
アレクシスが口元を押さえ、あさっての方を向いた。トリニティは胸元を掴んで詰め寄った。
「ねえ、教えて頂戴っ! あたしに、本当の事を!」
アレクシスの顔が歪ませ、トリニティを見ることなく無言で俯いた。
結局、自分はこの男の事を何も知る事は出来ないのか。……たとえそれが自分に関係することでも。そう思い、トリニティの胸がひどく痛んだ。
だが──。
「そうか。そうだな」
アレクシスは思案顔で呟きながら、まっすぐにトリニティを見つめた。
「あんたがこれから先どんな道を進むことになろうとも、まず先に考えなきゃいけない事は、自分にかけられた呪いの正体が何なのかを知ることだ」
トリニティは懸命に顔を上げ、アレクシスの顔を覗きこんだ。印象的な青い瞳が、射抜くようにトリニティを見つめる。トリニティはそこに、何か固い決意と言ってもいいような輝きを見つけた。
「ダンジョンに残された古い記録を探せば、それを知る手がかりが見つかるかもしれない。もしかしたら、あんたの呪いが解けるかも知れない」
驚きを隠さないトリニティに向かって、アレクシスが小さく、唇の端だけで笑った。
「俺はダンジョンマスターだ。あんたの人生に付き合ってはやれないが、あんたが今後に向けて目鼻をつけるまでくらいなら付き合ってやってもいい。──少なくとも冬までは」
「冬?」
トリニティに向かってアレクシスが頷く。
「稼げなくなる冬には故郷に返って、地下に篭る」
冬の間、ダンジョンの建設に力を割くのだ。
「そのときに調べてみよう」
「本当に?」トリニティは目を輝かせた。「本当に調べてみてくれるの?」胸躍る、とはこのことだろうと思った。
自らの呪いについての手がかりが得られるかも知れないという期待ももちろんだが、それだけではない。きっと、自分の元には留まらず、係わることさえないのだと思っていたアレクシスが、これからも自分と係わってくれると、そう言ったのだ。
トリニティが喜びで胸を満たし、感謝の言葉を口にしようとしたその時。
アレクシスが厳しい表情で町の郊外──闇に向かって目を向けた。
「何──」
言いかけたトリニティの耳に、何かが聞こえた。
風に乗って微かに聞こえるそれは、人の声ではなかったか。
アレクシスの見つめるその先が、完全な闇ではないことに気付いた。
すり鉢状の盆地の中に作られたこの町は、三百六十度丘に囲まれている。その丘の向こうが、かすかに明るく見えた。声は……そちらから聞こえてくるようだった。
「何……、これは……悲鳴?」
トリニティが虫の声に混じって聞こえてくるその声に耳を澄ます。声は騒然とした雰囲気を醸し出し、多くの声が重なっているようだった。
「惨い事を──」
アレクシスにはそれが何なのか分かっているのか、厳しい表情で丘の向こうを見つめながら声を絞り出した。
使者たちは翌朝現れた。
まさに血臭とともに──。使者には勇者ワーナー。それは国王が派遣した兵士たちの一団だった。
(第3章完 第4章へ続く)
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